高橋よしひろ『銀牙~流れ星 銀~』の元ネタはジャック・ロンドン『荒野の呼び声』か?
ここではジャック・ロンドン『荒野の呼び声』の書評をしています。
本書を読んで幼いころに『少年ジャンプ』で読んだ『銀牙~流れ星 銀~』というマンガを思い出しました。高橋よしひろさんというマンガ家の作品です。
犬が喋る、犬が熊と戦うような奇妙な作品だったと思います。すいません当時、犬が人間みたいに喋ることが違和感で、ちゃんと読んではいませんでした。なんで犬が人間みたいに喋っているんだろう。不思議な作品だなあ、という強烈な印象だけが残っていました。
『荒野の呼び声』を読んで、ああ、これだったのか、と思いました。高橋よしひろさんは、これがやりたかったのか。元ネタはジャック・ロンドンなのか。と思った次第です。
文学作品である『荒野の呼び声』での犬はもちろん人間の比喩なのですが、高橋作品もそんな感じなんでしょうね。
『荒野の呼び声』を読了した今なら『銀牙~流れ星 銀~』をちゃんと読めるだろうなあ、と思います。子供向きの作品と思ったら大間違いで、逆に大人向きの作品なのです。人間社会の比喩だと読み取れるほど読み手が成熟していないと、本当の面白さを感じることができないからです。
『荒野の呼び声』のあらすじ
黄色は『荒野の呼び声』から。赤字はわたしの感想です。
主人公はバック。セントバーナードとシェパードの雑種です。人間の飼い犬だったのですが、ゴールドラッシュの「そり犬」として売られてしまいます。棍棒と牙が支配する「力と野性の世界」でバックはすこしづつ野性を取り戻していきます。信頼した人間が原住民に殺害されるとバックは復讐に人間を殺しまわり、野性に戻って、オオカミの群れのリーダーになります。
→バックはオオカミよりも巨大だという設定です。アルプスの山岳救助犬で有名なセントバーナードは大きくて体長100cm、体重90kgにもなるそうです。警察犬で有名なシェパードは大きくて体長70cm、体重は40kgぐらいとのこと。
あいの子にしたのはセントバーナードだとおっとりして弱そうだからでしょうか。バックはセントバーナードの大きさで、シェパードの敏捷さ、どう猛さだと考えましょう。
作品中、このバックはオオカミよりも圧倒的に大きいとされているのですが、ここが私の違和感その1でした。ツンドラオオカミの大きさは大きくて体長135センチ、体重は50kgほどとされています。セントバーナードよりもオオカミのほうが見た目は大きいんですよ。走り回るために体重こそ軽いですが。走ることは一瞬、宙を浮くことであり、体重は邪魔でしかありません。
しかしそこはリアルにこだわるのはやめましょう。あくまでも比喩なので。作者にとって主人公はオオカミではダメなのです。犬でなければならない理由があるのです。
人間よ、野性にかえれ。おのれの中に眠る先祖の血をよびさませ
適応性、臨機応変の才能を欠いていては、野性では即座に非業の死をとげる以外にはない。
徳の崩壊。仮借のない生存競争を強いられる場合、徳性は無用な重荷に過ぎない。
→仲間の犬の死などを見てバックは飼い犬であることをやめて、野性を取り戻していきます。
私有財産と個人的感情を尊重するのもけっこうなことだろう。だが棍棒と牙の掟に支配される国では、それにこだわるかぎり、敗者となるのは必然だった。
盗みは実行しないよりも実行する方が容易だったので実行に移されたのである。
視覚も嗅覚もいちじるしく鋭くなり、聴覚もまためざましく発達した。
眠り込んでいた本能がふたたび目覚めていた。
飼いならされていたあいだの習性は忘れさられた。バックの記憶は自分の種族がまだ若かった頃にぼんやり戻っていった。群れをなして原始の森をさまよい、獲物を追いつめては殺していた時代である。
→『荒野の呼び声』が書かれたのは、1903年。ジャックロンドンの時代、飼い犬が野性を取り戻す姿は、資本家に飼いならされていた労働者がおのれを取り戻す姿としても読むことができます。
作者ジャック・ロンドンは1900年前後、社会主義に傾倒をしていたそうです。
現代風にいうと、サラリーマン社会に飼いならされていた人間が、先祖たちがサラリーなんかもらわなくても生きていたように、すべてを自分でおこなって生きることを取り戻した、と読めます。
人間よ、野性にかえれ、とも読めるのです。
原始の生命が体内で復活した。祖先が自分の種族に遺伝として植え付けた生活の知恵は今やふたたび彼のものとなった。
静まり返った極寒の夜、長い遠吠えをするとき、じつははるか昔に朽ち果てた先祖の者たちが、幾世紀という歳月を越えて、彼をとおして吼えているのである。
生命がいかに偶然にあやつられるか。彼は再び本来の自己を回復した。
→バックはオオカミと闘争します。オオカミと犬がケンカしたら犬が勝つという話しを聞いたことがあります。
人がつくった動物である犬の方が「怒り」が長続きするために、ケンカに勝つそうです。逆にオオカミは野性動物だけに怒りとか闘志などの根気がつづかないのだそうです。だから犬とケンカになると、はやばやと逃げてしまうのだとか。無益な喧嘩はしないのです。飢え死にするような局面でないかぎり、生命のやり取りになりかねない闘争は避けるのが野性動物の掟なのかもしれません。
森の兄弟とならんで走りながら、バックの心は激しい喜びに満ちている。原始の記憶が急速によみがえりつつあった。バックは以前にも同じことをしていた。そして今、またしても自由に走り回っているのである。
敬愛する主人ジョン・ソーントンの死。原住民の襲撃で殺されてしまった。
憤怒のあまり理性と狡猾とが圧倒されてしまった。喉を大きく噛み破る。裂けた頸動脈から血が噴水のようにほとばしり出た。当たるをさいわい噛み、裂き、殺し、木立のあいだで彼らを引きずり倒した。
→野性に帰ったバックは≪人間≫を噛み殺します。犬にとって人間に逆らうことはタブーだったはずですが、野性化したバックはお構いなしです。これは見ようによっては支配階級、ブルジョアを噛み殺そうとする飼い犬すなわちプロレタリアと読めなくもありません。
バックはオオカミの群れのリーダーとなる。人間にも襲い掛かる悪魔の化身に。
→ターザンがゴリラの群れのリーダーになってしまうような展開です。小説『ターザン』が1912年刊行なので『荒野の呼び声』の方が先行作品ですね。
だが、そのオオカミは常に一人というわけではない。大きな体を空中に躍らせ、太いのどを震わせながら、世界がまだ若かった頃の歌をうたう。それは今もなおオオカミの群れの歌なのだ。
→ もちろんここでの犬は人間の比喩でしょう。飼い犬バックはひょんなことから野性の世界へと放り出されてしまいました。そこで過酷な体験に耐えて、自立を目指します。そのためにはおのれの中に眠る先祖の血、野性に帰らなければなりませんでした。
『荒野の呼び声』が、動物が主人公なのにジャック・ロンドンの自伝的小説とされるのは、その行動が似ているからではなく、その心の流れが似ているからです。
わたしたち飼いならされている飼い犬も、野性にかえった方がいいのかもしれません。
× × × × × ×
(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!
かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。
しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。
世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。
すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。
『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。
その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
× × × × × ×
× × × × × ×
主人公ツバサは小劇団の役者です。
「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」
恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。
「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」
アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。
「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」
ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。
「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」
惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。
「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ」
劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。
「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」
ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」
尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。
「妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ」
そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。
「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」
そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。
「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」
そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。
「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
× × × × × ×