一度も読んだことがないのに、なぜかオチ、結論を知っている物語
ノーベル文学賞の受賞作家モーリス・メーテルリンクの代表作『青い鳥』についての書評です。
わたしは今回はじめて読みますが「青い鳥が幸福の象徴で、いろいろ探したけど、結局、自分の家にいた」というオチは、一度も読んでいないにもかかわらず、なぜか読む前からすでに知っていました。
こども向きアニメ等でストーリーを知っているわけでもないにもかかわらず、なんでオチを知っているんでしょうか?
本編を読んだことがない人でも知っている『青い鳥』のオチは、それほど有名だということでしょう。もはや一般教養といってもいいのではないでしょうか。そして、それほどの名作ということでしょう。
神は細部に宿るといいます。今回は、とくにオチ以外の部分について期待して読みました。
ストーリーとオチ
万が一、知らない人のために、簡単なストーリーとオチを書いておきます。
「チルチルとミチルという兄妹が、お隣に住むおばあさんの孫の病気を治すために、青い鳥を探しに出かけます。
旅に出る前におばあさんにもらった魔法の帽子のダイヤモンドを回すと、世界が擬人化します。そしてまるで桃太郎のように、言葉をしゃべる犬や猫、光やパンなどと一緒に青い鳥を探しに行くのでした。
「思い出の国」で死者と会って青い鳥をゲットしますが、元に戻ると鳥の色が青くなくなってしまいます。
「夜の御殿」「贅沢の御殿」「未来の国」などへ行きますが、青い鳥をつかまえて持ち帰るという作戦はすべて失敗してしまいます。
とうとう時間切れになって家に戻りますが、家の鳥かごの中に青い鳥はいたのでした。
隣のおばあさんに青い鳥をあげると、奇跡が起きて、歩けなかった隣の孫娘は歩けるようになりました。
娘はお礼を言いに来ます。しかしチルチルたちの目の前で青い鳥は逃げて飛び去ってしまいました。
「心配ないよ。またつかまえてあげる」あれほど捕まえられなかった青い鳥だというのに、チルチルはもう自信たっぷりです。「青い鳥は今、あなたのそばにいるかもしれない」幸せになるためには青い鳥が必要なのでした。
オチの解釈。身近な幸せはすぐに見失ってしまうけれど、またすぐに見出すことができる
幸せは過去にも未来にもない、今ここにある、という解釈が一般的です。原作を読む前からそのことを私は知っていました。
ところが原作を読むと、その青い鳥が飛び去ってしまうのです。
あれ? 幸せが飛び去ってしまったけど、大丈夫?
そのことで「青い鳥」は「しあわせ」の象徴ではない、という解釈をする人もいるそうです。今ここにある幸せが飛び去ってしまっては、幸せなんてどこにもないということになってしまうからです。ちょっとおかしいですよね。
しかし私はこう考えます。「飛び去った」というのは「つかのま見失った」ということでないか、と。健康であることの幸せ、とか、呼吸ができることの幸せ、などは、常に実感しているわけではありません。失ってはじめて感じるように、それらの幸せは見失ってしまいがちです。
たとえば、家族があることの幸せ、とか、愛されていることの幸せ、なども、日常に埋没して意外と見失ってしまいがちです。
でもチルチルはこう言っています。「心配ないよ。またつかまえてあげる」と。
今、目の前にある日常生活のあたりまえの幸福は、えてして見失ってしまいがちだけれど、心配ない、またすぐに見つけられるから大丈夫だよ、というメッセージなのではないかと私は解釈します。
あなたは犬派? それとも猫派?
最近はネコブームだそうです。2020年のデータではネコの方がイヌの飼育頭数を上回っているそうです。YouTube動画でも、ネコ動画のほうが犬動画よりも閲覧回数が多かったりします。
ネコは「勝手気まま」「ツンデレが魅力」で、気が向くとあまえてくるのがカワイイのだそうです。でもそれはウサギやフェレットでも同じじゃありませんか?
ちなみにチルチルとミチルは、イヌとネコの両方を飼っています。どっちかというと兄は犬を、妹は猫を可愛がっているように描かれていますが……
『青い鳥』の中で、イヌは人間の味方、ネコは実は裏切者として描かれています。
『ロビンソン・クルーソー漂流記』でも、ロビンソンが一緒に暮らしたのはイヌだけで、ネコは野生化してしまいました。
おそらく有史以来、人間にとってはイヌこそが家族であり、ネコがイヌ以上に家族として受け入れられる時代はなかったのではないでしょうか。そういう意味で、現代の日本は、ネコがイヌをパートナーアニマルとして人気が上回るという世界史上、類を見ない特異な時代だと言えるかもしれません。
旅から帰ってくると、世界が違って見えた
誰もが知っている青い鳥のオチ、「幸せは過去にも未来にもない、今ここにある」「世界中を探し回っても見つからない。幸せは家の中にあるんだよ」
チルチルとミチルは青い鳥をさがす旅から戻ってきました。この旅でチルチルとミチルが見つけたのは「幸せ」だけではありませんでした。
兄弟は様々な国を訪れることで、次第に世界の本質を知りました。おしゃべりはしなくても、精霊たちがいつもそばにいてくれることを兄妹は理解しました。すべてが奇跡で、あたりまえのものなどないということを知ったのです。
改めて周囲を見渡してみると、驚いたことに、家の中も外の森も昨日までと違って見えます。すべてが輝いて見えました。
帰ってきたら、今までいた場所が違って見えた。旅とは、そうでなければならないと思います。
読書も、ただの時間つぶしではなく、心の旅をするようなものであってほしい、と思っています。読み終わったら、今までいた場所が違って見える、というような体験であってほしいと願っています。
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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!
かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。
しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。
世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。
すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。
『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。
その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
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主人公ツバサは小劇団の役者です。
「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」
恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。
「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」
アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。
「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」
ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。
「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」
惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。
「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ」
劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。
「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」
ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」
尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。
「妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ」
そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。
「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」
そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。
「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」
そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。
「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
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