アニメ版を見たことない男が原作小説を読んでみた
『アルプスの少女ハイジ』はアニメ版が有名ですが、私は全部通して見たことありません。ここでとりあげるのはヨハンナ・シュピリの原作の話しです。私は遠山明子さんの訳で読みました。
地名かと思って読みましたが、アルムとは放牧地という意味でした。
「教えて~アルムの森の木よ~」と主題歌にも出てきますよね? アニメ見てませんけど、もはや教養として知っています。
原作は、二部構成になっています。二つの小説というよりはインターミッションを挟んだひとつの映画と思った方がいいでしょう。
よくテレビの名シーンとして放映される「クララのいくじなし!」(原作にそんなセリフはありませんでした)と言って彼女を立たせるシーンは後半部分にちゃんと登場します(原作でもこれがクライマックスになっています)。
作者ヨハンナ・シュピリは、当時としてはちゃんと教育を受けた女性で、父親は開業医、母親はプロテスタントの宗教詩人だったそうです。親父が医者だったせいか、ハイジの中に、けっこうな数の病人が出てきます。盲目のペーターのおばあちゃんとか、車いす生活のクララとか、ハイジ自身も夢遊病になって幽霊と間違われます。
細部は違うのでしょうが、たぶん大きな流れは原作もアニメも同じだろうと思います。王道なので変えようがありません。「無邪気な少女がやってきて、周囲の人に愛され、周囲の心を変えていく」という話しですね。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
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作者の意図した作品の主題
作者が意図した作品の主題は、こうです。
「神に祈っても、いっけん自分の意に反する不具合なことが起きることはある。でもそれが周り巡って結局は最善手だったりするのだから、信仰をうしなうことなく、けなげに生きていくことが重要」
間違いなく作者はそういうテーマで書こうとしたのだと思います。
ここでの神さまというのは、キリスト教の神様のこと。母親がプロテスタントの宗教詩人だったことに大きな影響を受けているのでしょう。
たぶんアニメ版ではキリスト教色はなくなっているだろうと予想します。ヨハンナ・シュピリが原作で描こうとしたキリスト教的なテーマで描かれてはいないだろう、と想像します。その代わり、足萎えの少女が勇気を出して立ち上がるというヒューマニズムな展開となっているのではないでしょうか?
もうひとつ、直接的にヨハンナ・シュピリが意図していたかどうかはわかりませんが、もうひとつ原作ハイジにはテーマがあります。
それは「ちいさな、かわいい子は最強」ということです。思うのですが、かわいい少女は最強のチートではないでしょうか。
「世界で一番おまえが好きだ」と愛し合って結婚したのに、娘が生まれた瞬間から、夫が世界一の好きな相手は娘になってしまう
「夫の愛情を娘にとられてしまった妻」という立場の経験者なら、アルプスの少女ハイジを読まなくてもこの気持ちがわかるのではないでしょうか。
「世界で一番おまえが好きだ」と男に口説かれ、愛し合って結婚したのに、股のあいだから娘が生まれた瞬間から、夫が世界一の好きな相手は娘になってしまう……。よくある話しです。
これが原作「アルプスの少女ハイジ」の隠されたもうひとつのテーマだという気がします。
無邪気なハイジが、きむずかしい性格のお爺さんなど、人々の心をなぐさめ、やさしくしていきます。そして人々が融和していきます。かわいい、ちいちゃい子は最強なのです。アルプスの少女ハイジはそんなお話しとして読むことができます。
これを少女の成長物語というのはどうなのか
もちろんハイジ自身も成長します。その中で
「神に祈っても、いっけん自分の意に反する不具合なことが起きることはある。でもそれが周り巡って結局は最善手だったりするのだから、信仰をうしなうことなく、けなげに生きていくことが重要」
という原作のメインテーマにたどり着くわけですが、この小説を「少女の成長物語」というのはどうかな、と思います。
『アルプスの少女ハイジ』は、作品の中で5年ほどの年月が経っているのですが(冬が来て春が来るというシーズンを繰り返しているのでわかります)、ハイジは常に明るくむじゃきで愛されキャラのままです。人生に挫折して性格がひねくれたり、恋か家族か悩んだり、あれかこれかという人生の岐路に立ち、二つの大切なものからひとつを選択しなければならないような岐路に立ったりしません。
むしろ大きく変わっていくのはハイジ自身よりも周囲の方でした。
おじいちゃんもかわいい孫娘にはメロメロメロメロ~です。ひつじかいペーターにとっては退屈な暮らしになくてはならない放牧の相棒ですし、盲目のおばあさんには生き甲斐となっていきます。病気で閉じこもりがちなクララには無邪気で明るいハイジは無二の友だちです。
ハイジは子犬みたいなものです。学んだり、努力したのではなく、ただ無邪気にかわいいだけなのです。
フランクフルトの医者は、最後にはハイジを養育し、遺産を贈りたいとまでいいます。(ペーターのおばあさんのように老後の面倒を見てほしい下心があります)
愛されるって最強です。そして努力したから愛される子になったのではなく、うまれつき子犬のように素直だから愛されているというわけでした。
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主人公ツバサは小劇団の役者です。
「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」
恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。
「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」
アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。
「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」
ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。
「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」
惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。
「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ」
劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。
「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」
ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」
尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。
「妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ」
そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。
「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」
そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。
「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」
そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。
「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
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※「神の見えざる手」「行為は巡って自らにくだされる」ことを描いた私アリクラハルトの著作です。ぜひお読みください。
19世紀まで残るキリスト教的価値観
「神に祈っても、いっけん自分の意に反する不具合なことが起きることはある。でもそれが周り巡って結局は最善手だったりするのだから、信仰をうしなうことなく、けなげに生きていくことが重要」
というキリスト教的なテーマが1880年出版のスイスの作品にまで登場していることに驚きます。ロシアの『カラマーゾフの兄弟』が1879年ですから同年代ですね。
ドストエフスキー作品の読み方(『カラマーゾフの兄弟』の評価)
カラマーゾフの兄弟『大審問官』。神は存在するのか? 前提を疑え!
わたしたちは16世紀にルネッサンスという「人間再生」「キリスト教以前の古典文芸の復興」という時代がヨーロッパに訪れて、キリスト教的価値観一色だった暗黒の中世時代が終わったと教科書で教わるのですが、いやはやどうして19世紀になってもキリスト教的価値観は生き続けているようです。
もっともハイジの場合、敬虔な祈りをささげることの重要性が問われているだけです。夢遊病者は魔女だとか、宗教的な生活こそが一番大切だとまで言っているわけではありませんが、いにしえの価値観が根強く生き残っていくさまを感じることができました。
子犬を飼ったら家族が仲良くなった、みたいな話し。かわいい少女は最強なのだ
『アルプスの少女ハイジ』のテーマについて、豊かな自然の崇拝とか、キリスト教的な教育の重要性とか、少女のビルディングロマンとか、いろいろいう人がいると思いますが、「かわいい少女は最強なのだ」というのが裏のテーマ、隠しテーマではないかと思います。
いかつい祖父の顔が孫の笑顔でタレ目になっちゃうのは洋の東西を問わない人間の真理ではないでしょうか。世の中にそういう作品があったっていいではありませんか?
そしてそのことを『アルプスの少女ハイジ』ほどじょうずに描いた作品はなかなかないのではないかと思います。
難しいことを考えなくても、『アルプスの少女ハイジ』は、子犬を飼ったら家族が仲良くなった、みたいな話しだと感じました。そしてそれが、意外とこの世の中の現実、真実なのではないかと私は思います。