『オイディプス王』は、過酷な運命に自殺や両目を潰すなどの激しい抵抗を見せる人間の物語
このページでは、ソポクレス『オイディプス王』をネタに、スピンクス伝説や、エディプスコンプレックス、父殺し、運命と人間との戦い、女の顔をしたモンスター、ダナエ・ペルセウス物語、そしてボイボス・アポローンなどについて書いています。
『オイディプス王』は運命に痛めつけられて、無力感に途方に暮れていじけている人間の物語ではありません。過酷な運命に自殺や両目を潰すなどの激しい抵抗を見せる人間の物語です。
エディプスコンプレックスの語源。エディプス王の物語
フロイトが提示したエディプスコンプレックスの語源となった古代ギリシアのソポクレスの戯曲『オイディプス王』オイディプスはスピンクスを倒した英雄としても知られています。スピンクスはエジプトのスフィンクスと同じものです。エジプトの方がスフィンクスの由来としてはギリシアよりも古いそうです。
エジプトのスフィンクスがギリシアにきて、謎かけ怪物となりました。そしてオイディプスに謎を解かれて倒されてしまうというお話しです。スピンクスというのは「女の顔をしたライオン」という怪物です。人面魚系の怪物ですね。
ギリシア神話は女の顔をした××という怪物が大好きなようです。スフィンクスは女の顔をしたライオンです。ハーピーは女の顔をした鳥でした。女の怒った顔は怖いからね。恐い顔といって女の顔を無意識に思い出しちゃったんだろうね。日本の幽霊が女が多いのも、やっぱ女の怨念の方が恐いからでしょうね。
ちなみにスピンクスの謎というのは「朝に四本足、昼に二本足、夕方は三本足となる動物は何か?」というナゾナゾでした。答えは「人間」です。人生を一日にたとえると陽が沈む老年期には杖を突くから三本足だというのですね。
うーん。このナゾナゾどうでしょうか? できのいいナゾナゾでしょうか? いや、どうなの!? 最初に聞いた時、私は思いました。「人間ってみんながみんな杖をつくかな?」なかには杖をつかない人もいるのではないでしょうか。ましてや現代では寝たきり状態になって三本足どころか足を一本も使わない人がたくさんいる時代です。どうやら時代の流れに耐えられるような良質のナゾナゾではなさそうです。人智を超えた怪物ならば、もっとあっと驚くような凄いナゾナゾを考えてほしかったものです。
スピンクスは、謎を解けなかった人間を食ってしまうという怪物でしたが、謎を解かれて恥じて投身自殺してしまいます。きっとオイディプスに「だせぇ質問だな」とディスられたに違いありません。だから恥じて自殺した(笑)。
どうせならいさましく戦って退治されてほしかったと思うのは私だけでしょうか?
エディプス・コンプレックス。「親父を乗り越える系の話し」は無限にある
さてフロイトのエディプスコンプレックスです。
少年は無意識に母を愛し父と敵対するというのがエディプスコンプレックスです。
これをそのまんま使っちゃっているのが『さよなら銀河鉄道999』です。
母親に瓜二つのメーテルに恋をして、親父の黒騎士ファウストを倒し乗り越えて、そしてメーテルと別れて少年は男になっていくというストーリーでした。
親父を乗り越える系の話しは、世の中に数えきれないほど存在します。
『スターウォーズ』のダースベイダーは主人公ルークの親父です。
『巨人の星』の最後のライバルは親父でした。
『カラマーゾフの兄弟』は父殺しの謎がひとつのモチーフになっています。
ドストエフスキー作品の読み方(『カラマーゾフの兄弟』の評価)
『ハムレット』も父殺しが重要なモチーフになっています。
さて、そんなエディプスコンプレックスの元ネタとされるソポクレスの『オイディプス王』ですが、どんなお話しでしょうか?
【書評】『オイディプス王』のあらすじ
スピンクスを退治した功績でテーバイの王となったオイディプス。テーバイが次々と疫病や飢饉に襲われる原因をアポロンの神託に尋ねると「前王を殺したケガレを追放せよ」というお告げでした。探偵小説さながらにそのケガレを追求すると、なんと犯人は「オイディプス自身」だったのです。
ということは……オイディプスの妻は、前の王妃。つまり自分の実の母親である。ケガレとは自分自身だったのだ。事実を知った妻(母)のイスカオテは首つり自殺をする。
オイディプスは自分自身をテーバイから追放することに決めた。その前に、両眼を潰して。
反あらすじ派であるいい見本。
作者ソポクレスが言いたかったことは、最後のセリフに凝縮されている。
人間は、無常。命が果てるまで、幸せな人生だったとはいえない。栄耀栄華を極めたオイディプス王ですら、今は光を失い、国を追放されてしまう身におちてしまったのだから。
それが主題といえば、主題である。たった三行で作者の言いたかったことは尽きてしまう。
だから私は反あらすじ派なのだ。三行の主題からは何も生まれなかったはずである。たった三行で語らず、戯曲にしたことで『オイディプス王』は永遠の命を得たのである。
この作品に永遠の命をあたえたソポクレス以外のもうひとりはもちろんジークムント・フロイトである。
エディプスコンプレックスという精神科の言葉を抜きに、今やこの作品は語ることができない。問題は、オイディプスが父と知らずに父を殺したことである。
オイディプスは旅人時代に「道を譲れ」「譲らない」といういざこざのために人を殺めてしまうのだが、それがたまたま父親だっただけなのだ。エディプスコンプレックスのいうように、父に反感・対決して殺したわけではない。そして、オイディプスは母と知らずに母とむすばれたことである。オイディプスは王様の義務として先王の妻をめとり子をなしただけなのだ。恋愛したわけではない。
エディプスコンプレックスのいうように、母に恋して、その結果、近親相姦したわけではない。ソポクレスは、これを運命と解釈した。デルポイのアポロンの神託によってオイディプスは「実の父親を殺し、母と交わって、人が目をそむけるような子らを生む」と予言されていた。
その運命を遠ざけようとできるだけのことはしてきたのに、かよわい人間の力では運命を変えられなかった、とする悲劇なのだ。
オイディプス王がみずから両目を潰すのは、運命に対する人間の抵抗であった。事実を知って自殺した母のイスカオテも、やはり運命に流されるかよわい人間の意志の力の抵抗だった。死という手段で運命に流されることを拒否したのだ。
『オイディプス王』は運命に痛めつけられて、無力感に途方に暮れていじけている人間の物語ではない。過酷な運命に自殺や両目を潰すなどの激しい抵抗を見せる人間の物語である。
フロイトが新しい学問分野を世界にひらいたのは、これを無意識の衝動・心象風景と解釈したためである。オイディプス王の物語は、男の子の無意識の心象風景として誰の心の中にも潜んでいる、としたのである。
ギリシア神話、ギリシア悲劇に見る運命論。多神教の要素
見てきたように、ソポクレスの原作『オイディプス王』には、悲劇の運命に抗う人間が描かれています。その出来事が偶然ではなく運命だとどうしていえるのかというと、生まれた時からすでに信託によって予言されているからです。
黄金の雨で有名なダナエのエピソードを知っていますか?
黄金の雨に身をさらすダナエ。英雄ペルセウスのメデューサ退治
アルゴス王アクシリオスは神託によって「娘ダナエの子に殺される」と予言されたので、ダナエが妊娠しないように一室に幽閉します。しかし天窓から降ってきた黄金の雨に身をさらしてダナエは妊娠してしまいます。黄金の雨は神々の父ゼウスが姿を変えたものでした。
生まれた子は、アクシリオスによって海に流されるが、死の運命を免れて、成長します。
成長したその子はやがて天馬ペガサスに乗って、イージスの盾に映った蛇髪の怪物メデューサの首を切り落とし、英雄ペルセウスとなるのです。
その後、アクシリオスはペルセウスに殺される運命から逃げ回ります。しかし、結局、円盤競技を観戦していたところ、ペルセウスが投げた円盤が遠くまで飛びすぎて、それに当たって死んでしまうのでした。
ダナエ・ペルセウス物語とオイディプス王の類似点と相違点
ダナエ・ペルセウスの「殺される運命におびえた王が、生まれた子を追放する」ところはオイディプスのエピソードにそっくりである。やがて成長した子が、怪物を退治して英雄になるところも同じだ。そして結局は、神託の予言は達成するところまで、完全に一致するエピソードである。
しかしダナエ・ペルセウス物語は、エディプスコンプレックスとは別です。孫が爺ちゃんを殺しちゃう話しですから。息子が父を殺す話しとは違います。
もしも将来の人間が祖母を愛し、祖父を憎むという人間の心の闇が発見されたとしたら(笑)、それはアクシリオス・コンプレックスと呼ばれることでしょう。
ちなみにソフォクレスは『アクリシオス』、『ダナエー』という悲劇を書いたそうです。
運命と人間の意志のたたかいを描いた作品という意味で、きっと『オイディプス王』と似たようなお話しだったのではないかと思います。
しかし散逸して残っていないそうです。残念です。読みたかった。天才ソポクレスの戯曲は120本を越えるそうですが、残っているのはわずか7作品のみだそうです。
本当に、残念です。
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主人公ツバサは小劇団の役者です。
「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」
恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。
「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」
アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。
「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」
ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。
「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」
惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。
「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ」
劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。
「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」
ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」
尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。
「妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ」
そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。
「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」
そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。
「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」
そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。
「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
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古代ギリシア悲劇の神々。主神ゼウスよりもアポロンの登場が多い
西洋文学を読んでいると「果たして神は本当にいるのか?」とか「神にめざめることが魂の救済となっているエンディング」が多くて、うんざりすることがある。
『罪と罰』とか。20世紀の作品ですよ!! もう神は死んだってことでいいんじゃないでしょうか。
【罪と罰】ドストエフスキーは今日の日本人にとっても本当に名作といえるのか?
その点、古代ギリシア悲劇は、心地がいいものがあります。神への疑いなんてこれっぽっちもありません。実に堂々としています。ここでいう登場というのは「口の端にのぼる」という意味です。イリアスに見るようにリアルに登場するわけではありません。
多神教ですから、いろいろな神様に節操なく祈ります。最多登場はボイボス・アポロン。予言の力をもつ神で、ご神託の主です。ギリシア悲劇には主神ゼウスよりも神託の神アポロンのほうが、数多く登場します。
デルポイのアポロンの神託こそが「The運命」なので、運命と対決する人間を描く場合、アポロンが欠かせないのです。アポロン抜きに「その事件が運命だった」ということはわかりません。
しかしアポロンだけを信仰しているわけではなく、登場人物の都合でいろいろな神に祈ります。
意外と登場するのが、軍神アレス。軍神のくせに弱いと後世では評判のアレスですが、ギリシア悲劇では戦場の比喩に必ずアレスが登場してきます。
ナンバー3はパラス・アテナ。女神アテナは無事や幸運を祈るときによく登場します。日本人がいわゆる「神様、ご加護を」という時には、ギリシア人はパラス・アテナに祈ります。
番外編として冥王ハデス。「いざ、ハデスと相まみえよう」というように死を覚悟して戦場におもむくシーンなどでよくセリフの中に登場します。
ギリシア神話では主神ゼウスが圧倒的な力をもった神なのですが、直接祈ることは少ないようです。主神に直接たのむのはおそれ多すぎるせいでしょうか?
そこがキリスト教との大きな違いだなあ、と感じます。
キリスト教は唯一絶対神にのみ祈ります。この神はオールマイティなので、どんな願いだって「対象外」ではありません。ちなみに聖書の中で一番人を殺しているのは悪魔サタンではなくて神エホバです(笑)。
恋愛成就はアフロディーテやキューピット、商売の成功はヘルメスというように対象で祈る神を変える姿は、まるで日本の神道のようで微笑ましいものがあります。
あなたはバカボンのパパのように「これでいいのだ」と運命を敬って受け入れることができますか?
テーバイを追放された、盲目のオイディプス王は、これからどのような道を歩んでいくのだろうか。その道は運命に支配されているのだろうか。それとも自らの意思で切り開く道なのだろうか。
この物語が聖書より427年以上前に書かれたということを、最後に忘れないように記しておきたい。