偉そうに? どうして無名の一般市民が世界史に残る文豪・偉人を上から目線で批評・批判できるのか?

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偉そうに? どうして無名の一般市民が世界史に残る人物を上から目線で批評・批判できるのか?

アリクラハルトです。私はこのサイトで書評をしています。

どうして無名の一般市民である私が世界的文豪を斬ることができるのか?

それに対する答えを書いているのがこのページです。

必ずしも私が傲慢で、向こう見ずだからではありません。みなさんは不可能だと思うかもしれませんが、私は十分に可能だと考えています。

先日も、世界的な(世界一の)文豪とされるドストエフスキーを容赦なく批判してしまいました。書いている時は夢中なので気になりませんが、後日、ふと我に返ると、どうして私ごときが世界的な文豪を上から目線で批評できるのか? 傲慢すぎやしないか? と自省しました。

私はオリンピッククラスのマラソンランナーのことも上から目線で語っていますが、それとこれとは話しが別です。私はロードバイクに乗ればウサイン・ボルトよりも速く走ることができます。ロードレーサーに乗った私から見るとマラソンランナーは亀のように遅いので、肉体のみ二本の脚をつかっているという点では平等ですから、マラソンランナーの上から批評はまあギリギリセーフだということにしておいてください。

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雑誌『ランナーズ』のライターが語るマラソンの新メソッド。ランニングフォームをつくるための脳内イメージ・言葉によって速く走れるようになるという新メソッドを本書では提唱しています。

(本文より)

【入力ワード】写真からランニングフォームを学ぼうとする人が多いので注意喚起したいと思います。写真からフォームを学ぶのはお勧めできません。写真というのは瞬間を切り取ったものなので、間違った解釈をする可能性があるからです。「振り上げた脚」(往路)なのか「戻ってきた脚」(復路)なのか、写真ではわかりません。大地を蹴ったように見えている脚が本当に大地を蹴っているのか、大地を蹴ったように見えているだけなのか、写真からはよくわからないからです。写真で振り上げた膝の高さを見て「ふむふむ、膝はここまで上げるのか」と思い込んでマネするのもよくありません。慣性の法則で結果として脚がそこまで上がっているだけで、実際のランナーの意識としてはそこまで上げようとしていないかもしれません。「結果としてのフォーム」と「ランナー本人の走るときのフォーム意識(入力ワード)」は、必ずしも同じではないのです。

【腹圧をかける走法】そもそも息をするのは、酸素を吸うためです。吐くことよりも、吸うことに意識をおくほうが自然な発想です。肺の中に残っている空気(残気量)は、どうせゼロにはできないのです。吐き切るという努力は、動かない壁を押すような無駄な努力です。そこに力を割くべきではありません。持ち上がらないバーベルを無理やり持ち上げようと喘ぐと、余計に息が苦しくなってしまいます。楽に息するのとは真逆のことです。それよりも思いっきり吸うことです。そのための走法が腹圧をかける走法です。肺を絞って痩せた人のように走るのではなく、腹はたるんたるんと力を抜いてだらしなく腹が太った人のように走ります。そもそも重力は下向きなのだから、横隔膜を下げることは理にかなったことです。それに対して、吐き切ることを意識すると、重力に逆らって横隔膜を持ち上げながら肺を絞らなければなりません。どちらが楽にできると思いますか?

【ストライド走法】ピッチ走法には大問題があります。実は、苦しくなった時、ピッチを維持する最も効果的な方法はストライドを狭めることです。高速ピッチを刻むというのは、時としてストライドを犠牲にして成立しているのです。

【踵落としを効果的に決める走法】私はカラテ素人ですが、サブスリーランナーとして、すくなくとも「踵落とし」を無力化する方法をすぐに思いつくことができます。答えはカンタン。攻撃側が踵を振り上げて止まったポイント(これを上死点といいます)に、自ら打撃ポイント(脳天など)を近づけていくことです。上死点では運動エネルギーがゼロになっているために、破壊力もゼロです。上死点から距離をとらないことで「踵落とし」というキックを無力化できます。
ストライドを稼ぎたいあまりに、未熟ランナーほど振り出した前足が最も伸びきったところで着地してしまうのです。つまり「膝が伸びきったまま」「踵から着地」してしまうのです。これは「踵落とし」の運動エネルギーがゼロになっている上死点で着地してしまっているのと同じことです。これでは速く走ることはできません。

言葉のもつイメージ喚起力で、フォームが効率化・最適化して速く走れるようになる新理論の書。言葉による走法革命。とくに走法が未熟な市民ランナーであればあるほど効果的です。本書はあなたのランニングを進化させ、市民ランナーの三冠・グランドスラム(マラソン・サブスリー。100km・サブテン。富士登山競争のサミッター)を達成するのをサポートします。
●「動的バランス走法」「ヘルメスの靴」「アトムのジェット走法」「かかと落としを効果的に決める走法」「ハサミは両方に開かれる走法」「腹圧をかける走法」
マラソンの極意「複数のフォームを使い回せ」
究極の走り方「あなたの走り方は、あなたの肉体に聞け」
●【肉体宣言】生きていることのよろこびは身体をつかうことにこそある。

Amazon.co.jp: 市民ランナーという走り方(マラソン・サブスリー。グランドスラム養成講座) 電子書籍: アリクラハルト: Kindleストア
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【立ち位置の優位さ】作品を批判することは創作することよりもずっと簡単だ

どうして無名の一般市民である私が世界的文豪を斬ることができるのか?

自分の文才に絶大な自信をもっているから? まあ、すこしはそれもあります。それがなければ批判できないでしょう。

しかしそれだけではなく、作品を批判することは創作することよりもずっと簡単だ、という立ち位置の優位さということがあるのです。

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タイムマシンがあれば誰でも天才になれる。生きている時代の差は認識に大きな影響を及ぼす。

もうひとつ私にはアドバンテージがあります。ドストエフスキーは19世紀の人間ですが、わたしは21世紀の人間です。この差は大きい。

人間にとって生きている時代の差、知識の差は非常に大きいのです。もしタイムマシンがあって過去にさかのぼることができたら、誰でも天才と呼ばれることができるでしょう。

ドストエフスキーは私たちがものごとを考えるモノサシになる宇宙観を知りません。地球は銀河系にある2000億個の恒星の周囲をまわるごみのように小さな惑星のひとつに過ぎないということ。そして銀河系のような銀河は宇宙に1000億個以上もあるということも知りません。神が世界を作ったとドストエフスキーが考える時、世界というのはせいぜいちっぽけな地上のことだけしか考えられないのがドストエフスキーの認識なのです。

人類がつくった滅びの火である原子力爆弾のことも知りません。かつて私たちホモサピエンスの仲間であるクロマニヨン人という種族がいてこの地上から滅び去ったことを知りません。

宇宙の大きさや、核爆弾や、絶滅した人類のことを知っているか知らないかでは、人間の現状認識が大きく異なります。それらの知識は認識に決定的な影響を及ぼすのです。

たとえば万学の祖とされるアリストテレスは、現代人から見るとバカです。彼は「重力」を知りません。たくさんの間違ったことを書き残しています。かつての天才もその程度なのです。それが生きている時代の差というものです。

世界を征服しようとしたアドルフ・ヒトラーは、ガガーリンアポロ計画より以前の人物です。ヒトラーは「宇宙から撮った地球の写真」を一枚だって見たことがありませんでした。宇宙から見れば地球はちっぽけな奇跡の星だという認識をヒトラーはもっていなかったはずです。世界征服を偉大な行為だと思っていたはずです。人類はみんなこの小さな宇宙船地球号に乗った同乗者だと思ったことは一度だってないでしょう。言ってみればバカなのです。

たった一枚の「宇宙から撮った地球の写真」が人間の認識を変えることがあるのです。それが生きている時代の差です。かつての天才をバカ呼ばわりできてしまう圧倒的なアドバンテージが後世の人間にはあるのです。

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「私の方が年上」「執筆時の作者の年齢が、今の私よりも年下」という大きな要因

世界的文豪を私は批評・批判するとき、必ずしも私がえらそうだとか、傲慢で、向こう見ずだからではないということがご理解いただけたでしょうか?

立ち位置や、生きている時代の差などが、歴史上の人物を批判できる大きな要因でした。

もうひとつ大きな要因のひとつとして「私の方が年上」だということがあります。「執筆時の作者の年齢が、今の私よりも年下」だということで、私は世界的文豪を上から目線で斬ることができるのです。

たとえば『罪と罰』などはドストエフスキーが45歳頃のときの作品です。今の私よりも年下です。

「なんだ年下の書いた作品かよ」

これまで生きてきたことに自信があれば、年下に人生を教わろうとはそうそう簡単には思いません。

どうして無名の一般市民である私が世界的文豪を斬ることができるのか?

その理由の一つに「自分の方が年上だから」ということは確実にあるのです。

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宮崎駿「手塚治虫は僕より若い人」制作した年齢が問題

ここであるエピソードを思い出しました。アニメ監督の宮崎駿さんが漫画の神さま手塚治虫さんのことを「年下の人」と呼んでいるエピソードです。具体的にはコレです。

「手塚さんは今の僕より若くして亡くなった方ですから、僕より若い人なんだ、とこのごろは思っているんです。年寄りがとやかく言うことではありません。」

この気持ちが私にはとてもよくわかるのです。ここで私がいう「作家の××なんてオレより年下(執筆当時の年齢)じゃん!」というのは、これとまったく同じことだと思うからです。

もちろん両者が存命中は、手塚の方が大先輩だったわけですが、作品というのは制作した時の年齢が問題であって、死んだ年齢が問題ではありません。

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どんな偉大な思想をいだいていたって、人生なんて誰もそうそう変わらないから、他人も自分も肯定することができる

文豪のむずかしい作品を読んで、自分の方が年下だったら、作品が理解できないのは自分がまだ未熟で開眼していないせいだ、と自分のせいするだろうと思います。まだ自分は若輩者で、この先生きていくうちに文豪の作品に描かれた「境地」に達することがあるかもしれない、まだわからないけど、将来わかるかも? と未来に希望をつなぎます。

しかしやるだけやって年齢を加えると、もはやそんな「境地」に達することことなど一生ないのだ、ということが見えてきます。わかってきます。この境地に達した読書家が、むずかしい作品を書いた文豪が自分より年下だということがわかった場合、とるべきスタンスはふたつあります。

ひとつは「ああ、おれなんか文豪の境地に達することは生涯できなかった。残念だ。とても理解でない」と全面降伏して文豪を崇め奉るか。もうひとつは「人生において大切なことはシンプルなことなんだよ。簡単なことをわざわざ複雑にしてバカじゃないのこの作家!」と、相手を否定するか、です。私は後者のスタンスなのです。人生経験を経るとこういうことができるようになります。

だってどんな偉大な思想をいだいていたって、人生なんて誰もそうそう変わらないってことをもう知っているのですから。

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年上だということは、涅槃(死。悟りの境地)に近いということ

超人の思想をもっていた哲学者ニーチェが、人生の集大成に超人になるどころか、あたまが狂って精神病院で死んだことも知っています。人間はどんな思想をいだいても人生たいして変わらないものなのです。認識とか、発想とかで、人生はそう変わりません。そのことをもう知っています。

だから相手が世界的文豪でも、しょせんは年下の小僧の書いた認識に対して、おまえはわかってないなあ、と言えてしまうのです。

認識や苦悩の深さなんかで人生は変わりません。むしろ子犬のように無邪気な人間になった方が愛されて幸せな人生を送れることを私はもう知っています。

「人生において大切なことは、愛する人に愛されているかどうかということ。自分に正直に生きていくこと」このシンプルな認識に対して「それは違う」と反論できる人はほとんどいないでしょ??

芸術の目的は人間を傷ついて心を閉ざしてしまった以前の「おさな子の状態」に戻すことです。関係性を取り戻し、人生に感動し、生まれてきてよかった、と満足できるように。シンプルな方が幸せになれることを、これまで生きてきた経験から知っています。

だから年下の人間が書いた小説に対して、そんなこともわからないのか、と反論できてしまうのです。「なんにもわかってないなあ。バカじゃないの?」とサラリと言えてしまうのです。

それが年上だということです。涅槃(死。悟りの境地)に近いということなのです。

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