『バガヴァッド・ギーター』の魅力、内容、あらすじ、感想、書評
マハーバーラタの一部であるバガヴァッド・ギーターは王子アルジュナにクリシュナ(バガヴァット)がヨーガの真髄を説いた神の歌です。クリシュナというのはアバターラ(アバター)としてのヴィシュヌ神のことです。つまりバガヴァッド・ギーターにおいて語っているのは神というのはシヴァ神やインドラ神ではなくヴィシュヌ神。神鳥ガルーダに乗る姿で有名な維持神ですね。そしてここに記されているのは神の言葉です。「神の言葉」という位置づけ的には聖書と同じです。そして書かれている内容も非常に似ているところがあります。「私に意を向け、私を信愛せよ。私を供養し、私を礼拝せよ」これは聖書のエホヴァの言葉ではありません。クリシュナの言葉です。「私以外に道はない。私を信じなさい」と聖書にもギーターにもどちらにも書いてあります。どちらも宗教の聖典とされるだけあってとても良く似ています。
バガヴァッド・ギーターと、仏教との共通点。ほとんど同じもの?
→ このコラムではギーターの中で私が感銘を受けたくだりを紹介するとともに、仏教との類似性を指摘したいと思っています。バガヴァット・ギーターはヒンドゥー教の聖典であり、仏教ではないのですが、私の目にはほとんど同じものに見えてしょうがありませんでした。
物質との接触は、寒暑、苦楽をもたらし、来りては去り、無常である。それに耐えよ、アルジュナ。
→ 諸行無常といえば仏教ですが、ギーターでも無常が説かれています。
彼は決して生まれず、死ぬこともない。彼は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠であり、太古より存ずる。人が古い衣服を捨て、新しい衣服を着るように、主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く。
→ ベースとなっているのは輪廻転生という生まれ変わりの考え方です。ふつう、キリスト教もエジプト神話も「生まれ変わり」は望むこと、ぜひそうなりたいと考えているのですが、ヒンドゥー教、仏教の特異な点は、生まれ変わりを苦しみの繰り返しであり忌むべきことと考えていることです。この世は楽園というよりは地獄に見えていたんでしょうね。インドだからな(笑)。
義務=ダルマ。
あなたは殺されれば天界を得、勝利すれば地上を享受するであろう。それ故、アルジュナ、立ち上がれ。戦う決意をして。
→ アルジュナはまるでギリシアのアキレウスのようです。アキレウスは戦えば若死にするが不滅の名を得て、戦わなければ長生きするが無名で終わると予言されたのでした。
小説のはじまりは「怒り」。詩聖ホメロス『イリアス』は軍功帳。神話。文学
人が感官の対象を思う時、それらに対する執着が彼に生ずる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生ずる。
→ なんだかはじめて読んだ気がしません。仏教関係本にまったく同じことが書いてあります。
動き回る感官に従う意は、人の智慧を奪う。
欲望を求めるものはそれに達しない。すべての欲望を捨て、我執なく行動すれば、その人は寂静(じゃくじょう)に達する。アルジュナよ、これがブラフマン(梵)の境地である。
→ このギーターの境地は、仏陀の悟りと何が違うのでしょうか? まったく同じなのではないでしょうか。
行為のヨーガ(最高の境地)によるヨーギン(実践者)の立場。
回転する祭祀の車輪(チャクラ)を、この世で回転させ続けぬ人、感官に楽しむ人は、むなしく生きる人だ。他方、自己アートマンにおいて喜び、自己において充足し、自己において満ち足りた人、彼にとって、この世における成功と不成功は何の関係もない。また万物に対し、彼が何らかの期待を抱くこともない。
外界との接触に執心せず、自己のうちに幸福を見出し、ブラフマンのヨーガに専心し、彼は不滅の幸福を得る。
接触から生ずる諸々の快楽は苦を生むものにすぎず、始めと終わりのあるものである。
食べ過ぎるものにも、全く食べないものにも、睡眠をとりすぎるものにも、不眠のものにも、ヨーガは不可能である。
→ 仏陀は悟りを開く前に断食し中庸を悟ったと言いますが、まったく同じことを言っていると思います。
苦との結合から離れることが、ヨーガと呼ばれるものであると知れ。
私は美徳ダルマに反しない欲望カーマである。
最高の成就に達した偉大な人々は、苦の巣窟である無常なる再生を得ることはない。梵天の世界に至るまで諸世界は回帰する。アルジュナよ、しかし、私に到達すれば、再生は存在しない。
→ 仏陀は輪廻の輪から抜け出すことを目標としたといいますが、ギーターの目的も苦の巣窟である再生の輪廻から抜け出すことでした。
私は万物の本初であり、中間であり、週末である。ヴィシュヌであり、マントラであり、聖音オームであり、シヴァであり、クベーラであり、スカンダであり、山のうちのヒマーラヤ山であり、ヴァジュラであり、ナーガのうちのアナンタであり、鳥類のうちのガルーダであり、戦士のうちのラーマであり、河川のうちのガンジスである。
→ 私はアルファにしてオメガである、というのを別の聖なる本で読んだ気がします(笑)。宗教書って似てくるんだなあ。
私に帰依すれば、ヴァイシャ(実業家)でも、シュードラ(従僕)でも最高の帰趨に達する。いわんや福徳あるバラモンや、クシャトリアである信者たちはなおさらである。
→ 基本的人権という考え方は、キリスト教の「神の前には誰もが平等」という考え方があったからこそ生まれた、と聞いたことがあります。王でも乞食でも神の前にはゴミのような存在であることに変わりはありません。しかし同じ考え方がギーターにも描かれていて驚きました。でもヒンドゥ教はカースト制度で有名ですよね。神の前には誰もが平等、という考え方はあったのに、基本的人権は人間は平等だという考え方にまでは考えが発展しなかったんですねインドでは。
感官の対象に対する離欲。我執のないこと。生老病死苦の害悪を考察すること。
このようにプルシャ(個我)とプラクリティ(根本原質)と要素を知る人は、いかなる境遇に生きていようとも、再び生まれることはない。
→ エジプトはじめ再び生まれたい人が多い中で、再び生まれたくないと願うのは特異な宗教だなあとつくづく感じます。
欲望。怒り。貪欲。これは自己を破滅させる。それゆえ、この三つを捨てるべきである。
定められた行為を、執着と結果とを捨てて行う。行為の結果を捨てた人は捨離者と呼ばれる。
→ 出家を勧める仏典ではありません。ギーターの一節ですよ。
知性を備え、自己を制御し、感官の対象を捨て、愛憎を捨て、人里離れた場所に住み、摂食し、言葉と身体と意を制御し、瞑想のヨーガに専念し、離欲をよりどころにし、我執、暴力、尊大さ、欲望、怒り、所有を捨て、私のものという思いなく、寂静に達した人はブラフマンと一体化することができる。
行為の結果を動機としてはいけない。
成功と不成功を同一のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。
仏教との共通点。というか同じものではないか
イエスは新しい宗教をたてたというよりはユダヤ教の改革者だったのではないかという論があります。同様に仏陀も新しい宗教をたてたというよりはバラモン教(のちのヒンドゥー教)の改革者だったという論があるのです。
こうしてギーターを眺めてみると、仏陀とギーターはほとんど同じことを言っています。
※重要な違いは仏陀は1行も書き残さなかった(仏の言葉そのものは残っていない)のに対して、ギーターはクリシュナ神の言葉そのものだと解釈されている点です。その点、十戒(神の言葉そのもの)に近い書物なのです。
ここで大切なのはギーターの成立年度は紀元前3~2世紀、仏教の成立は紀元前6世紀ごろ。仏陀の方が古いということです。
イエスのキリスト教は従来のユダヤ教よりもやさしく、多くの人に門戸をひらいたものでした。同様に仏陀の仏教も従来のバラモン教よりもやさしく、多くの人に門戸をひらいたものだったのです。
バガヴァッド・ギーターがヒンドゥー教の聖典だとするならば、仏陀の魂は確実にヒンドゥー教の中に輸血されていると感じました。仏教発祥の地インドでは仏教は滅びたと言われていますが、実際には形を変えて生きのびているのだと思います。