漫画家、藤子・F・不二雄といえば『ドラえもん』が最も有名です。
作者自身も『ドラえもん』をもっとも大切にしており、晩期には『パーマン』や『オバケのQ太郎』などの他の作品を捨てて『ドラえもん』の執筆に集中していたそうです。
ところが今回、藤子・F・不二雄が『ドラえもん』よりもすこし年齢層が上の人向けに書いた異色短編集の中にハッとするような名作があったので、それをご紹介します。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
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じじぬき
家が狭く子供の部屋が用意できないために邪険に扱われている祖父。天国の祖母のはからいで寿命前に天国に逝くことになったが、葬式で惜しまれていることを知ってこの世に戻ってこようとする。しかし実際に生き返ってみるとまたもや邪険にされる。惜しまれて去るのが花だと……しかしそれは予知夢だった。おじいさんは生き返ることを諦めて、地上では家族がおじいさんを惜しんでお墓参りをしてくれていた。
→ 死者をいくら惜しんでも本当に生き返ってきたらなあ……というところからのドラマツルギーだと思います。
もし本当に手塚治虫が生き返ったら、藤子不二雄だって、ちょっと困惑したかもしれませんよね。
劇画・オバQ
成人になって結婚し、大企業でサラリーマンをしている正ちゃんの内に、オバケのQ太郎が戻ってくるという劇画タッチの物語。Q太郎はいっさい成長しておらず、正ちゃんを昔のような遊び相手として扱う。残業なんか断わりゃいいんだ、と会社員の事情なんかわからずご飯を20杯もおかわりするので、正ちゃんの奥さんには嫌われている。昔の仲間と再会し同窓会となる。残念ながらよっちゃんは正ちゃんとは結ばれておらず二人の子供がいる。大人のいない自由な国で遊んだ昔を思い出す。正ちゃんのもっていたたくさんのユメはおとなになるにつれてひとつまたひとつと消えた。ハカセが「自分の可能性を限界まで試したいんだ。そのためにはたとえ失敗したって後悔しないぞ」とハッパをかけると、みんな昔に戻って「おれたちゃ永遠の子どもだ! 会社がなんだ」と大騒ぎする。
しかし朝になると昨夜のことを正ちゃんはおぼえていなかった。女房に子供が生まれたことを知ると喜び勇んで会社へと向かう。正ちゃんはもう子どもじゃないんだな。とオバQはさよならも言わず去っていくのだった。
→ 大人の藤子不二雄が、子ども向きのマンガを描くとき「ああ、子どもはどうしておとなになるんだろう。いつごろおとなになるんだろう」と考えて、それをオバQで表現したのだと思います。
金を稼がなければ食っていけないこと。妻子を養わなければいけないことで、正ちゃんの選択肢は「会社に通うこと」だけになってしまいました。
身につまされる話しです。
T・Mは絶対に
「タイムパラドックスがあるから、タイムマシンは絶対にできない」という理屈に注意を向けておいて、人には知られたくない過去、ほじくり返されたくない過去があるから、人間の都合でタイムマシンは絶対にできない、というショートショート。
→ 技術的にはできるのに人の都合でできないという技術ってありますよね。クローン人間は技術的には可能ですが、人間の倫理上の都合でできません。失業問題が原因で技術革新が阻害されることもあります。そういうものを見て藤子・F・不二雄はこのストーリーを思いついたのではないでしょうか。
ミノタウロスの皿
宇宙で遭難した宇宙飛行士が漂着した星は、ウシ型星人が人型を家畜化している世界でした。
宇宙飛行士は人型のミノアに恋をしますが、彼女はウシ型の家畜です。「いつかウシ型に食われる」ことを当然の運命だと受け止めています。
宇宙飛行士は人権を説くが、ウシ型星人は「食うために住居とエサをあたえている」とにべもない。
宇宙飛行士は銃を抜いてミノアを救おうとするが、ミノアは「わたしをたくさん食べて」といって屠殺されていった。
救出された宇宙飛行士はステーキを食べる。ミノアを思い出して、泣いた。
→ 家畜と人間の立場が逆転したら、という発想はわりとありふれているのですが、人間を家畜にして、全裸にして屠殺までしてしまうとは驚きました。子供向け『ドラえもん』には書けないシュールな展開が魅力です。
権敷無妾付き
堅実なサラリーマンのもとに謎の手紙が届く。女から来てほしいという手紙。セカンドハウスを買いませんかという手紙。堅実なサラリーマンはどちらも行ってみるが、それは妾宅をもつ甲斐性のある男性をさがすためのテストだった。堅物サラリーマンは合格し、妾をもつことをすすめられる。いったんは怒って断るが、女に会って説教してやろうと心に折り合いをつけて妾宅に行ってみる。好みのタイプの女が現れ甘えられる。いったんは理性で断るが、自分のことを本当に好きなのかもと思って妾宅に戻っていく。しかし妾の気持ちはニセモノで、ユメを売ろうという商売に過ぎなかった。「フン! 妾だなんて!」といって堅物サラリーマンは帰っていきました。
日曜日、堅物サラリーマンは娘にイソップ物語『すっぱいブドウ(キツネとブドウ)』を読んであげていた。「そのブドウに手が届かないとわかると『フン! あんなすっぱいブドウなんか!』といって帰っていきました……」
→ 功成り名を遂げ大金持ちになった藤子・F・不二雄だって男。妾宅のひとつも持ちたかったかもしれません。いや、どんな真面目そうに見える男だって心の奥は……という解説だけだと、ただの心理学の本ですが、それを「すっぱいブドウ」とからめてオチをつけたところが秀逸でした。
カンビュセスの籤
カンビュセス王の戦争の遠征での飢饉から、籤で負けた者が食人されるという地獄から逃げ出した主人公がタイムワープした。ワープした先は週末戦争後の世界。人類はシェルターにほそぼそと生き残り、籤で負けた者が食人されながら、地球外生命体にSOSを求めて待ちづつけるという地獄だった。男は今度も逃げるが、タイムワープは起きず、死は避けられない運命だと悟る。命の目的はこの世にありたいということ、ありつづけたいということ、ただそれだけ。男は食材になることを覚悟してシェルターに戻るが、もう一人の女が籤を引いていたことから彼女が食材になることになった……。
→ ヘロドトス『歴史』がカンビュセスの元ネタ。私は『歴史』を通読しましたが、10人で籤を引き、残りの9人で引いた一人を食ったという描写はなかったはずです。先生の創作でしょう。拷問やら処刑やら乱交やら残酷な描写はたくさんありましたが。
俺と俺と俺
ある日、俺のもとに俺がやってくる。うりふたつ。どう見ても俺である。どうやら隕石孔のような窪地でトゲに刺されて分裂したらしい。異種の文明のマシーンの針に刺されると、クローンがつくられるらしい。もうすぐ三人目の俺が誕生するので、俺はトラブルを避けようと誕生を中絶しようとするが、相手が俺だけにできない。三人目の俺を待つ間にいいことを思いついた。それぞれの俺が子供のころの夢だった探偵や船長やパイロットなどの第二、第三の人生を歩んで、定期的に入れ替われば、マイホームの甘さも、ロマンスも、冒険も、体験することができる。俺たちは三人目の俺を大歓迎することにした。
→ パーマンの「コピーロボット」を思い出しました。コピーロボットは、主人公がパーマンになっている間に本体の代わりを務めるだけですが、こちらの「俺」はもっと深化しています。それぞれが別の人生を生きて、ときどき入れ替わろうというのですから。
いっけん、やりたかったアレもコレもソレも全部できそうですよね。でも人生は厳しい。しょせんは全員同じ能力の俺ですから、アレもコレもソレもすべての夢が叶わないかもしれません。でもやらずに後悔するよりは、やってみてダメだったとわかったほうが後悔がない気がします。すくなくとも「一生懸命頑張る俺」と「のんびりとなまける俺」を両方体験することはできます。
あのバカは荒野をめざす
ホームレスが「おれは社長の御曹司として生まれたが落ちぶれた」と語って姿を消す。二十七年前にタイムワープしたのだ。御曹司の地位を捨ててバーの女給と駆け落ちしようとする若き自分を必死で止めようとする。「お前が飛び出そうとする荒野の厳しさは予想以上だ」「愛は色あせ、情熱も冷え、人間は変わる」「今のおれのようになりたいのか」と説得しても、若き自分は聞く耳をもたない。
元の時代にホームレスは戻ってくる。「会ってきたんだよ。あのバカに。結局、道をあやまるのも若者の特権ということかね。誰にも止めることはできない。それにしてもあいつ……燃えてたなあ。」と、何の生き甲斐もない日々、過去の自分を責めるだけの日々と決別し、あのバカのように荒野を行こうと決意するのだった。
→ 『ドラえもん』には、のび太が過去にタイムワープしておばあちゃんや両親に期待されていた自分を知って頑張る気になったり、未来にタイムワープして「将来こうなっちゃいけない」と今を精いっぱい生きる気になるというネタがいくつかありますが、そのパターンの一種ですね。
ただ「あのバカは荒野をめざす」は、すでに敗残のホームレスが主人公で、若い頃の無鉄砲な冒険を止めることもできず、逆に勇気をもらって生きる希望を老人の方が取り戻すというところがおとな向きの作品だと思いました。
『劇画・オバQ』で、正ちゃんは「子ども心」にふれても、子どもの頃の生き方を取り戻すことはできませんでしたが、『あのバカは荒野をめざす』では、ホームレス老人はあの頃の生き方を取り戻すことができました。老残男の清々しい顔が印象的です。
失うものがあるかないかが、両者の大きな違いだったのではないかな、と思います。
タイトルの元ネタはこちらでしょう。書評『青年は荒野をめざす』
定年退食
老齢人口の増加と食糧生産量の減少で、73歳以上は国民の定員カードの効力を失うことが政府で決定された。国家の保障を打ち切る政策。自分で食えない場合は、緩慢に死んでくれということ。老人たちは定年の延長を心から願うが果たせない。一人の老人は怒り狂うが、「のび太」が老いたようなもう一人の老人は達観している。いいじゃないか。席をゆずってやろうよ。わしらの席は、もうどこにもないのさ。
→ 2021年の50代は定年が伸びて「ずっと一生働かされるのか」と不安に思っています。しかしそれも社会保障があってのこと。定年退色の世界では社会保障がないために老人たちは働きたくて仕方がありません。
投票・選挙というのはよくできた制度です。無力・非力な老人でも、多数決の力で、政策は老人有利のものとなり、若者の未来を犠牲にしても、老人の福祉を充実される政策が現実に採用されています。命に重いも軽いも、価値があるもないも「ない」からです。のび太老人のような「諦める老人」がいないかぎり、若者には暗い未来しかないのかもしれません。
宇宙レポート サンプルAとB
シェイクスピア『ロミオとジュリエット』を宇宙人の言葉(人間的感情を排した科学用語)で語るという異色のストーリー。
人間は摂取口から排泄口までの一本のチューブ(飲食・排泄)で、コミュニケーションは大気の振動(会話)により、金属片を体の中に埋め込まれると活動停止する(刺殺)。
被検体サンプルA(ロミオ)とB(ジュリエット)は、受光孔の反射光を逃すまいとし(目は口ほどにものをいう)、液を全身の送り出す器官の動きは速くなる(心臓が早鐘のように打つ)。
とまあ、文学用語を科学用語にすると、我々の戦争や恋愛はなんだかたわいもないもののように見えてしまうのでした。
→ 藤子不二雄作品ならではのオチがついていました。シェイクスピアではロミオとジュリエットの死を犠牲に両家が仲直りするというオチですが、『宇宙レポート サンプルAとB』では、AとBが求めあった力の激しさ、吸引力が不変のものなのか、それともやがては風化し変質していくものなのか、宇宙人が経過観察するというものでした。その結果はまだ宇宙人は見届けてはいないという「疑問は疑問のまま」のニュートラルエンディングです。
謎の答えが知りたいですか? なにも宇宙人のレポートに頼らなくても、あなたも最愛の人と結婚してみればわかりますよ。みずから実験台となるのです。
ちなみに『宇宙レポート サンプルAとB』ではロミオとジュリエットは無人島に送られたために愛は死が二人を分かつまで続いたと思います。実験環境が生ぬるいから。本当は無人島ではなく、他にも男や女がたくさんいる場所にサンプルAとBを送り込むべきなのです。
シェイクスピアの原作ではロミオは15歳、ジュリエットは13歳、恋愛期間はたったの5日間でした。
ハードな実験環境では25年後も実験が続いています。38歳になった中年ジュリエットは、13歳の若きニューチャレンジャーに勝たなければならないのです。それが生存競争です。ロミオはロリコンかもしれません。40歳ロミオだって同じことです。
宇宙人が想定しているよりも、この世界はハードなのです。
換身
結婚を約束した男女が、体が入れ替わっても結婚できるか、というストーリー。
→ 映画『きみの名は』では、体が入れ替わる不思議体験をしたものの、最終的には元の男女の体に落ち着いています。その場合は相手を恋するのは「あたりまえ」だと感じました。人間は自分をもっとも愛するものですから、かつて自分だった存在を愛するのに、何の疑問も違和感もありません。
しかし男女の体が入れ替わってしまったらどうだろうか? と考えざるをえませんでした。
『換身』では、途中、醜い中年のオッサンを挟んで換身するために「あのオッサンよりはマシ」というところで、体が入れ替わっても結婚することを選ぶカップルですが……実際にはどうなんでしょうか?
このテーマは「生まれ変われるなら同じ性別がいい? それとも異性になりたい?」という質問に似ています。この質問に異性がいいと答える人は体が入れ替わっても結婚できる人、同じ性別がいいという人は「ちょっと待って。考えさせて」となるかもしれませんね。
気楽に殺(や)ろうよ
食欲は個体を維持するための個人的・独善的欲望。性欲は種族の存続を目的とする公共的・発展的欲望だという理屈の世界。食事が恥ずかしく、セックスや殺人が恥ずかしくないという真逆の社会的規範の世界に放り込まれた主人公は、最初は違和感を感じるが、だんだん慣れていく。そして前から嫌なやつだと思っていた会社の同僚を殺す決意をするのだった。世界の規範が元に戻っているとも知らずに。
→ 戦争、ということを言おうとしているように感じました。平時、殺しはいけないこととされていますが、みんなが殺すことを正当化している戦場では、普通の人でも人を殺すことを躊躇なく行うようになってしまいます。そんな恐怖を描いていると思います。
ウルトラ・スーパー・デラックスマン
はじめは正義の心をもっていた小市民が絶対的パワーをもつ「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」になったことで横暴な暴君になるという話し。警察や新聞社までぶっ潰してしまう。
→ 「絶対的権力は絶対的に腐敗する」ジョン・アクトンの言葉を物語化したストーリー。民主的な選挙によってえらばれたヒトラーなんかもこのパターン。ウルトラ・スーパー・デラックス癌細胞によって正義の味方が死んでくれてホッとするというオチは、「絶対権力は自壊する」という象徴でしょう。
パラレル同窓会
大会社の社長。成功者を自負しているが、心の中に満たされないものがあった。少年時代の作家になる夢はかなえていないからだ。時空が割れ、パラレルワールドに存在してる「すべての自分」が一堂に会するパラレル同窓会に社長は出席することになった。いろんな「自分」がいた。同じ会社でも窓際族の自分、海外赴任中に現地の女とできちゃって観光ガイドをしている自分、学生運動のスピリッツを貫いてテロリストをしている自分、そして作家になっている自分がいた。無頼派で原稿は売れず肉体労働で食っているような作家だったが、社長は作家の自分がうらやましくてならず世界の交換を承知させた。作家になって戻ってくると、何か満たされないものがあった。胃袋だった。明日の飯をどうしよう。
→ 会社に勤めていればお金はあるが時間がありません。会社をやめてしまえば時間はあるがお金がありません。さあ、あなたはどっちを選びますか? そんな話です。
四海鑑
四海鑑はあらゆる世界のあらゆる場所の光を写せるというカメラ。実際に光は一方にのみ飛ぶわけではないのでそれをとらえて写せるとしたら……可能性はゼロではない。実際に星の写真は「過去の光」を写しているわけだし。時間と空間、重力と光は複雑なものなのです。
→ オチは談合によって四海鑑を買いたたかれそうになったセールスマンが、旅行が好きな足の悪い子にカメラを譲るというハッピーエンドのオチです。
藤子不二夫さんはタイムワープとか、パラレルワールドとか、四海鑑のような王道SFネタのマンガが多いと感じました。光は曲がってブラックホールに吸い込まれるとか、時間の流れは重力で歪むとか、世の中には私たちの知らない事実に溢れています。四海鑑はリアルに「あるえるかもしれない」ドラえもんの道具だという気がしました。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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