足裏をマッサージすると、何かが詰まっているようなゴリゴリ、プチプチはありませんか?
これはクリスタルデポジットという疲労物質の塊です。破砕して、押し流してやりましょう。
ここでは足裏のゴリゴリ。プチプチについて、その正体と解消方法について、そして私にプチプチを教えてくれた理学療法士・マッサージ師のタマゴ(女性)の失恋話について語っています。
プチプチは老廃物の塊。潰して、強く押し流すのが極意
私は市民ランナーです。生涯走行距離はもう地球一周をこえています。
毎日気持ちよく走るためには、身体のケアが欠かせません。アミノ酸サプリを飲んで、セルフマッサージを施す。そしてよく眠る。そういう習慣になっています。
私はマッサージ・フェチです。マッサージ王国タイに行って毎日マッサージをしてもらってきたこともあります。
古式タイ式マッサージは世界一のマッサージだと思っています。うつ伏せにしがちなマッサージを仰向けからやるところが他と全然違います。タイ式に慣れると英国式マッサージがものたりません。
もはやタイが好きなのか、タイ式マッサージが好きなのか、両者は不可分で、わけて考えることができません。
走るためにマッサージしているのか、マッサージで気持ちよくなるために走っているのか、いったいどっちなんだか、と思うことがあります。
マッサージのあまりの気持ちよさに海外で大失敗してしまったこともあります。
マッサージ前には覚えていたホテルの部屋番号を、気持ちよすぎるマッサージのせいで完全に忘れてしまい、部屋に戻れなくなってしまったという事件です。
台湾マッサージは足の裏を木の棒でゴリゴリ押したりします。超痛いので有名です。
お客が悲鳴を上げることでミッションコンプリートみたいなところがあって、台湾マッサージ師はお客が悲鳴をあげると満足そうな顔をするのです。
このドSめが!!
周囲が痛さに絶叫する阿鼻叫喚の中、ランナーの意地で私は決して悲鳴をあげませんでした。足の裏の皮膚が角質化するほど走りこんでいましたので足裏の強い刺激に慣れていたのです。
走りこんでいた頃は、プチプチが凄かったよね。やりがいがあったよ
走ればサブスリー(フルマラソン2時間台)という全盛期には、今のパートナーであるイロハにいつも足裏をマッサージしてもらっていました。
私たちがプチプチと呼んでいる物質ですが、正式にはクリスタル・デポジットといいます。
主に足底にたまってしまう尿酸や乳酸など老廃物の塊です。
プチプチは潰して、押し流すのが極意です。
地球一周以上走ってきた私の実感も同じです。塊を粉砕して、流してしまうと、いつしか痛みが消え、固くなっていた箇所が柔らかくなっています。
「マッサージは撫でても効く」というマッサージ師がいますが、とうてい私には信じられません。
マッサージというのは、強く押し流さなければ効果がないと思っています。
自分で自分にマッサージしても、あまり痛くない不思議
このプチプチ(人によってはゴリゴリと言ったりします)とはじめて出会ったのは、インド旅行の時でした。
バラナシ(ベナレス)に向かう寝台列車の中で、同じツアーの日本人女性が、理学療法士でした。かつ専門学校でマッサージの勉強中でした。
彼女は実業団バスケットボールの元選手でした。今はもう現役を引退し、将来はバスケットコーチをしている恋人を支えるために、マッサージ師の資格を勉強中とのことでした。
選手の疲労をとることでパフォーマンスが上がれば、恋人であるコーチの仕事が評価されるというわけです。
いい女ですね。
理学療法士は患者にリハビリテーションを提供する仕事です。肉体の専門家であるアスリートの第二の人生に理学療法士はピッタリです。
観光で歩き回って疲れていた私たちの足裏を、その彼女が勉強中だというマッサージ技術で揉んでくれたのです。
マッサージ師のタマゴ「うわー。疲れてるねー。プチプチがすごいよ」
私「プチプチって何だ?」
当時、私は膝の故障でランナーを引退していた時期でした。
何をしても鬱鬱と面白くない時代で、どうせ体を壊して走れないのだから、行ったら健康を害しそうなところに行ってやれと半ばヤケクソでインド旅行をしていたところだったのです。
元実業団彼女は自分の現役時代にマッサージの恩恵を多分に享けていたのでしょう。
アスリートが引退後に、現役時代にお世話になった理学療法士とか、整体師とかに転身するという話はよく聞きます。
マッサージ学校に通っていた彼女がプチプチと呼んでいたのだから、おそらく学校でもそう呼んでいたのではないでしょうか。業界でもある程度通用する呼称なのではないかと思います。
クリスタル・デポジットよりもプチプチの方が直感的でいい名称だよね。自分の足裏をゴリゴリと押してみて。プチプチと音がして何かが潰れる感じがするから
自分で自分にやってもよくわからないんだよな。マッサージというのは不思議だ。自分でやってもあまり痛くないよね。人にやってもらうとメチャクチャ痛いのに。なんでだろう?
この実感、わかりますでしょうか?
たとえば「くすぐる」のも似ています。他人にくすぐられるとすごくくすぐったいのに、自分で自分をくすぐってもあまりくすぐったくないと思いませんか?
そこに刺激が来ると自分の脳がわかっているからじゃない?
肉体も構えてしまうし、自分で自分には痛くできないような心理的なセーブが無意識のうちにかかるんじゃないかしら。
スポーツでは、自分で自分の肉体を壊してしまわないように、生理的限界よりも先に心理的限界が来るといいます。
ときどき世界チャンピオンクラスのボクサーが自分のパンチ力で指を骨折してしまいますが、シロウトにできることではありません。無意識にパワーにセーブがかかるからです。
指力のない人にはスポーツマッサージはできない
私の場合ですと、足裏の皮膚が角質化するほど走りこんでいましたから、足裏の刺激には強かったのですが、ふくらはぎなどは他人に揉まれると絶叫するほど痛かったです。
そんなふくらはぎでもセルフマッサージだとさほど痛くないから不思議なこと不思議なこと……。
プチプチは足裏だけじゃなくて、ふくらはぎにもあるよ。走りこんだ後のハルトのふくらはぎにはいつも何かが詰まってカチカチに固くなっていたもの。
何かが詰まっているというのも自己マッサージではよくわかりません。
しかしイロハは何かが詰まっていることを指先で感じていました。
その詰まっている箇所こそ、私が悶えるほど痛い箇所に他なりません。
プチプチは、潰して、押し流すとやがて消えるよ。痛がっても、リンパに沿って力でゴリゴリに押し流す。痛がらなくなった頃、固かった筋肉が柔らかくなっている。指力のない人にはスポーツマッサージはできないと思うなあ
痛みに慣れて、痛覚神経がマヒしたかのように、たしかに途中から痛くなくなる。ちょうどその頃、不思議なことにカチカチだった筋肉が柔らかくなっているんだ。
断っておきますが、イロハは資格をもったマッサージ師ではありません。
ですからマッサージの教科書に書いてあることをここで述べているわけではありません。
ただ私が地球一周以上の距離を走ってきた中で、ずっと私にマッサージをしてきたので、疲労と回復にマッサージがどれだけ有効かを、日々確かめてきました。
世界中を旅して、タイ式、台湾式、バリ式、ハワイ式、英国式、中国式、韓国式、日式など、世界の主要マッサージを体験しています。
マッサージをたくさん受けて、たくさんしてきた中で、シロウトマッサージ師が感じた実感をここでは語っています。
「マッサージはプチプチを潰して強く押し流すのが極意。痛いぐらい強くやらないと効果はちいさい」
さわってほしいのは、マッサージしてほしいから?
どうして人間の体は「何かが詰まって」しまうんでしょうか?
マッサージしないと老廃物が流せないなんて、人の体はまだ進化の途中なのだろうかとさえ思います。
ペットのイヌやネコ、ハムスターですら毛づくろいをしますが、あれもマッサージの一種かな、と思うことがあります。
イヌやネコがマッサージを必要としなかったら、こうまで飼い主にあまえてくれないかもしれません。
さわってほしいのは、マッサージしてほしいから?
たしかに私とイロハのコミュニケーションにもマッサージはとてもいい手段のひとつでした。
元アスリートのマッサージ師のタマゴ彼女は、その後、バスケコーチの彼氏に振られてしまったそうです。
学校に行ってマッサージ理論を勉強するよりも、彼氏の足裏をモミモミしてあげたほうが、ふたりの関係にとってはよかったのかもしれません。プチプチ潰すよりも愛情マッサージが大事。
長身で、美人で、運動神経抜群で、いい女だったのに。
人生、うまくいかないものだなあと思います。
恋人の教え子のパフォーマンスを上げるために、せっかく学校まで行って学んだプチプチ・マッサージの技術が、今もどこかで活かされているといいなあ。
インドの夜行列車で私たちにプチプチを教えてくれたように、どこかでプチプチ・マッサージの伝道をつづけてくれるようにと祈っています。
マッサージは毛づくろいの変形? 抱き合うことは全身マッサージ
足裏の何かが詰まっているようなゴリゴリ、プチプチ。
それは主に足底にたまってしまう尿酸や乳酸など老廃物の塊です。
クリスタルデポジットといって疲労物質の塊です。
破砕して、押し流してやりましょう。
マッサージって気持ちいいですよね。
マッサージは、毛づくろいの変形かもしれないと思うことがあります。
マッサージしてほしいと感じるのは、人がふれあいを求めているからなのかもしれません。
抱き合うことって、全身マッサージなのかもしれませんね。
マッサージの本質は「愛情」から。
マッサージは自分でやるよりも誰かにやってもらった方が効果があります。
お金を払ってプロの施術師にやってもらうか、さもなければ家族の愛情マッサージを期待しましょう。
愛情マッサージがときには「玄人はだし」になることもあります。
元実業団バスケ彼女も、イロハも、元をただせば「愛情マッサージ」だったのです。
それがマッサージの本質かもしれません。
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主人公ツバサは小劇団の役者です。
「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」
恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。
「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」
アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。
「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」
ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。
「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」
惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。
「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ」
劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。
「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」
ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」
尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。
「妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ」
そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。
「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」
そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。
「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」
そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。
「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
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