経験を積むと、社会や世の賢人たちが禁欲という徳目を訴える理由がわかってくる。
文豪サマセット・モームの南洋ものの代表作。『雨』についてここでは書いています。
人間、とくに若い頃には性欲に悩まされるものですが、性の冒険をやるだけやると、社会や世の賢人たちが禁欲という徳目を訴える理由というものがわかってきます。
名作『雨』に見る性欲vs禁欲、果たしてどちらが勝ったのでしょうか?
書評サマセット・モーム『雨』主要登場人物は5人
非常に読みやすい本です。主たる登場人物は5人しか出てきません。
宣教師であるデビットソン夫妻、医者であるマクフェイル夫妻、そして売春婦のミス・トムソンである。
禁欲のキリスト教宣教師であるデビットソンと、自由奔放の売春婦ミス・トムソンが、雨に閉じ込められた南の島でかかわりあった結果どうなったのかが、本作のオチになります。
固有の地方文化を残したいですか? 世界統一したいですか?
宣教師たちは、南洋サモアで原住民をキリスト教化するのが使命です。
その過程で、信仰だけでなく、文化や風俗までも、キリスト教社会のものに変えていきます。
島の原住民たちの踊りの習慣や、肌の露出した服装などを、ぞっとするものとして西洋人が直させます。
直すというのは自分たちの知っているキリスト教国の西洋風の風俗にならうという意味です。
服装とは裸に布一枚のラヴァラヴァのことです。ハワイでいうパレオ。バリ島でいうサロンのことです。
ラヴァラヴァ、サロン、パレオ、パシュミナ、クローマー、アフガンストール、ベルベルストールとは? 日本の風土で使えるか?(服飾文化輸入)
原住民の結婚の習慣も宣教師は撲滅しようとします。処女性に係る問題ですね。聖母マリアが処女受胎したことがキリスト教国の純潔の価値を高めました。ダンスのあと目に見えて不道徳なことが行われるというのは、結婚や生殖と関係のないセックスのことだと思います。白人文化が正しいという根拠は実際、何もありません。
何を根拠に自分たちの習慣が正しいとしているかといえば、とどのつまりはキリスト教への信仰です。
しかし、サモア人はキリスト教徒ではありません。
宣教師はラヴァラヴァを法律を使ってでも禁止させようとします。
武力を背景とした政治力の行使であり、もはや文化の対峙ですらありません。
ラヴァラヴァはからだに布を巻き付けただけだから、体のラインがみえてしまいます。だから煽情的だというわけですね。
まあ時には乳房まるだしのこともあったでしょうが、乳房が羞恥の対象というのは文化的なもので、日本でもキリスト教伝来以前には乳房に羞恥心はほとんどなかったはずです。
葛飾北斎の春画を見ればわかりますが、性器は興味の対象になっているが、乳房は春画の対象から完全に外されています。三段腹の脂肪線と同じようにしか描かれていません。
そもそも服装は温度や湿度と密接に関係してくるものなのに、宣教師はラヴァラヴァのかわりにマザー・ハバードというAラインの妊婦服のようなものを着せるよう強制します。
それは性欲を悪としたキリスト教国の、味気ないおばさんの服装でした。
男にはシャツにズボンをはかせようとします。
こうして世界は面白くなくなっていくというわけです。
それぞれみんな着ている服が違うからこそ面白いと思いませんか?
物語のあらすじ。宣教師vs売春婦。禁欲と性欲はどちらが勝つのか?
疫病の感染拡大の予防のために、白人たちは少なくとも十日はサモア島にとどまらなければならなくなりました。ここでの疫病とは麻疹のことです。
検疫のために現地の宿に投宿しますが、そこに同じ船に乗っていた売春婦が同宿することになるのです。暑苦しい雨の昼、蚊に寝苦しい夜、白人たちにフラストレーションがたまっていきます。
とくに売春婦が楽しみのためにする音楽やダンスが、厳格な宣教師の気に障ってしかたがありません。
宣教師は「彼女の魂はさまよっている」と思いこみます。売春婦の不身持をなおさせるのは宣教師である自分の使命であると、男は女に積極的に干渉していくのです。
「あなたに何も迷惑をかけていないんだから放っておいて」と売春婦は反発しますが、宣教師は「これは神からもらった仕事」だと思い込みます。
医者は宣教師の干渉ををこころよく思っていません。他人のことなんて放っておいてやればいいのに、と思っています。それとなくそう伝えますが、宣教師は売春婦に干渉することをやめません。
彼女が苦しむことは神への犠牲であり、これは罪をつぐなう絶好の機会であり、自分も彼女と同じように苦しんでいると宣教師は主張します。
売春婦は故郷に強制送還されることをおそれていました。家族に今の姿を見られたくありませんでした。帰れば感化院に強制収容されて3年間は監禁されてしまいます。
それが嫌で、宣教師に屈服します。足元にすがり、悔い改めようとするのです。
悔い改めという関係性の中で同じ部屋に男女が二人長時間いることになりました。
罪を告白するものと、それを聞くもの——
雨が降る島に閉じ込められていて、他にやることがありません。
暑苦しくて、息苦しくて、狂いそうになります。
宣教師は売春婦に説法した後も、自分のベッドでずっと神に祈っていました。
売春婦のために神に祈っている姿でしたが、本当は自分の性欲と戦っていました。
ある日、宣教師はネブラスカの山々を夢に見ます。山は女の乳房のカタチをしています。山が乳房の象徴だとすれば、これは性欲の夢であることを暗示しています。
宣教師は性欲に負けてしまいました。売春婦と二人きりの悔い改めの時間の中で二人は男女の関係を結んでしまいます。そのことに苦しみ宣教師は剃刀で喉を切って自殺してしまいました。
宣教師を軽蔑した売春婦は元のあばずれおんなに戻ってしまいました。
女の感化は失敗したのです。
おせっかいというのは、嫉妬が変形した自己防衛の感情
宣教師は「現地の人間には(神への)惧れがない」といって、惧れの感情を植え付けようとします。
惧れこそが民衆の教化のために必要な感情だからでした。惧れから救ってくれるのは神だけだ、という宣教の仕方をしていたのです。
実際には布教というのは悪い面ばかりではありませんでした。たとえば食人習慣をやめさせるとか。しかしラヴァラヴァまでやめさせようと干渉するのは行き過ぎです。
小説『雨』では、自由を圧迫する「おせっかい」な人々への作者の嫌悪感が表明されているような気がしてなりません。
それはたとえばヒトラーのような人物もまたおのれの価値観を他者や他国に押し広げようとしてついには世界大戦まで引き起こしてしまったからです。
小説『雨』の初版は1956年です。第二次世界大戦終結後11年が経過しています。戦争の時期を生きたモームが戦争の原因を追究しなかったということがありえるでしょうか。
他者をほっとけないのはなぜなのでしょうか。それは、おそらくその他者が自分を脅かす存在だからでしょう。その人が自分の生き方を変えてしまうほどの存在だから、気になってしかたがないのでしょう。
自分を迷わせ悩ませる相手の魅力、生き方を潰して、自分の側に引きずり込んでしまえば、もう心をかき乱されることもなくなります。
おせっかいというのは、そういう自己防衛の心かもしれませんね。
嫉妬の変形した感情なのかもしれません。
「イケてる女と修行僧が出会ったら、どっちかが変わるね」とチャールズ・ブコウスキーは言っています。
小説『雨』で変わってしまったのは、宣教師の方でした。
改心するマグダラのマリアはもともと売春婦ではなかったという説があります。
宣教師と売春婦が出会った時、あなたはどちらが変わると思いますか?
性欲と禁欲、どちらが勝つと思いますか?
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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!
かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。
しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。
世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。
すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。
『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。
その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
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