性欲vs禁欲

漫画-映画-アニメ-書物
スポンサーリンク
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

~~このサイトについて~~

波間に浮かぶボトルの手紙を、インターネットの海に流しました。

このメッセージをあなたが受け取ってくれたのは「奇跡」です。

受け取ってくれて、ありがとう。

当ページはリンクフリーです。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

文豪サマセット・モームの南洋ものの代表作。『雨』についてここでは書いています。

スポンサーリンク

主要登場人物は5人

非常に読みやすい本である。主たる登場人物は5人しか出てこない。

宣教師であるデビットソン夫妻、医者であるマクフェイル夫妻、そして売春婦のミス・トムソンである。

ホットな女が修験者と出会ったら、どっちかが変わるね。~チャールズ・ブコウスキー

禁欲の宣教師であるデビットソンと、自由奔放の売春婦トムソンが、かかわりあった結果どうなったかが、本作の結論になる。

スポンサーリンク

固有の地方文化を残したい? 統一したい?

宣教師たちはサモアで原住民をキリスト教化するのが使命である。

マレーシアの国教がキリスト教ではなくイスラム教であることの不思議
ヨーロッパ人は貿易と布教をワンセットで考えていた 日本にいると疑問に浮かばないことであっても、旅をすると不思議に思うことがある。 マレーシア旅行ではふたつ疑問に思ったことがある。 ①ボルネオ島の石油は大日本帝国海軍の軍艦に役に...

その過程で原住民の習慣をぞっとするものとしてなおさせるのだ。なおすというのは自分たちの知っているキリスト教国の習慣にならうという意味である。

宣教師は、原住民の結婚の習慣、原住民の服装、原住民のダンスの撲滅もしようとする。

結婚の習慣とは処女性に係る問題だろうし、服装とは裸に布一枚のラヴァラヴァ(ハワイでいうパレオ)のことであろうし、ダンスのあと目に見えて不道徳なことが行われるというのはいわゆるフリーセックスのことであろう。

パレオ、サロン、ラヴァラヴァは日本で使えるか?
パレオ、パシュミナは実用というよりは嗜好品だと思います。着ると気分が全然変わりますよ。

一夫一婦とか、貞操観念というのはキリスト教的道徳観であって、原住民の価値観ではないのだ。

たとえばイスラム教でも一夫多妻制であるがそれを「神をも懼れぬ不道徳」と糾弾するのは傲慢ではあるまいか。

相手の文化を、自分と同じように矯正するというのは、自分たちの習慣が正しいという確信のもとになおさせるのだから。

何を根拠に自分たちの習慣が正しいとしているかといえば、とどのつまりは信仰であるが、サモア人はキリスト教徒ではないのだ。白人文化が正しいという根拠は実際、何もないのである。

『サド侯爵夫人』三島由紀夫の最高傑作
サディズムとマゾヒズムは逆転し、正しいものと正しくないものは逆転する。神の敵について考えれば考えるほど、神についても考えざるを得ないからだ。偉大な人間には、偉大な敵がいる

宣教師はラヴァラヴァを法律を使っても禁止させようとする。武力を背景とした政治力の行使であり、もはや文化の対峙ですらない。

ラヴァラヴァはからだに布を巻き付けただけだから体のラインがみえてしまうから煽情的だというわけだ。まあ時には乳房まるだしのこともあっただろうがそれのどこがいけない?

乳房が羞恥の対象というのは文化的なもので、この日本でもキリスト教伝来以前に乳房に羞恥心はなかったはずだ。

葛飾北斎春画を見ればわかるが、性器は欲情の対象になっているが、乳房は煽情のラインから完全に無視されている。

葛飾北斎。神奈川沖浪裏の元ネタ。波の伊八
パリのギメ美術館で必死に探した葛飾北斎の浮世絵「神奈川沖浪裏」のモデルになったとされる彫刻、波の伊八の「波に宝珠」を見てきました。

かわりにマザー・ハバードというAラインの妊婦服のようなものを着せるよう強制するのだが、それは性欲を悪としたキリスト教国の味気ないおばさんの服装であった。

男にはシャツにズボンをはかせようとするわけだ。西洋人のように。

こうして世界は面白くなっていくというわけである。

スポンサーリンク

物語のあらすじ。禁欲と性欲はどちらが勝つのか

物語のあらすじを紹介することについて
あらすじは地図のようなもの。読書のだいご味はディテイルにある。文学にはあなたが感じたけれどうまく表現できなかった思いが表現されているはずだ

疫病(麻疹)の感染拡大の予防のためにより、白人たちは少なくとも十日はサモア島にとどまらなければならなくなった。検疫のために現地の宿に投宿するが、そこに同じ船に乗っていた売春婦が同宿することになるのである。

暑苦しい雨の昼、蚊に寝苦しい夜、白人たちにフラストレーションがたまっていく。

とくに売春婦の音楽やダンスが宣教師の気に障ってしかたがない。「彼女の魂はさまよっている」と思う。

売春婦の不身持をなおさせるのは宣教師である自分の使命であると、男は女に干渉していく。

島に閉じ込められていて、他にやることもない。

熱帯に雨が降りしきっている。暑苦しくて狂いそうになる。

「あなたに何も迷惑をかけていないんだから放っておいて」と売春婦は反発するが、「彼女の悪徳を美徳化するのが自分の義務」「これは神からもらった仕事」とばかりに宣教師は彼女に干渉していくのだ。

医者は宣教師をこころよく思ってはいない。他人のことなんて放っておいてやればいいのに、と思っている。

彼女を放っておけ、と伝えるが、宣教師は売春婦の干渉することをやめない。彼女の刑罰は神への犠牲であり贖罪の絶好の機会であり、自分も同じように苦しんでいると主張する。

売春婦は強制送還されることをおそれている。故郷の家族に今の姿を見られるのが忍び難い。また帰れば感化院に強制収容されて3年間監禁されてしまう。それが嫌で、宣教師に屈服し、足元にすがり、悔い改めようとするのである。

悔い改めろ、という関係性の中で同じ部屋に男女が二人長時間いることになった。

宣教師は彼女を説法などして導いた後も、自分のベッドでずっと神に祈っている。

彼女のために神に祈っていると誤解しているが、本当は自分の性欲と戦っていた。

その証拠に、宣教師はネブラスカの山々を夢に見るのだ。ネブラスカの山は女の乳房のカタチをした山だ。乳房の象徴ということは性欲の夢であることを暗示している。

宣教師は性欲に負けて、剃刀で喉を切って自殺し、売春婦は傲岸きわまる元のあばずれおんなに戻ってしまった。

女の感化は失敗した。

スポンサーリンク

おせっかいというのは、嫉妬が変形した自己防衛の感情

宣教師は「現地の人間には(神への)惧れがない」といって惧れの感情を植え付けようとする。惧れこそ教化のために必要な感情だからである。惧れから救ってくれるのは神だけだ、という教化政策をとっているのだ。

実際には布教というのは悪い面ばかりではなかった。たとえば食人習慣をやめさせるとか。しかしラヴァラヴァ(バリ島でいうサロン)までやめさせようと干渉するのは不愉快である。

『雨』では、自由を圧迫する「おせっかい」な人々へのモームの嫌悪が表明されているような気がしてならない。

それはたとえばヒトラーのような人物もまたおのれの価値観を他者や他国に押し広げようとしてついには世界大戦まで引き起こしたのだから。

小説『雨』の初版は1956年である。第二次世界大戦終結後11年が経過している。

他者をほっとけないのはなぜなのか?

その他者が自分を脅かす存在だから。自分の行き方を変えてしまうほど魅力あふれる存在だから、気になってしかたがないのだ。

自分を迷わせ悩ませる相手の魅力、生き方を潰して、自分の側に引きずり込んでしまえば、もう心をかき乱されることもなくなる。

おせっかいというのは、そういう自己防衛の心かもしれない。嫉妬の変形した感情なのではあるまいか。

プロフィール


サンダルマン・ハルト。雑誌『ランナーズ』等に執筆歴のあるライター。『山と渓谷』ピープル・オブ・ザ・イヤー選出歴あり。サブスリーランナー。グランドスラムの達成者(100kmサブテン。富士登山競争登頂)。スイス・ブライトホルン。マレーシア・キナバル山。台湾・玉山ニイタカヤマ。南アルプス全山縦走など登山歴も豊富。キャンプ・車中泊マニア。アウトドア派の放浪の旅人。現在、仮想地球一周ランニング中。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

お探しのものはありませんか?
ツイートしています。見てね!
精一杯でいいから走ろう


オートキャンプランキング
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

仮想世界一周ランニング旅に挑戦中。応援おねがいします
漫画-映画-アニメ-書物
スポンサーリンク
sandalsmanをフォローする
ドラクエ的な人生
タイトルとURLをコピーしました