ときにはただ生きているだけで満足という環境に身を置くのもいい、わたしはそう考えています。
朝が来るのが待ち遠しいステーションワゴン車中泊の夜
車中泊の夜。眠れないときに、わたしはいつもそんなことを考えます。考えながらじっと朝が来るのを待っています。
朝になれば起きることができます。体を動かすことができます。好きなことができるのです。
車中泊のときは朝が来るのが待ち遠しいのです。
自宅にいるときは、朝が来るのが待ち遠しいなんて考えることはありません。
ステーションワゴン車中泊では、ほとんど夜は眠ることぐらいしかできません。寝返りをうつのがやっとという状況です。横になって眠れているだけましだ、という環境なのです。
快適に眠れるだけマシ。死なないだけマシ。ただ生きているだけで満足、という環境です。
夜中にトイレに起きるのも億劫です。
車の外は寒く、大雨だったりします。
ときには頭上に満点の星が輝き、すばらしい夜もあるにはあるが、いつもではありません。
基本的には不自由なものです。
自宅は快適すぎて、命の飢餓感を味わえない
ところがこれが快適すぎる自宅だと、Wi-Fiは使い放題で、見たい動画は見放題だし、昼間と同じように部屋を明るくできるし、トイレには行きたい時に行けるし、風呂にも入れます。
スクワットや屈伸のような軽い運動もすぐにできるし、外に走りに出たっていいのです。着替えはいくらだってあるし、すぐに洗濯もできます。
自宅は快適すぎます。快適すぎて、命の飢餓感を味わえないのです。
この状態が普通になってしまうと「ただ生きているだけで楽しい」という感覚からは程遠くなっていきます。生き伸びることに貪欲というよりは、楽勝で生きていけるからただ惰性で生きるという感じになるのです。
わたしがマラソンにはまったのは、命を削る感覚が生きている実感に直結したからでした。ゴールしたら倒れてもいい覚悟で、必死の思いで走ったことが確かにあったのです。
この境地にはタイムがいいとか悪いとか、他者よりも速いとか遅いとかは関係ありません。
非日常なんてものではありませんでした。ただ生きているだけで満足できるという実感があったのです。
それはとてもRock ‘n’ rollなことではないでしょうか。
車中泊にしても、登山にしても、マラソンにしても、そういうロックなことを私はこの人生に探しているのです。