ドラクエ的な人生

ジャック・ケルアック【ザ・ダルマ・バムズ】禅ヒッピー

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本書を『禅ヒッピー』と呼ぶのはおかしい。ヒッピーはビートニクの後の世代の言葉だから

『ザ・ダルマ・バムズ』はかつて『禅ヒッピー』という和タイトルで呼ばれたこともありました。和タイトルの『禅ヒッピー』というのは厳密にはすこしおかしいので現在ではあまり使われなくなっているのかな。というのはヒッピーというのは1960年代後半ごろのムーブメントです。ところが著者のジャック・ケルアックは1950年代後半ごろのビートニクの旗手だとされているからです。パンクとかラップとかいう言葉がなかった時代の歌手のことをパンク歌手とかラップ歌手と呼ぶのはおかしいことです。

ビートジェネレーションは、ヒッピーよりも前の世代の人たちをさす言葉です。ケルアック自身は自分たちの後輩にあたるヒッピーたちのことを嫌っていたそうです。

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このブログの著者が執筆した純文学小説です。

「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」

「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」

本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

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ビートニクとは? ジャック・ケルアックの造語

ビートニクというのは、ケルアックの造語だそうです。「ジャズのビートのごとくに生命に溢れた新文化を築いていこうという新しい運動」だということです。

『ザ・ダルマ・バムズ』『オン・ザ・ロード路上)』の著者ジャック・ケルアック。そしてアレン・ギンズバーグ。そしてゲリー・スナイダーがビートジェネレーションを代表する作家だとされています。

ビートニクの特徴は、後のヒッピーとほぼ同じだといっていいでしょう。だから彼らを「元祖ヒッピー」と呼ぶのは意味の上では間違ってはいません。

ビートニクは、キリスト教に対して仏教など東洋思想で対決しました。一神教に対してスピリチュアルで、物質主義に対してミニマリズムで、資本主義に対して社会主義で、標準的な生き方(スクエア)に対して、ドラッグ・自然・無政府主義で対決しました。家父長制に対してフェミニズム、フリーセックスで対決しました。体制に対して自由で、定住に対して放浪で対決したのがビートニクです。これはヒッピーも同じです。

既存の文化(スクウェア)に対する強烈なカウンターカルチャーだったわけです。

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『ザ・ダルマ・バムズ』あらすじ・感想・評価・内容

プロテスタントがメイン宗教であるアメリカ合衆国で、仏教にはまっているアメリカ人レイ・スミスが主人公です。私=レイ・スミスです。この人物が「仏法的な浮浪者」ダルマ=バムズです。作者ジャック・ケルアックがレイに投影されています。

その彼の同志がジェフィ・ライダー。森の男であり、詩人であり、東洋学者です。ビートニクの友人ゲリー・スナイダーが投影されています。

二人はスクエアの社会に、息がつまりそうでした。大人たちを見ても「あんなふうになりたい」とはどうしても思えませんでした。むしろ「あんなふうになりたくない」と思ったのです。

だから親たち世代とはまったく違う生き方をしようと決意しました。まったく違う価値観を見つけようとしたのです。

それが仏教であり、フリーセックスであり、自然の中で暮らすことでした。

ビートニクは、生きる意味をもとめて、荒野をさまよったのです。

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オム マニ パドメ フム。観音様の真言マントラ。

自然な衝動であるセックスをおさえつけるキリスト教的な道徳社会にも嫌気がさしていました。

ビートニクたちはヤブユムに突破の希望をかけます。

観音真言オム マニ パドメ フム。空なる暗黒の中に閃くありがたき稲妻マントラを唱えて、座禅瞑想する仏教的な世界観の中で、女たちとヤブユムを行います。

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ヤブユムとはセックスブッダ。男女合体尊。歓喜仏

ヤブユムというのはチベット仏教によく見られる男女合体尊のことです。対面立位で男女のほとけさんが交接している像です。いわゆる歓喜仏ですね。

名作『ダ・ヴィンチ・コード』にもルーブル美術館の館長が男女交接の秘儀を行って娘に嫌われるというシーンがありましたが、昔から女性を通して忘我の境地にたどり着こうという考え方が存在します。ビートニクたちもヤブユムをブッダに近づく手段だと心得ていました。

アルヴァ・ゴルドブックという座禅瞑想を認めない友だちが登場します。こちらがビートニクの同志アレン・ギンズバーグが投影されているそうです。この人物、座禅する瞑想は認めなくても、ヤブユムは大好きでおおいに実践するのでした。「プリンセスのほうがずっとおれにサトリを教えてくれたぞ」なんて言います。男にとって女は決定的に重要な存在、女は男をある境地に導く存在なんですなあ。昔から。

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このブログの著者が執筆した純文学小説です。

「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」

「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」

本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

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ヒッチハイクによる放浪

ビートニクがやったのは、ヒッチハイクによる放浪でした。

「おれのやってることは違法には違いない。だがやってしまえばそれまでじゃないか。つかまらなきゃ、それでいいんだ。ポリ公の目をくらませおおせさえすりゃいいんだ」

ビートニクは野宿したりしてやりたいようにやって生きています。これ以外にどんな生き方があるかと考えてみましたが、精神病院のテレビの前にお行儀よく座って監視を受けている風景以外には何も浮かんできませんでした。

スクエアたちは、みんな同じことしか考えることができなくなるような生活をしていると感じていました。しかし放浪の旅人は、スクエアから、この世の現実の何たるかをわきまえぬ愚か者の青二才、生活能力ゼロの阿呆とだと扱われます。

放浪にはわびしさもあります。「帰る家のない男は、泣くよりほかない。世の中のすべてが彼に向かってつっかかってくるように仕組まれている」と感じます。しかしすべてが無なのだからこれもよし、と肯定するのでした。

ヒッチハイクをしてくれた運転手は「おれはあんたみたいなルンペンが一生拝んだこともねえほどの大金を稼いでるさ。ところがこうやって人生を楽しんでいるのはおまえさんのほうじゃねえか。あくせく働きもせず、金なんぞ持たないあんたの方が楽しんでんだからなあ。どっちが利口が知れた話しじゃねえか」とビートニクに共感を見せます。彼には立派な家庭がありましたが、それらの何ひとつをも楽しむことができませんでした。彼が自由でなかったためです。

撃ち殺されてしまうキャプテン・アメリカのようにならなくてよかったですね。

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仏教「空」の境地

五感を通して認識した外界はじつは錯覚ではないか? そんな仏教的なことを主人公レイはいいます。

ウォルト・ホイットマンや、ヘンリー・デビット・ソローなど「旅もの」「放浪もの」の本をよく読んでいます。鈴木大拙や道教の詩人など禅、風来坊系の本もよく読んでいます。お茶を飲みながら。

スクエアのマニュアル通りの生き方へのカウンターとして、そこに風狂禅坊主の笑いを再びこの世によみがえらせるのが使命だと考えています。いい人を「腎臓が片方しかない侠気の菩薩さん」と呼びます。女は比丘尼、自分のことは比丘と呼びます。

カエルの声。これをあわれみをとく声と聴いて、すべてをゆるすことに決めた。

「われわれは姿を変え形を替えてこの宇宙に永遠に立ち現れつづけるのであるが、それもみんな空なのだ。死んだ人たちが達したのはこの悟りの浄土のしじまだったのだ」

「おれたちはだたひたすら生きとし生けるもののために祈るのだ。なあ、やってやろうぜ。世界が真に目覚めて、いたるところに美しいダルマの花が咲き乱れる世が来ないとは限らんじゃないか」

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パリピ。目の前に踊り狂っている全裸の肉体。

仲間との馬鹿騒ぎ、語らいが語られます。草の上に座り、寝袋を広げて寝ます。焚き火を盛大の燃やして、ギターを弾くのです。まっぱだかで歩き回っている人もいます。

「何をやっているんだ」

「なにもやっていないさ。着物を脱いじまうことにしただけよ」

パーティーの誰もが、彼の全裸を気にしません。焚き火に照らされたフルチン男とお行儀よく世界情勢だの真面目くさった話しをしています。むしろこのパーティーの中にすっぱだかの男が数人まじっているのが、ごく自然なことに思えてくるのでした。

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座禅瞑想

窓を開けっぱなした吹きさらしの小屋に座して、寒さに震えながら瞑想をします。林に座して黙想します。ダルマと生活を結び付けて生きています。

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自由

「私はハッとした。にわかに私は今や自由な比丘ではないことに気がついたのである。これからは行いを慎まねばならぬ」

これは山火事の監視人として人に雇われたときにレイが漏らした言葉です。

あいつはいい度胸しとるよ。思ったことはずばりというしね。男がものがはっきり言えねえような世の中になりゃもうおしまいだからなあ。そんな世の中になったらおれは一人で山にこもって掘っ立て小屋で余生を送るよ。

「それなら自分が一日中鎖につながれて、わんわん吠えていたらどんな気持ちがするか考えてみたことあるんですか?」飼い犬を自由にしてやろうとしました。

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飲酒

レイは飲酒も欠かしません。飲酒を破戒ではなく、風狂だとして肯定的にとらえています。

『ザ・ダルマ・バムズ』の中でも、かなり酒を飲んでいます。

実際のジャック・ケルアックは、過度の飲酒による肝硬変が原因の食道静脈瘤破裂によって四七歳で若死にしています。

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キリストは弥勒菩薩? マイトレーヤは「愛」という意味

キリストは弥勒菩薩だって説は有力なんだぜ。マイトレヤってのはサンスクリット語で「愛」という意味なんだ。そしてキリストの語られたことは愛の一語に尽きるんだ。

「おいおい。このおれに向かってキリスト教の説法をするのだけはやめにしといてくれよ。おめえは、きっと死に際になって、あのろくでもねえカラマゾフ野郎みてえに、十字架にキスしたりすることになるに決まってるよ」

ドストエフスキー作品の読み方(『カラマーゾフの兄弟』の評価)

カラマーゾフの兄弟『大審問官』。神は存在するのか? 前提を疑え! 

ジャック・ケルアックは、最終的には「おれはビートニクじゃない。カトリックだ」と発言したそうです。あらら。言っちゃいましたね。でもプロテスタントじゃなくてカトリックってところがせめてもの意地を見せたかな??

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登山というのは文明生活を離れ自然の中に入っていく行為

レイとジェフィは一緒に登山します。登山というのは文明生活を離れ自然の中に入っていく行為です。登山も、バックパッカーも、バックパックひとつで歩き回るということに変わりはありません。

マラソンランナーも、登山家も、放浪旅行者バックパッカーも、やっていることは同じ

「ジェフィは山には目のねえ男でな。登っとりさえすればうれしいんだな」

彼方の下界では無限の空間の大海にさかさまに釣り下がったこの世の映画館に座って、世の人間どもが一貫のはかない映画を見ている。私もまたあそこへ帰っていくのである。

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リュックサック・レボリューション

おれたちはろくでもないがらくたを買い込むために汗水たらして働いている。ダルマ・バムズは消費を拒否する。

何をやったって同じことじゃないか。おれはおれのやりたいことをやる以外に何の仕事もないのだ。人に親切を尽くし、迷妄にまどわされず、光明を求めて祈ることだけがおれの仕事じゃないか。

出かける時がやってきたのだ。リュックサック大革命を起こしてやるのだ。禅の風狂の精神で放浪するんだ。「世界中をリュックサックを背負った放浪者で埋めつくしてやるのだ」おれたちには完全装備のリュックサックがあるじゃないか。

ビートニクのこの願いはヒッピーたちによって程度実現しました。

放浪の大先輩。山下清のルンペン旅。天才画家の乞食行脚、乞うたのは清々しいもの美しいもの

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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。

「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」

「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」

※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。

アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

https://amzn.to/44Marfe

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