丁半バクチは「倍賭け法」&「アゲインスト法」の併用で必ず勝てる
丁半バクチでは「倍賭け法」&「アゲインスト法」の併用で必ず勝てるんだけど、生粋のギャンブラーはそんな絶対勝てる勝負では満足しないんでしょうね。
デ・グリューというフランス人が登場します。このフランス人は史上最高の恋愛小説『マノン・レスコー』の騎士グリューから名前をもらっているそうです。
史上最高の恋愛小説『マノン・レスコー』の魅力、内容、書評、あらすじ、感想
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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!
かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。
しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。
世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。
すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。
『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。
その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
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ドストエフスキー『賭博者』の魅力、あらすじ、内容、解説
一攫千金の願望にとりつかれていた。
人間がいたるところでやっているのは、たがいに奪い合ったり、儲けを競ったりすることばかりである。
ロシア人ときたら資本を獲得する能力に欠けているばかりか、せっかく手にした資本もただもういたずらにめちゃくちゃなかたちで浪費してしまう。
→私のギャンブラーに対する評価は「安パイでは満足しない人生を賭ける人」という意味では高評価ですが「農耕民族的には失格」という低評価です。育てたり、貯めたりすることができないギャンブラーに農耕は無理でしょう。
ルーレットのように二時間かそこらで労せず金持ちになれる手段を大歓迎しますし、そういうものに目がない。だからぼくらはろくに考えもせずにめちゃくちゃに賭ける。だから大負けするわけです。
ロシア式のはちゃめちゃと、勤勉な労働によるドイツ式の蓄財方途ではどっちが醜悪か。連中は少しでも自分たちに似ていない人間を処罰しはじめるんです。いっそロシア式に暴れまくるか、ルーレットで大儲けするかしたいです。
ぼくがお金を必要とするのは、ぼく自身のため。
遺産を期待している相手の老婆。こんなにぴんぴんしているのに、遺産を残した棺桶姿を拝めるものとみな期待していたのだからな。
→『賭博者』でいちばん印象に残ったキャラクターは主人公ではなく、この老婆です。みんなに死ぬことを期待されている老婆なのですが、ギャンブルに目覚めて、財産をなくしてしまうというハイパー婆ちゃんです。
おまえさんの財産はぜんぶ抵当に入っているんじゃなかった?
あんたにお金はあげませんから。
歓喜に我を忘れて、ギャンブラーは明らかに前後の見境を失っていた。
ゼロが出るまではここを動かないから。こんなに大負けしてちゃ、たとえゼロが出たって元もとれん。
さあ、賭けて。賭けるんだ。あんたの金じゃないんだし。
将軍夫人の座と莫大な遺産……すっからかんになることは目に見えている。
→『カイジ』もそうですが、破滅が背後にないと燃えないのが生粋のギャンブラーです。あたかも死がないと生を感じられない哲学者のように。
どうか自分を破滅させないでくれ。あの人はいずれ大負けします。負けて、すっからかんになります。頑固に、意地をはって。とことん勝負をつづけます。そうなったらもうぜったいに負けは取り戻せない。そのときは家族全員を破滅させることになる。我々はあの人の相続人でね。
両替で損をする額ときたら……ユダヤ人でもぞっとするくらいです。
おまえさん、わたしが死ぬのをそこまであてにしているわけ? わたしがはたいた金は自分の金で、あんたたちのものじゃない。
ぜんぶ負けておしまいになりました。持ち金ぜんぶ。おばあさんは完全に持ち金を使い果たしてしまった。起こるべくして起こったことだ。
公爵が無一文の身で、手形と引きかえに金を借り、ルーレットで一勝負しようと当てにしていた。
→ドストエフスキー『賭博者』で描かれる賭博はもちろんチンチロリン(さいころ)とか、オイチョカブ(花札)ではなく、ルーレットです。もちろんルーレットは丁半バクチなので、倍がけ法&アゲインスト法の併用で必ず勝つことができるんですけどね。。。
ホテルの支払いはいったいどうされるんです?
彼女がやってきたということは、ぼくを愛しているということだ。
恐怖がぼくのからだを寒気のように通り抜け、両手と両足の震えとなって反応した。一瞬にして自覚した。負けるということが今なにを意味するかを。ぼくの全人生がこの賭けにかかっているのだ。
→企業家が新製品を世に問うときなど、全人生がこの賭けにかかっているという瞬間はあるでしょう。しかしギャンブラーの場合、それが一瞬に凝縮されているぶんだけ瞬間風速が暴風雨クラスなのでしょう。「旅に価値をあたえるのは恐怖だ」といったのはカミュですが、死が生に意味をあたえるのもまた背景は同じなのだと思います。
カミュ『ペスト』この世から病気がなくなっても、死と別離はなくならない。
おそろしいリスク願望にぼくは支配された。これほどの感覚を経験してくると魂はもはやみたされず、苛立つばかりで、完全に倦み疲れるまで、よりいっそう強烈な感覚を要求するのかもしれない。
わたし、あなたのアパートで一月暮らしてもいいって言っているの。あなたにわかるのかな、そうやって暮らすひと月が、あなたの全人生よりどれだけいいものか。
→金持ちになると女が寄ってきます。でもギャンブラーは女にモテたくて金を賭けているのではありません。ギャンブルの興奮そのものが目的なのです。
ホイールが一回転するだけですべてが一変する。
ぼくにとって大切なのはお金ではない。自分がけちでないことは確実にわかっている。
たしかに人間っていうのは、いちばんの親友が目の前で貶められるのを見て喜ぶものなんです。
あなたの人生は終わっているんです。仮に相手がルーレットでなければ、それに似た別のものに熱中する。
→世にパチンコがなくなっても、パチンコ中毒者は他のギャンブルに熱中するでしょうし、世に競馬がなくなっても、競馬中毒者は競艇や競輪に熱中するでしょう。脳の配線がそのようにつながっているからです。
千ポンドであろうが、十ルイであろうが、あなたにとってはまったく同じことです。どうせ負けるに決まっている。
こんなものはすべて言葉、言葉、言葉だ。必要なのは、行動だ。
→ 人が生きるということは行動することです。だから私は読書で終わっていいとは決して思っていません。
明日こそ、明日こそ、すべてに決着がつく!
→ こういう言葉、こういう生き方。わたしたちにとってカイジをはじめギャンブラーの生き方が魅力的に映るのは、人生のある一面を生き方に反映しているからでしょう。
人生を賭けなければ、生きていても面白くありません。その気持ちは私にもわかるのです。
ただ破滅があまりにも多いために、家族などからギャンブラーは忌み嫌われます。失敗する企業家も多いのですが、ギャンブラーほどは嫌われないでしょう。
「痺れるかどうかなんで。ギャンブルは」
これはカイジのセリフです。人生そのものを大きな夢に賭ければ、カジノでのちいさな勝負がつまらなく感じられます。カジノなんてしょせんは小さなボードの上の、自分の努力実力とは関係のない運否天賦の勝負です。 でも多くの人は夢に人生を賭けられません。でもギャンブラーにはそれができるのではないでしょうか。