小説よりも戯曲が好き。登場人物が言葉で対決しているのがあからさまになるから
ここではシェイクスピアの『ハムレット』のあらすじ、感想、書評をおこなっています。
戯曲という体裁で書かれた本です。小説とは異なります。
人によって好き嫌いがあると思いますが、私は地の文がある小説体裁よりもセリフ劇の戯曲の方が好みです。
戯曲形式のほうが、登場人物どうしの対立が明確となります。その分、よりわかりやすくなります。作者が感情をセリフに込めようとするので、セリフは芝居風というか、現実には口にしないような描写ぶくみのものになるのですが、これがまた大時代風で面白かったりします。
シェイクスピア『ハムレット』のあらすじ、感想、書評
星は炎の尾を引き、露は血の色に染まり、太陽はむしばまれ、大海原を支配する月もこの世の終わりを告げるように病み蒼ざめたという。
→大自然の情景なしに世界観を表現することは難しいのですが、戯曲の場合、このように自然描写がせりふにまぎれます。そのためにより「詩人の言葉」となるのです。その言葉まわしが面白いのです。
生あるものは必ず死ぬ。そしてあの世で永遠のいのちをうる。
目からこぼれる川のような涙
この世は雑草の伸びるにまかせた荒れ放題の庭だ。
銀をまじえた黒いお髭。
人生の春に咲くすみれの花だ。早くは咲くが、長続きはしない。美しくはあるが、すぐにしぼむ。つかのまの香り、一時の慰めでしかない。それだけだ。
→ シェイクスピアの時代、映画登場以前でしたから、芸術の王様は「芝居」でした。
そして時代はルネサンス期です。永遠の命というキリスト教のフィクションが薄れた哲学が展開されます。
キリスト教の本質は、この肉体この意識のまま死者が復活すること、そして永遠の命を得ることができるということ
死の無情を平然と語りますが、これはキリスト教の支配を脱していないとできないことなのです。いっていることがわかりますか?
キリスト教が世界一の信者数を誇る不滅の宗教であるのはなぜなのか?【獄中記】オスカー・ワイルド
情欲の血が燃えると魂はいくらでも誓いの言葉を濫発するのだ。
亡霊 (地下で)誓え。
→ 亡霊や妖精が登場するのがシェイクスピア劇の特徴です。ピーターパンや、ネッシーや、ハリーポッターはイギリスで誕生しました。そしてシェイクスピア劇も。
ハムレット様は一国の王子、生まれた星が違う。
つらい人生をうめきながら汗水流して歩むのもただ死後にくるものを恐れるためだ。死後の世界は未知の国だ。旅立った者はひとりとしてもどったためしがない。それで決心がにぶるのだ。
ドストエフスキーは今日の日本人にとっても本当に名作といえるのか?
ハムレットは優柔不断ではない。復讐をためらうのは理性的だから
おお、ネズミだ。死ね。どうだ! ポローニアス、倒れ、死ぬ。
シェイクスピア劇では「死」もよくテーマとしてとりあげられます。
主人公ハムレットは優柔不断な人物として有名ですが、それほど優柔不断とは感じませんでした。
兄を殺し、姉を犯した不義非道のデンマーク王。
ハムレットは父王を殺して王位を奪った叔父さん(デンマーク王)に対して怒っています。オジサンはまた母親を妻にしています。つまり「地位も金も女も」奪った憎い奴なわけです。そして父王の亡霊に復讐をせがまれています。
でも、叔父王からハムレットは粗略に扱われているわけではありません。むしろ愛妻の子として大事にされています。
叔父王からハムレットがうとまれだしたのは、むしろ復讐が心にきざしたからです。気が狂ったふりをして、叔父の悪行を仄めかしたりしはじめたからです。
母親も権力の命令で嫌々結婚したわけではありません。オジ王とあんがいうまくやっています。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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昔は結婚というのは「家に嫁いだ」ので兄が死んだら弟と結婚するというのはあんがい普通のことでした。
いつから結婚は家長の指名から本人の意思・自由恋愛となったのか? ルソー『エミール』から
つまり実害はない状態です。むしろ黙っていれば次期王の地位につけたかもしれません。
でも「正義をなそうという心」につきうごかされて、ついに復讐を決意します。
そのことでおじ王も恋人も、恋人の父も、実の母親も、そして自分も死ぬことになってしまうのでした。
大悲劇です。ハムレットが復讐をためらったのは、優柔不断だからではなく、理性で感情を押さえようとしたからだと思います。でもそれができずに悲劇に終わってしまいました。
「人間ってのは理性的というけれど、なかなか感情を押さえられないよね」というのがシェイクスピアの言いたかったことなのだと思います。
狂気のせいにするとは、油薬を潰瘍の上に塗っても上っ面をごまかすだけ、目に見えぬ奥の方が腐っていくのです。
ああ、ハムレット。おまえはこの胸をまっぷたつに裂いてしまった。
民衆というのは見た目のよさで好き嫌いを決める。
この時代でも「見た目が9割」みたいな本がいまさらベストセラーになったりしますが、そういうことはシェイクスピアの昔から言われてきたことだったんですね。
人間は自分を太らせるため他の動物たちを太らせて食う。そして太らせた自分を蛆虫に食わせる。太った王様もやせた乞食も、違った二つの料理だが、食い手はひとつだ。それで万事おしまいです。王様が食った蛆虫をエサにして魚を釣り、その餌を食った魚を食う。王様が乞食の腹の中をお通りになる場合もある。
→ シェイクスピアは命の無常をえんえんと説き続けます。天の国の永遠の命の信仰が崩れた時代はこんなふうだったんですね。時には希望が必要なのかもしれません。
そちらに着いたら即座にハムレットを殺すのだ。
わしの胸は喜びと別れたままだ。
にぶった復讐心。
食って寝るだけに生涯のほとんどを費やすとしたら、人間とは何だ? 畜生と変わりがないではないか。
考える心というやつ、四分の一は知恵で、残りの四分の三は臆病にすぎないのだ。
おろかにも方角違いにむかって吠えたてるとは。
おのれの生き血をもって子を育てるペリカンのようにこの血を捧げもしよう。
ペリカンが自分の血で子供を育てるというのはたんなる伝説だそうです。
手紙を届けたら、死神から逃れる早さで来てもらいたい。
レアティーズ「必ず恨みははらすぞ」。たとえ教会に逃げ込んでも一突きに。
最善の状態を永久に維持することはできぬ。放っておけば度を超えてあふれだし、ついにはみずからの過剰に溺れ死ぬ。
→ ダイエットをするといつも思います。いちばん難しいのは体重を減らすことではなく、減った状態を維持することですね。体重計の針を左右どちらかに振り切るのはそれほど難しいことではありません。でもプラスマイナスゼロという絶妙な地点を維持していくのは至難の業です。
あなたの妹は溺れて死にました。裳裾は大きく広がって、しばらくは人魚のように川面に浮かびながら。
あの頭蓋骨にも昔は舌があり、歌を歌うことができたはずだ。あれだってかつては権謀術策に富む頭だったかもしれぬ。それが今、顎をなくして、墓掘りの鋤に頭を小突かれている。なんたる有為転変か。あわれなものだな、ヨリック! 皮肉はどこへいった。頓智のひらめきはどこへ消えた。軽口はでないのか?
ハムレットを殺す王の計略。
登場人物は全滅。理性か、感情か、それが問題だ。
レアティーズとハムレットの剣の試合。両者はあいうち、毒剣の傷で死ぬ。王妃はハムレット用の毒を飲んで死ぬ。ハムレットは国王を刺す。
→ なんだろうな。この全滅感。登場人物の全滅感がものすごいですね。
私の言うように「人間ってのは理性的というけれど、なかなか感情を押さえられないよね」というのがシェイクスピアの言いたかったことだとするならば、ハムレット本人が死ぬだけでもじゅうぶんに表現できるんですけどね。
登場人物を全滅させるのは、べつに芝居上の効果を狙って大悲劇にしたいからではないはずです。だとすればなんで全滅させるのか?
どんな人間も必ず死ぬという無常観の他に、人間、死にざまに人生のすべてが集約されるからではないでしょうか?
ハムレットは優柔不断といわれますが、復讐の執行者でした。叔父王を刺し殺し、自分を恨む恋人の兄と刺し違えます。
死にざまに人生のすべてが集約されるとしたら、ハムレットけっして優柔不断な人物ではなかったということになります。果敢な行動者でした。
迷っていたのは、理性のみちびく安穏な生活を選ぶべきか、感情の命じる血と波乱の生活を選ぶべきか、そこではないかと思うのです。
理性か、感情か、それが問題だ。