ジャック・ロンドン『白い牙』逆ならわかる! なぜ作者はオオカミがイヌになる作品を描いたのか? 

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ここではジャック・ロンドン著『白い牙』についての書評をしています。『白い牙』は『野性の呼び声』の続編といってもいいような作品です。

物語のあらすじ

前作『荒野の呼び声』では、飼い犬だった犬が橇犬体験などを通じて狼化していく様子が描かれます。最後は飼い主を殺され人間社会との絆を断たれて、野性にかえった主人公犬はオオカミの群れのリーダーになって荒野をさすらいます。

「人間よ、野性にかえれ」という野性の呼び声

今作『白い牙』はその逆で、オオカミ犬だった主人公犬が、橇犬体験などを通じてイヌ化していく様子が描かれます。最後には≪愛の神≫運命の飼い主と出会い、命がけで人間を助け、犬との間に子供までつくって、飼い犬化します。

まるでネガとポジのような作品です。

しかしなぜジャック・ロンドンは、オオカミがイヌになる作品を描いたのでしょうか?

飼い犬が野性を取り戻して狼になる話しならば、そういう作品を描きたい気分もわかるし、文学として成立しそうだなという見通しも立ちますが、どうしてその逆の作品を描こうとしたのでしょうか。

作者の意図がよくわかりませんね。このページではそこに注目して読み解いていきたいと思います。

愛さず、愛されないオオカミ犬が愛されるようになるまで

黄色は『白い牙』から。赤字はわたしの感想です。

遠い祖先から幾十、幾百万もの命を通じて伝わってきた恐怖という本能が育ちつつあった。恐怖。それこそは野性の伝える精神的遺産。この世のすべてが思い通りになるわけではない、生きることには制限や制約がつきまとう。それ自体が掟である。

プライマル・スクリーム(原初からの叫び)

「旅に価値を与えるのは恐怖である」と、カミュはいったそうです。ただ恐れるだけではなく、恐怖は恐怖だと自覚することで、何か大切なことを指し示してくれます。

この生きたものは、肉だった。興奮していた。高揚感だった。狼という種族に流れる好戦的な血が身内にわき立ち荒れ狂っていた。これこそがまさに生きるということなのだった。

肉を屠ること、そのために闘うこと。そうするように力を授かっている行為をすること。

これこそが生きることです。昨今の「キャンプばやり」は、なんでも物を金で買うことで済ましてしまうことへの反動なのではないかと思っています。

人生を「買う」という行為だけで終わらせないために。『ロビンソン・クルーソー』

自給自足生活なんて無理。スーパーマーケットのない場所で、人はどうやって生きていけるのであろうか?

生命それ自体が肉なのだ。そして食うものと、食われるものがいる。食うか、食われるか。この法則はすべての生き物によって体現されている。生はひとつの旺盛な食欲の発現。

すべてが無知と混乱と、暴力と無秩序と、大食と殺戮との中で、情け容赦もなく、計画性もなく、終わりもなく、ただその場限りの偶然に支配されて生きている。

世界は驚きでいっぱいだった。身内に溢れる生のうずき、ひとつひとつの筋肉の遊び、すべてが尽きざる悦びの源泉だった。

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人間を神とみた。その背後には、その望みを強制するだけの力、拒めば痛みをもたらすだけの力があるのだから。彼の体は人間の思うままだった。他者の手の中におのれの運命をゆだねる。いつの場合も独立独歩でいるよりは、他者に依存する方が楽だからである。

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母狼なしでやっていくことをとうに習得していた。彼女の存在する意味は忘れ去られた。彼女の生きている仕組みの中に、彼の入る余地がないのと同じように。

ひとり離れて自由に自分の足で立ち他の生き物との接触を避けなくてはならない。他者との接触の中にこそ危険はひそんでいる。のけもの、はぐれものとしての生活。

親離れ子離れのシーンは、むしろ動物を通して見るほうが、人間で見るよりも、わかりやすいように感じます。雑多な感情を持たず、気持ちが純粋で、言葉もなく、ただ行動で示すだけに。

まだ子狼だった。まだやわな素材のままで、これという型もできていず、環境によってかたちづくられる状態だった。しかし今は獰猛で、冷酷非情で、愛さず、愛されもしない狼。若さの柔軟性をもはや失ってしまった今、自分という存在を逆流させるような自己改革をやらねばならない。体組織がすっかり硬化し、ごつごつ節くれだってきた今。本能も、原理原則も、結晶化して型にはまったルールや警戒心、嫌悪、欲求などに代わってしまっている今。

自由な狼として生きていたホワイトファングは飼い犬化するときに、苦痛を味わいます。その苦痛を最終的に癒したのは彼が神と感じている人間の愛でした。

ヘルマン・ヘッセ『郷愁』個人には自分を完成する責任がある。地域や先祖のせいにはできない。

≪愛≫はそれまでの神々とのふれあいの中で、彼の心を震わせた最高の感情なのだった。

ヘルマン・ヘッセ『クヌルプ』放浪の魂の真髄

南国の複雑な文明生活が主として要求するものがなにかといえば、それは自制であり、抑制である。いってみればつねに宙ぶらりんの均衡のもとに自己を保持すること。文明は彼の持ち前の衝動を抑圧するよう強要しつづけるのである。肉屋の肉や飼い猫に手を出してはならない。手を出していいのは人間に忠誠を誓ったことのない野生の生き物だけ。

狼犬が感じたこの抑圧は、現代サラリーマンが感じているものと同じだといってもいいでしょう。だから犬を主人公にした『白い牙』が普遍性をもっていまだに世界中で読み継がれているのです。

ジム囚人は人格形成過程でつねに誤った扱いをされてきた。生まれた環境がよくないうえに、社会という手でほどこされた人格陶冶も益がなかった。矯正不可能の肉食獣。最後まで抵抗して死ぬのならまだしも、べんべんと生きて打ち負かされるのなどまっぴらごめんというわけだ。棍棒で殴打するそういう処置をまだやわらかな少年の頃からずっと受け続けてきたのだ。

コリー犬との間に子供が生まれた。日差しの下でうとうととまどろむ≪聖なる狼≫は人間に大切にされる飼い犬となったのだ。

ホワイトファングは、命がけで飼い主の家族を暴漢から救います。そのために瀕死の重傷を負うのですが、なんとか回復し、家族の一員として迎えられるのでした。

じつはここでホワイトファングはジム囚人を噛み殺しています。ジムは殺しに来ているのでこれが人間だったら「正当防衛」ですが、飼い犬が人間を噛み殺した場合、現代日本だったら殺処分ではないかと思いました。

……まあ、この物語は擬人化したものとして読むべきでしょう。なんで殺処分にならないんだ、というのは余計なツッコミです。

わたしはホワイトファングが子供のころ、はじめて洞窟の外に出るシーンがいちばん面白かったです。まるで眼を開いたばかりの赤ん坊が世界を見るように、犬の目を通して世界が描かれます。かつて誰にでも世界というのはみずみずしい感動にあふれたものでした。

野性の本能を描く場合、人間が主人公だとどうしてもただの野獣になってしまいます。オオカミ犬を主人公にすることで野性の本能を描くのには都合がよかったのでしょう。

なぜ作者はオオカミがイヌになる作品を描いたのか?

さて『荒野の呼び声』で野性にかえる飼い犬を描いたジャック・ロンドンは、どうして『白い牙』では飼い犬になるオオカミを描いたのでしょうか?

それを考えるとき、やはり二作は擬人化された物語だと考えるとわかりやすいでしょう。

『荒野の呼び声』では抑圧されたサラリーマンが、押し殺してきた本能の叫びに気づいて、退職して自然の中で自給自足の暮らしをはじめるようにも読むことができます。

作者のジャック・ロンドンも放浪のホーボーとして自由無頼の青春をおくっていました。

ホーボーって何だ? 無賃乗車・ただ乗りという放浪スタイル

しかしやがて作家になり、編集者との関係もできて、たくさんの読者に読んでもらいたいと考えるようになりました。ジャック・ロンドンは社会の中で生きていくようになったのです。人間である以上、それが自然の成り行きです。だからジャック・ロンドンは野生にかえった主人公をそのままにはしておけなかったのだと思います。

都市生活を捨てて隠居暮らしを選ぶような人が一定数います。しかしジャック・ロンドンはじめ多くの人たちは、世と関わりながら生きていくものです。

FIRE! 隠居の本質は仕事を辞めることではなく、人間関係の位置を占めることを望まないということ

そのことがわかっていたから、ジャック・ロンドンは文明生活で愛されて安穏に暮らすホワイトファングのことを書いて残したのだと思います。

愛を求めるならば犬であっても構わない。愛されない狼よりも愛される犬でありたい。

そんな叫びが聞こえてきます。

そしてジャック・ロンドンは犬というものを愛し、その生き方を肯定したのでしょう。

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