女の愚かさと、女に惚れる男の愚かさと
ここでは文豪サマセットモームの『お菓子と麦酒』についてのあれこれを書評しています。
『お菓子と麦酒』は、
世界的な文豪の夫よりも、こけおどしの服装(見た目)で男を選んでしまう女というものの愚かさ。そしてその女の愚かさに惚れてしまって、かなわない男の愚かさ。
そんな人間の滑稽さを描いている作品だと思います。
「ああ、人間ってそんなもんだよね」と思わせてくれるモームの秀作です。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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私の大好きな作家。名手サマセット・モーム
物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちら。
私は反あらすじ派です。しかしあらすじ(全体地図)を知った上で、自分がどのあたりにいるのか(現在位置)を確認しつつ読書することをオススメしています。
私が『お菓子と麦酒』を手に取ったのは、『月と6ペンス』の作者だからです。モームが好きなのです。
『お菓子と麦酒』も名手サマセット・モームらしい名作でした。
性に奔放で魅力的な人妻に翻弄されてしまう(モーム本人を連想させる)作家(ウィリー)の主人公が語り部の作品です。
本作を名作と考えない人が多いようですが、それは人が死んだりしないからでしょうか?
私は名作だと思いました。
【書評】『お菓子と麦酒』について
年上の人妻(ロウジー)と主人公ウィリーが出会ったのは15歳の時。純情な主人公は、性に奔放な彼女の噂を聞いて、きっと男に脅されているのだろうと妄想する。
パッとしない作家だがれっきとした夫がいるのに、他の男と関係があるのは、何かわけがあるに違いない。彼女の懊悩を想像し、人妻に無関心ではいられない。
やがて主人公は1年にわたりロウジーと関係する。のぼせあがって、惚れてしまうのだ。
しかし、ロウジーからは男関係の匂いが消えない。
同じブラックステイブル出身のジョージとは、ちょくちょく会っているみたいだ。
自分だけの女でいてほしいとウィリーは願うが、ロウジーは自由奔放である。無邪気に、自分が楽しいと思うこと、周囲が楽しいと思ってくれることをしているだけなのだ。
50男のユダヤ人が、自分の1年間の生活費以上のプレゼントをロウジーにしたことで、ウィリーの嫉妬は爆発する。ただの友達にプレゼントする金額ではない。ベッドの中までつきあった女への謝礼が含まれているとしか思えない。
ロウジーと男たちとの関係性には明らかにお友達以上の、男と女の匂いがするのだ。
やがて、主人公の坊やは著名な作家になる。その頃、ロウジーの夫は国民的な大作家になっていた。
さぞやロウジーも偉大な夫に満足しているかと思いきや、なんとブラックステイブルのジョージと駆け落ちしてしまったというのだ。
同郷の、自分と同じ時期につきあっていたジョージだけがロウジーの愛した人だったと聞かされて、主人公は屈辱に顔が上げられない。
しかし「ふしだらな女だ」とロウジーを非難する人たちを前に、ウィリーは敢然とロウジーを擁護するのだった。
「ロウジーは単純だ。本能は健康で、けれんもない。人を幸福にするのが大好きなのだ。
愛の行為を愛した。好きになると寝るのはロウジーにとって自然なことだったのだ。
そのことを深く考えなかった。好色ではなく、天性だった。
花が香りを周囲にあたえるように、彼女は身体をあたえた。それはロウジーには楽しいことだった。楽しみを周りに与えるのが好きだったのです。
たくさんの男と寝たことは彼女の人格に何の影響もあたえず、依然としてロウジーは誠実で純真で無邪気でした。
ロウジーは色情を刺激しない。彼女に嫉妬するのはばかげたこと。
林間の清らかな泉に、他の男が水浴びしたとしても、水の冷たさ、清らかさには何の変りもないではないか」
と。
やがて老境に入った主人公は、ロウジーから気さくな手紙をもらって(驚く!)、もう70歳にもなった太ったロウジーと再会する。
そしてジョージと駆け落ちした本当の理由を聞くのだった。
子どもが死んだ日にも夫以外の男と寝るほどのロウジーが生涯でたった一人愛した男がジョージだった。
ロウジーは「ダービーの競馬に出かけるために精一杯めかしこんだ酒場の亭主」みたいなジョージの写真を見せて、「だって、あの人はいつもこんな風な立派な紳士だったのですもの」といった。
サマセットモームは星新一みたいなショートショートの名手
イギリス文壇への皮肉や批判で味付けしてあるから、『お菓子と麦酒』は決して短編ではないが、短編にすることもできたのではないかと思う。
とくにラストのどんでん返しは、まるで星新一のショートショートである。
イギリスの国民作家として敬愛される夫よりも、こけおどしの服装(見た目)で男を選んでしまう女というものの無邪気さ、愚かさ。
そしてその女の無邪気さ、愚かさに惚れてしまってかなわない男という者の愚かさ。
そんな「人間の滑稽」さを描いている作品です。
「ああ、人間ってそんなもんだよね」と思わせてくれるモームの秀作です。
愚かだと思っていても、なすすべもなく酒と薔薇に男たちが自滅していく。昔からずっと。「ああ、人間ってそんなもんだよね」そう思いませんか?
イブが楽園の知恵の実を食べたときに、アダムはイブだけを楽園から追い出せばよかったのに、そうしませんでした。
アダムは知恵の実が食べたかったわけではありません。イブと離れたくなかったから同じものを食べたのです。イブは「食べると幸福になれるよ」といわれた知恵の実を無邪気に食べて、アダムはイブと離れ離れになるぐらいなら、神に見捨てられた方がマシだと思ったのです。イブのいない場所は楽園ではありませんでした。
このように男と女は、愚かで滑稽でありながら、離れがたく絡み合い生きていきます。
主人公ウィリーが惚れたロウジーは単純で無邪気な女でした。国民作家の夫の偉大さなんてわからなかったし興味もなかったのです。
ジョージは妻子を捨ててロウジーとアメリカに駆け落ちしました。周囲に大迷惑をかけて消えた二人。
そしてロウジーがジョージを選んだのも、ロミオとジュリエットのような歴史にたったひとつのかけがえのない激しい恋からではありませんでした。
そんな女だからウィリーも好きになったのだと思わせるような、自然のままに生きる健康で純真な滑稽なほど無邪気な女が、そこにいたのです。
甘いものも辛いものも、どちらも欲しくなる。それが人生
作家は唖然とし、そこで物語を終わらせるしかありませんでした。
『お菓子と麦酒』というタイトルを、モームはどうしてつけたのか?
作中に、直接的にタイトルと結びつくようなエピソードはありませんでした。
モーム本人がどういうつもりでつけたタイトルなのかは知りませんが、私はこう考えます。
通常、甘党、辛党といって、あまいもの(お菓子)と酒(ビール)は両立しません。どっちかを食べているときには、どっちかは不必要です。
その瞬間は、どちらかしか必要のないものですが、人生、どちらかだけでは足りません。甘いものも辛いものも、どちらも欲しくなる。それが人生ではないでしょうか。
そんな意味でつけたタイトルではないかと私は想像しました。
この物語の本当の主人公はロウジーです。ロウジーに対する周囲の悪意に満ちた意見と、天真爛漫で自由な彼女の心は、イメージが一致しません。
しかし作家である主人公のウィリーだけが、それを作品として表現することができたのでした。
※※他のサマセット・モーム作品についての書評も書いています。よかったらこちらもご覧ください。