谷口江里也。ギュスターヴ・ドレ。ダンテの三者共著の『神曲』
ここはダンテ『神曲』について語っているページです。というよりは、谷口江里也・ギュスターヴ・ドレ・ダンテの三者共著の『神曲』について語っています。
通常、ダンテ作『神曲』として語られることが多い『神曲』ですが、私が取り上げるのは、ほぼ別の作品としての谷口・ドレの『神曲』です。なぜって原作よりもずっとすばらしいからです。どっちかしか読めないのならば、断然、谷口・ドレの『神曲』の方をおすすめします。
もしこれから歴史的なダンテ『神曲』を読もうとする人がいるのならば、まずは最初に谷口江里也・ドレ・ダンテの共作『神曲』を読んでいただきたいと思っています。
谷口・ドレの『神曲』は、ダンテの原著『神曲』の何倍も感動をあたえてくれます。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
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【書評】ダンテの『神曲』について
私はダンテの原著(翻訳ですが)も両方読みましたが、谷口江里也・ギュスターヴ・ドレの『神曲』は、ダンテの原著『神曲』よりもずっと感動しました。このコラムはその感動を伝えようとするものです。
音楽では編曲によって原曲がとてつもなくいい曲になることがありますが、谷口・ドレの『神曲』は、まさにこのパターンです。
最初に神曲について簡単に述べた後で、谷口・ドレ版がダンテ原著よりもどれほど凄いのか、ということを、後半に書いています。
永井豪『デビルマン』のコマには、ドレの挿絵がそのまんま使われている箇所があります。
物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちら。
ダンテ『神曲』はミルトン『失楽園』と並んでキリスト教文学の金字塔とされているものです。
聖書ではないのに、全世界のキリスト教徒の天国や神の概念に、多大な影響を与えている文学作品です。
『神曲』というのは、作者ダンテが地獄と天国を視察研修して、その研修レポートを詩の体裁で提出した作品です。
「インフェルノ(地獄編)」
ヒドイ!! というのが率直な感想です。
日本人であるわたしはキリシタンではない異教徒なので、公平にいってヒドイと思いました。
イエス以前に死んだ人たちはみんな地獄にいるのです。よくて煉獄です。
そんなのってずるくない? 人類の歴史はすくなく見積もっても50万年以上あるのです。それなのに直近2千年に以降の人たちしか救われないっていうのは!!
何億人というBC時代の人たちがみな地獄にいるのです。日本人はほとんど全員地獄行きです。いくらなんでもそんな設定ひどすぎると思いませんか?
もちろん救われているのがキリスト教徒だけだからです。『神曲』はイスラム教世界では発禁に近い状態でよく思われていないようです。もちろんイスラム教徒は天国に行けないことになっているからです。
キリスト以前のご先祖様たちが作品に登場しますが、もちろん天国にはいません。
アキレウスも、ヘレネも、イアソンも地獄にいます。ギリシア神話の英雄たちです。もちろん紀元前の人物たちである。(トロイア戦争は紀元前1260年から1180年)この人たちは伝説上の架空のキャラクターとされていたが、トロイアの遺跡が発掘された以上、実在の人物だったかもしれない可能性があります。
トロイ戦争その後。オデュッセイアの表ルートと、アエネーイスの裏ルート
それほどキリスト教偏重なのに、ダンテは地獄や天国で見てきたことを詩でうまく表現できるように、詩神ミューズや芸術の神アポロンに祈ったりするのです。これでいいのでしょうか? キリスト神一神教の文脈に、ギリシアの神々が登場しちゃってますけど。
ミノタウロスも、メデューサも、ハルピュイアも、ギガンテスも、アラクネも登場します。みんなギリシア神話を彩るモンスターたちです。プロ野球オールスターゲームのように登場します。こういうモンスターたちが『神曲』を面白く盛り上げているのですが、なんだか別の作品のキャラクターが登場しているような違和感が否めません。
たとえば『ワンピース』に『北斗の拳』のキャラクターが登場して戦うような違和感があるのです。
もっとも『神曲』はルネッサンス(再生・復活)の曙光を告げる文学作品とされています。ですからキリスト教一色だった中世にギリシアの文明を復活・再生させたという意味では画期的だったのかもしれません。
そうした半面、キリスト教の中世的な面もひじょうに色濃く残っています。キリスト教徒以外は救われないというテーゼだから、異教徒は全員地獄いきなのです。
いちばん有名なのはイスラム教の開祖マホメットが腹を縦に裂かれ地獄でのたうち回っている姿です。
釈迦も孔子も天照大神も作中には登場しないけれど基本的には地獄にいるはずです。キリスト教の洗礼を受けていませんから。
木馬の計略は人を欺く詐術だからと、オデュッセウスも地獄にいます。
ダンテの詩の師匠ウェルギリウスがダンテのあの世の旅のガイドをしてくれます。ウェルギリウスもキリスト以前の人物なので天国には行けません。ウェルギリウスの『アイネイアス』はトロイ側の英雄を主人公にしているのでギリシア側のスターたちはあえて地獄にいる描写があるのです。
そしてダンテ自身の仲間や政敵など、14世紀のフィレンツェの人々が詳しく登場します。
誰だ、お前は?
思わずそう言いたくなりますね。後世のわたしたちが知らなくても仕方がないようなダンテゆかりの人物たちです。
過去から現在の実在の人物がたくさん出てきます。そして基本的にダンテの味方が天国に、敵が地獄にいるのです。いや、どうも。
そんな作品でいいのかねえと思います。創作で自己正当化したい気持ちはわからないじゃありませんが……。
快楽・肉体主義者のエピクロス学派もまとめて地獄にいます。ダンテが嫌いな思想だったんでしょうね。わたしは大好きですが……。
このように復活・再生を意味するルネッサンスを告げる文芸作品とされるダンテ『神曲』ですが、キリスト教色はメチャクチャ濃いものがあります。
そしてそれ以上に濃いのは、作者の好みだったりします。
万能の神はイエスやその父ではなく、ダンテ君、君じゃないのかね?
著名人がたくさん登場するから、みんなにウケた
『神曲』には著名人がたくさん登場します。このアイディアはやったもの勝ちです。
織田信長と源頼朝が戦争したら、とか、東郷平八郎が太平洋戦争を戦ったら、とか、今でもそういう作品は制作されています。
現代人が自衛隊ごと過去にタイムスリップしたら、とか、ナポレオンとアルカポネとイワン雷帝が同僚だったら、とか、過去の実在の人物を作中に登場させてしまう作品は現代ではお馴染みですが、ダンテ『神曲』がハシリなのではないでしょうか。
すでに知っている人物をキャラクターとして登場させることができるならば、作者は彼のキャラクター造形に力を割かなくてもいいのだから、これは作品の成功に非常に有利なことです。
『神曲』が非常に商業的にも成功した要因のひとつに、作品に、みんなが知っている有名人たちがジャンジャン出てくることがあったのだろうと思います。漫画『巨人の星』に王貞治や長嶋茂雄が実名で登場するようなものです。最初からキャラ立ちしている人物を登場させればいいのだから、こんなに楽チンなことはありません。
いちから創作したナインで「プロ野球」の話しを書くのと、イチローや大谷翔平や野茂英雄やランディ・バースでチーム編成して、地獄で鬼を相手に野球する作品と、どっちの作品が面白そうでしょうか?
誰もが知っているキャラクターを登場させた方が大衆受けするに決まっています。本人の有名な言葉なんかを援用しちゃったらポイントが高いですね。
「僕は、巨人軍の4番打者だよ。サインなんて『打て』以外に、あるわけないじゃない」
いやあ、カッコいいなあ。っていうかそんな作者はズルい! としかいいようがありません。
インフェルノ(地獄編)はまるでお化け屋敷のようです。毎回、人を脅かしに自動で登場するお化け屋敷の幽霊人形みたいに、律義にその場所で誰かが通るのを待っているかのように、ちょうどいいタイミングで渡し守カロンやケルベロスが登場します。プルトン(=ハデス)も地獄作品のたびに都合よく登場させられてたいへんだなあ。
ギリシャ神話本編ではあまり活躍しないハデスですが、オマージュ作品ではアポロンやアテナ以上に大活躍しているはずです。
ホメロスも、ソクラテスも、アレクサンダー大王も地獄にいます。クレオパトラも、地獄です。
ゲーム『ファイナルファンタジー』ファンの方には、第二十一歌に出てくる鬼の名は、FF4のゴルベーザ四天王に採られたスカルミリョーネ、バルバリシア、ルビカンテ、カイナッツォという名前の悪魔が登場します。
ファンタジーの悪魔の名前ってダンテの『神曲』からとられていたんですね。カルコブリーナも登場します。
一切の希望を捨てよ。我が門を過ぎる者!
ロダンの彫刻『考える人』でおなじみの地獄の門を抜けて、ダンテは地獄めぐりをします。
自殺した人も地獄にいます。キリスト教が自死を禁止しているからです。
暴力をふるったもの、神に逆らったもの、甘言や権力に尻尾を振ったもの、快楽におぼれたもの、地獄に行く人の条件は洋の東西を問わず、だいたい同じです。
インフェルノの地獄絵図はグロいものがありますが、ダンテの地獄よりも、日本の地獄絵図の方がずっとグロいものがあります。
往生要集に由来する日本の地獄の方がよっぽどグロいので、ダンテの地獄は少し控えめな感じが現代日本人にはするかもしれません。
地獄の最下層には美貌の堕天使ルシフェルが悪魔の姿で氷漬けにされています。
それはいいのですが、なぜか口に主イエスを裏切ったユダを罰するように咥えているのが謎すぎます。
裏切者ユダは悪なのだから、彼を罰するのは正義の仕事ではないのでしょうか?
なぜ悪の堕天使が、悪のユダをかみ砕いているのか、その理屈がよくわかりませんでした。
両者ともに苦しんでいるから、それでいいのでしょうか?
パラディーゾ・天国編
通常、ダンテの『神曲』はこういわれます。「パラディーゾ(天国編)」よりも「インフェルノ(地獄編)」の方がずっとおもしろい、と。
作家や脚本家がモノを書くときに「パラディーゾ(天国編)」を書いても面白いものにはならないんだから「インフェルノ(地獄編)」を書け、というように引用されたりします。
調和した人間関係や、ハッピーな人物を描くよりも、人間関係がぐちゃぐちゃだったり、誰かが苦しんだり恨んだり憎んだりした方が、ドラマは面白くなるという意味です。
人間はみんな幸福を求めているはずなのに、この嗜好は、いったいどうしたことでしょうかね?
私はダンテの原著も読みましたが、たしかにインフェルノの面白さにくらべると、パラディーゾは面白くありませんでした。キリストを信仰することの正しさを突き詰める衒学的な記述が多く、異教徒が読んでもあまり面白いものではありません。
天国のカタルシスもありません。
ところが……ところが、ところがです。谷口ドレ版だと、天国編こそが最高の見せ場に変わります。地獄編よりも天国編の方が読みごたえがあって面白いのです。
谷口ドレ版だと地獄編よりも天国編の方が読みごたえがあって面白い
原作では面白くないと評判の天国編が、谷口ドレ版だともっとも面白くなります。
ドレの挿絵では、天使には鳩の羽根が、悪魔には蝙蝠の羽根が生えています。谷口ドレ版では、天使がだんだん「神々しい光」と混然一体になっていきます。
「どのように在るか、ということが全てなのです。私たちは、ここで光るのです」
「光を見ようとすれば、私もまた光にならなければならない」
「まばゆさとは、私の目の奥にひろがる私の闇と光との落差なのだ」
「あえてわかろうとはしないことだ。どこから、誰が、何のために、そんな言葉は私の鏡をくもらすだけだ」
そんな感動的なセリフが続きます。
ダンテの原著に同じセリフが出てくるのかと思いましたが、原著にそんなセリフはありませんでした。
谷口江里也さんの抄訳、意訳だと思います。エリヤ、あなたは預言者か!?
「在るべき事を、為すべき事を、見るべき事を、あなたと共に」
「あり得る事を、なし得る事を、求め得る事を、あなたと共に」
ダンテは夭逝した最愛のベアトリーチェとともに、天国を眺めます。
「あるべきことを、なすべきことを、みるべきことを、あなたと共に」
そしてダンテはとうとう天国の主の前に立つのです。
「ありえることを、なしえることを、もとめうることを、あなたとともに」
このようなセリフは原著にはありません。
谷口ドレ版ほどの感動を、ダンテ原著はあたえてはくれません。
光降る。
歌声響き光降る。
智は光。
愛は光。
光は全て!
私は愛……
私は光……
そしてこれまで暗かった書物が光り輝くのです。
実際に書物が光り輝くわけがなく、すべては目の錯覚なのですが、これが本当に本が光っているかのようによくできています。
谷口ドレ版『神曲』は、本そのものが芸術作品のようです。
そして感動のフィナーレ。ダンテの原著とはまったく違う終わり方です。
ドレの挿絵なしでも、谷口の超訳なしでも、存在しなかった奇跡の名作
ドレの挿絵なしでも、谷口の超訳なしでも、本そのものが芸術作品であるような『神曲』は、完成しなかったでしょう。この感動をぜひ味わっていただきたいと思います。
ダンテの原著をいくら読んでも、この感動はあじわえません。
特に天国編のラストのカタルシスは、天国と地獄ほども違うものです。
ダンテ『神曲』を読むのも悪くありませんが、感動したいのならば、谷口ドレ版でないとダメなのです。
私は『フランケンシュタイン』のコラムで「原作をこえる二次創作もある」と語りました。谷口・ドレ版は二次創作というほど原作と違うものではありませんが、原作ごえしていることだけはまちがいありません。