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ここで書こうとしているのは「創作」「物語」のことである。「文学」ではない。文学だと「人間の真実を追求する」臭が漂う。
すると「この僕(=作者)」の現実の中に、戦争や未知の世界への冒険なんてひとつもないから、私にとってそういうものはリアルではないということになる。
すると「たわいもない日常を書こう」という輩が必ず現れるのである。真実とは日常そのものにある、のだから、という理論武装がなされる。作者としては「人間の真実を描いているつもり」なのだ。
こんにちは、ハルト@sasurainorunnerです。
ここで取り上げるのはジョイスの「ユリシーズ」である。
ユリシーズはオデュッセイアが下敷き
なぜユリシーズをとりあげたのか。
それは世界文学の古典「オデュッセイア」を下敷きに、ユリシーズを描いているからだ。ちなみにユリシーズというのはオデュッセイアの英語読みである。タイトルからして作者は下敷きを隠すつもりはない。
むしろ誰もが知る大冒険を、どれほど見事に調理してみせるか、作家としてのおれの腕を「見てくれ」という読者への宣戦布告のようなものだ。
古代ギリシアの大冒険を、現代アイルランドのありふれた日常に仮託して小説化している。
トロイの木馬を発案した知将オデュッセウスの10年にも及ぶ大冒険(漂泊)が、平凡な小市民の一日に対応して描かれているのだ。
これは日本でいえば「西遊記」に描かれたエッセンスを平凡な江戸時代の庶民の一日の中で描きつくす試みのようなものである。物語の終わり、孫悟空は「仏」になる。わずか一日で庶民を仏にするのは容易ではあるまい。私だったら念仏でも唱えさせようか。なむなむ。

神話を平凡な一日を仮託するというのは具体的にどういうことか。
たとえばギリシア神話の冥界を墓地に、冥府の主ハデスを墓地の管理人に、冥界の番犬ケルベロスを会葬に立ち会う神父に、という風に役割を割り振って日常に寄せていくわけだ。
オデュッセウスが航海の途中で遭難し打ち寄せられた孤島の美女ナウシカは、通りすがりの色っぽい若い娘。
なんとオデュッセイアの故郷イタケー島は「自宅」である。やっぱりね。
トロイア戦争の勝利から故郷へ帰るためのオデュッセウスの10年に及ぶ苦難の大冒険は、平凡な中年男が自宅に帰る話しになっちゃっているのだ。
物語よ。小説よ。これでいいのか!?
この世界は奇跡。すべての一日が神話に匹敵する。そりゃそうだけど、だからってそれでいいのか。
作者の主張を斟酌すればこういうことであろう。
「生きていることは奇跡のようだ。この世界は神話に等しい。オデュッセウスがイタケー島に帰ったように、誰だって一日の終わりに自宅に帰る。それが真実の暮らしでないなら、私たちの人生とはいったい何なのでしょうか」
すべての一日が神話に匹敵する、というわけである。
主張はいちいちごもっともであるが、どうです。みなさん。こういう物語を読む気になりますか?
とてもじゃないが、私は読む気になれません。っていうか、どうせ読むなら原点のオデュッセイアが読みたい。
オデュッセイアは大冒険の別名
オデッセイとは、ただの「オデュッセイア」の意味ではなく、壮大な物語を差す一般名詞にさえなっている。
「さあ。オデュッセイアのはじまりだ」と言ったら、冒険をはじめようという意味です。
映画「2001年宇宙の旅」の現代は「スペースオデッセイ2001」。
この冒険、困難なことこの上ない。ただ故郷へ帰るだけなのに。
なぜならオデュッセウスは海神ポセイドンに嫌われて、帰宅を邪魔されているのだ。
ポセイドンだよ。神話中ナンバー2の神様に邪魔されているのに、どうして生きていられるというのか?
捨てる神あれば拾う神あり。
戦いの女神アテネや、空を飛ぶ靴を履くヘルメス神などの神様に助けられるからである。
この時代の物語は、人間が戦っている上空で、神様が空中戦をやっているイメージだ。
主人公が勝つのは主人公に味方した神が勝つからであり、主人公が負けるのは主人公に味方した神が負けるから、なのである。
何事も神次第なのだ。
立派に宗教していたのである。ギリシア神話はたんなる物語ではない。
寄港する島ごとにトラブルが発生。アニメ「ワンピース」のようなストーリー
家に帰るという目的のために航海する。寄港する島(遭難して流れ着く島)ごとに大事件があり、生存を脅かすような怪物がいる。そいつを倒して事件を解決して次の島へと進んでいくわけだ。
まるでアニメ『ワンピース』のような物語。それがオデュッセイアである。
オデュッセイアは紀元前8世紀の作品であるから、ワンピースはオデュッセイアの2800年後の作品ということになる。
クロコダイルやゲッコー・モリアやドフラミンゴの代わりに、一つ目の巨人キュクロプス、サイレンの魔女、怪物スキュラなどが登場する。
どうです。これぞ物語ではありますまいか?
「日常が真実」ならば本を読むより、自分が体験した方がいい
そもそも「たわいもない日常」だったら、自分だって経験している。
何も本を読む必要はない。本を読むよりも自分が経験した方が面白い。
日常が真実ならば、真実を生きることだってできる。
リアルでヒリヒリした肌感は、リアルワールドでしか味わえない。
文字よりも肉声からもらう情報の方が人間にとっては情報量が多いと言われている。感情というのは文字からよりも言葉そのものから伝わるのだ。
ヒトラーが「我が闘争」の冒頭で、文章に書かれたものよりも演説の方が人の心を動かすというような内容のことを述べているが、これは活字よりも肉声の方がはるかに感情を届けるからだ。
二次元ではなくリアルワールドなのだ。
上記のように私は「日常」を描こうとする作家のスタンスには賛同できない。
むしろ宮崎駿監督のように魔法と空中浮遊とインドラの矢を描いた作品こそ見たいと思うのだ。
子供だましのB級作品だって?
本当にそうだろうか。人間の「つながり」のようなものは極限状態でこそ輝くものだ。
追い詰められ、虚飾を剥ぎ取られ、一番大切なものしか選べないときに、人間の真実は輝くものだ。
真実を暴くには装置がいる。
それこそが虚構ではないだろうか。
果敢な冒険の物語のなかにこそ、「人間の真実」がまざまざと描出されたりするものなのだ。
だから「ユリシーズ」ではなく「オデュッセイア」なのである。