ドラクエ的な人生

マルセル・プルースト『失われた時を求めて』の魅力、内容、あらすじ、書評、感想

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岩波文庫の編集を高く評価する。

岩波文庫でマルセル・プルースト『失われた時を求めて』を読んでいます。編集がとてもいいですね。とくに脚注が同じページにあるのがひじょうに読みやすくていいです。編集方針を高く評価したいですね。

林芙美子『放浪記』老境の改作は改悪。作品はいちばん売れたバージョンこそ残すべきだ

私の場合、読書は疾走感を重視してるので、注釈は後ろにまとめて表示されてあってもいちいち読みに行きません。編集上は注釈は後半にまとめる形式のほうが編集者の仕事としては楽だと思うんですが、当該ページにある方が読みやすいものです。ぜひ他の書籍も見習ってほしいと思います。とくにこれからはデジタル書籍がライバルですから、クリック一つで注釈に飛べるデジタル機器とたたかうのなら、そのぐらいのサービスの労はとるべきでしょう。

また絵画通のプルーストが地の文で言及される絵画が、その都度紹介されているのもひじょうにいいと思います。現在はインターネット画像検索で当該絵画をすぐに探せますが、それでもとても読みやすいと思いました。

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長い小説を読むのはマラソンを走るようなもの

ところで岩波文庫『失われた時を求めて』は全14巻です。長い! じつは「もっとも長い小説」としてギネスブックに登録されているそうです。

これまでに読んだ最長の本は何ですか? 読書はマラソンに似ている。

私は長い小説を読むのはマラソンだと思っています。1行読めれば10行読める。10行読めれば100行読める。100行読めれば1,000行読めるし、1,000行読めれば時間さえかければどれほど長い小説だって読破することができます。それはどんなに長い距離を走る時にもまずははじめの一歩からというマラソンそのものでしょう。

私的個人的・世界十大小説。読書家が選ぶ死ぬまでに読むべきおすすめの本

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【まんがで読破】失われた時を求めて。大長編のあらすじを先に知る

なにせ大長編です。まずは漫画であらすじ、内容を頭に入れておきましょう。

中年作家が昔のことを思い出すという設定です。コンブレーのふたつの散歩道は、お金持ちのスワン家の方と、由緒ただしいゲルマント家のほうの二つがあります。人気あるユダヤ人スワン。恋するのは高級娼婦オデットで後に妻となります。主人公は娘のジルベルトとの初恋を経験します。ゲルマント家のシャルリス男爵は男色でした。その恋人のシャルル・モレル。

サン=ルー公爵は女優のラシェルにあしらわれています。そのサン・ルーはなんとジルベルトと結婚するのです。モレルとの男色も経験します。

海辺の娘アルベルチーヌはレズビアンでした。夏の終わり。楽しかった日々を思い出す。アルベルチーヌを手に入れるが今は愛していないのでした。別れた直後に事故死してしまいます。喪失感、愛していたと泣きます。

ウィルパリジ公爵は祖母の同級生でした。主人公は社交界で人気者になろうとします。さあ挨拶してこよう。ただ会話するだけだから大丈夫。ヴェルデュラン夫人から招待状を受け取ります……。

時が過ぎていきました。

戦争が人の心を焼きつくしてしまいました。脳卒中のシャルリス男爵。ヴェルデュラン夫人は再婚どうしでなんとゲルマント大公夫人となっています。

以前と違う。これは……私の失われた時だ。

感じたものを書き残せばいいんだ。その幸福感を、感じたものすべてを。失われた時の中から見出せばいいんだ。主人公は作家たろうとします。

サン・ルーとジルベルトの娘。それはスワン家とゲルマント家の融合でした。二つの散歩道だった貴族とお金持ちの道はひとつになっていたのでした。彼女は私の青春そのものでした。今や私は時空を超える存在となったのだ。

永遠の命は芸術にも人にも約束されてはいない。あの感覚……あの瞬間! 音も味も感触もすべて思い出すことができる。今まで一度たりとも止まることなく流れてきた時間……それは私だけのものではなく、この世のすべての人々に今も脈々と流れ続けているのだ。

こうして私は再び歩み出す。失われた時を求めて。

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『失われた時を求めて』の内容。書評、感想。

語り部の「私」は、官房長の息子です。エリート階級の出身なので、貴族が主催するサロンにも出入りすることができるのでした。社交界に出入りする人士たちは、サロンを軽蔑しつつも、招待されることが何よりも大事で、噂話などくだらないことに精力をついやし、人が老いるようにサロンにも勢力争いと栄枯盛衰があるのでした。そんな中で芸術家志望の「私」はいったい何を考えるのでしょうか?

スワン家のほうへ(コンブレー)

どんな人たちと付き合える地位なのか。生まれたときから両親の階級に位置付けられ、例外的な経歴や望外の結婚といった偶然がなければ、そこから抜け出して上位のカーストに入ることはできない。

すると突然、想い出が私に立ちあらわれた。その味覚は、マドレーヌの小さなかけらの味。味わうまではなにも想いだすことがなかった。長い間放置されたさまざまな想い出にはなにひとつ生き残るものがない。匂いと風味が想い出という巨大な建造物を支えてくれるのである。

→ 匂いや味覚によって過去を思い出すという有名なシーンです。『失われた時を求めて』は時間や記憶といったものがテーマとなっている文学なのです。失われた時への回想へと入っていくのです。

フランソワーズの女中仕事のわずらわしさと苛立ち。本を読んで涙した記述と同じ苦痛を現実に目の当たりにしても、不平や嫌味しか思いつかない。

年老いてすべてを諦め、サナギの中に閉じこもって死をむかえる準備をすること。長寿の人の生涯の終わりによく見かけることである。恋人も友人も、ある年から旅行や外出をしなくなり、手紙のやり取りも途絶え、もうこの世で連絡を取り合うことはないと悟るのだ。

作曲家ヴァントゥイユ。お嬢さんのために生き、お嬢さんのために死んだのに、報われなかった。

スワン家のほうへ(スワンの恋)

(スワンは)オデットを愛するようになってからというもの、女に響き合うものを感じ、ふたりで一心同体となるべく努力するのが実に心地よく、女の好きなものを気に入るように努め、女の意見を我が意見として採用することにきわめて深い歓びを感じた。

女にモテるただひとつの方法

今や嫉妬のおかげで勤勉だった青年時代の真実探求の情熱がよみがえったのである。ただし真実といっても自分と愛人のあいだに介在する真実である。完全に個人的な事実であり、オデットの行為や交友や今後の計画やこれまでの過去を対象とし、それに無限の価値をあたえ、そこに無私の美が存在すると考える真実である。

愛想よくしていればよかったんですよ。そうしていれば、いつまでもここに居られたのに。どんな年をとった人にも、お仕置きは役に立つんです。

オデットへの嫉妬、関心や悲しみもおのが心の中に病気のように存在するだけで、病気さえ治れば、オデットの行為や他の男に与えたかもしれない接吻も、他の女のそれと同じく無害になるのが理解できた。

すべてを疑ったあげく、疑いようのない現実はひとりひとりの嗜好だけ。

大勢が集まる場所に出かけたスワンが、いまや人嫌いになり、ひどく傷つけられたからといわんばかりに男たちとの交際を避けるようになった。あらゆる男がオデットの恋人になる可能性があるというのに、どうして人嫌いにならずにいられようか。

恋心などは本人にとってしか存在しないもの、それが実在する外的証拠はどこにも見いだせない主観的状態にすぎない。

辛かったのはオデットが完全に不在の場所にいつまでも追放の身になって閉じ込められることだった。

おれを愛していたはずの数か月の間ですら、すでにオデットはおれに嘘をついていたのだ。

土地の名ー名

告白する歓びを断念することでいっそう相手の好意を惹こうとする。これなどは日本の庭師が一輪の見事な花を咲かせるために残りの花はどんどん摘んでしまうのに倣ったものといえよう。

→ プルーストは独特な比喩をもちいます。たとえばこのように急に日本の庭師の話しを持ち出して状況を説明しようとするのです。すると読者は状況の理解が深まるばかりでなく、急に日本の庭園の風景が頭に浮かんで、文章が多彩で豊かになるのでした。長大な文章を退屈させないで読ませるためにはこのような比喩が有効です。「お手伝いさんが、ご主人様の行動を断片的に観察して間違った結論を導き出すことは、人間が動物の生態に関してやっていることと同じである」というように比喩るわけですね。

あるイメージの思い出とは、ある瞬間を哀惜する心にほかならない。そして残念なことに、家も、街道も、大通りも、はかなく消えてゆくのだ。歳月と同じように。

花咲く乙女たちのかげに(スワン夫人をめぐって)

粋筋の女(高級売春婦)オデットとスワンは結婚します。

スワンとオデットの娘ジルベルトに主人公は恋をします。そして相手の気をひこうと「もう会わない」行為にでます。そしてジルベルトの心をいろいろ想像するのでした。そこに反映しているのはジルベルトではなく「自分の心」だというのに。

高揚して書いた文章の高揚感は、読む人にも伝わるはずだと思っていた。ところがノルポア氏には伝わらなかった。

言葉でものをつたえることの難しさ

アラブのことわざ「犬が吠えるのを尻目に正体は進む」(ねたむものにはいわせておけ)

(自分に)惚れてる男には何をしても構わない。ばかなんだから。

私は「時間」の外にいるのではなく、むしろ時間の法則に縛られているのではないかという疑念である。小説家は時間の流れを感じられるように読者に二十年、三十年という歳月をわずか二分で通過させる。突然、私は自分が「時間」の中にいることに気づき、悲しみを感じた。本の最後に「男はますます田舎を離れられなくなり、とうとうそこに住みついてしまった」などと書かれる人物になったような悲哀を感じたのである。

理性などそれ自体としてはさして重要でない手段に過ぎない。知的な人には愚か者と異なる健康管理が必要とはとうてい思えなかった。

ひとりきりなのはうわべだけで、スワン夫妻の気に入ってもらえそうな言葉をひねりだし、目の前にいない相手の立場に立って自分で自分に架空の質問を投げかけ、当意即妙に答える。このような訓練はやはり会話であって瞑想ではなく、孤独とはいえ心の中でサロン通いしているに等しい。

サロンって何だ? 社交界って何だ?

この人たちの軽はずみなおしゃべりを憎んだ。害をあたえようとか役に立とうとかの意図があるわけではなく、理由もなくただ話したいだけ。

けだし人が語るのは自分が言いたいと感じていることで、それが相手に理解されることはないから、つまるところ自分のためだけに語っているにすぎない。

「結婚は人生の墓場だ」は男女の脳差の断絶に絶望した者が言った言葉

本人のそばにいないと始終、不安をおぼえることになるからだ。こうして女はわれわれに新たな苦痛を強いて支配力を増大させる。

二人の婚約のためにジルベルトが誰かにとりなしを頼むだろうと想像する。

想い出があるからこそ私はジルベルトに戻ってほしいと願っていたのである。しかし私はそのような過去の死滅からはいまだほど遠い所にいた。

花咲く乙女たちのかげにⅡ

私は、官房長の息子。エリート階級の出身。

友だちとのおしゃべりに二三時間を費やし、相手が私の言ったことに感心してくれても、私はひとりきりになっていよいよ仕事にとりかかる準備をしなかったことに一種の後悔と無念と徒労を感じた。

そんな時間は幸福に思わなければならない。幸福を感じなかっただけにその幸福が永久に奪われることがないよう強く願わずにはいられなかった。人が何よりも自分の外部にある宝の消失を恐れるのは心がその宝を我がものにしていないからである。

→ 仏陀が説法につかいそうな典型的な悩みの例です。こういう場合、仏陀は、その幸福に執着するから苦しむのだ、と語ったのでした。過ぎゆくものをあるがままに見つけるだけで拘泥しないことを悟りだと言ったのですね。

ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』人生の意味、意義はフィクション。おのれが選んだ物語

妬みが侮辱的発言となって顕在化する場合「あんなやつとは知り合いになりたくない」(情念)という文言は「あの人とは知り合いになれない」(知性)と翻訳しなければならない。相手との差を抹消するには、それで十分。

実際には未知の快楽などは存在しないのかもしれず、近づけばその神秘も消滅し、つまるところそれも欲望の投影にすぎず、蜃気楼にすぎないのかもしれない。

よろこびを欠くからといって文章の価値を否定することはできない。もしかするとあくびをしながら書かれた傑作だってあるのだろう。作品を書きあげる目的を、どんな快楽よりもはるかに重要と考え、自己を制御していた。

ある女性を愛しているとき、われわれは相手に自分の心の状態を投影しているだけであり、それゆえ重要なのはその女性の価値ではなく自分の心の状態の深さであり、それゆえつまらぬ娘のあたえてくれる感動の方が、すぐれた人と話したり、あたえられる喜びよりも、我々自身のずっと内密で個人的な、また深遠で本質的な部分を意識の上に浮かび上がらせることがあるのだ。

→ 岡本太郎のピカソのエピソードのようです。「岡本太郎を泣かせるピカソって凄い」といった人に岡本は「同じ絵でも君は泣いていないじゃないか。凄いのはピカソじゃない。泣くオレが凄いんだ」と言ったとか。惚れた女が凄く魅力的なんじゃなくて、そこまで惚れることができることが一種の才能なんだというわけです。『マノン・レスコー』ではマノンが凄いんじゃなくて、そこまで惚れ切った騎士グリューが凄かったんですね、やっぱり。

史上最高の恋愛小説『マノン・レスコー』の内容、書評、あらすじ、感想

つぎつぎと激しい不安が湧き起こり、それだけでほとんど何も知らないその女性が愛の対象となる。その愛に現実の女性がほとんど関与していないことなど一顧だにされない。不安こそ愛のすべて。

それほど恋愛においては、われわれのもたらす寄与が、愛する相手が我々にもたらしてくれる寄与をはるかに凌駕する。

あっというまに期待するものが何もなくなり、身体が柔軟さを失って動かなくなり、もはや思いがけない変化のありえない時期がやってくる。あらゆる希望が失われる時期である。この輝かしい朝があまりにも短いがゆえに、人は貴重なパイ生地のように肉体がいまだ発酵しているごく若い娘だけを愛するようになるのであろう。

→オレは熟女もいいもんだと思うけどなあ(笑)。プルーストは若い子じゃなきゃだめみたいです。かつて若い頃に愛した女も熟女になるともう何も感じない。むしろ太鼓腹の陸軍元帥みたいな女(笑)と徹底的にけなしています。

熟女いちご狩り。食べ頃イチゴの見分け方

ある顔は——女の顔というより兵士の顔に見える。ある人は使徒の顔になる。別の顔は長年にわたる試練と波乱を経て老練な船乗りの顔になり、着ているものでようやく女だとわかるにすぎない。

楽園で一日を過ごすために、社交場の楽しみ、友情の楽しみを犠牲にする。友情は自己を放棄することにほかならない。会話も浅薄なたわごとであり、なんら獲得するに値するものをもたらしてくれない。生涯の間喋りつづけても空虚を無限に繰り返すほか何も言えない。それに対して芸術創造という孤独な仕事における思考の歩みは深く掘り下げる方向にはたらく。

友人のそばにいると心の奥底への発見の旅をつづける代わりに自己の表層にとどまって退屈を感じないではいられない。

人間というのは、外からさまざまな石を付け加えてつくる建物ではなく、自分自身で上層に葉むらを伸ばしていく樹木のような存在である。

こうしてアルベルチーヌははかない記憶から脱げ出し、私の目の前で再構成されるのだった。

私はいつか死ななければならず、その死の後も自然の永遠の力は生き残り、私などは一介の塵にすぎず、私の死後も世界はやはり存続するのだと教えてくれたとしても、私は憐憫の冷笑を浮かべたことだろう。どうしてそんなことがありうるのか? 私が世界の中に紛れているのではなく、世界が私の中に閉じ込められているのだ。

アルベルチーヌに接吻しようとすると呼び鈴を鳴らされる。私が受けた屈辱。

アルベルチーヌの考えを知りたいという好奇心も本人に接吻できるという確信が消え失せるとともに消滅した。さまざまな夢想と肉体所有の願望とは無関係だと思っていたのに、その夢想は肉体所有の願望から糧をあたえられなくなったとたんアルベルチーヌから離れた。

私の恋心の核心はこのときの印象をつうじて形成されはじめたからである。

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主人公ツバサは小劇団の役者です。

「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」

恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。

「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな

アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。

「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」

ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。

「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」

惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。

「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ

劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。

「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も

ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。

「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」

ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。

「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」

「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」

尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。

妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ

そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。

「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」

そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。

「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」

そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。

「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」

「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って

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ゲルマントのほうⅠ

私の志望が文学であると知って、うちにいらしゃればいろんな作家と会えますよ、と言い添えてくれた。

どの召使も私の性格の飛び出た部分によって痛めつけられることがないように、自分の性格の対応する箇所にそれを受け入れるへこみをつくる。

→私の男女論と同じことを言っています。男女の魅力は絶対値ではなく相対値、男と女は鍵と鍵穴です。

勉強ができるよりも、異性にモテる方が、よっぽど人生を幸せにする

人間とはわれわれの決して入り込めない影、その影を直接に知りうる手立てはない。発言も行動も不十分な情報でしかなく、そもそも相互に矛盾しているから、どちらをとっても真実らしく思える。

(ゲルマント夫人に)恋したとたん、自分が人知れず所有する特権をすべて愛する女性に知らしめたいと願う。

→ええかっこしたがる、自慢したがる心理ですね。

沈黙は愛されている側の人間によって意のままに行使されると恐ろしい力を発揮する。待つ者の不安を募らせるのである。

→友達に「しかと」されて辛いのは、その友達を必要としているからでしょう。必要のないどうでも相手だったら、別に沈黙されても何とも思いません。

夢の中で突然、愛人が悦楽の瞬間にいつも断続的に規則正しく漏らすあえぎ声がはっきりと聞こえてきたという。

→関係ないけど、脚注に登場するフランソワ=オスカル・ネグリエ。アンドレ将軍。ベルばらの名前はここから採ったのかしら?

『ベルサイユのばら』(アニメ)の主人公はマリー・アントワネット? Wikipediaの間違い発見!

→当時は時代の最先端で珍しかった電話の描写が登場します。顔を見ないで声だけ聴くという体験が新鮮のようで、電話シーンに数ページを費やしています。会って話している時の印象と声だけの印象は違うことがたんねんに描かれています。今の作家が絶対にやらないことです。古い作品ならではの描写です。今なら生成AIの文章力に驚く描写がそれに匹敵するかもしれませんね。

私からすれば祖母はいまだ私自身であり、祖母を見る時は必ず私の心の中の常に変わらぬ過去の場所にそえつけ、もろもろの思い出の透明なプリズムを通して見ていた。それが別の場所に浮かび上がり、あっという間に消え去った。

男がそのために生き、苦しみ、自殺する相手の女たちの多くにしても、その女自身は、またほかの男たちの目から見たその女は、私にとってのラシェルと同じようなものかもしれない。(娼婦の)ラシェルがどんなに多くの男と寝ているか、私はそれをロベールに教えてやることもできた。

私はいらいらした。私としては——それは間違いだったが——そんな俳優とくらべて愛人の方が劣っていると思い込んでいたからである。われわれは隠れた天賦の才に対してではなく、既得の地位にたいして相応の敬意を払うことを求めるからである。

ゲルマントのほうⅡ

人は出身階級ではなく、自分の精神が属する階級の人たちと同様のしゃべりかたをする。

私としては貴殿のごとき高名なお方があらかじめ負け戦とわかっているものに乗り出されるのを放置するわけにはゆかないのです。

国家も利己主義と策略のかたまり。友人や家族との関係は不動のように見えてもそれはうわべだけで、じつは海と同じように果てしなく揺れ動いていることである。おしどり夫婦、離婚の噂、愛情、刎頸の友、卑劣な悪口、仲直り、国同士の同盟関係も同じ。

自分の行動でもごく身近の人にさえ知られることがないのに、言ったことさえ忘れているようなこと、いや一度も言わなかったようなことが、別世界にまで伝わって哄笑を引き起こすのだ。他人の抱くイメージが当のわれわれ自身の抱くイメージと似ても似つかぬのは、あるデッサンと下手な転写が似ていないのに等しい。

ほんのきっかけで真逆の判断をする。それでも私は数時間の差はありながら、同一の人間だったのである。

結局われわれは自分の暮らす樽の底で、ディオゲネスよろしく人間を求めているのだ。我々がベゴニアを育てるのも次善の楽しみというべきで、ベゴニアがされるがままになるからそうしているにすぎない。だがわれわれは、その労に見合うなら、むしろ人間という灌木に時間を割きたいと思う。

→ 私は思うのですが、ペットに異常な愛情を注ぐ人っていうのは、ベゴニアを愛するような人なのではないでしょうか。生まれてまっさらな自分が、はじまりの願いとして、人よりも犬や猫との絆を心底のぞんだとは思えません。人との関係で裏切られ、傷つき、無意味さや徒労を感じ、もともと人間に向けていたはずの愛情を、違う種類の生き物に、それがされるがままになるから代償的に向けているという気がします。

社交界には出入りしないことだ。あなたが歓迎されるにふさわしいすべての館の門を開く鍵は吾輩が握っておる。

奇癖をもたぬと大得意ですが、自分には自分だけの奇癖があって、そのおかげでべつの奇癖を持たずにすんでいるとは考えもしない。あらゆる宗教を創始し、あらゆる傑作をつくったのは、神経症の人であって他の者ではありません。

→祖母の尿にたんぱくがでる。尿蛋白。そういう病気が、1900年ごろにはもう知られていたのには驚きました。まだ紫外線療法なんかやっている時代だというのに。

死んだ作家は、その名声も本人の墓石のところで止まってしまう。永遠の眠りについて耳は聞こえず栄光に煩わされることはない。

世界は一度だけ創造されたのではなく、独創的な芸術家が現れるたびに何度も創造しなおされる。女たちも昔の女とは違って見えるが、それはルノワールの描く女だからであり、ルノワールの描いた森と今やそっくりの森を散歩したい欲求にかられる。この世界はさらに独創的な新しい画家や作家がつぎの地殻の大変動をひきおこすまでつづくだろう。

→新しい視座を芸術はもたらす、という意味です。

不安げな、嘆くような、取り乱した目つきとなり、それはもはや昔の祖母のまなざしではなく、くどくど繰り言を言う老婆の陰鬱な目つきであった。

長い歳月がすこしづつ破壊したはずの、無邪気な陽気さがただよっている。生命は、立ち去るにあたり、人生の幻滅をことごとく持ち去ったのだ。死は、中世の彫刻家のように、祖母をうら若い乙女のすがたで横たえたのである。

ゲルマントのほうⅢ

たしかに私はちっともアルベルチーヌを愛していなかった。

→「私」のアルベルチーヌに対する気持ちには疑問を感じざるをえません。「それが愛と言えるのか?」と問いただしたくなります。

恋が恐ろしいのは、われわれを外界の女性とではなく、まずはこちらの脳裏に住まう人形とたわむれさせる点にある。そんな人為的につくられた女性に、われわれは現実の女性を無理やりすこしづつ似せようとして苦しむはめになる。

すべてを捧げたくなる女性がすぐに取って代わるせいで、人は手に入れたばかりのものを将来の当てもなくつぎつぎに投げ出してしまう。

→モテる人は「次がある」とひとりの恋人に執着しない意味です。しかし替えがきくなら愛とは何でしょうか?

ほんのすこし事情が違えば、その大恋愛も別の女性に、つまりステルマリア夫人に向かったかもしれぬ。

ゲルマント家のメンバーにとって聡明なことは、絵画や音楽や建築について相手に反駁でき、英語が話せることであった。

こんなものはたんなる浮気にすぎないのだから妻のサロンに招待してやることもない。

なぜせめて読書中くらいは醜いものを忘れさせてくれないのでしょうか?

自分の想像力の本性を認識する。劇場であれ旅先であれ恋愛であれ、他者から幻滅を味わうのは避けられないことだ。

招待者リストに私を入れずに舞踏会を開催すれば公爵夫妻に敬意を欠くと考えるようになった。

昔はゲルマントという名から思いもよらぬ暮らしを送る夫妻を想像したものだが、いまでは他の男や女となんら変わらぬ存在になってしまった。いまや私の知るあらゆる人と同等かそれよりも劣る知性を備えるありきたりの印象を私にもたらした。

思想をむき出しのかたちで表明していた。さあどうぞお名前を。思想の方は結構です。

→こういうプルーストも作品のラストで自分の思想(作品に対する態度)を剥き出しに表明しています。けっきょくすべての登場人物は作者の分身だということでしょう。

もう二度とお会いしたくない以上、あと五分だけ長くいても仕方がない。

私が口をきかない限り誰一人招待されない。自分だけで頼めないもの、できないもの、望めないもの、学べないものがたくさんある。

スワン「親しいお方ですから申し上げましょう。その何カ月も前に死んでいるからです」

公爵は瀕死の病人を前にして、なんら気兼ねなく妻と自分の体調不良のことを語った。自分たちの体調不良の方がよっぽど気にかかり、相手の病状よりもその方が重大事に思えたのである。

ソドムとゴモラⅠ

支離滅裂だった気持ちが理解できる明白なものとなった。文字がデタラメに並んでいると何の意味も示さない一文が、文字を並べ替えるだけで二度と忘れ得ぬ考えを表出するのと同じである。

愛の希望があるからこそ幾多の危険や孤独を耐え忍ぶ力が湧いてくるのに、思いを寄せる相手が倒錯者でない以上、この恋人の欲望は決して充たされないだろう。

ソクラテスも倒錯者のひとりだったと指摘するが、同性愛が正常な状態であったときには異常なものは存在しなかった。

医者というものは自分の診断が当たるのをよろこぶよりも、それが否定されるのにことさら不満といらだちをおぼえるものである。

すばらしい夜会だと興奮しているふりをしながら、そのじつ何をしていいのかわからないでいた。

パーティーに呼ばれないと、いったいどんなことで機嫌をそこねたのかと頭を悩ます。招かれると大好きになり、排除されると大嫌いになる。招待漏れに対しては意志表示の意図的棄権という形で応える。人の評価など畢竟あやふやなもので、その人から招待されたかされなかったかで決まるようなところがある。

スワンは私が間違っていたと認めざるをえないようなことをしてくれた。あんなドレフェスなどの味方をして。

自分が口にした面白くもないことで大笑いする人は、その哄笑を自分で一手に引き受けてしまい、相手を哄笑に加われなくするものだ。

→お笑いタレントは自分で笑っちゃダメ、という、なかなか面白い指摘だと思います。サロンの会話の極意は現代のお笑いにも通じますね。

どこか紹介してほしいサロンがありまして?

ひどい肉体的苦痛がベルゴットに摂生を強いた。病気というものは患者にいちばん言うことを聞かせられる医者であって、親切や学識に対してはお茶を濁す人でも、苦痛にはおとなしく従うものだ。

「どうして反ユダヤ主義者に紹介してもらうような卑屈なマネをするんだ」社交人士たちはふだん皆からちやほやされていて、こんな傲慢にも無礼にも慣れていない。

心を張り裂けんばかりに膨らませながらはじめて生きた真の祖母を感じたことによって、つまりようやく祖母を見出したことによって、祖母を永久に失ったことを知った。どんな偉人の才能も祖母にとっては私の欠点のひとつにも値しないと思えたほど、私のみを対象とし、私のみを目的とし、つねに私へと向けられていた愛がある。どんなに接吻を浴びせても祖母を慰めることが永久にできなくなった今、その言葉に引き裂かれるのはこの私だった。

生者はしばしば死者にとりつかれ、死者そっくりの後継者となって死者のとぎれた生を継承するのだ。

メメント・モリ。死を忘れるな

私はまだアルベルチーヌを愛していなかった。ひとときの快楽をあたえてくれた女友達の数は十三人。アルベルチーヌを数え忘れていた。

女へと向かう我々の欲望は、つねに同じ力強さを備えているわけではない。その女なしには過ごせず悶々とする夜があっても、その後ひと月もふた月もその女に欲望を覚えないこともある。肉体の交わりでひどく疲れて一時的に老衰しているとき。

まるで診察をしているときのように、ただちに意見を言うのは控える。

往々にして愛が生まれる原因になるのは相手の肉体的魅力よりも「だめ、わたし今夜はふさがっているの」というたぐいの言葉である。

鉄道ができて以来われわれは汽車に乗り遅れないために時間を分単位で勘定することを覚えた。

上品な社交界では小説家や詩人にはめったにお目に掛かれない。これら至高の人間は、ほかでもない、言ってはならぬことを語る人種だからである。

嫌だからじゃないの。人に言われて自分の意志を変えるような人間じゃないって示したいのよ。

しかしアルベルチーヌが愛したかもしれない女たちによってかき立てられた私の嫉妬ははたとやむことになった。

→作者のプルーストはホモセクシャルだったといわれているのですが、主人公私は女性に恋します。ところがその女性はレズビアンで、主人公は女性に嫉妬するのです。まるで恋人の男を他の女にとられるのを気に病む女のように。

心の間歇=回想の不規則で断続的な現象。いかなる悲嘆もふとよみがえることがある反面、いずれそれも忘却の彼方へ押しやられてしまう。

ソドムとゴモラⅡ

→ここでいうソドムとはダンショクのこと。ホモセクシャルです。ゴモラとはレズビアンのことなのでした。相手がすばらしい人間であれば性別は問わない、といった立派なことが言いたいのではなく、ただひたすら性的倒錯者のことをプルーストは描きます。

幸福が完全に得られないのは幸福を感じる側に原因があって幸福を与える側に原因があるわけではない。その事実を気づかない年齢、その年齢を越えられない人たちがいる。

われわれが毛嫌いするのはこちらとは正反対の人間ではなく、こちらに似てはいるが劣っている人間、こちらの悪い面を露呈し、こちらが矯正した欠点をあらわにして、現在のわれわれが過去において人にどう思われていたかという不愉快なことを想いださせる人間なのである。

→私は恋愛に未熟な人間、性に奥手な人間に、プルーストと同じ感情を抱きます。だから彼の言っていることがとてもよくわかります。

そもそもコタールは引っ張りだことはいえぬ男であるがゆえに、出かけてゆくのを絶対の義務と心得ていた。

その後の十年の間に例の娘は色あせている。もはや自分には気に入られるだけの魅力も、愛する力もないと感じる。来るべき永遠の休息は、外出もできず話もできない期間をすでに設定している。

あの人のことは大好きでしたが、それ以上に家内の方を愛しているからといって恨まれるいわれはありますまい。

モレルは身分から自由になって、普段は相手をばかにしたようになれなれしく振舞って悦に入っていた。

私は相手から何かを期待したり恨んだりせず、人間の多様性をそれとして楽しむ傾向があった。

ありきたりの愚かな小物ならきっとそうするだろうが、ご注進におよぶというような卑劣でケチな快楽に走ることはやめてもらいたい。

命令に従っているときは、未来は我々の目に隠されているが、それをやめたとたん、ようやく人は本格的に大人として、人生を、めいめいの意のままになる唯一の人生を生き始めるのである。

付和雷同の本能と勇気の欠如はあらゆる群衆を支配し、あらゆる社交集団を支配している。ばかにされている人を見ると皆がその人をあざ笑い、同じ人がほめそやされると皆がその人を崇拝する。

格段に優れた能力を備えていたとしても、社交生活以外のところで自己を実現する力はないので、招待されればうれしく、認められなければ不機嫌になるだけ。

田舎では久しくあっていない人と出会ったり人に紹介されたりするのが、パリで暮らしているときのようにわずらわしいことではない。

夫人ももし閉ざされた雰囲気とは別のところで出会ったなら他の人たちとなんら変わらぬ存在に見えたかもしれない。

夢想を誘う鉄道の旅を好んでいたがゆえに、自動車を前にした時のアルベルチーヌの感嘆を共有できなかった。

幻影ばかりを追うのが、つまりその現実の大部分が私の想像の中にある存在ばかりを追うのが私の宿命だと思い出させてくれた。必要とするのは幻影なのだ。

幸せな平穏が危うくなり、私の嫉妬がぶり返すぐらいなら、アルベルチーヌに会うのは控えた方がいいと考えた。他人という存在はわれわれとの位置をたえず変えているのだ。

青年にとっては性的倒錯が女性にとっての売春と同じほどに差し迫った危険。

私が気にかけるのはただ一人あなただけで、それはあなたを愛しているからだが、しかし愛情にも限りがある。あなたもこのことに気づくべきでしたな。

社会生活上のあらゆる災難を嫉妬によって説明する理屈。

あなたが勝手な思い込みで偉くなったつもりでいても、それで私の価値が下がるわけじゃないんだ。相手に合わせて身を低うしてやるのは、落ちぶれるのとは違うんだ。

私は内心ほくそ笑んでいた。これでアンドレがこちらに飽きることはなく、アンドレの愛情を楽しく心おきなく享受できるだろう。

僕の妻になる人は車だってヨットだって持てるんだ。この点、ドライブもヨット遊びも大好きな君が僕の愛する人でないのは残念だ。

→思わせぶりにこんなことを言ってアルベルチーヌの心を取り戻そうとするのです。幼いなあ。恋のテクニックがさ。

ジャコモ・カサノバ『回想録』世界一モテる男に学ぶ男の生き方、人生の楽しみ方

私の悲嘆などは小説でも読んだときに生じる世界にすぎず、それをいつまでも変わらぬ悲嘆として生涯にわたり持ち続けるのは頭の狂った者だけである。アルベルチーヌが何をしていたのかといったことは、小説を読み終わった後では架空のヒロインの行動など意に介さなくなるのと同じでなんら気にならなくなるだろう。

囚われの女Ⅰ

アルベルチーヌを女友達から引き離した首尾は上々で、私の心に新たな苦痛が生じることはなくなった。もはやきれいだとは思わず、一緒にいても退屈するだけで、もはや愛していない。

家の中で若い娘としてではなく、むしろ飼いならされたペットのごとく振るまう。

どんな人でも自分の記憶の中に集められた数々の想い出にめぐり会うのは嬉しい。

目の前に常に相手がいるせいで自分を欠いた生活を強いられ、孤独の歓びを永久に奪われ、わが人生を台なしにするのではないかと考え込んだ。

アルベルチーヌが他の者たちにかき立てる欲望のせいで、ライバルたちと覇を競おうとするときだけ私の目に高嶺の花と映った。苦痛がなくなると私にとってアルベルチーヌは無であり、アルベルチーヌにとって私は無であると感じられた。

→「嫉妬」も『失われた時を求めて』の重要なモチーフのひとつです。嫉妬によって相手の価値が増すというのです。プルーストにとって愛とはあくまでも相手の価値そのものではなくて、こちらの心の内側の問題なのでした。

愛する者を所有することは、愛そのものよりも大きな歓びとなる。

アンドレは私が満足すると苛立ち、それを隠すことができないのだ。

恋愛とは多くの場合、ある娘のイメージがどきどきと鼓動する心と結びついたものに他ならず、むなしい期待や、食らわされた待ちぼうけと切り離し得ないものである。

アルベルチーヌが私のうちに煽りたてた欲望。望みがなくても夜通し待っていた娘。皆の嫉妬をかき立てていた時、羨望の的の女優だった。ほかでもない私によって舞台から引退させられ、家に閉じ込められ、欲望から隔離され、自分の部屋でデッサンや彫金にいそしんでいる。

多くの歳月がふたつのイメージを隔てた。

アルベルチーヌがその朝、快楽を拒んだことを想い出した。

奪い取った女性との関係が長続きしない原因は、相手に逃げられるのではないかという心配や不安こそがわれわれの愛のすべてだという点にあり、ひとたび夫から奪い取られ、舞台を引退させられ、こちらを捨てる恐れが断たれ、心の動揺から切り離されると、女性はただの本人に戻ってほとんど無に帰してしまう。激しく求められていた女性でも、捨てられるのではないかとあれほど恐れていた男にやがて捨てられる身となるのである。

→このくだり、オードリー・ヘップバーンを思い出しました。オードリーは熱烈なファンのひとりと結婚しますが、さんざんに浮気されてしまうのでした。全世界をとりこにしたあれほどの女性でさえも。

※不倫マジックの正体とは?

×   ×   ×   ×   ×   × 

主人公ツバサは小劇団の役者です。

「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」

恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。

「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな

アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。

「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」

ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。

「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」

惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。

「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ

劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。

「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も

ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。

「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」

ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。

「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」

「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」

尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。

妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ

そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。

「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」

そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。

「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」

そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。

「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」

「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って

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×   ×   ×   ×   ×   × 

当時の私はアルベルチーヌと過ごす時間だけを考慮に入れていたのに対して、今ではアルベルチーヌが私を抜きにしてすごす時間しか考慮に入れていなかったからである。

われわれが発することばの大部分はだれかの発言の復唱にすぎない。

ふつう人は自分に似ているものを毛嫌いし、自分自身の欠点を外部から見ると憤慨する。

好意を気取らずに示す。

無関心が意地悪を誘発することはない。

急に会いたくなってもこんなお婆さんになっているのか。容色が衰えれば新たなスターに託さざるをえないのか。

心底ぼくの影響を受けているんだ、あの娘はぼくの作品なんだ。

あたしの喉のところにそんなオベリスクがそびえ立って喉の奥で溶かしたら……

→たぶんフェラチオの隠語だと思います。

好奇心の法則。見かけただけの女と近寄って愛撫した女との隔たりを最大値とすべきだろう。

嫉妬とは、つねに過去を振り返る点で歴史家に似ているが、ただしなんの史料もなく歴史をかかざるを得ない歴史家のようなものである。

アルベルチーヌによってわが自由に終止符が打たれたせいで奪われたさまざまな快楽を数え上げていた。アルベルチーヌがそばにいるせいで、わたしはそんな娘たちのところへ行くことができず、だからこそその娘たちに欲望を抱き続けるのかもしれない。

→その嫉妬の相手がレズビアンというのがどうも腑に落ちません。恋のライバルが同じ男ならともかく。プルーストは同性愛者だといわれており、実は「花咲く乙女たち」は「野郎たち」だという文芸評論家もいるそうです。オエーッ!

散歩に出かけるべきである。どんな小路や大通りにも女神たちがあふれているからだ。

嘘。いたるところに蔓延している病原体にこれほど敏感になるとは。

自分の知悉しているものとはまるで異なるものが欲望をそそる。知り合った女たちや訪れた町々にどんなに幻滅を味わっても、新たな女や街の魅力のとりこになる。

アルベルチーヌの隷属状態のおかげで、私はそんな女たちから苦しめられることがなくなった。

それらの翼こそ世界の美をつくっているのだ。それはかつてアルベルチーヌの美をつくりだしていたものである。

→嫉妬の妄想が愛をつくる。屈折していて文学しています。

医学は人を病床に縛り付け薬の使用をつづけさせる。自然の病気は治るが、医学がつくり出した病気は決して治らない。

囚われの女Ⅱ

雄弁だからといって才能のある作家になりえたという結論を引き出すことはできない。退屈な話し手がつぎつぎと傑作をものし、座談の名手が凡百の作家に劣ることなど枚挙にいとまがない。

他人の思考とは別の思考の中に長くとどまることほど、その人を他人から遠ざけるものはない。

感染症の肺炎で死にかけている詩人がいたとして、その友人たちが肺炎球菌に向かって、この詩人は才能がある、治してやるべきだ、と説得することなど想像できるだろうか?

不人情も不道徳も告白しておけば、いくら非難されるべき振る舞いをしても、もはや弁解のことばを探す必要はなくなるからだ。

→「私、自分勝手だから」と告白しておけば、自分勝手なふるまいを責められても「あらかじめそう言っておいたじゃない。そんな私を受け入れたんでしょ?」と開き直ることができます。だから私はこういう人を信用しません。

シャルリスがウェルデュラン夫人をこきおろす。

誰を招待しよう、誰を排除しよう、この選り分け作業こそ、パーティーを主催する人士たちの主たる関心事。

あんな不名誉の烙印を押された人間、なにせどこにも招待されない人ですから。夫人はそれが事実でないことなどお構いなしで、自分がその人間を毎日のように招いていることも忘れているらしい。あなたは笑いものになっているんですよ。あなたの将来はだいなしですよ。あなたには何の役にも立たない人間でございます。あなたはうしろ指を指されて公然と嘲笑されているんですよ。あなたを気概のある男らしいかただと思っております。たとえシャルリュスが首根っこを押さえているとみなに吹聴したとしても、あなたは正々堂々とはっきりものが言える方だと存じます。

今夜限りシャルリュス氏とは縁を切ります。

たとえ火星や金星に行ったとしても、われわれが同じ感覚を持ち続ける限り、同じ外観をまとわせるに違いない。

相手が私のそばにいるからには、相手のことも考える必要がなくなるのだ。

私がアルベルチーヌに別れたいと口に出して言ったのは、私がアルベルチーヌなしには生きてゆけない時だけだった。嫉妬のせいでアルベルチーヌへの恋心がよみがえったときだった。

もう二度と会いません。あなたを悲しませたくないの。もう会わないことにしましょう。

ドストエフスキーの小説はどれも「ある殺人の物語」って題をつけられそうだもの。自分が個人的に体験したことのない人生の様態に惹かれたって不思議じゃないからね。

私が完全に恋人に忠実な人間であったなら、不実など思いつくことさえできず、それゆえ不実に苦しむこともなかったであろう。私が苦しんでいたのは、新たな女たちに好かれたい、小説じみた新たな冒険のきっかけをつくりたいという私自身の絶えざる欲望であった。

認識には自分の認識しか存在しないように、嫉妬にもまた自分自身の嫉妬しか存在しない。

私にとってアルベルチーヌとの生活は、一方で私が嫉妬していないときには退屈でしかなく、他方で私が嫉妬しているときには苦痛でしかなかった。

私がアルベルチーヌのために大きな犠牲を払っているのに相手がそれを不満に思っていることを痛感させた。たえずヴェネチアを夢見ていた。

自分が執着する肉欲の満足をもはやアルベルチーヌからは得られない。欲望を呼び覚ました女と知り合ったり旅行したりするありとあらゆる機会を奪われている。あきらめて怠惰に暮らし、禁欲にあまんじ、愛してもいないひとりの女との快楽しか知らず、部屋に閉じこもって旅にでることもあきらめる。

→とてもこの「私」には共感できません。『失われた時を求めて』は微妙な小説です。

消え去ったアルベルチーヌ

あなたへ。あたしはとても臆病であなたの前でいつもびくびくしていました。ふたりは、もういっしょに暮らしてゆけません。

アルベルチーヌは私の心中の図面に巨大な建築物を描き出す中心に他ならなかった。

愛している女性はあまりにも過去の中の存在であり、いっしょにすごして失われた時間から成り立っているから、人はもはや女性の全体など必要としない。

人間というものは自分で思っている以上に何らかの夢のために生きている存在なのだ。

マノンはデ・グリューのもとに帰ってきた。

史上最高の恋愛小説『マノン・レスコー』の魅力、内容、書評、あらすじ、感想

なんとしても戻ってきてほしいからこそ「永久にさようなら」と書き、別れて暮らすのは死ぬより辛いことだと思われたからこそ「ふたりは一緒に暮らすと不幸になるでしょう」と書いたのである。いつわりの手紙。

どんな条件でも呑むから戻ってきてほしい。「お気の毒ですが、わたしたちのかわいいアルベルチーヌはもうこの世にはおりません」ボンタン夫人からの電報。

アルベルチーヌ自身を殺しただけでは不十分で、私の心中においてもアルベルチーヌを殺すことが必要だった。

ある瞬間の記憶にはその後に生じることはいっさい知らされていないので、人間はその瞬間とともに生き続ける。アルベルチーヌを本人が生きていた時の想い出のなかにしか見出すことができなかった。彼女のことを考えるだけで、私はアルベルチーヌを生き返らせてしまう。

人が理解されたいと願うのは愛されたいからであり、愛されたいと願うのは愛しているからである。ほかの女たちに理解されようとどうでもよく、そんな女たちに愛されてもわずらわしい。

絶望するには、もはや不幸でしかありえないこの人生になおも執着していなければならない。

人は他人の生活に影響を及ぼすことなどできない。我々が自分の意志をどれほど把握していようと他人はその意志に従ってくれない。

死者はわれわれにとってすぐに死んでしまうのではなく、死者は生きていた時と同じようにわれわれの思考の中に棲み続けている。死者は旅をしているようなもの。こちらが愛するのをやめてしまうと、その人が死ぬ前に死んでしまう。

あのお嬢さんがどんなに身悶えしたか見せてあげたかったわ。ああ! あなた、すごくいいわ、なんて言ったのよ。

アルベルチーヌとは絶対に何もなかったし、アルベルチーヌがあれを毛嫌いしていたのは間違いないわ。

→あれ、というのはレズビアンです。プルーストはレズビアンのことをゴモラと呼びます。旧約聖書に由来した言い方ですが、世に定着はしませんでした。

読者は私の見ているイメージをそのまま見ているわけではない。実際には読者の精神の中に製造されるのはべつの考えなのである。

結局だれひとり来世の生を信じていない。天国で秘密を暴かれた女の怨みを買うのを恐れなければならないはず。ところがだれひとり天国を信じてはいないのである。

キリスト教の本質は、この肉体この意識のまま死者が復活すること、そして永遠の命を得ることができるということ

結局のところ私はアルベルチーヌがなぜ私と別れたのかを相変わらず理解できずにいた。

→この「私」はモテない君なのか、バカなのか、小説上の伏線か、やがて明らかになるでしょう。オレが女でもコイツとは別れると思います。

私が思い出すのは、当時そうであった娘たちであり、いまや確実にそうではなくなっている娘たちである。自分の印象を歪めざるを得なかった。探し求めなければならないのは、当時十六歳だった娘たちではなく、こんにち十六歳である娘たちだからだ。愛しているのは他でもない若さだからである。

→「その人が誰か」は関係ないんですね。まさしく肉欲だけなのではないでしょうか。

「きっと私が死んだとお思いでしょう。おゆるしください。私はいたって元気です。」アルベルチーヌは私の思考の中でもはや生きていなかったから、本人が生きているという知らせは思ったほどの歓びをもたらさなかった。アルベルチーヌは一連の想念にほかならず、想念が生きている限り物質的な死の後も生きのびていたが、想念が死滅したからには肉体とともによみがえることはなかったのである。

脳裏に思い浮かんだのはすでに太って男まさりになった娘のすがた。生きていて再会できるとわかったとたん、なんら貴重ではない存在と化した。

このあいだ受け取った電報はアルベルチーヌからのものと思っていたが、ジルベルトが送ってきたのだ。

見出された時Ⅰ

想像したり感じたりする能力が減少したに違いない。ジルベルトは変わり果て美しいと思わなかったし実際ちっとも美しくなかった。

ベルゴットのような大作家になるのは、自分の人生をその鏡へ映し出すことのできる人間だ。

富は貞操をもたらす。すべては時期の問題なのである。

シャルリスはモレルを生きては帰すまいと心に決めていた。われわれふたりのうちのどちらかが消えるほかなかった。あの男を殺めようと決意を固めていた。

岩に縛られたプロメテウスのようにベッドに縛られ鋲のついた薔薇鞭で打ちすえられた男シャルリス氏だった。

男爵はあのとおり大きな子供ですから。シャルリス氏が小説家や詩人でないのはなんと残念なことだろう。

失われた輝きこそ精神の矜持。貴族としての傲慢さが消失した。

幸福の謎を解こうとしてみたまえ。

われわれがかつて吸った空気。この空気はすでに吸われたことがあるときに限って、すべてを一新する深い感覚をあたえてくれる。それというのも真の楽園は、失われた楽園だからである。

幸福感の原因を探し求めるという探求をいまや何としてもやり遂げたい。幸福感の原因は現在の瞬間においてであると同時に遠い過去の瞬間においてでもある。過去は現在にまではみだし私はもはや過去にいるのか現在にいるのか判然としなくなった。時間を超えた領域でその印象を味わっていた。エッセンスを享受できるのは時間を超越した環境にいるときだけなのである。その存在のみが失われた時を見出される力を持っていた。

友人との一時間のおしゃべりをするために、一時間の仕事を犠牲にする芸術家は、実在しないもののために実在を犠牲にしている。

娘と知り合うため相当の努力をしたにもかかわらず、実現すると些細なものに感じられた。

私を手伝ってくれるものは一人もなく、誰かに協力してもらうことさえできない創造行為なのである。人が多くの責務を引き受けるのはこの責務を避けるためではないか。その書物は現実が印象を印刷してつくらせた唯一の書物である。ひとえに印象だけが真実の指標となる。精神によって把握される価値があるのは印象だけである。印象だけが精神を一段と大きな完成へと導き、精神に純粋な歓びを与えることができるからである。

われわれは芸術作品を前にして、いささかも自由ではなく、自分の好みどおりにつくるものではない。芸術は我々がそう信じているものとはまるで異なる現実を発見させてくれる。

人は価値がじかに表明されているものを目の当たりにする必要があり、イメージの美しさから価値を導き出すことができない。作家が知的な作品を書こうとするお粗末な誘惑にかられるのはそれゆえである。理論を盛り込んだ作品は値札がついたままの商品のようなものだ。印象を表現する力がないと、人は理屈をこねる。

写実主義は現実から最も遠い文学であり、われられを最も貧しくする文学である。なぜなら現在の自我と、事物のエッセンスが保存されている過去との、エッセンスを新たに味わう未来との、あらゆる交流をいきなり断ち切ってしまうからだ。芸術が表現すべきはこのエッセンスにほかならない。このエッセンスは主観的で伝達不可能な部分が含まれている。

芸術作品こそが失われた時を見出すための唯一の手段。文学作品の素材はことごとく私の過去の人生にある。種子のようなもの、私はその植物のために生きてきたのだ。

とるに足りぬ肉体的欲望しかそそらなかった女に、ライバルは途方もない価値を付け加える。それは当の女とは何の関係もない価値であるがわれわれは本人と混同する。嫉妬が存在もしないライバルが実際に存在するかのような錯覚をあたえるだけで効果はてきめん。

われわれを苦しめる女の方が、すぐれた男よりも、はるかに深くて重要な一連の感情をわれわれからひきだしてくれる。

ファム・ファタールとは何か? ピエール・ルイス『女と人形』の魅力、あらすじ、書評、感想、評価

作品は、苦痛が心を深く穿てば穿つほどますます高く湧きあがる。

恋をすると、愛している自分の中にしか存在しないものが、相手の中に存在すると考えてしまう。

アルベルチーヌは、自分と異なるものを想像しようとする愚直な努力によって、私の精神を豊かにしてくれた。美しくない女が、美しさを取り戻すのは、嫉妬しているから。

嫉妬はみずから妄想をつくりだして自分自身を責めさいなむ。嫉妬が作品の空白を埋めてくれる。

見出された時Ⅱ

壮烈な戦争がくだらない詩人を卓越した詩人にする力を持っているわけではないのと同じく、社交界それ自体が人を凡庸にする力を持っているわけではない。

老乞食のようになり果て、老いは人間まで完全に変えてしまう。

すべてがむなしいと思い起こさせると同時に博物誌の見本の役も果たしていた。「時」の一部を目に見えるものにしてくれた。

「時」は外に表出したがっている。普段は目にとまらないが、目に見えるようになるための肉体を求めていて、肉体の上に時間の幻灯を映し出すのだ。

まだまだ長い夏を楽しめると思っていたのに早くも秋が来たと気づかせる黄葉した葉のように口髭だけが白くなっている。

他の人の変貌を目の当たりにしてはじめて、その人たちにとって時間が過ぎ去ったことに気づき、私にとっても時間が過ぎ去ったことを露わにした。その人たちの老いは、私自身の老いも近いことを告げる。

氏にとって私は友だちではなく老紳士なのだ。氏とつきあえば自分が良い友になれると思い込んでいたが、じつはあまりにも遠くに位置づけられている。

その名前は、かつてのワルツを踊るブロンド女にも当てはまると同時に、重い足取りで通り過ぎる白髪の婦人にも当てはまる。私は唖然とした。身軽なブロンド女をこんな太鼓腹の老元帥みたいなすがたに変えることができたとは。さぞや人生は破壊と再建を成し遂げたに違いない。

→いや、言い過ぎじゃないか、プルースト(笑)。

時の感覚を私にあたえてくれたのは、その姿は昔の若者たちがそうなったこんにちの姿であるばかりか、こんにちの若者がいずれそうなるはずの姿でもあった。

想像を絶する変身。ほとんどすべての婦人は、年齢との闘いに休むことなく努力を傾け、美貌の最後の光をなんとしても我が身にとどめるべく自分の顔を向けていた。

他人の身になるという習慣は、作品の着想には役立つものの、作品の実現を遅らせる。友人もなく歓談もない生活。社交人士たちとの知的な会話よりも、花咲く乙女たちとの恋の戯れの方がえりすぐりの糧となるだろう。

二十年を経て私が思わず求めようとしたのは、私が以前に知り合った娘たちではなく、娘たちがその頃持っていた若さを今持っている娘たちだったからである。

私を招待してくれなかった。当時の私には最重要のことに思われたのだ。私には参入できない楽園のように見えたからである。ところが夫人からすればその生活はいつでも同じ平凡な生活に見えていた。

過去。過ぎ去った時。侯爵夫人が私の愛の対象になった時期と、なんの変哲もないありきたりの社交界の一婦人にすぎなくなった時期との間に存在する途方もない境界線。

恋愛において苦痛を生み出すものは女自身ではなく、その女が何をしているのかとつねにいぶかるこちらの好奇心である。要するに女ではなく習慣が問題なのだ。

われわれが口にする重大な事柄に返事がもらえることなどけっしてない。ただ愚か者だけがもらえるはずのない返事を何度も立て続けに要求するが、愚かというほかない。

心のみが問題なのであれば「神秘の糸」を詩人が語ったのは確かに正鵠を射ている。人生が様々な人や出来事のあいだに、たえず神秘の糸を織りなしている。人生がそうした糸を交差させ、その意図を何重にもより合わせて太い横糸をつくりあげている。過去のどれほど小さな点とほかのあらゆる点とのあいだにも想い出の網目が張り巡らされている。

→中島みゆきの詞みたいですね。もちろん古いのはこちらです。

自然が独創的な偉大な彫刻家として力強い決定的な鑿を振るった。娘をとても美人だと思った。いまだ希望にあふれ、にこやかで、私が失った歳月そのもので形づくられたこの娘は私の「青春」に似ていた。

「時」は私にとって究極の価値を持っていた。人を行動へと駆り立てる刺激。人生は生きるに値する、それを実現したいと望むなら、いまこそ着手すべきである。

私の読者ではなく、自分自身の読者なのだ。私の書物は、自分自身を読むための手立てを提供しているに過ぎない。

自分の頭脳が豊かな鉱床であり、貴重な鉱脈が存在することがわかっている。しかし採掘する時間があるのだろうか。それができるのは私だけだ。私の死とともにたった一人の鉱夫が消えてしまうばかりか鉱脈自体も消えてしまう。

私は執筆に邁進することなく、怠惰な放蕩三昧にふけり、病気や憂慮や妄想のために生きてきた。なにごとにも無関心になり、ついに到来する最期の休息を待ちながら、ひたすら休むことだけを求めていたのだ。

人は愛するものを捨て去ってこそ、それをつくりなおすことができるのだ。

十年後には自分自身が、百年後には自分の本が、もはや存在しない。永遠の持続など人間にも作品にも約束されていない。

この昔の瞬間はいまもなお私に結びついている。私の内部に深く降りてゆきさえすれば、いまもその瞬間を見出すことができ、その瞬間に立ち返ることができるからである。

ある人の肉体が、その肉体を愛する男たちに恐ろしい苦痛を与えることができるのは、その肉体が過去の様々な時間、多くの歓喜や快楽の想い出を含んでいるからである。

人間の占める場所はかぎりなく伸び広がっているのだ——果てしない「時」のなかに。

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『失われた時を求めて』は小説のための小説。メタ小説

世界最長の小説『失われた時を求めて』は、この物語がいかに書かれるかに至ったかの遍歴を語っています。ラストシーンで小説を書き始める「私」の物語はまさに『失われた時を求めて』であり、読者は作品の冒頭へと引き戻されます。

『失われた時を求めて』は小説のための小説、メタ小説だともいえるでしょう。

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作者プルーストの現実

プルーストは母親からユダヤの血を受け継ぎ、同性愛者でもあったそうです。ユダヤ人ブロックや同性愛者シャルリスには自分の心が仮託されているのでしょう。

男と男、女と女、やけに同性愛が作品の中で大きな地位をしめています。性的な倒錯とされているものを描いて「真実の愛とは何か」を問いかけるのは文学の常套手段ですが、プルーストは一度も「真実の愛とは何か」を問いかけたりしません。

なぜ恋人のレズビアン疑惑に、男の「私」が嫉妬に胸をかきむしられなければならないのか、理解に苦しむところがあります。作者の意図は何なのか。

ただ書きたいから書いたんでしょう。それが私だと是認したのでしょう。作者が同性愛者であることを知って執筆の意図がはじめて理解できたのでした。

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テーマは「無意識的記憶」

「無意識的記憶」が『失われた時を求めて』のテーマだと言われています。冒頭のマドレーヌがその代表選手ですが、自分で思い出そうとしたのでもなく、意識的に覚えていたわけでもないのに、ふとした匂いや味覚をきっかけに、自分でも忘れていた昔の記憶がよみがえること。プルーストはそのことを表現するために、この膨大な小説を書いたのだといいます。

時間の経過は後半の登場人物の醜いまでの老化で表現しています。

無意識的記憶をあじわうためには、ゆっくり読むことが大切です。長いからってすっ飛ばして読んでいては、プルーストの無意識的記憶を一緒に追体験することはできないでしょう。

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感想。もっと短く刈り込めば、もっといい作品になったのに

うーん。長い。

もしかしてギネスブックに記載されるのを狙ってた?

もうすこし短くすればもっと作品が良くなったのにね。

五分の一ぐらいに圧縮してみようか、プルースト。

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