走っているときは、一日で一番大切な時間
近親者が亡くなった。
そして走りながら考えた。私にとってランニングとは何であろうか、と。
死んだらもう走れない。生きているから走れるのだ。私にとってランニングとは一日のうちで生きている実感をもっとも濃密に感じられる瞬間である。限界スピードに近づけてダッシュで走れば走るほど、辛ければ辛いほど生きている実感を感じられる。
「いやしの時間」では生きている実感を感じられない。ハレあってこそのケなのである。
私にとってランニングとは一日で一番大切なものだ。必ず毎日そうというわけではないが、たいていの平凡な一日の中でもっとも輝いている時間だ。
しかし一生で一番大切なものではない。
そう思ったのである。走りながら。
一日のうちで一番大切なものなのに、一生のうちで一番大切なものではない。不思議なことだ
一日のうちで一番大切なものなのに、一生のうちで一番大切なものではない。
これは大いなる矛盾ではあるまいか?
まるで禅の公案のように、おもしろい問いだと思う。げに不思議なことよ。
走らずには、他のもっと大切なものが成立しない
死ぬ間際、わたしは自分の人生をどのように回想するであろうか?
わたしは比叡山の千日回峰行者よりもこの地球にステップを刻んでいる。
このまま走り続けることができれば、おそらくとても充実した人生だったといえるだろう。
しかし、走ることがわたしのすべてではない。むしろ一生のうちで一番大切なものはランニングではない。パートナーとの関係や執筆業の方がずっと重要だ。しかしその人間関係や執筆そのものが走らずには成立しないのだ。
怪我で走れなくなった市民ランナー。リゾートランナーの悟り「人生とは肉体」
走らずには、他のもっと大切なものが成立しない。わたしにとって走るとは、気持ちよく生きるためのベース。それがわたしにとっての「走ること」だ。
あなたにとってランニングとは何ですか?