ロータス・イーターとは、「安逸をむさぼる人」放浪者のこと
ロータス・イーターとは、ギリシア神話から「安逸をむさぼる人」を意味しています。ロータスとは蓮。イーターとは食べる人。
タイトルは、極楽浄土の花、蓮を食って生きている人という意味から来ています。
浮世離れした放浪のバックパッカーのような人種のことを指しています。
大多数の人は境遇のため余儀なくされた人生を送る
主人公はトマス・ウィルソン。年金がなくなる六十歳になったら自殺すると決めて、楽園を満喫している男です。
語り手は別にいるのですが、主人公は語り手とは別の人間です。いわゆるホームズ・ワトソンスタイルですね。主人公があくまでもシャーロックホームズであるように、この物語も、世捨て人のようなトマス・ウィルソンが主人公です。
トマス・ウィルソンはイギリスの銀行の支店長の地位を捨てて、イタリア南西部の美しい島、カプリ島に魅せられた男です。
青の洞窟、地中海の太陽、リモンチェッロ・デ・カプリ。気持ちはわかりますよね?
※筆者自身による「リモンチェッロ・デ・カプリ」の作り方
カプリ島。地中海の太陽と海。青の洞窟。リモンチェッロ・デ・カプリ
私はカプリ島に行ったことがあります。だからトマスウィルソンの気持ちがよくわかります。カプリ島のあまりのすばらしさに「神様、なんとかしてこの島で暮らすことはできないものでしょうか。どうかずっとここにいられますように」と海と太陽に祈ったら、その後、海岸で足を滑らせ転倒して腰椎を骨折。歩くのも困難になって、本当に島から出られなくなりそうになりました。あわてて「地中海の神様、さっきのは訂正します。とりあえずどうか無事に故郷に帰してください」とあわてて願いを訂正しました。触るものすべてを黄金にしてくださいと願ったら家族も食べ物もみんな黄金になってしまったというミダス王の黄金エピソードみたいですが実話です。地中海の神様はおそろしいのでみなさん気を付けてください。
名作映画『ベン・ハー』にも「隠居してカプリ島でのんびりしたらどうだ」なんてセリフが出てきます。『ベン・ハー』の裏主人公はイエスですから、紀元前のローマ時代では美しい楽園として知られていたのですね。
世界一美しい光景のひとつであるカプリ島の夕日を眺めているとき、サマセットモーム自身を思わせる語り手の「私」は、ロータスイーターのトマス・ウィルソンと出会います。
「もし運命の女神が私に銀行の支店長を続けさせるつもりだったのなら、月光に照らされた夜の海岸の奇岩を見せるべきではなかった」
トマス・ウィルソンは語ります。勤め人の生活に戻らなくてもいいじゃないか。ウィルソンは考えます。ウィルソンには扶養する家族もありませんでした。
毎日毎日似たような仕事を続けて定年になって、退職して年金で暮らすだけ。そんな先の見えた未来を捨てて、すべてを放り出してこの島で余生を送っていけないことがあるだろうか?
ウィルソンは考えます。その後、一年間我慢して働いてみましたが、考えは変わりませんでした。
「生活を楽しんだ町も、勤勉だった町も、どちらも滅んだ。最後は同じじゃありませんか。どちらが愚かだったんでしょうか?」
そしてカプリ島で暮らすことを選んだのです。
お金が尽きたら自殺するつもりだった
トマス・ウィルソンは金持ちだったわけではありません。年金暮らしでした。むしろその年金が尽きたときには路頭に迷うことが予測できました。それでもカプリで暮らすことにしたのです。
いつも他人の思惑ばかり気にするのをやめて、美しい自然あふれる島で暮らそうと決めて、仕事をやめてしまいました。
三十四歳のときから十五年、ずっとカプリで暮らしています。
この作品の年金というのは、現在の日本の老齢年金とは違います。一定の期間年金がもらえるような「商品」をトマスウィルソンは持っていたにすぎません。その年金はさだめられた期限がきたら、もらえなくなってしまいます。年金が尽きた時には、どうするつもりなのでしょうか?
実は、自殺するつもりでした。
語り部はそのことを聞いて、トマスウィルソンに興味をいだくようになるのです。
自殺を決意して、ふらふらしているロータスイーター。そんな人が身近にいたら、誰だって興味を持ちますよね?
この時代は今よりもずっと寿命が短かったのでしょう。そしていつ死ぬかわかりませんでした。戦争もあったし、医学も今ほど進歩していませんでした。現在よりもはるかに未来の見通しが立たない時代でした。
老いさらばえるまで意に添わない場所で働いて、食うに困らない老人になるよりも、魅力的で危険な選択にウィルソンは賭けました。60歳で死ぬ方に賭けたのです。
自分が何歳ぐらいで死ぬか、誰でもボヤッとした予想があります。その中でも最も若くして死ぬ方にトマス・ウィルソンは賭けました。
いつ死ぬか、何歳で死ぬか、それがわかったら人生の悲喜劇の大半は避けられるのに。
そんなサマセット・モームのつぶやきが聞こえてくるようです。
悲劇は起こってしまいました。
自分が何歳ぐらいで死ぬか、予想の中でももっとも長生きするほうの目が出てしまったのです。
夢に見た楽園での暮らしの現実は……
トマスウィルソンは人生が誰にでも与えてくれる素朴で自然なものに至福を求めました。自然こそが人生の真実です。
自分自身の幸福が唯一の目的でした。金が尽きたら自殺する決意がありました。
都会で労働しているときには覚悟がありました。死ぬ決意は自然の中で生きる決意と同じものだったから強いものでした。
しかし自然の中でのんびりと生きていると、己を貫く鋼の魂は失われてしまいます。
死は都会から自然に向かう時の決意でした。でもすでに自然の暮らしにたどり着いています。だとしたら死の決意が失われても不思議はありません。
これは例えていえばこのようなことです。自分の勉強がやりたくて学校を辞めたのに、学校を辞めて自由になったら、自分の勉強なんてする気がなくなってしまった。
何一つ心を煩わすことなくのんびり暮らしていたら、毅然たる性格は失われてしまいます。
自分の手の届く範囲にあるものだけで欲望が満たされるのならば、意志は弱くなってしまいます。
トマス・ウィルソンはいつしか死をえらべなくなっていました。
自分が望んだカプリ島の暮らしの中で死ぬ意味なんてありません。しあわせなのに、どうして死ななければならないのでしょうか。
人間が弱くなったといってもいいと思います。
やさしい母なる大地の中で、強い意志をもった大人であることの意味はありません。
年金がなくなり、貯金がなくなったトマス・ウィルソンは、自殺未遂をします。
かつての使用人の慈悲により、冬は寒く、夏は蒸し風呂の部屋で、粗末な食事に六年耐えて、そして死にました。満月の夜に、心奪われたカプリの絶景を見ながら。
死が救いとなりました。
人生は死によって完結します。
どうしてサマセット・モームは、トマス・ウィルソンの死に際に、あえて心奪われたカプリの絶景を見せたのでしょうか?
「旅人の夢はかなったのだ」
そう言いたかったのかもしれません。
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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!
かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。
しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。
世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。
すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。
『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。
その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
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※※他のサマセット・モーム作品についての書評も書いています。よかったらこちらもご覧ください。