ドラクエ的な人生

牢獄ものという文学分野。『イワン・デニソビッチの一日』の内容、書評、あらすじ、感想

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監獄もの。獄中記には人間の魂を揺さぶる何かがある。

いつも机に向かってブログを書いています。こうも自分の部屋に閉じこもっているならば、牢獄の独房にいるようなものではないか、という気がしないでもありません。

キリスト教が世界一の信者数を誇る不滅の宗教であるのはなぜなのか?【獄中記】オスカー・ワイルド

私は不思議と獄中文学が大好きで、これまでもいくつもの牢獄文学を読んできました。

ドストエフスキー『死の家の記録』シベリア獄中記のあらすじと感想

「人生を変えた本」といってもいい『サド侯爵夫人』も一種の獄中記です。不自由な囚人だと思っていた夫が書いた書物を読んだ夫人は衝撃を受けます。この世界でもっとも自由なのはこの人なのではないか。牢獄へはむしろ自ら閉じこもっているのではないか?

『サド侯爵夫人』三島由紀夫の最高傑作

「これまでに読んだ最高の書物」と評価する「夜と霧」も獄中記です。

文学の頂点。ユダヤ人強制収容所の記録『夜と霧』

ホリエモンの「獄中記」もおもしろかったなあ。

堀江貴文『刑務所なう。』最も自由な奴は、最も不自由な場所にいる!

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『イワン・デニソビッチの一日』のあらすじ、書評、感想

今回、読んだのはソルジェニツィン著『イワン・デニソビッチの一日』ロシア文学です。現在、ロシアとウクライナが戦争をしています。

ロシアの軍事ブロガーって何者だ? なんでブログにそんなに影響力があるのか。

ロシア兵は督戦隊という同じロシア兵に背後から銃を突きつけられて戦争を強いられているそうです。収容所の囚人に労働を強制するさまが、戦場で戦争を強制するさまとオーバーラップして見えてきました。

収容所ラーゲリの住人が自分のために生きている時間は、朝飯の十分と、昼食の五分と、夕食の五分だけなのである。

厚い液体が喉を通りすぎると、内臓どもがいっせいにスープに向かってもがき始めるような感覚に襲われた。ああ、このここちよさ。この一瞬のためにこそ、囚人は生きているのだ。

食べ物というやつは、全神経をそのたべものに集中して、舌でよく味わい、口の中でさんざん転がさなければいけない。

→ 食事時間だけが楽しみなので、飲食についての渇望が何度も語られます。

104班の原動力は何か。縄のバンドでしめあげたからっぽの胃袋である。班とは囚人同士がお互いに尻をひっぱたきあうためのしくみなのである。おれは貴様のせいで腹をへらしてなきゃならんのか。冗談じゃねえ、馬鹿野郎、働きやがれ。

→ 肉体的な脅迫が、人に嫌なことを強制させる手段として利用されます。食べ物を減らされる、というのも収容所では立派な脅迫なのでした。

この土地では所長が定めた分量以上のたべものは手に入らないのだ。いたるところで泥棒また泥棒だ。誰もが、食いものにできる相手を食いものにするのだ。

サボタージュの罪で監獄行きだ。

→ いやすでに収容所にいるんですけど(笑)。罰の中にもさらに罰があるのです。そうでなければすでに自由を奪われている囚人を働かせることなんかできません。

この営巣に十日間、規則通りに座っていたとすれば、体はもう一生涯使い物にならなくなる。胸をやられて、死ぬまで病院暮らしだろう。

囚人は人の背中に隠れるようにして、考えることさえ自由ではない。

→ 囚人は目立つと目をつけられるので、人の影に隠れるようにこそこそと過ごすようになります。そして思考停止……。

いくつかの収容所や監獄を転々とするうちに、イワン・デニソビッチは、あしたのこと、一年先のこと、家族を養うことなど、思いわずらう習慣をなくしてしまっている。何によらず上官が代わりに考えてくれる。

あったかい所にいる奴に、凍えた奴の気持ちがわかるものか。寒気は零下二十七度、シェーホフの体温は三十八度。さあ、食うか食われるかだ。

→ 日本の戦後にも「シベリア抑留」というのがありました。極寒のシベリアを強制労働で何とか開拓しようというわけですが、昔からやっているんですね。……いつ終わるんでしょうか(笑)。

煙草の煙は飢えた肉体を駆け巡り、足にも頭にも染み込んだ。

→ 収容所内では、差し入れのタバコが「現金」のように、お礼やご褒美として活用されています。タバコというのはご存知のとおり、寒い時に吸う方が効きます。周囲が零下じゃあ……うまいんでしょうな。

ちなみにタバコが健康に悪いという概念はまったくもってまだありません。

喧嘩は身の破滅だとしきりに力説する。

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囚人=自由を奪われた人間。不自由だからこそ自由について考える。

ああ、この足で自由の大地を踏めるとは。

今までどおりうなだれて生きていけば、なぜこんなところに入ったのか、いつ出られるのだろうか、と考える暇もありはしないのだ。

→ 囚人というのは自由を奪われた存在です。だからこそ自由についてもっとも考える存在です。獄中記が文学たりえるのは、そのような状況に主人公が存在するからでしょう。

私たちは牢獄にいることを喜ぶべきなんだ。ここには魂について考える時間があります。

かつては金の肩章をつけ、イギリスの海軍大将と交際していた男が、今はモルタルの箱を運んでいる。人間はどうにでも変わることができるのだ。どうにでも……。

→ やっていること、行為は変えられると思います。でも人間の本質、性質はそう簡単に変わらないのではないか、と私は思います。だって性格がそんなに簡単に変わるのならば、そもそも性格なんてあってないようなものってことになりませんか。

生きのびること。何が何でも生きのびること。やがては神さまが何もかもおしまいにしてくださる。

信仰さえ持てば、山をも動かすと言われるくらいですからね。馬鹿なこと言うなよ、山が動くとこなんか見たこともないぜ。いくら祈ったって景気が縮まるわけでなし。起床から消灯まで、ない日繰り返すだけのことだ。

→ 宗教をラストの救いにしないあたりは、ドストエフスキー作品よりは進化していますね。

カラマーゾフの兄弟『大審問官』。神は存在するのか? 前提を疑え! 

→ 不自由な囚人の生活の中に、人間というものの本質を見る、というのが『イワン・デニソビッチの一日』のテーマです。

それはきわめてロシア的なものでした。強者におもねる、指導者にゆだねる、自分を失うという一連の流れは、たとえば『夜と霧』のフランクル博士には見られないものです。

ロシア文学というのは、トルストイもドストエフスキーも『ドクトル・ジバゴ』もそうですが、とことん土着的というか、ロシア的です。

トルストイ『戦争と平和』知りたかった文学の正体がわかった!! 

民族文学が世界文学になるというのがロシア文学の本質なのかもしれません。

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