感染症の時代の生き方を歴史に学ぶ。カミュ『ペスト』
このページではアルベール・カミュ『ペスト』という書籍を通じて、感染症の時代の生き方を歴史に学んでいきたいと思っています。
感染症がもたらすものは畢竟「死」と「別離」だけです。
「死」と「別離」は感染症がなくなっても、この世から消えてなくなるものではありません。
今はコロナウィルスで人と人とがソーシャルディスタンスで隔てられていますが、やがて人は触れ合うようになるのです。間違いなく。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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感染症の時代はきっとそのうちに終わる
2020年の現代日本では新型コロナウィルスによる外出自粛要請という日々が続いています。
この病気の恐ろしいところは「うつされる心配」よりも「無自覚のまま他人にうつして(結果)命を奪ってしまう」ことにあるのではないでしょうか。
親孝行な人は老父母に会えませんし、老父母は生き甲斐の孫に会えないという時代になってしまいました。
ことに私が同情するのは、婚活適齢期の若者たちです。外出自粛じゃデートもできませんし、そもそもパートナーと知り合うことさえできません。オンライン飲み会なんて、楽しくあるべき人生が半分以下しか楽しめていないのと同じことです。
動物たちが会話もなしにコミュニケーションが成り立っているのは体と体でふれあっているからで、人間もそれは同じだと私は思っています。
でも安心してください。このような時代は長くは続きません。
なぜなら、感染症の脅威に人類が怯えたのは、これがはじめてではないからです。
過去、何度も、感染症の猛威は地球上を覆いつくしました。
1918年から1919年におきたスペイン風邪というインフルエンザでは約40,000,000人が死んだとされています。
第一次世界大戦(1914~1918年)の戦死者が10,000,000人ほどなので、かの有名な世界大戦の戦死者よりもスペイン風邪で死んだ人の方が4倍も多いのです。
このウィルスが戦争を終わらせた、とさえいわれるのも「むべなるかな」ですね。
しかし、このような最悪のパンデミックでさえも、いつのまにかおさまっているのです。
新型コロナウィルスの死者数は2020年8月現在まだ800,000人ほどです。スペイン風邪にくらべれば「(今のところ)たいしたことありません」。
もっとひどい感染症の時代も生きのびることができたのですから、今回の感染症もきっと生きのびることができるのだろうと思います。
それが歴史が教えてくれることです。
コロナ感染症の時代は四年で終わる。2024年4月に終息し日常生活が取り戻せる
【書評】カミュ『ペスト』。黒死病ペストの感染隔離とロックダウンの人間模様
「昔も大丈夫だったんだ。今も大丈夫」と思えれば、勇気が出るのではないでしょうか。
そして感染症といえばもうひとつ黒死病と呼ばれた恐怖の「ペスト」を忘れることはできません。
今回はこのペストによる都市封鎖ロックダウンを描いたノーベル文学賞作家カミュの『ペスト』を通じて、感染症の時代をどう生きればいいのかを、みなさんとご一緒に考えていきたいと思います。
はじめに物語の梗概を紹介することについての私の考え方はこちら。
最初に、この小説はフィクションです。
ペストという感染症は現実のものですが、事実に取材したものではありません。
あくまでも作家の想像力の中でつむいだ物語です。それを知っておくことは大切なことです。
さて、ペストというのは、蚤によって媒介される感染症です。
よくネズミが原因と誤解されますが、ネズミに寄生するノミの吸血が原因です。
ノミが寄生するイヌやネコもペストの媒介者たりえます。
過去、猖獗をきわめたペスト。
滅び去ったと思われたペストが、鼠の死骸とともにある町に再び姿を現しました。
そして突如、知事がロックダウン宣言をします。
人々を脱出させないために、突然だったのでしょう。
事前通告したら、みんな街から逃げ出してしまいます。
そして何者も街の外に出ることができなくなってしまいました。
旅行好きな人は、旅行なんてできなくなってしまいました。
でもそんなの大した問題じゃありません。
問題は「死の恐怖に直面している」ことと「愛する人に会えなくなった」ということです。
城塞都市は西欧型都市では普通。ロックダウンは日本では実施不可能ではないか?
日本で暮らしていると想像しにくいと思いますが、西欧型の都市は都市と田園がはっきりと分かれていて、往々にして城壁で囲まれています。
つまり門さえ塞げば、簡単に都市封鎖できてしまうのです。
ドラクエ的にいうと城塞都市メルキドは、西欧では珍しくありません。
逆に日本では都市と田舎が明確に分かれていません。
東海道新幹線に乗って東京から京都に向かっても、だらだらと住宅がひろがっていて、いつ都心を出たのかわかりません。
街と街の境目さえはっきりとしません。かろうじて川が住宅街を分けているだけです。
そのような日本でロックダウンというのは不可能に近いと思います。すべての道を塞がなければなりません。
そんなことできるのかいな。
たとえば千葉県野田市は市域をぐるりと川に囲まれています。全市民に莫大な補償・賠償を与えた上で、一度、そのような場所でロックダウン実験してみてはいかがでしょう? 野田市ならば封鎖は簡単です。数本の橋を塞げば原則OKですから。
でも北朝鮮みたいに川を徒渉して流山・柏に抜ける人が後を絶たないかもしれません。グライダーで亡命する人もいるかな?
日本では難しそうでも、城塞都市ならば可能です。
作品のモデルはフランス領アルジェリアのオラン市ですが、やはり壁と門がある都市の設定です。
実際に市の門が閉じられると、さまざまな不都合が生じます。
たとえば家族や恋人が分断されてしまいました。
一時的な別れと思っていたのでろくな挨拶もせずに別れた人と、金輪際会えないかもしれません。
妻が療養に出かけていた夫は突然妻に会えなくなってしまいました。
仕事でオラン市に来ていた男はパリの恋人に会えなくなってしまいました。
愛する人との再会を夢見る囚人や流刑者のような生活が、ロックダウンされた市で始まります。
市民全員が囚人暮らし
物資は市外から搬入されますので飢え死にすることはありませんが、食料購買は制限され、ガソリンは割り当て制です。
観光都市だったオラン市の観光業は壊滅状態で、休職者が続出です。
客も来ないし、売るものもなければ、商売になりません。
やることのなくなった人々が、ストックしていた酒を飲みます、映画を観ます、カフェでだべって、街をブラブラしています。
伝染病で隔離という世界では、これまでの人権が通用しなくなります。
会いたい人に会えなくなります。町の外に出られなくなります。
人権も、自由も、ありません。そして、やることのない人々が広場にあふれています。
医者がペスト患者を認定すると、家族の愁嘆場が演じられます。
家族ですら一緒に暮らせません。そしてこれが永遠の別れかもしれないのです。
「ペストはすべてのものから恋愛と友情の能力さえも奪ってしまった」
カミュは書きます。
カミュ『ペスト』の世界観から進化したインターネットの世界
カミュ『ペスト』の世界観にはインターネットがありません。逆にいえば、インターネット時代は「これまでになかった試み」ができるということです。オンライン飲み会や、テレワークなどが、これまでになかった試みだといえるでしょう。それを試せるのは、現代を生きる私たちの特権だといえそうです。
ネットのない世界で、市民全員が囚人になったような中で、個人的生活が始まります。
と同時に、個人的なものを断念する暮らしが始まります。
囚われの囚人が、何を求めて生きるのか? 愛する人との暮らしの他に?
ここでペストは、戦争を暗示しているかもしれません。
軍隊に隔離されて、死に直面しつつ、愛する人に会えない中で、何のために生きるのか? 何を求めて生きるのか?
ペストの前に愛は役に立ちません。
人と人は接触できず、死別により引き離されるだけです。
人と触れ合えば感染症という世界で、どうして恋愛や友情が育めたでしょうか。
あるいは囚人や獄中というものをペストは比喩しているといってもいいでしょう。
えっ? いまさらキリスト教の神不在論争? 300年ぐらい時代錯誤じゃないか?
ペストの猖獗は「神の罰」だというキリスト教の司祭が登場します。
罪なき者が目を潰されるとなれば、キリスト教徒は、信仰を失うか、さもなくば眼を潰されるか、ということになります。
ペストで無垢な子供が苦しんで死んでいきます。
それを神の罰だと認めない人々は、神をも認めません。
キリスト教司祭は今こそ宗教の復権だと思いましたが、市民は宗教ではなく享楽に走りました。
死の影によって浪費に走ったのです。
私はちょっと驚いてしまいました。
えっ? いまさらキリスト教の神不在論争?
まだ神との問答を続けているのか。
いい加減、卒業したら?
カミュは300年ぐらい作品の主題を時代錯誤してしまったのではないかと思いました。
古代、中世、ルネッサンスという歴史の流れがあります。
古代という時代が、キリスト教によって覆われて終わりました。
中世という時代になります。
神がすべてだった中世は、西暦400年ぐらいから1500年ぐらいまで続きます。
それがルネッサンスという人間中心の時代になってようやく終わりを告げるのです。
神の存在、不在論争は、中世のメインテーマです。
人間の理性と愛は、聖書に書いてあることと矛盾しないのか?
それが西洋文学のテーマでした。
千年以上にわたり延々とやってきた神の実在・不在論争を、まだやっているのか、と思いませんか?
そろそろ西洋文学も進化していいのではないでしょうか?
カミュは1960年に交通事故で死んだ作家です。
16世紀ぐらいまでで打ち止めしたはずの神問答を、20世紀までやる気なのかと、ちょっとうんざりしました。
神の実在を問う問答は、もういいんじゃないか?
とっくに時代遅れだという気がします。
もう神はいないってことでいいんじゃないか?
日本人の私などはそう思います。
勇気がないから、それを認められないのでしょうか?
あっさりそう思えないとしたら、刷り込み教育とはげに恐ろしいものです。
しかしこの世の秩序が死の掟に支配されている以上、人間が人間を求める以上、神不在論争はやむことはないのかもしれません。
魂の絶対の消滅に、人は耐えられないのかもしれません。
でもありとあらゆる動物が神など知らず死んでいくのですから、人間も同じでしょう。
文学的にはキリスト教問答だけではどん詰まりだと思います。
しかしカミュは神の不在問答だけでは終わりません。
不条理の作家と呼ばれる本領発揮はこれからです。
物語は神の論争だけでは終わりません。
人間模様。ペストは昔からあったし、今もあるし、これからもある
物価は上がって生活必需品は足りないのに、ぜいたく品が乱費されました。
「恐怖のペスト禍」の中で奇妙な「やすらぎ」を感じる者もいました。
犯罪者は自分一人が逮捕に怯え裏切りを恐れ孤独だったのに、住民全員が怯え孤独な状態となって、奇妙な連帯感、安らぎすら感じていました。
ロックダウンされた街を逃亡しようとしていた者は、自分だけが非合法に抜けることを「恥」と感じてオラン市に残る心境変化をします。
愛する者から離れてまでペストの街に生きる値打ちはないと信じているのに、なぜという理由もわからず、そうしようとする自分の心境がわからない。
物体のようになすがままに処置を受けて死んだ司祭は、神の罰を受けたのでしょうか?
隔離された人々は、空漠たる目つきで、ものもいわず、呆然として、何もしていません。
息子を亡くした判事は人を裁く仕事ではなく志願のペスト事務に精を出します。
ペストのロックダウンの前から不条理という閉塞に苦しめられていた者は、いわばペストに苦しめられていたのと同じことです。今に始まったことではありません。
世界から追放され、何の価値もない人間になってしまったゆえに、生きる意味を探し求める。
「おれたちははじめからペスト患者だった。ペストの中でしか知れないこともあるんだ」
つまりそれが人生ってもので、それだけのことさ。
愛のない世界はさながら死滅した世界のようでした。牢獄や仕事や勇猛心にもうんざりして、人は愛情を求めるようになります。
こうして戦争(ペスト)は終わるのです。
理由もわからず、突然、引いていきます。
感染症は不条理にも突如現れ、理由もわからず突然終息した
1月上旬の寒さの中、ペストは力を失いました。
有効な薬が開発されたわけでもなく、人間が何かをしたのではなく、勝手に退いていったのです。
「これで助かる」
わずかな希望で、ペストの恐怖は忘れさられたかのように見えます。
いまやロックダウン解除という時に、ペストに死んだ者もいました。
あとちょっと生きられたら、元通りの暮らしを送れたのに……そう思いますか?
ペストを知ってしまったら、もう平和はありえません。
戦争を終結させ、平和を不治の苦痛たらしめるところの沈黙の敗北、死を知ってしまいました。
主人公は、妻の死さえも平静をもって受け入れることができました。
心の準備はロックダウンの街で、シミュレーションができていました。
何の前触れもなく、人は突然いなくなる。それがペストの世界では常識だったからです。
ペストの時は呆然とした民衆だったのに、ペストから解放されたときには連帯感をもって共に祝いました。
しかしやってきた汽車の煙のよろこび(旅立ち、解放)に、連帯感はたちまち消え去ってしまったのです。
感染症は不条理にも突如現れ、理由もわからず突然終息しました。
また個人的な生活が再び始まります。
「すっかり削ってしまいましたよ、形容詞は全部」
ペストは心の中に巣くっていました。
恋人や家族を失った人には、相変わらずペストが続いていました。
いつかまたペストはやってきます。
「ペストなんて、つまりそれが人生ってもんで、それだけのことでさ」
ロックダウンが解除されても、人々は相変わらず同じようでした。
民衆の歓喜は常に脅かされます。
ペスト菌はけっして死ぬことも消滅することもありません。
どこかの幸福な都市に、いつかそれはやってきます。
感染症がなくなっても死と別離はこの世からなくならない
ペストはやってきて去ったのではない。はじめから心の中にあって、今も存在する。忘れているだけで、いつかまたやってくる。
カミュは感染症をこう感じていました。
感染症がもたらすものは畢竟「死」と「別離」だけです。
「死」と「別離」は感染症がなくなっても、この世から消えてなくなるものではありません。
ここでのペストを人生の懊悩と捉えてもいいでしょうし、戦争と捉えることも可能です。
もちろん文字通り感染症と捉えることもできます。
新型コロナウィルスが猖獗する現在では、むしろ文字通り感染症と読む読み方が好まれていると聞きます。
この小説から学べることは、
・病気は不条理。流行に理由はない。
・感染症は、突如、理由もわからずおさまる。
・人間は忘れやすいもの。常に不意打ちされる。
たとえば洪水直後は海辺に住むのを止めようと思いますが、しばらくたつとまた海辺に家が建ち並びます。
今はコロナウィルスで人と人とがソーシャルディスタンスで隔てられていますが、やがて人は触れ合うようになるのです。
間違いなく。