【登山】日本人は、きちんとしていることに、こだわりすぎ

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心の放浪者アリクラハルトの人生を走り抜けるためのオピニオン系ブログ。

書籍『市民ランナーという走り方(マラソン・サブスリー。グランドスラム養成講座)』。『通勤自転車からはじめるロードバイク生活』。小説『ツバサ』。『帰国子女が語る第二の故郷 愛憎の韓国ソウル』『読書家が選ぶ死ぬまでに読むべき名作文学 私的世界十大小説』『軍事ブロガーとロシア・ウクライナ戦争』。Amazonキンドル書籍にて発売中。

登山の動画をYouTubeにアップしたら、いろいろなコメントをもらって、触発されています。

その中のひとりに「荷物をきっちりと自分で最後まで運ばないと上級者ではないと感じる」という人がいました。どうしてそう感じたのでしょうか? それはたぶん登山の鉄則に「自分の荷物は自分で最後まで運べ」と書いてあるからではないでしょうか。

なんだかこれと同じように聞こえます。

「教室の清掃もきちんとできない生徒が、いい学業成績をおさめられるはずがない」

いっけん正しく聞こえますが、本当でしょうか? アメリカ人も納得させることができる根拠はありますか?

このページでは、この一件をネタに、日本人は、きちんとしていることに、こだわりすぎなんじゃないか、というわたしのオピニオンを書いています。

身の回りがきちんとしていることと、本業の能力とは何の関係もありません。

ページ全体をネパール山岳写真で飾っていますが、本文とは関係ありません。

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「道迷い」は遭難である

問題の動画はこちら。わたしがあげているYouTube動画です。

遭難動画です。しかし遭難といっても道迷い遭難で、滑落死したり、転落して救急ヘリが出動したりするセンセーショナルな動画ではないので、視聴者をがっかりさせてしまっているという内容です。

登山・遭難記録(山梨県)

こちらの動画のコメントに触発されて、書いたコラムがこちらです。

登山における遭難の定義とは?

要旨は、「道に迷った」は「遭難」ではない。という問いに対して、「道迷い遭難」という言葉があり、遭難の原因の第一位になっている以上、道迷いは遭難だ、というコラムです。

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日本人は、きちんとしていることに、こだわりすぎなんじゃないか

そしてまたひとつ考えさせられるコメントをいただきました。そのコメントというのは、

「登山口前で装備を置いて行くとか、 本当に山のベテランですか? 初心者でもそんな事はしませんが」

というものでした。

それについてのわたしの返事はこちら。

「山のベテランだなんてとんでもありません。クライミングはやりませんし、日本百名山は50座ほどで諦めました。なぜ諦めたのか、興味があったらこちらをご覧ください。」

日本百名山、全山制覇の難易度

まったくのド素人が道迷い遭難してもあたりまえすぎて何の動画的価値もないため、自分のことを「そこそこの登山者」だと紹介したのですが、いつのまにか「山のベテラン」と勘違いされてしまいました。

しかし問題はそこじゃありません。

ピストン登山で、登山装備を途中でデポするという行為に対して、本当に山のベテランですか? と疑念を表明しているところです。わたしはそれに対してピストン登山の場合、ルートの途中に不必要な荷物をデポするのはよくあることです。」と返事をしておきました。

実際にピークハントなどの往復登山の場合、山の肩に荷物を置いて往復登山してくるのはよくあることなのです。むしろ初心者だからこそそうした経験がないのかもしれません。デポした装備が泥棒にあう危険はありますが「山の上に悪い人はいない」と自分に言い聞かせて、軽量化のため当座不必要な荷物をルートの途中に置いていくのは登山ではよくあるテクニックのひとつです。

「装備を置いていくなんて、初心者でもそんなことはしない」

このコメントを見て、わたしは「ああ。いかにも日本人だなあ」と強く感じたのです。山の途中に装備を置いていくことを初心者以下だと低く見ているわけですが、この精神構造について感じるところがあったのでこのコラムを書くことにしました。

ここで問いたいのは、一般論です。日本人は、きちんとしていることに、こだわりすぎなんじゃないか、ということを問いたいのです。

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山の上できちんとする能力と、友だちをつくる能力とは、まったくの別もの

東アジア最高峰、マレーシアのキナバル山を登ったときのことです。アメリカ人の若い男(以後、ヤンキーと呼びます)が登っていました。まだ二十代だと思います。彼は手ぶら。なんと現地の女性に荷揚げをまかせて、手ぶらで登っているのです。

荷揚げしているのが女性というのはたまたまです。現地の人にとってはそれが職業なのですから、仕事をくれたお客様だということもできます。その女性にとってはありがたいことかもしれません。

しかしいい体をしている二十代男が手ぶらで、背の小さな小太りの中年女性(以後、ボッカさんと呼びます)が、はあはあ喘ぎながら後ろから一生懸命についていっているのを見ると「逆だろ」「手伝ってやれよ」とヤンキーにひとこと言ってやりたい気持ちをおさえるのがたいへんでした。

ヤンキーは「早く来いよ」という不満そうな顔でボッカさんを待ち、ボッカさんは一生懸命についていきます。体力的にもあきらかにヤンキーの方が上なのです。手ぶらだしね。

なんというか……自分で荷物を持って上がればいいのに。そう思わざるをえません。

このヤンキーは非常に態度がわるく、ちっとも楽しそうに登っていませんでした。そこらじゅうにツバをペッペと吐くし、飲み終わったペットボトルは森の中に投げ捨てるし、一言でいうと「友達になりたくないタイプ」でした。

見ていて不愉快なので、わたしはヤンキーとは距離をとって、なるべく見ないようにしていました。

ラバンラタレストハウス(山小屋)の食堂でそのヤンキーに再会したのですが、どういうわけかヤンキーは自分が雇った女性ボッカさんとは別の、男性登山ガイドAと親しくなって談笑していました。

そしてAは、別の登山ガイドBに「マイフレンド」といってヤンキーを紹介したのです。

ズッコケそうになりました。不愉快で、友だちになりたくないタイプだと思っていたヤンキーですが、すっかり現地ガイドと友達になっていたのです。

なんというか……山の上できちんとする能力と、友だちをつくる能力とはまったく別なんだなあ、とつくづく思ったのでした。

【関連ブログ】

悪夢を見て、自殺を考えた夜(ダイヤモンドヘッド232mに登れなかった女のキナバル山4095m登山挑戦記)

キナバル山を登ってみえたのは Life goes on 〜人生は続いていく〜

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「きちんとしているのが一流、きちんとしてないのが三流」という日本人独特の思い込み

「装備を置いていくなんて、初心者でもそんなことはしない」というのは、抽象的にいうと「しっかり、きっちりしてないから、いい加減なあなたは初心者以下」という批判だと思います。「きちんとしているのが一流、きちんとしてないのが三流」というわけです。

言い換えるとこうも言えそうです。

「登山の途中に装備を放置したり、ゴミを落とすような人は、きちんとしていないから一流の登山者とはいえない」

登山の途中に装備(当座不必要な装備。帰り道で回収する前提)を置いていくことを初心者以下だと低く見ているということは、「自分の荷物は最初から最後まで責任もって自分で運びましょう」という鉄則をまもる人が山の上級者だと思い込んでいるということです。

「山に不用品やゴミを置き捨てにするような未熟者が、エベレストのような高みに登れるはずがない」

こう言っているのと同じことです。日本人の耳には、いっけん正しいように聞こえます。自分の世話もきちんとできないような人に一流の仕事はできない、と日本人はよく考えます。

古武道とか、茶道とかも、似たような精神構造をしています。正しい姿勢でないと、いいお茶は点てられない、とかふつうに言いますよね。いっけん正しいように聞こえますが、本当にそうでしょうか。

いいお茶の定義によりますが、いい味のお茶ということならば、立とうが座ろうが姿勢にかかわりなく同じ味のお茶が点てられるはずです。

身の回りがきっちりしているのが一流というのは、日本人特有の思い込みです。葛飾北斎なんか身の回りはメチャクチャだったらしいですよ、超一流の画家ですが。

実際には野口健さんが清掃登山していることから明らかなように、山にごみを捨てるような人でもエベレストにガンガン登頂しているのです。エベレスト登山では残置ハーケンとか酸素ボンベとかテントとかあらゆるものをルートの途中に置いて登っています。

ゴミを捨てる行為と、登山の能力とは、まったく関係がないんですよ。

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教室の掃除・清掃がきちんとできない人は、学校の成績もよくないって本当か?

「教室の清掃もきちっとできない人が、いい学業成績をおさめられるはずがない」

日本の学校教育現場では、こういう意見がまかり通っていますよね? わたしが子供のころはそうでした。

これもいっけん正しいように聞こえます。しかし、よく考えてみると、これは間違っています。

東京大学に合格する能力と、教室の清掃を上手にやる能力と、何の関係があるというのでしょうか。

まったく関係ありません。

逆に考えればわかることです。教室の掃除がきちんとできたら東京大学に合格できますか? できません。掃除のスキルと受験のスキルは違うからです。

このように精神が未分化で、どっちも同じだと考えてしまうのが、古武道などカタにはまったものを信奉してきた日本人独特の精神構造ではないでしょうか。

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カタにこだわりすぎるのが、日本文化のよくないところ。カタを追求するあまり、ダイナミズムを失うことがある。強さを失うことがある。面白さを失うことがある

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ミッドウェイ海戦の教訓。鉄則をまもる精神よりも、なりふり構わぬスピリッツの方が強い

ミッドウェイ海戦というのがあります。日本とアメリカが航空母艦で戦争した太平洋戦争の分岐点となった重要な海戦です。

ミッドウェイ海戦で、日本はルール通りきちんとやろうとしました。艦艇には魚雷、空港には爆弾、攻撃は編隊を組んで各艦連携して襲い掛かるという、鉄則どおりのきちんとした戦争をしようとしたのです。

それに対してアメリカは、きちんと編隊を組んで各艦連携して攻めかかる鉄則などお構いなしに、なりふり構わずに攻撃を仕掛けたのです。鉄則どおりにきちんとやらなかったと言えるでしょう。

ところで、ミッドウェイ海戦に勝ったのはアメリカです。

登山もそうだし、何ごともそうだと思うのです。

登山道に装備を置いていくなんていう行為は、自分の荷物を最後まで自分で運べという鉄則に反するから、ちゃんとしていないものは二流以下。そう思い込んでいると、本当の強者に勝てません。

鉄則は守らなきゃいけない、というのは弱者の論理だと思います。鉄則を守って破れたのなら鉄則が悪いのだからしかたがないよね(自分は悪くない)。事故が起きても「法令基準は守って施工した。法令基準が甘いのだから、自分は悪くない」。どれも同じ精神構造です。

実際の戦争では、各艦連携して攻撃という鉄則を守らなかったアメリカ海軍がミッドウェイ海戦に勝利しています。

IT革命にせよ、シェアリングエコノミーにせよ、エヴェレスト登山にせよ、なんだって同じことですが、鉄則をまもる精神よりも、なりふり構わぬスピリッツの方が強いのだとわたしは思っています。

初期ルール(鉄則)にきちっとしすぎて、スピード勝負のビジネスの世界で、日本は負けつつあるのではありませんか。

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【究極の走り方】あなたの走り方は、あなたの肉体に聴け

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常識を疑え。テキストどおりが最善とは限らない

コメントをくださった方が、どうして荷物をきっちりと運びきらない人は上級者ではないと感じたのか?

それはたぶん登山の教科書の鉄則に「自分の荷物は最後まで自分で運べ」と書いてあるからだと思います。

しかし、軽量化ということを考えれば、不必要な荷物は残置していったほうが、登山の効率は上がります。

エヴェレストのような限界ギリギリの勝負では、登頂成功と失敗の差、天と地ほどの差がつきます。国と国との経済戦争でも、この鉄則をまもる精神と、なりふり構わぬスピリッツでは、きっと後者が勝つでしょう。

ゴミの環境負荷は、登山の能力とは別の問題です。

荷物を途中デポジットしてはいけない、というルールはどこにもありません。

ましてや今回のような、ピストン登山の場合は、往路と復路が同じです。デポジット(デポ)した荷物は、復路で回収するのですから、まったく何の問題もないはずです。

日本人は、きちんとしていることに、こだわりすぎなんじゃないかと思います。鉄則をまもる精神よりも、なりふり構わぬスピリッツの方が強いというのがミッドウェイ海戦の教訓なのではないでしょうか。

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スティーブ・ジョブズ「知の自転車」。論文の嘘を暴け

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サハラ砂漠で大ジャンプする著者
【この記事を書いている人】

アリクラハルト。物書き。トウガラシ実存主義、新狩猟採集民族、遊民主義の提唱者。心の放浪者。市民ランナーのグランドスラムの達成者(マラソン・サブスリー。100kmサブ10。富士登山競争登頂)。山と渓谷社ピープル・オブ・ザ・イヤー選出歴あり。ソウル日本人学校出身の帰国子女。早稲田大学卒業。日本脚本家連盟修了生。放浪の旅人。大西洋上をのぞき世界一周しています。千葉県在住。

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●◎このブログ著者の小説『ツバサ』◎●
小説『ツバサ』
主人公ツバサは小劇団の役者です。 「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」 恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。 「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」 アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。 「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」 ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。 「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」 惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。 「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ」 劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。 「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」 ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。 「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」 ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。 「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」 「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」 尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自身が狂っていなければ、の話しですが……。 「妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ」 そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。 「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」 そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。 「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」 そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。 「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」 「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
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小説『ツバサ』
主人公ツバサは小劇団の役者です。 「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」 恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。 「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」 アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。 「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」 ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。 「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」 惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。 「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ」 劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。 「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」 ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。 「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」 ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。 「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」 「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」 尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自身が狂っていなければ、の話しですが……。 「妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ」 そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。 「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」 そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。 「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」 そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。 「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」 「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
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読書家が選ぶ死ぬまでに読むべきおすすめの名作文学 私的世界の十大小説
読書家が選ぶ死ぬまでに読むべきおすすめの名作文学 私的世界の十大小説
×   ×   ×   ×   ×   ×  (本文より)知りたかった文学の正体がわかった! かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。 しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。 世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。 すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。 『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。 その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
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◎このブログの著者の随筆『帰国子女が語る第二の故郷 愛憎の韓国ソウル』
随筆『帰国子女が語る第二の故郷 愛憎の韓国ソウル』

旅人が気に入った場所を「第二の故郷のような気がする」と言ったりしますが、私にとってそれは韓国ソウルです。帰国子女として人格形成期をソウルで過ごした私は、自分を運命づけた数々の出来事と韓国ソウルを切り離して考えることができません。無関係になれないのならば、いっそ真正面から取り組んでやれ、と思ったのが本書を出版する動機です。

私の第二の故郷、韓国ソウルに対する感情は単純に好きというだけではありません。だからといって嫌いというわけでもなく……たとえて言えば「無視したいけど、無視できない気になる女」みたいな感情を韓国にはもっています。

【本書の内容】
●ソウル日本人学校の学力レベルと卒業生の進路。韓国語習得
●韓国人が日本を邪魔だと思うのは地政学上、ある程度やむをえないと理解してあげる
●関東大震災直後の朝鮮人虐殺事件
●僕は在日韓国人です。ナヌン・キョッポニダ。生涯忘れられない言葉
●日本人にとって韓国語はどれほど習得しやすい言語か
●『ムクゲノ花ガ咲キマシタ』南北統一・新韓国は核ミサイルを手放すだろうか?
●天皇制にこそ、ウリジナルを主張すればいいのに
●「失われた時を求めて」プルースト効果を感じる地上唯一の場所
●韓国帰りの帰国子女の人生論「トウガラシ実存主義」人間の歌を歌え

韓国がえりの帰国子女だからこそ書けた「ほかの人には書けないこと」が本書にはたくさん書いてあります。私の韓国に対する思いは、たとえていえば「面倒見のよすぎる親を煙たく思う子供の心境」に近いものがあります。感謝はしているんだけどあまり近づきたくない。愛情はあるけど好きじゃないというような、複雑な思いを描くのです。

「近くて遠い国」ではなく「近くて近い国」韓国ソウルを、ソウル日本人学校出身の帰国子女が語り尽くします。

帰国子女は、第二の故郷に対してどのような心の決着をつけたのでしょうか。最後にどんな人生観にたどり着いたのでしょうか。

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随筆『帰国子女が語る第二の故郷 愛憎の韓国ソウル』

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私の第二の故郷、韓国ソウルに対する感情は単純に好きというだけではありません。だからといって嫌いというわけでもなく……たとえて言えば「無視したいけど、無視できない気になる女」みたいな感情を韓国にはもっています。

【本書の内容】
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●日本人にとって韓国語はどれほど習得しやすい言語か
●『ムクゲノ花ガ咲キマシタ』南北統一・新韓国は核ミサイルを手放すだろうか?
●天皇制にこそ、ウリジナルを主張すればいいのに
●「失われた時を求めて」プルースト効果を感じる地上唯一の場所
●韓国帰りの帰国子女の人生論「トウガラシ実存主義」人間の歌を歌え

韓国がえりの帰国子女だからこそ書けた「ほかの人には書けないこと」が本書にはたくさん書いてあります。私の韓国に対する思いは、たとえていえば「面倒見のよすぎる親を煙たく思う子供の心境」に近いものがあります。感謝はしているんだけどあまり近づきたくない。愛情はあるけど好きじゃないというような、複雑な思いを描くのです。

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●◎このブログ著者の書籍『軍事ブロガーとロシア・ウクライナ戦争』◎●
書籍『軍事ブロガーとロシア・ウクライナ戦争』
戦史に詳しいブロガーが書き綴ったロシア・ウクライナ戦争についての提言 『軍事ブロガーとロシア・ウクライナ戦争』 ●プーチンの政策に影響をあたえるという軍事ブロガーとは何者なのか? ●文化的には親ロシアの日本人がなぜウクライナ目線で戦争を語るのか? ●日本の特攻モーターボート震洋と、ウクライナの水上ドローン。 ●戦争の和平案。買戻し特約をつけた「領土売買」で解決できるんじゃないか? ●結末の見えない現在進行形の戦争が考えさせる「可能性の記事」。 「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」を信条にする筆者が渾身の力で戦争を斬る! ひとりひとりが自分の暮らしを命がけで大切にすること。それが人類共通のひとつの価値観をつくりあげます。人々の暮らしを邪魔する行動は人類全体に否決される。いつの日かそんな日が来るのです。本書はその一里塚です。
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