チャタレー事件。チャタレイ猥褻裁判とは
『チャタレー夫人の恋人』この本は内容云々よりもむしろ猥褻裁判の方で日本では有名だと思います。1928年の発表。比較的新しい作品です。作品中『失われた時を求めて』について言及していますのでプルースト以降ですね。ちなみにもうひとりのロレンス、T・E・ロレンス『アラビアのロレンス』についても作中に言及があります。本作の著者はD・H・ロレンスですね。
1957年に『チャタレー夫人の恋人』の出版は本邦では「ワイセツ」だとして有罪判決が確定しました。その後、ワイセツと思われる箇所に伏字をもちいて出版されています。伏字なしの完全翻訳版が読めるようになったのは1996年のことだそうです。
猥褻って何だ。ワイセツの基準とは?
猥褻というのは基準が曖昧です。どこまでが猥褻で、どこからが猥褻でないのか、その基準、試金石のひとつとなったのがチャタレー事件、チャタレイ猥褻裁判でした。
精読しましたが『チャタレイ夫人の恋人』の内容そのものはいやらしいものでは決してありません。内容は純文学しています。むしろ露骨な描写(後述します)が問題とされたのでしょう。
「書物そのものは猥褻文書ではない。しかし書店の売ろうという商業主義的な姿勢がよくなかった」ともされたようです。この「売らんかな主義」書店や出版社側の気持ちはよくわかります。エロは売れるのです。VHSビデオが売れたのはアダルトビデオのおかげだと言われています。私のブログの検索ヒット数にもエロ系記事が上位に顔を出しています。
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サド(哲学書)やカサノヴァ(冒険本)の著書を売ろうとしたら、エロ本として売るのがいちばん売れるのだろうことは容易に想像がつきます。表紙絵、挿絵などがエロ系になっているのは「売るための努力」なのでしょう。当時『チャタレイ夫人の恋人』も同枠として売られていたようです。
最高裁で猥褻と判断されたものが、なぜ今読めるのか?
ところで、最高裁で猥褻と判断されたものが、なぜ今読めるのでしょうか。
後述する内容のとおり、原題のポルノ小説にくらべれば、まったくとるに足りない猥褻度でしかない『チャタレイ夫人の恋人』ですが、最高裁の判決は判決です。ひとたび猥褻だと判断されたものは、その基準は判例法として後世に残るはずではないでしょうか?
それがどうして今はもっと露骨なポルノ小説さえ読むことができるのでしょうか。
時の流れによって、世の中が変わり、社会通念が変わりました。『チャタレイ夫人の恋人』は諸外国でも猥褻文書とされた例もあったのですが、そのような国でも受け入れられるようになってきました。けっきょく猥褻なものというのは嫌悪感を示す人たちが多数いるのです。だから規制されるのです。ところが嫌悪感を示す人がすくなくなれば規制する意味がありません。そうして『チャタレイ夫人の恋人』は完訳版が静かに出版され、静かに受け入れられていったようです。怯えながら出版されたものがもう摘発されることはありませんでした。
社会や法律の基準は時間とともに変化し、過去の作品が当時の規範に基づいて制限されていた場合でも、後に解禁されたり制限が緩和されることがあります。ときには裁判所が過去の判例に逆らうこともあります。これを「判例の覆し」といいます。判例には逆らうことは法的には可能であり、新たな法的理解や社会的な変遷に基づいて法が進化することがあるのでした。
あらすじ、内容、感想
主人公はコンスタンス(コニー)・チャタレイ夫人です。夫はクリフォード・チャタレイ。ラグビー邸という邸宅に暮らす貴族階級です。そして森番のメラーズ、この人がいわゆる「チャタレー夫人の恋人」です。覚えるのはこの三人だけでいいでしょう。この三人を中心に世紀の不倫劇は展開されていきます。
男たちと全く対等にやってのけた。女であるということは、かえって有利だった。思うままにふるまえる自由。なかでも自分の好きなことを言えるという自由。もっとも重要なことは喋りちらすということ、情熱的に意見の交換をするということだった。恋愛は二の次のものにすぎなかった。
(男は)男を受け入れないと受け入れないということで女を嫌う。そして受け入れてやってもまたなにか他の理由で女を嫌うのである。彼らはいつまでも満足することを知らぬ子供に過ぎない。
夫が戦傷で性的不能、車いす生活に。
→夫チャタレイ(クリフォード)は性的不能者です。はじめは「それでもいい」と思っていたチャタレイ夫人でしたが、そういうわけにはいきませんでした。これはそういう物語です。
精神上のことではひとつだった。だが肉体上では二人は互いに存在していないのだった。きわめて親密でありながら、まったく触れ合うことがなかったのである。
それがある意味で彼女の子宮を動かした。
クリフォードではだめだった。彼にはそれができなかった。
→ 何ができなかったか、もうわかりますよね。
たいていの個人的経験というのはごく狭い所に限られている。海中でりっぱな魚に逢うことはなかなかありえないのだ。
(夫)精神生活と関係ないことはみんな私事にすぎない。誰も他人に向かっていつ便所に入るかをたずねようとしない。それは当事者以外のものには何の興味もないことなのだから。女性関係などは当事者だけにかかわることで、便所に入ることと同様、他の誰にとっても無関係なことだった。
→夫クリフォードは貴族階級のお金持ちで、インテリの作家です。裕福な富も、ウィットに富んだ会話も、チャタレイ夫人の心の疼きを止められませんでした。
セックスの飢餓は僕の仕事の邪魔をする。
過ぎ去ってしまうのだ。大切なのは生活の中で継続してゆくものだ。どこまでも継続し発展してゆく自分の生活が大切なのだ。毎日毎日を一緒に暮らすということで、一度や二度一緒に寝ることではない。たまに起こる結合などが何になるものか? 習慣というもののほうに生命がある。
そういうことは歯医者へ行って治療するように解決すべきだと思う。
→夫チャタレイはセックスという行為を否定しようとします。もともと自分が肉体的にできないわけですが。
それは言葉、ただの言葉にすぎないものだった。現実はただ空虚なだけなのだが、その表面がいつわりの言葉で覆われているのだ。
自分の生活の空虚さに対する恐怖。
身体の不自由さを売り物にするんですか。
若さというのはなんというすさまじいものだろう。少しも落ち着きをあたえようとしない。なんといういやらしい生活だろう。
手で触れられるような輪郭の中に表現された、一個の生命の暖かい白い焔。それが肉体なのだった。コニーは眼から入ったショックを子宮の中で受けとめた。
ただ艶を失っていった。彼女の肉体は無意味なものとなり、間のびした、漠とした、つまらぬものになったのだ。二十七歳にして肉体の美と輝きを失い、老け込んでしまった。それは肉体を無視し、拒否しているためなのだ。
自分の肉体のことに気づいた瞬間から、不幸というものが始まるのよ。
人間の肉体はいまだ進化の途中にある。下腿に骨が二本(脛骨と腓骨)あるのは何故か?
おそろしいほどつまらなかった。耐えがたいほど退屈させた。しゃべり、しゃべり、そしてしゃべりまくる。この騒音はいったい何なのだろう。
この地上で願わしいことはただひとつ、孤独だ。しかし彼には自分の内緒の生活を守る力がなかった。彼は雇われた人間であり、彼の生活を侵すものは雇い主だった。
彼女は彼から逃れたかった。彼の意識、彼の名文句、彼の我執、終わりのない踏み車のような我執、彼自身の言葉から逃れたかった。
クリフォードの身体をすっかり自分の手に引き受け、排泄物の始末まで残らず世話をやいてやることが好きになった。
熱狂的な好奇心をもって聞くべき話しではなかった。あらゆる人間が心から同情するような、苦悩に満ちた、打ちひしがれたものに対する心。
雛鳥。生命だ。生命だ。コニーは夢中になった。だが同時に自分の中の女性が放棄されているということの苦悩を、このときほど鋭く意識したこともなかった。
もう永久に消えてしまったものと思いかけていた昔の焔が彼の腰部でほとばしり、跳ね上がった。
彼女の中へ入っていった。女性の中に入っていく。精液が彼女の中にそそがれる。
彼女は安らぎを得るためには自らを与えなければならないのだ。
いろんなむつかしい関係があります。人生です。これは避けて通るわけにはゆかないものです。避けるより死んだ方がいいぐらいです。
人間を結びつける古くからの感情。
世の中にこんなにたくさん人間がいなかったらねえ。
彼女のために困ったことになる。良心というのは社会に対する恐れか、自分自身に対する恐れ。社会というものを怖れていた。社会が悪意のある半ば狂気の獣であることを本能的に知っていた。
夫の使用人が相手では、あなたは屈辱的な思いをしますよ。
それは愛の眼ではなかった。
彼が中に入ってきたとき、彼女は彼の剥き出しの肉体が自分に押しつけられたことを感じた。
自分の寂しさを追い払おうとしても無駄だ。一生それはついて回るのだ。ただ、ときに、その隙間が埋められるだけなのだ。たまにだ。それを無理につくりだすことはできない。一生涯自分の孤独を受け入れ、頑張っているほかないのだ。
人間の仲間意識は失われている。それは死滅してしまった。人間のつきあいというものは死滅してしまった。隔絶感と絶望があるだけだった。
僕が必要だったのはそのためなんですね——ただ産むという?
彼のペニスが彼女のからだに無言の不思議な力を示し、主張をしている。彼に向かって全身を開いた。自分の内部に力強く容赦なく侵入してくるもの。彼女はすべてを放棄した。なるがままにさせた。そして洪水のなかに自己を失った。
男根が徐々にものものしく満ち膨れはじめた。またも力が湧いてきたのだった。
その接吻の中に自分の時間を放棄する女の嘆きが籠っていた。
おれはおまえの中に入っていけるんだ。おまえの中に入っていけるのがうれしいんだ。おれのためにからだを開いてくれるおまえが好きなんだ。
私たち全体に通じる一般の人間性というものはないのですね。
私はあの人を憎悪しているのだから、あの人とともに生きてゆくことはとてもできない。
彼らは何でもお金で買おうとしている。だが私を買ったわけではない。だからもうあの人と一緒にいる必要はない。
人生を買うという行為だけで終わらせないために。『ロビンソン・クルーソー』
娘は少しもそれを望んでいなかった。まったくその気持ちがないのだ。別なこととなるとちっとも欲望がない。そういう女はよくいるものだ。それが別れる原因になった。おれは残酷にその女を棄てた。おれはおれとやりたがる女を望んでいたのだ。
女はたいてい男を欲しがっているが、性はのぞんでいない。ただやむを得ないこととして我慢しているだけなんだ。
柔らかい小さなペニスを手に持った。これはあなただけのものじゃないわ。私のものよ。
キンタマは半分しかない。彼らは元気がなくなった。自動車、映画、飛行機が彼らの最後の生気を吸いつくしてしまった。ブリキ人間だ!
野蛮な野犬がラグビー邸で吠える。ペニスがもういちど最後の雄たけびを上げさえすれば、おれはいいんだ。
裸にして言う。おまえの身体を見ろ。おまえ自身を台なしにしてそんなに働く必要はないんだ。体を見てみろ。醜く、死人も同然じゃないか。金のために働いているからだ。おまえらは女と楽しく暮らすこともできないのだ。
ふたたび人間らしくなる。
雨の中のダンス。臀部が光る。尻が突き出される。素晴らしい女性の裸像。
時々、彼女のからだの二つの秘密の穴に触れた。おめえ、いいけつしてるなあ。こんないいけつの女はいねえよ。このけつなら世界だって止められるよ。おめえがここから糞をしたり小便をしたりするのがいいんだ。ここからおめえは糞をたれ、ここからおめえは小便をたれる。おめえはいい女だなとおれは思うんだ。それでおめえが好きになるんだ。おめえのけつを撫でて、おめえのけつを知れば、一生生きたも同然だ。ここにおれの人生があるんだ。
「自分の肉体が大好きよ」——こんないいけつをした女はいないよ! という言葉が彼女の心のなかを通り抜けていった。
肉体は邪魔ものだという考え方。精神を自分の死体に縛りつけているだけなのよ。肉体生活などは動物の生活みたいなものだ。
肉体に勝る装備はない.トレイル・ランニングは目のよさがスピードを決める。
私は肉体をとるわ。肉体の生活は精神の生活よりもずっと大きな現実だと思うわ。いま肉体はほんとうに蘇ろうとしているのよ。墓穴から起き上がろうとしているの。
→キリスト教では死後の魂の世界をあまりにも強調しすぎるあまり、現世の肉体を軽視し過ぎました。その反動でルネッサンス(文芸復興)という運動が起きるわけですが。
もし本当に男にさからったら、それでおしまいです。もしその男が好きであるなら、決心しているときはその人にゆずらなければなりません。
本当に誰かを愛した後、もう一度別の男を心から愛せるとは私は思いませんわ。
向こう見ずの、恥知らずな感覚が、彼女の最後の覆いを剥ぎ取って別な女にしてしまった。火のように鋭く身を焼き焦がし、魂を燃やし尽くす、官能の興奮だった。もっとも古い恥が、もっとも秘密な場所で焼き去られてしまった。
どこのギリシアの壺にも同じものが残っている! 女は羞恥のために死ぬものと考えていた。そうではなくて恥の方が死んでしまった。恥ずかしさというのは怖れなのだ。この夜も恥が駆り立てられ、男のペニスという猟師に追いたてられた。彼女は勝利を感じた。何も隠したり恥ずかしがったりすることはなかったのだ。究極の自分の姿を理解した。
詩人は何という嘘つきだろう。人間が最も強く求めているのは、この貫くような、消耗するような、怖ろしいほどの肉の感覚なのだ。
メラーズが村を通ると、まるで彼がサド侯爵ででもあるかのように女たちが子供を呼び込むそうです。
あの連中は自分たちもちゃんとおまんこをやれば、他人の噂なんかで騒ぎ立てなくなりまさあ。
金銭の傲慢さが憎いし、階級の傲慢さも憎い。僕は女性に対して与えるものを何か持っているのだろうか? 男はその女に彼の生活の中で何か意味をあたえてやらなければならない。お金はあなたのもの、地位もあなたのもの、決定権もあなたにある。僕は結局、単なる貴婦人の男娼だけじゃないんだ。
あなた自身の優しさという勇気よ。私のお尻に触っておめえのけつはかわいいな、というときの優しさがそれなのよ。
セックスというのは、あらゆる接触の中でもっとも密接な接触なんだ。そしてわれわれはその接触を怖れている。半分意識し、半分生きているだけだ。
→地域社会というものが崩壊し、国家と個人が直接結びついて家族というものが意味をなさなくなり、大都会の中の孤独という言葉があたりまえになった現代は、昔の人から見るとやはり人と人の接触がなくなったと感じるのでしょうね。
おまえがそういうなら放さないよ。私の子宮にキスして。
子どもを世の中に送り出すのは恐ろしいと思っているんだ。
ヴィーナスの丘に接吻した。それは子宮と、子宮の中にいる生命に接吻するためだった。
触れ合った二人の腹に共感の火がともされたことを感じた。
これが自分のなすべきことであったと悟った。私はひととひとのあいだの肉体的意識のふれあいのために戦う。これは世界中の金と機械と生気を失った観念的な猿に対する戦いなのだ。女性を得たというこの喜びはどうだ! 私とともに生活し、私に対して優しく、私をわかってくれる女を得たのだ。
→メラーズ(ロレンス)にとって、この戦いのための武器がセックスというわけです。キリスト教の貞操、家族観に対する叛旗としてアナルセックス(生殖しない快楽)を掲げたサドと発想がよく似ています。
世間というのはこういうものよ。迫害されないで暮らしたいなら、どうしても結婚しなければいけないのよ。
子どもの立場に立ち返るのは心の休まることだった。大人である彼が子供となってそんなことをするのは、倒錯した歓喜だった。この子供大人が世間に出て行くと今まで以上にいっそう容赦のない鋭いところを見せるようになった。
人間は生き生きと快活であるべきです。あの偉大なるパン神のごとくあるべきです。彼らは死んだ人間です。女たちとの関係においても、生活との関係においても、死んでいます。
D・H・ロレンスはセックスを反機械化文明、反階級の象徴として描いている
内容な見てのとおり『チャタレイ夫人の恋人』はポルノ小説ではありません。ちゃんと文学しています。キリスト教と戦う武器としてサドが性欲をつかったように、ロレンスは金と機械に生気を失った人間、階級社会に対決するために性欲を使いました。チャタレイ夫人は貴族であり、森番のメラーズは平民です。階級を超えるための武器としてもセックスが使用されています。現実とは逆に、『チャタレイ夫人の恋人』では貴族が平民を追いかけ、貴族が平民に従います。
これを猥褻とは、当時の裁判官はいったいどういう頭だったのでしょうか。現代のポルノ小説とくらべると、まったくとるに足らないセックス描写にすぎません。映像作品にたとえて言えば「無修正性器まる出し」を現代ポルノ小説とすれば、アンダーヘアが見えちゃったぐらいのレベルでしょう。こんなものが何で猥褻になったんだろうか、と思います。それは現代から過去を見ているからで、当時はこれぐらいの描写でもヒソヒソ話レベルのいかがわしさだったのでしょう。
こんなもので有罪にされたらたまったものじゃないな、と現代のわれわれは思います。
D・H・ロレンスはセックスを反機械化文明、反階級の象徴として描いています。だからこそ本書は凡百のポルノ小説とは一線を画し、純文学として今では世界中で読まれているのでした。
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主人公ツバサは小劇団の役者です。
「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」
恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。
「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」
アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。
「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」
ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。
「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」
惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。
「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ」
劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。
「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」
ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」
尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。
「妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ」
そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。
「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」
そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。
「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」
そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。
「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
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