どれだけ肉体を使えるかが、生き抜けるかどうかに直接関係していた狩猟採集時代
『サピエンス全史』に示されているとおり、かつて人類は狩猟採集民であった。狩猟採集民は獲物を追ってさすらい生きた旅人であり、長距離ランナーであった。『BORN TO RUN走るために生まれた』に示されているとおりである。どれだけ肉体を使えるかが生き抜けるかどうかに直接関係していたのだ。
農業革命は、専門分野はやたら詳しく、専門外は何も知らない人間を量産した
それが農業革命によって、狩猟採集民は定住するようになったという。膨大なカロリーを手(口)にして種族の人口を増やした反面、労働はきつくなり、階級社会が誕生したという。ある階級は肉体ではなく知識で生きていけるようになった反面、運動不足で肥満になった。個々人の仕事は専門化されて、専門分野に関してはやたらと詳しいが、専門外のことはまったくわからないという人間ばかりになったのだ。
自然の中で自給自足していくような狩猟採集民族は広範な知識が必要とされる。ショッピングセンターで買い物するわけにいかなければ、自分の知恵で何とか生き抜いていかなければならない。かつてに狩猟採集民族にはそれができたが、現代の農耕民族にその暮らしはもうできない。人類全体としては知識は増えたけれど、個人単位で見ると人はひとりでは生き抜いていけないほど愚かになってしまった。現代を生きる我々はもはや狩猟採集民に戻ることは不可能だ。だいいちその生活ではカロリーが足りない。農耕抜きで全人類をまかなえるだけのカロリーを確保することはもうできないのだ。
そればかりではない。狩猟採集民族の自給自足の暮らしを可能にする自助の精神、技術はもはや失われてしまっている。『氷点下で生きるということ』のような暮らしはほどんどの人にはできないのだ。ひらたくいえば大半の人間はもはやスーパーマーケットで買うという行為でしか生きていくことは不可能になってしまっているということである。
【命名】新農耕民族。経験をもとめて放浪し旅をする新狩猟採集民族
でもここで発想を変えよう。買うという行為でしか生きていくことができなくなってしまったのなら、それでいい。それを認めようじゃないか。それを前提とした生き方をしていけばいいのだ。
それは逆に言えば、商品と買うという行為で、どこででも生きていけるということである。かつての獲物を追って彷徨した狩猟採集民族のように我々もさすらい旅に生きることができるのである。商品さえあればどこででも生きていけるのだから。
われわれはもはや狩猟採集民族ではないが、だからといって農耕民族ともいえない。一カ所に定住して収穫を得るものを農耕民族だとするのならば、これはもはやも農耕民族ではない。いわば新農耕民族だ。
かつて狩猟採集民族が獲物をもとめてさまよい旅したように、おれたちはさまいよ旅することができる。いやむしろかつての狩猟採集民族以上に遠くまで彷徨うことができるし、あてもなく旅することができる。
もちろん買うための商品をもとめて旅をするのではない。豊かな人生の経験をもとめてさまよい旅をするのである。生きていくためのシェルターや食料や衣服は金で買えばいい。
狩猟採集民族の移動範囲には限界があった。獲物がいる範囲しか移動できなかった。なわばりの中でしか移動しなかった。でもおれたちはもっと遠くまで行くことができる。
獲物を追ってさすらい旅するものを狩猟採集民族だと定義するのならば、経験という獲物を追ってさすらい旅するおれたちはもはやかつての狩猟採集民族ではない。おれたちは新狩猟採集民族なのだ。新農耕民族は、新狩猟採集民族だ。これがおれたちの新しい生き方だ。
商店で買うという行為しかできないことを、堕落だとか、生きている実感の喪失だとか、生き抜く力の無能力だとか、悔いても、恥じても、情けなく思っても仕方がない。それが前提だ。そういう生き方しかもうできないのだから。
でもその上で、農耕民族よりも、かつての狩猟採集民族よりも、おれたちは自由に地球の上を歩き回って、思う存分、人生を謳歌してやろう。かつての誰もできなかったような生き方をやってやる。新しい波に乗っかって、力いっぱい燃えて生き抜いてやる。
歴史的な生き方を四の五の言ってもはじまらないぜ。