BORN TO WALK 歩くために生まれた
ここでは五木寛之『風の王国』をネタに「歩くこと」について語っています。『BORN TO RUN走るために生まれた』という本がありましたが、この本は『BORN TO WALK 歩くために生まれた』と副題がついていてもおかしくないような「歩く小説」でした。
あなたがハイカーだったり、歩く人だったら、かつてないほど面白く小説を読むことができるでしょう。
風の王国といっても風の谷のナウシカの故郷・風の谷みたいに「風吹く場所」のことではありません。
風というのは「とどまることのない、動きつづけるもの」の象徴です。
遊牧民の村のように、とどまることのない流浪の民の生きる世界のことを、歩く小説の中で「風の王国」といっているのです。
放浪とは歩くこと。「歩く」ことに無関心ではいられない
その意味でも『風の王国』は、作品世界と自分の世界が酷似しているために、自分のことのように読むことができました。
ちなみに走ることに関しては、書物も出している専門家です。
あまりにも自分の世界と酷似しているために、同様のことを書いてある私のコラムを途中途中に差しはさみました。興味があればそちらにも飛んでご覧ください。
千日回峰行を満願した阿闍梨さまよりも、この大地の上を走っています。そういう書き手ならではのことをこのコラムでは書いていこうと思っています。
歩く人・散歩愛好家は一度は読んで損のない本
きっと五木寛之も歩くのが好きなんじゃないかな。歩くことをよくわかっている人だなあと描写の端々から感じました。
ミズノウェーブの効果。自然な滑りをしめすランニングシューズ
「速水卓はなるだけ自然な滑りをしめすウォーキングシューズが好きだった」みたいな描写に、歩くことをよくわかっている作者だなあ、と感じるのです。
ソールの滑りがないということは、着地のところで足裏が固定されてしまうということです。歩くというのは靴底を転がすことなので、グリップ力が強すぎて滑りがゼロというのは「ネチョっとした感触」になるのです。言っている意味が分かるでしょうか。わかれば、あなたも歩くのが好きな人です。
アイススケートがどうして歩くよりも速いかというと氷の上を滑っているからです。転ばないかぎり、本当は滑った方が速いのです。
陸上短距離走だと金メダルを取れない日本人が、スピードスケートだと金メダルを取れるのは何故なのか?
ウォーキングよりもランニングで顕著なことですが、蹴りだす時には地面をしっかりと掴んでくれることが必要ですが、着地の瞬間の強すぎる固着は膝に負担をかけます。
MIZUNOのランニングシューズに搭載されているミズノウェーブというのは、そこらへんのジレンマを解消するために開発されたものです。着地の時は固定しすぎず、蹴り出しのときは滑らないようにという工夫があのウェーブなわけです。
「濡れることを考えないとすればラグソールの靴は無視してもいい」などウォーキング魂をくすぐるような専門的な描写が『風の王国』たくさん出てきます。ラグソールというのはビブラム社ソールのような刻みの大きなソールのことです。
「わたし、足の裏に目が生える話し、信じるなあ」
「マラソン選手にランナー膝という病気があり、登山家には往々にしてシュラッター病という膝の疾患があるものだ」とか、登山系の小説を別ジャンルとすれば、“歩く”小説の最高峰ではないかと感じました。
ノルディックウォーキングのインストラクターで生計が立てられるか(実践編)
物語の骨子
その石内元は六家の能登のモンドという≪オオオジ≫の子でした。戸籍を作って世間に≪トケコ≫んだ≪トモダチ≫です。講の外にいて講に義理を尽くす≪ツナガリ≫の者でした。
速水卓は初代講主・葛城遍浪の血を引くたった一人の男の子です。おそらく遍浪→能登のモンド→石内元→速水卓ということなのだろうと思います。
速水卓は『青年は荒野をめざす』のジュンのような人物です。ジャズと関係のない「その後のジュン」と思ってもいいかもしれません。「ゴーフォーブレイク! これはおれからの忠告だ」このセリフ、どこかで聞いたことあるよね。
雑誌のライターをしています。ノマディックに移動・放浪の自由な旅の生活を若者たちに呼びかけている雑誌です。よく歩く人はよく読む人でもあるのかもしれません。
ランニング隠者、走る哲学者の生き方。晴耕雨読なんて過去のライフスタイル
FIREムーブメントの先駆者が語るファイアのやり方、大切なこと
ある日、二上山に登るという取材を頼まれます。大和の二上山はこの世とあの世の結界にあたる境だというのです。東の山辺の道、西の葛城の道。東の三輪山は朝日さす神の山だ。西の二上山は日の沈む浄土の山だ。それを確かめてくれ、という「歩く」取材でした。
<おれは歩くことにだけ、いま、生きがいを感じている>
卓は今は歩くことだけに生きがいを感じています。バイクも車も好きだが歩くことはもっと好きです。二本の脚を動かして無限の地表を歩くことにだけ興味を感じています。
そこで興味のある女(葛城哀)と知り合います。これまでに見たどの歩きよりも鮮やかな歩行だった。駆けているのではなかった。あくまでも歩いているのだが、それがまるで翔ぶように見えるのです。ネパールのシェルパ。チベットのルムゴンパ。役小角などのような歩き手と比較したくなるような歩き方をします。
足底筋が発達しすぎて土踏まずのアーチがない女は、それをワラジ足といって自慢します。
ヘルメスの靴。足についた宙に浮くためのバネ(足底アーチとアキレス腱)
その女は講という互助会のような秘密組織の跡取りでした。そして卓は自分がその講の関係者だったということを知ります。そしてやがては……登場人物のほとんどはその講の関係者でした。
講の方針を巡る愛憎からやがて殺人事件が発生します。講は戦うか、引くか、選択を迫られるのでした。
フィクションとは思えないリアルな登場人物たちの命名
フィクションでこんな変な名前つけますかね? フィクションでこんなに≪隠語≫が登場しますかね?
途中から『風の王国』に書かれていることは、すべて史実なんだと思って読んでいました。よく作者の創作でこんなリアルな妄想したよなあと感心します。すごいぜ五木寛之。
講の名前は≪フタカミ講≫二上山からの由来です。天無仁神講というのは、フタカミ講の隠語でした。
天の字から二を無にすると人が残ります。二神講はフタカミ講のことでした。
同行五十五人というのは、もちろん同行二人の四国お遍路からイメージを拝借しているのでしょう。
フタカミ講は、修験道や、比叡山の千日回峰行のイメージを借りた、宗教っぽいことをして≪ケンシ≫≪サンカ≫の生き方を現代に実践しようとしています。ジプシーがヨーロッパで生きるように、日本でケンシとして生きようと目指しているのでした。
≪へんろう会≫というのは葛城遍浪という人物の名前からとった一種のファンクラブ・修養団体でした。勉強会などをして派閥のようなものを形成しています。
なぜか二上山へは登りたくないという西芳賀教授もサンカの関係者だったからでした。そこは祖先の虐殺現場だったからです。流星書館の島船専務、花田出版部長も、へんろう会のメンバーでした。流星書館は射狩野グループに属しており、射狩野グループはへんろう会の世への≪突出≫経済部門。射狩野グループ代表の射狩野冥道はへんろう会の会長です。ヤクザ組織の渾流組はへんろう会の武闘部門でした。
速水卓は講と≪ツナガリ≫がある人物です。「向こうに着いたらきちんと≪ツナ≫ぎましょう」なんて言われます。講友は≪トモダチ≫で、講主≪オヤサマ≫です。≪トモダチ≫ってだけで二十世紀少年の宗教団体の教祖を思い出してしまいますね。ケーンヂくん、あーそびーましょ♪
このように秘密地下組織小説としても読むことができます。
葛城天浪は天無仁神講の講主≪オヤ≫です。相互扶助。自然共存。一心無私。一所不在(山河を故郷として生きる志)。利益を求めて政界、官界と手を結ぶことを遍浪先生は厳しく戒められたために、射狩野グループと対立することになります。そもそも戸籍によって定住と納税をすすめる政治は、ケンシの敵だという認識です。
「≪フタカミ講≫の≪オヤ≫の代行として言っているのですよ」
「渾流組の竜崎として、お断りしているんです。」
「うちの講がからんだ以上、ちゃんと配慮はしてくれるはずです。そうでしょう? 竜崎さん」
天無仁神講のアジール(道場)は伊豆半島賀茂郡の婆娑羅峠(現在、旧道は廃道になっている)の近くにありました。
≪フタカミ講≫はへんろう会とは異なり、八家と≪ツナガリ≫をもつ同族だけの集まりです。へんろう会は血のつながりがなくても入れる組織ですね。
≪オジ≫≪オバ≫は八家の≪ナガレ≫の人物たち。その≪コドモ≫たちは講で三行≪学業≫≪遊行≫≪歩行≫を修行します。修行のまとめに海外を旅行して巡るという教育システムは二代目オヤ葛城天浪でした。
麻木サエラもへんろう会の会友でした。義理の父であった速水家も兄の真一も。
「僕は一体何者なんです」卓は問いかけます。「講はずっとあなたを控えめに見守り続けてきたんだよ。あんたに卓という名前をつけたのもこの天浪先生だ」渾流組の竜崎も同じ名付け親をもったキョウダイでした。
これまでの人生のピンチに、ラッキーに救われたと思っていたことは、すべて裏で講が助けてくれていたのでした。
こういう隠語、仲間内の言葉を小説内で使えば使うほど、架空の団体が真実にあるかのように錯覚させられます。
飛鳥あたりに住みたくなる本
東の山辺の道に対する、西の葛城の道。東の三輪山は朝日さす神の山、西の二上山は日の沈む浄土の山という認識です。二上山から葛城、金剛山につづく。いわゆるトレイルランニング界ではダイトレ(ダイヤモンド・トレイル)と呼ばれるルートですね。
葛城古道、斑鳩の里なども登場します。箸墓古墳は三輪のオオモノヌシを怒らせた姫が箸で自分の性器を突き刺して死んだとされるお墓で、卑弥呼の墓ともいわれる古墳です。
『風の王国』を読んでいると奈良県葛城市、橿原市あたりに住みたくなります。
「前方後円墳は、二上山の雄岳、雌岳を墓として象徴的に再現したものかもしれない」なんてことまで書いてあります。そんな新説、聞いたことありません。フィクションだとしても、よくこんなこと思いついたなあと感じます。すごいぜ五木寛之。
旅人心をくすぐる描写
「ヒッチハイクで知らない土地を旅するには、チャーミングな笑顔が最大の武器なのだ」
「知らない連中にためされるのは慣れていた。要は腹を据えて遠慮せずに振舞うことだ。出すぎて失敗したときには相手が態度でたしなめてくれるだろう」
「なんでも知ってないと、よその国では生きていけない」
「約束なんかすっぽかしてこの国からオサラバすればいい。そんな連中がたくさんいたのだ、世界のあちこちに」
旅人なら思わずにやけてしまうような描写が続きます。さすがジュンですね。……おっと、速水卓でした。
修験道の魅力がつまった本
歩行はホコウとも読めますが、歩く行ギョウとも読めます。自然の中を歩けばどうしたって行の相を帯びてくるのです。
一畝不耕。一所不在。一生無籍。一心無私。
歩行のことをホギョウといいます。≪キョウダイ≫≪コドモ≫にとっては大切な行のひとつです。実用のために歩くのではありません。
≪御同行≫ゴドウギョウでは、人とともに助け合って歩く、自然と一体となってあゆむ、その心の広さややさしさを持っているかどうかが試されます。
歩行聖者のように、風の行者のように。シェラカップのシェラ・クラブも登場します。
Walking softly in the wiiderness.
比叡山の千日回峰行についても語られます。
≪かわ≫が≪みち≫だった。動物であれ、人間であれ、≪みち≫がなくては生きていけません。
記録は定住民のわざ。歴史は農耕サイドから語られることが多い
私は常々「歴史は定住者、農耕者の側から語られることが多いなあ」と感じてきました。
たとえば中国の歴史ですが、北方の未開人が攻め込んでくるので万里の長城をつくった、というように定住者側から記述されます。そんな未開の野蛮人だったら楽勝で追い払えばいいのに、たびたびいくさに負けているんだから世話はありません。ただ非定住型の遊牧民だったというだけで実際にはそんなに未開人じゃなかったんでしょう。遼や金、モンゴル民族、女真族など、中国はたびたび北方の遊牧民族に支配されています。ヌルハチの清とかに。でも問題は主人公が定住者の農耕者・漢民族の側から描かれることがほとんどということです。そして征服者は残酷な野蛮人と描写されることです。
ローマ帝国の歴史も同様です。北方から蛮族が攻めてくるという文脈で歴史が語られます。ここでも主人公は定住者のローマ側です。実際には蛮族というのはゲルマン民族の大移動で移動してきた今のフランス人ドイツ人などですからそれほど野蛮人ってこともないと思います。問題はいつも定住者の側から歴史が語られるということです。
そのゲルマン人も「遊牧民」のフン族アッティラに征服されると「神の災い」と嘆き、アッティラはバーバリアンとして描かれるのです。つねに定住、百姓目線で歴史は語られ、遊牧民は野蛮人だと評価されます。
どうして遊牧民、非定住の移動しつつ生きる側から歴史が語られることがないんだろう、と私は常々思っていました。
その答えは、おそらく記録というのは百姓のものだからです。生産物を蓄財し、生産記録、天候記録などをとって、知恵をたくわえます。ものを記録する作業というのは定住民のわざだからでしょう。
遊牧民は文字をもたなかったり、蓄財する観念が希薄です。蓄財しすぎると移動できなくなってしまいます。この地球を流れるように生きて、流れ去っていきます。世界最大の帝国を気づいたチンギスハーンはお墓の位置さえわかりません。
フタカミ講の人たちがお米を食べないのは、米は定住者の蓄財の象徴だからでしょう。
そういう意味では『風の王国』は、非定住の移動しつつ生きるサンカ、ケンシのサイドから、明治以降の日本を語っているということができます。
一般的に、サンカを虐待する政府や民衆の側から語られる歴史がほとんどです。中国やローマの歴史がそうだったように。
それを遊牧民の側から定住化、戸籍化の歴史を語っているわけです。もちろんフィクションですが、その切り取り方がたいへん新鮮でした。
『BORN TO RUN』走るために生まれた、との共通点。歩く民族ケンシ。走る民族ララムリ
また『風の王国』を読んで『BORN TO RUN』という本を思い出しました。この本にはメキシコの圧政を嫌って山に走り去った「走る民族」ララムリが登場します。
歩くことと、走ることの違いはありますが、どちらも権力に迫害されて自然の中に逃げ去った民族が主役の物語です。
非定住の、動くことで生きていくすべを得ている遊牧民から見た政治や権力、暴力に対するアンチテーゼが描かれています。それはこの地球を住み家にして自然の中で生きることです。そのために遊牧民の生き方を選ぶという選択です。
権力に対して自然の中に隠れ住むように生きるサンカ、ケンシは、まるでタラウマラ族(ララムリ)のようです。
トレイルランの王者スコット・ジュレクの『EAT&RUN』書評
作品の結末
結局、フタカミ講とへんろう会(を牛耳っている射狩野グループ)は、同じ葛城遍浪から生まれた兄弟組織なのに、フタカミ講は自然を大切にして自然に溶け込む過去に回帰するような生き方を選び、射狩野グループはケンシ一族の自主独立のために世間に敵を作りながらも≪大突出≫をやっていくという立場でした。今さら元に戻れない、戻ったら負けて潰されてしまうという射狩野グループに対して、フタカミ講は「無一文で振り出しにもどって最初からやりなおせばいい」という立場でした。自然を破壊して権力に取り入って勝つよりも、前進をやめて意志的に後退する。土地を捨て、家を捨て、安住を捨て、体一つで流れて生きる、というスタンスでした。
ボストン美術館に爆弾を仕掛ける計画は射狩野冥道の自作自演でした。射狩野グループは中国の古代美術などを政治家に賄賂で贈るなどして癒着により大きく成長してきたのでした。その証拠をみずから封じたのです。
射狩野冥道はへんろう会の会長の座を卓に譲ってフタカミ講の顔を立てようとしますが卓に断られてしまいます。フタカミ講は射狩野にへんろう会会場の座をみずから下りるように促すため、講主が≪カクレ≫ることを決意します。≪カクレ≫とは即身成仏のような行為で、死を意味していました。
兄弟組織は思惑のすれ違いの中で、射狩野は竜崎に銃で撃たれ、総帥の死と射狩野グループの四散が暗示されます。
フタカミ講も三代目オヤに葛城哀が就任し、葛城遍浪の血を引くただ一人の男である速水卓は、葛城哀の恋人として、フタカミ講の中でケンシとして生きていく決意をします。
祖先と同じ生き方をしようと決意した速水卓の前に自由で国境のない風の王国がはっきりと見えました。おれが風だ、と彼は感じます。
足元を見なくても歩けました。足がすでに目でした。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
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