ドラクエ的な人生

サマセット・モーム『人間の絆』人生という絨毯にカッコいい模様を描こうぜ!

肉体的に不具のある(エビ足)主人公フィリップが、人生の真実をつかむまでの成長物語。9歳から30歳までの人生。それが文豪サマセット・モーム『人間の絆』です。

この個人の成長の物語、個人の生きる意味を求める物語のタイトルをどうして「人間の絆」にしたのか、本稿のラストではそれを考察します。

中野好夫さんの訳で読みました。訳文にやたらと読点が多い文章でしたが、大長編を読んでいるうちにブツギリ日本語にも慣れました。

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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。

「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」

「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」

※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。

アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

Bitly

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『人間の絆』のあらすじ

主人公フィリップは両親を亡くし、叔父夫婦に引き取られます。これがフィクションなら「いじわるな兄弟」がいそうなものですが、ミセス・ケアリ伯母には実子がなく、とくに伯母からは愛されて育つことになります。

→ この手の成長ものは自伝的であることが多いものです。モームの劣等感や体験したことをどのように反映させるかが見せどころになります。モームは親と理解しえなかったが、愛されなかったわけではないといったところでしょうか。

読書によって空想することをおぼえたことで却って現実世界を味気ないものに感じる感受性をフィリップは手に入れた。聖職者の学校に行くと蝦足をからかわれる。足を見せろと暴力に屈して泣いたこともあった。このまま一生みじめなのか。キリスト教では信仰すれば山でも動かすという。らい病人や盲者を癒したように、フィリップは蝦足をなおしてほしいと神に祈った。

→ 最初は信仰に生きがいを見出そうとしますが、やがて……という冒頭部分です。

キリスト教信者でない者が聖書を精読してみた

読書癖が彼を孤独にした。幸福とは何か? 自己など意識しない蜜蜂箱の中のミツバチのような人ほど幸福なんじゃないか? 自分の喜びと万人の歓びが共有される人の方が社会的で、幸福なのではないか、とフィリップは考える。

やがて信仰の情熱に疲れた。はじめてできた友達ローズの交友関係に嫉妬した。独占的な友情が欲しかった。

学校を憎むようになった。聖職者にはなりたくなかった。退学の希望を校長にも伯父にも止められた。もう他人の言いなりになるのはたまらない。はやく大人になりたい。こんな風に縛られてるのはたまらない。フィリップは叫ぶ。

→ 神学校生活では、足の悪いことを常にからかわれ、嘲笑の的になります。

将来、ミルドレッドという女性の交友関係への嫉妬に苦しめられるフィリップですが、最初は同性の友だちの交友関係に嫉妬します。作者サマセット・モームは同性愛者だったといいますので、同性の友だちに嫉妬するシーンは象徴的です。

フィリップは神学校を退学してドイツに行くことに決めた。退学後の世界の陽気な興奮をあじわう。ヘイウォードという読書家の友人を得る。しかしヘイウォードの心の中のすばらしい本はついぞ一冊として実際に書かれることはないのだった。

「聖オーガスチンが正しくてフィリップが間違っているということはない。オーガスチンは地球は平たくて太陽がその周囲を回っていると信じていたのだ」もはやフィリップは神など信じなくなっていた。ただ自分自身に対し責任があるだけ。自由に呼吸ができる。そのことで、もはや信じない神に習慣的に感謝を捧げたくなった。

→ フィリップはもはや神の教義は信じず、重荷がとりはらわれたかのような気がします。モームは『世界の十大小説』というのを発表しているのですが、その中のひとつ『カラマーゾフの兄弟』がキリスト教にオチの希望を求めたオチ・大団円とはえらい違いです。

ドストエフスキー作品の読み方(『カラマーゾフの兄弟』の評価)

神が存在しないなら、神への希望(死者復活・永遠の命への希望)をオチにした小説など存在する意味はありません。そして同じオチの大河小説もまた存在する意味はないでしょう。

カラマーゾフの兄弟『大審問官』。神は存在するのか? 前提を疑え! 

フィリップは芝居にはまり、芝居こそ人生だと思う。人生への準備にはもううんざりした。今こそ、生きてみたいのだ。いろんな経験がしてみたいのだ。

ミス・ウィルキンソンに出会う。「捨てないで。大事な人。あなたが幸福にしてくれた。あなたにはすべてをあげた。私が嫌になってしまったのか。あなたなしではいけていられない。自殺して死んでしまうよりほかはない」

→ フィリップはミス・ウィルキンソン相手に人生で初めてセックスを経験します。そして寝る前はそれほど気がないくせに、一度寝たら急にゾッコン好きになるという「女」を経験します。

……しかしフィリップは二十。ミス・ウィルキンソンは四十過ぎ。この恋愛はうまくいきません。

けっこうモームは、年増やデブには描写が辛辣で手厳しいと思います。すらっと痩せた若い子が好きだったのでしょう。っていうか、女にモテたのかな、この同性愛者の作者は?

サマセット・モームが、オスカー・ワイルドアルベール・カミュのようなイケメンでなかったことだけは確かです。

会計の勉強をするために行ったロンドンに行く。ミス・ウィルキンソンと別れられてホッとするが、会計の仕事はすぐに辞めたくなる。仕事がいやでいやでたまらない。あなた方の誰とも二度と決してお目にかかりたくない。

ヘイウォードから手紙が届く。世界はこの通り美しいのに、むざむざ事務所などで青春の日を浪費していて何になる? 人生は一つの冒険。燃焼しろ。人生を賭けるべき。人生を危険にさらす必要がある。なぜパリへ行って絵を勉強しないのだ? やってみる、それだけだ。人生で一番大事なことは一か八かやってみることなのだ。

→ 後段に登場するフィリップの悪癖、未来の希望に生きて今を生きない、が出てしまっています。どこにいても別の場所に旅立ちたくなるのです。今を生きず、未来に生きているために。

ヘイウォードは、この言葉の通り人生を危機にさらして騎兵になり、無為な人生を閉じることになります。

芸術の都パリ。世の人たちは芸術家の目を通して自然を見るのです。マネのオランピア、アングルのグランド・オダリスク、そしてエル・グレコ。

クロンショー「人生は生きるためにある。書くためにあるんじゃない。一瞬一瞬の情緒をもぎとれ

→ エピクロス派みたいなことをいいます。あるいはカルペ・ディエム

メメント・モリ。死を忘れるな

人生とは幸福ではなく快楽だ。慈善心も快楽なのだ。自己犠牲も祖国に尽くすのも快楽だからだ、と。そして人生の意味はペルシア絨毯にたとえられる、とクロンショーは語るのです。

男性ヌードモデルのミグエルは、ただ芸術のためにスペインからパリに来て、享楽も否定して「これが人生だ」という陳腐な小説を書きます。内容は、平凡、カラッポ。いっさい無意味。芸術は意志や自信ではどうにもならない。フィリップの絵も同じかもしれない。とうてい二流以上にはなれそうもない。数多い生へのチャンスをことごとく犠牲にする芸術至上主義の人生。もしも詮無い努力を諦めていたのなら……偉大な画家は彼が見るままの自然を世間に向かって押しつけるのだ。それを押しつけることができれば世間は大画家だという。芸術家にとって制作した後に起こることは、何の意味もない。

同じ画学生のファニー・プライスと出会う。芸術至上主義で、汚らしく、周囲の嫌われもの。芸術には傲慢だが、プライスはよく泣くところを見せる女だった。芸術を諦めるぐらいなら死ぬと言っていたが、もうこれ以上我慢できなくなった。といって自殺する。三日間何も食べていなかった。

人生を写すよりもまず生きるべきだ。食えなければ、貧は自由の翼を切り取り、癌のように魂に食い入っていく。

フィリップは画家になることを諦めた。

→ 人生とは写すよりもまず生きるべきだ。……経験を、感動を、生の一瞬、一瞬から感じたい。結局行きつけるならば途中の困難などものともしないが、行き先が「二流の画家」なら? 二流の画家になったところでそれが何だろう。

フィリップはパリで画家になろうとするが、凡庸な自分の才能に気づきます。そして餓死(自殺)した画友の死を見て画家への夢を諦めるのです。

経理事務所の仕事は向いていないと悟り、画家として身を建てようとします。未来の夢に生きて現在の場所から逃げ去ろうとするフィリップの面目躍如です。

絵画仲間ファニープライス衝撃の首つり自殺。死因はほとんど餓死でした。絵では食っていけないという現実。才能に自信を持った女。強い意志力。ひどい口のききかただが、フィリップは好意をもたれていました。

行ってみると「もうこれ以上我慢できなくなったの。もうこの三日間、なんにも食べていない」と書き残して首を吊っていました。

画仲間と一緒に会食しないのは人づきあいが悪いからではなく、おそろしい窮迫に追い詰められていたからでした。一緒に食事すると嫌悪感を感じるほど餓鬼のようにむさぼり食べるのも、空腹のゆえでした。きたならしい服も、貧乏のゆえでした。やがてカネがなくなり、アトリエに来ることもできなくなりました。ファニーの努力のむなしさ。残された絵は一文にもならない。才能への自信なんて誰だって持っている。偉大な画家ならともかく二流画家になったところでしょうがない。フィリップは自分の絵は模倣に過ぎない。と気づきます。創作そのものに没頭して人生を芸術の犠牲にしてしまうほどの「表現の衝動」がないのです。

フィリップはパリを離れる。「他の人々と同様に行動すべし、などと言うことを知るために大部の書物を読む意味などない。汝の欲するところに従え。ただし角向こうの巡査の存在を忘れるべからず」またひとつ自由になった。

ロンドンで女給仕のミルドレッドと出会う。そして恋に落ちる。肉欲。欲しい。デートを断られたのはミルドレッドがミラーに会うためだった。「今行ったら二度と会わない」と宣言しても彼女は平気で行ってしまう。フィリップを歯牙にもかけていない。自分から折れてミルドレッドに卑屈になって許しを乞う。恋にうつつを抜かし低能と決めていた学友が合格した医者の試験に落ちる。

金銭的に尽くしても、ミルドレッドにはなめられている。「贈り物なんか全部返してもいい。いらない」と言われる。財布ぐらいにしか思われていない。恋は拷問で隷属だった。嫌悪感。たまらない気持ち。ミルドレッドを軽蔑している。それでもほしいという性の渇望。ミルドレッドを情婦にする以外、屈辱的感情を癒す方法はない。「君なしじゃ生きていけない」と結婚さえ申し込むが、あっさりと断られる。

→ フィリップはファニー・プライスの死から、安定こそが人生の土台だと悟ります。食うことを心配しなければならない人生は悪いものだと。人生の可能性の半分から閉め出しをくったみたいなものだ。「貧は人間を卑屈にし、その翼を切り取り、まるで癌のように魂に食い入っていく」と。

なんという無駄な一生だったろう。人生は束の間の夢なのだ。「汝の欲するところに従え。ただしすぐ角向こうの巡査の存在を忘れるべからず」法を犯さないかぎり好き勝手にやろう、とフィリップは決意して画家の夢を諦めます。人は他人と同様に行動すべし、などということ知るために大量の書物を読む意味はありません。

フィリップは画業(オリンポスの神々にも似た、彼らの悠々たる生活ぶり!)よりも、堅実な生活の方に欲求があると感じてロンドンで医者になろうとします。

ホッブス、スピノザ。ダーウィン。ショーペンハウエル。閑暇に読みまくります。あたかも未知の国を行く旅人のような思いがしました。ダーウィンの『種の起源』からは善も悪もない。適応しているだけ。社会の利益となる行為を美徳と呼び、そうでない行為を悪徳と呼ぶと学びました。

罪というのは見つかるから罪なのだ。社会がチカラを持っているから従うだけ。力さえあれば警察に捕まらない範囲で好きなことは何でもする。

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『マノン・レスコー』的テーマの再現(悪女に恋してボロボロになっていく)

そして悪女ミルドレッドと出会います。ここから『マノン・レスコー』的な展開が始まります。

ときどきこういう恋愛をする人がいます。キャバクラ嬢に貢ぐだけ貢いで、肉体関係ひとつ結ばせてもらえず、お金をむしり取られるだけの存在の男性が。それがフィリップでした。

飢えるようにミルドレッドを求めて行きます。しかしミルドレッドは年上のミラーと結婚することをフィリップに伝えて去っていきます。

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セックス描写。昔の作品によくあるモンタージュ。「何があったかは、お察しください」

→ 古い作品なので「セックスした」などは露骨に表現されません。昔の作品によくありがちなモンタージュ「抱きしめた」「そして朝になった」「何があったかはお察しください」でセックスしたことになるのです。

それゆえに不確かですが、おそらくフィリップとミルドレッドは一度も性交していないと思います。ここまでも、そして今後も、生涯、最後まで。他の書評家は無視していますが、ここは非常に重要な点だと思います。

ミルドレッドは妊娠し、相手のミラーのもとへ去っていった。

フィリップは医者になって船医で世界を見たいと願う。ノラという通俗小説を書く女とつきあうが、寝る前は他人行儀で、寝た後で惚れられる女というものを体験するのだった。ノラとはいい感じに付き合うことになる。ところがミラーに捨てられたミルドレッドが帰ってくるのだった。

ミルドレッドは恋人になってもいいと申し出るが、フィリップは裏切られた痛手から一度は断る。ノラのほうが客観的にいい女なのだが、愛し求めているのはミルドレッドなのだった。それが冷たい接吻であっても。出産や産後の費用も支払ってやる。むしろミルドレッドに金をつかうことがうれしい。カネが幸福、戦慄をあたえてくれる。貢いだ金は相当のものになった。

賢い知恵はいくらでも本で読んだが、判断の根拠になるのは自身の経験だけだった。恋にうつつを抜かしていた時には自分の哲学はまったく役に立たなかった。

→ ミス・ウィルキンソンや、ノラなど、寝てはじめて男にゾッコン惚れる女というものをフィリップは経験するのに、最後までミルドレッドとは寝ないのです。なぜミルドレッドと寝ないの? 寝れば惚れてくれたじゃないの。なぜミルドレッドを抱かない? 魔法の必殺技なのに。

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なぜ抱かない? フィリップのマゾヒズム

友だちのグリフィスをミルドレッドに紹介するが、そちらと恋仲になってしまう。そのことをフィリップに隠そうともしない。「ミルドレッドは全人生。奪うのは勘弁して」とグリフィスに訴える。しかしグリフィスはウソをついてミルドレッドと通じていた。やがてパリに去ることが決まっているプレイボーイのことをなんとか納得しようとするフィリップ。一緒にパリに行こうという約束をこれまでの金銭的援助をたてにミルドレッドに迫るが「触られるのも嫌、ゾッとする」と断られる。しかし金がないミルドレッドはフィリップに降参し泣いた。するとグリフィスと二人で行けと金を出す。「そんな破廉恥な真似はできない」と断ることを願いながら。しかしミルドレッドは「いい人、いい人」と連呼して、お金をもらい、グリフィスと旅行に行ってしまうのだった。どこまでひどい仕打ちをするつもりなのか。破廉恥行為を犯させてやるという悪魔じみた興味。苦しみの中におそるべき喜びを見出した。ひどい目に遭うが、胸も張り裂けるような欲情を感じる。今さらミルドレッドを情婦にしても友達に呆れられて愛想をつかされるだけ。この欲望さえ満たされるならどんな妥協にも同意するだろう。グリフィスとの縁は切ることにした。したければ卑怯な真似をするがいい。しかし後で悔いるとは軽蔑に値する、と。

ミルドレッドに捨てられ自殺さえ考えたことを告白し、ノラと復縁しようとするが、すでにノラは別の男と婚約していた。風のうわさでミルドレッドはグリフィスに捨てられたと聞いた。

→ 愛のためにボロボロになっていく『マノン・レスコー』的な展開をたどるシーンです。しかし同じ「贅沢が好きな淫売」でも、心が純情なマノンと違い、ミルドレッドは本物の悪女です。主人公を愛するマノンと違い、ミルドレッドは主人公を最後までバカにして愛することはありません。

それでもフィリップはミルドレッドを欲してボロボロになっていきます。嫉妬し、我を忘れて逆上します。殺人することをさえ妄想します。

フィリップのマゾヒズムを表現していると思います。

フィリップは医者としてのキャリアを積んでいく。急性黄疸のアセルニー四十八歳と知り合う。スペインとエル・グレコを語るアセルニーにはとても親しくしてもらう。

クロンショーは死に瀕してもペルシア絨毯の人生の意味をフィリップには言わない。

そして街娼をしているミルドレッドと再会する。金づるにされた苦痛を思い出し、もう愛していないとはっきりわかった。不思議な感情の変化だった。それでもミルドレッド金銭的に援助することにする。ミラーの子どもと一緒に、同居させ、簡単な家事をやってもらうことにした。売春が辛かったミルドレッドは泣いて感謝した。フィリップの帰りが遅くなっても起きて待っている。対外的に夫婦を名乗り、抱いてもらおうとするが、フィリップには憐憫があるだけだ。女の誘いを断られてミルドレッドは逆ギレする。フィリップは一緒に出掛けても別部屋に泊る。一緒に暮らし愛してるとまで言われるが、軽くキスはしても、抱かない。

→ かつては恋焦がれるほど欲した女からベッドに誘われても、抱かないフィリップ。いや、何で抱かないのよ。そりゃあ売春婦と恋愛するなんて嫌でしょうよ。だけど……女って、やるときにやっとかないと却って嫌われちゃうんだよ、知らないの?

まあ作者のモームとしては、「男女のタイミングの悪さ」ということを描こうとしたのかもしれません。

金銭援助に感謝してもミルドレッドはフィリップがあまり好きではないということは変わらない。しかし紳士に守られている今の地位は心地いい。なぜ同じアパートに来いと誘っておいて、まったく手を出さないのか。自分をまだ愛してくれているからではないのか? ミルドレッドは「不自然な関係」を突き抜けようとするが、ゾッとするといってフィリップに拒否される。ミルドレッドは火のついたように怒って、退屈な男、お金をもらったって触られたくない! グリフィスとあなたのことを笑ったわ。びっこ! と憎悪を罵倒をした。そして部屋の中を滅茶苦茶にしてミルドレッドはさよならも言わずに去った。クロンショーのペルシア絨毯もナイフで裂かれていた。

恋した女が売春婦になっていたら、あなただったらどうしますか?

フィリップの恋焦がれた女は立ちんぼの売春婦になっているのです。どんな男とでも寝るのが売春婦です。フィリップは幻滅します。情けないと嘆きます。そしてまたミルドレッドを金銭的に助けるのです。家に呼び住居と食料をあたえます。しかし体には指一本触れようとしません。どうしてこんな女にあれほど恋焦がれていたのか不思議なほどでした。ミルドレッドからは本当の夫婦になってもいいと体の関係を迫られますが、フィリップは手をつけようとしません。「そこが問題なんだよ」と私はツッコミを入れていました。女は抱かれてはじめて男に惚れると私は信じています。

女にモテるただひとつの方法

抱くべき場面で抱かないと女には嫌われてしまいます。現にフィリップも「好きよ。抱いて」というミルドレッドに手を出さないとわかると「やい、びっこ」とまで罵倒されてしまいます。

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結局、フィリップは金銭的に尽くす一方で、最後まで一度もミルドレッドとはセックスしないのではないかと思います。作者モームはセックスをさせないことで、肉欲ではなく、純粋な心の愛情というものがあるのだと表現したかったのかもしれませんが、そうじゃないんだよなあ、という気がします。

ミルドレッドがお金ばかり援助してくれるフィリップのことを気持ち悪がり、とうとう最後まで愛せないのは、一度も肌を重ねていないからだと思います。寝て初めて女は男に心から惚れるのです。みんな肉体のことを軽視しすぎです。

そうはいっても肉体がすべて

セックスもしないで、生活の援助をし、あげくの果てに他の男との旅行代金まで肩代わりするような男は、女からバカにされて軽蔑されて当然ではないでしょうか。

サマセット・モームは同性愛者だったという説があります。あまり女性にはモテなかったんじゃないかな。

ヘイウォードは騎兵になるという。将来を熱烈に期待されていたのに、飲み過ぎて、頭は禿げて、青い目は鈍く光を失い、しょせんは口舌の徒に過ぎなかった。コスモポリタンがイギリス兵になるなんて。戦争なんて冷笑して眺めているタイプだったはずなのに……彼なしには人生を考えれれないと思っていたのに、今ではいらないものになってしまった。若き日の情熱も何らなすこともなく、じりじりと失敗の中に転落していった。無為の犬死だった。ヘイウォードなど生まれてこなかったも同然だった。

しかしフィリップも同じだ。常に最上と思えることだけをしてきたのに、このみじめな失敗ぶりはどうだろう。ペルシア絨毯が象徴する人生の意味とは、他の生物がそうであるように人間も他の動物と同じで、人生の意味などはない。生まれ、苦しみ、死ぬだけだ。幸福にならなければならない責任なんてない。人生は無意味であると同時に、ペルシア絨毯が模様意匠を凝らして美しくあるように、人生を自分の色に織りなすことができる。幸福という名のみんなが同じ意匠である必要はない。たとえ不幸や苦痛でも絨毯の模様は複雑で美しくもなる。そう思うと宗教を捨てた時のようにフィリップは実が軽くなった。

→ 人生の意味に対する『人間の絆』の結論です。人生は「無意味」。

ただ人生という絨毯にカッコいい模様を織りなすように生きていけばいいんだ、というのがフィリップの人生の意味という問いかけに対する結論でした。

株で失敗し、貧乏になったフィリップは百貨店で働く。パリで絵を学んだ経歴で案内係から衣装図案部に昇進するが、仕事がいやでいやでたまらない。

アセルニーの妻は、生きなおすのなんてまっぴらごめんだという。人生は無意味で、多くの人は静かに諦めきった人生を送る……憤りが湧くような考え方だが、でもそのとおりだと確信していた。

ある日、ミルドレッドから手紙が届いた。嫌悪感、胸の悪くなるような思い出だった。しかしよほどの要件だろうと思って行ってみると彼女は病気(はっきり書いてないが、性病だった。療養を勧めるが、もう彼女を助ける財力はなかった。ミルドレッドは再び街娼に立っていた。客の男に性病をうつすことなど気にもとめていない。男を憎んでいた。「もうこれ以上、僕には力がない」フィリップはミルドレッドと永久に別れた。

→ 恋した女が性病になっていたら、あなただったらどうしますか?

ミルドレッドは本物の悪女で、美しいところはぜんぜんありません。最後には恋人のグリューだけを見つめて死んでいったマノン嬢と違い、ミルドレッドは最後まで「自分のことだけ」でした。

さんざん貢いでミルドレッドを助けてきたフィリップが無一文になってしまいました。ミルドレッドとの恋愛は、本当の貧困の前には恋愛なんて何ほどでもない、という壮大な前フリだと言えなくもありません。

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ドストエフスキー『罪と罰』のテーマが再現。

死に瀕した伯父をフィリップは見舞う。死後の不滅を説く説教の仕事をしてきたのに、死ぬのを恐れていた。フィリップは金が欲しかった。デパートの仕事は嫌だった。医者になりたかった。そして船医となって世界を巡りたかった。それには伯父にあずけていた父母の金が必要なのだった。人知れず伯父の命を奪うのは、医者の知識のあるフィリップには簡単なことだった。ちょっと薬を細工すればいい。もはや何の役にも立たない伯父の命を奪ったところで……と殺人を考えていた。『罪と罰』のテーマが再現される。しかし勇気がなかった。後悔が恐かった。手を下さなかったとすれば、それはただ怖かったからにすぎない。

→ 生きていても無意味な年寄りを殺して、天才である若き自分がお金を使った方が有意義だ……ドストエフスキー『罪と罰』のテーマが、老いた叔父とフィリップのあいだで展開されます。

伯父は死に、遺産によって貧を脱し、フィリップは医者に戻ることができた。しかし地方で医院を開業する夢よりも船医となって世界を駆け巡る夢を選ぶ。避暑のポップ摘みのアルバイトをアセルニー一家と行ううちに長女のサリーと寝てしまう。

サリーはこれまでの女のように寝ても態度を変えなかった。ただ、はじめからあなたが好きだったと告白した。しかし妊娠しているかもしれない騒動が起こる。未来に生きようとするフィリップはいつも「この場所」から逃げ出そう逃げ出そうとしてきた。今も妊婦には金を渡して世界に逃げることを思った。

この稿の筆者は、同じ「妊娠しているかもしれない騒動」をテーマにした小説を書いています。小説『結婚』自信作ですのでぜひお読みください。

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キリスト教への信仰は捨てたが、聖書の倫理観は受け入れる

妊娠は事実ではなかった。しかし陸に描いた夢を再び海の上に描きなおせなかった。茫々たる大海原を思うのはウンザリした。不幸にしたサリーのことがたえず頭から離れないとすれば、たとえ旅行に出ても、心の平和は一切失われるに決まっている。アセルニー夫妻に忘恩をもって報いることもできない。サリーと子どもとの暮らしを想像してみた。悪くはなかった。

自分の夢を妻への贈り物とし、夢は生まれる子どもに譲る。蝦足の不具のおかげで心に花が咲いた。ミルドレッドのことも許そう。「彼らをゆるしたまえ……」

フィリップはサリーに結婚を申し込んだ。地方の開業医になるつもりだった。

キリスト教への信仰を捨てたフィリップが最後の最後で聖書の一節「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」を思い出して、ミルドレッドやグリフィスや彼の蝦足をからかった人たちを許します。

だからといってフィリップがキリスト教の信仰を取り戻したわけではありません。

「キリスト教教義は捨てたが、キリスト教倫理は受け入れる」ということです。聖書はたくさんの「いいこと」を言っています。しかしその本質は「この肉体のまま死者復活し、永遠の命を得る」ということにあります。本質の教義を受け入れられないからといって、たくさんのいいこと(倫理)を受け入れられないというわけではありません。

キリスト教の本質は、この肉体この意識のまま死者が復活すること、そして永遠の命を得ることができるということ

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世界を旅する夢は子どもに譲り、好きな人と結婚する道を選ぶハッピーエンド

いい子だと思っていたサリーとなんとなく寝てしまったフィリップ。サリーはこれまでの女のように急になれなれしくなったり寝たからといって態度を変えたりしなかった。それどころか妊娠はフィリップの世界を見たい夢のためには邪魔じゃないか、とさえ気をつかう言う女だった。

フィリップは世界をめぐる夢は自分の子どもに譲って、サリーと結婚し、地方の開業医になることを選ぶのでした。

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人生の意味とは、人生という絨毯に、カッコいい模様を描くこと

人間の絆、というタイトルの由来は作中にもフィリップが読書した本として登場する哲学者スピノザの著書からとったらしい。

人は感情に支配されていると、運命に支配されていて、みずからの主人ではない。目の前の良いものよりも悪いものを追いかけるのはこういう状態のことだ、というくだりのタイトルからとったそうです。

フィリップは「この人生に意味はあるのか」と問い続けます。

人々は、なにかわからない力に駆り立てられ、ただ右往左往しているだけなのだ。その目的にいたっては、誰一人わかっているものはいないのだ。ただあくせくするために、あくせくしているにすぎないらしい。

そして人生は無意味、無目的だと悟ります。幸福という尺度で人生を完成させようとすることは、無意味だし、その幸福とは他人の感じていることで、自分のものではないかもしれません。

人生という絨毯にカッコいい模様を織りなすように生きていけばいいんだ、というのがフィリップの人生の意味という問いかけに対する結論でした。

幸福とか、苦痛とかは、ただ意匠を複雑、精妙にするだけに、入って来るものにすぎない。たとえどんなことが起ころうと、それは、ただの模様の複雑さを加える動機が一つ、新しく加わったということにすぎないと考えて、フィリップは生きる勇気をもらいます。

人生をひとつのドラマ作品だと考えたら、何ら不幸やピンチのないドラマ作品はおもしろくありません。そういうことです。

作者モームは書くことで解放しました。フィリップは悟ることで心を幸福という呪縛から開放したのです。

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大文豪の世界的名作を読まなくても、漫画からだって人生は学べる

私の大好きな漫画に『湘南爆走族』というのがあります。

この漫画の初代・湘南爆走族の副リーダーが、引退、解散するときに「それじゃみんな! 新しい人生、カッコイイ生き方しようぜ!!」といってジャンパーを空に投げて別れていくシーンがあります。

ひじょうに印象に残っているシーンなのですが、サマセット・モーム『人間の絆』の中で展開された人生の意味、ペルシア絨毯にたとえられた人生の意味は、湘南爆走族の副リーダーがいった「それじゃみんな! 新しい人生カッコイイ生き方しようぜ!!」と同じ意味なんだと思います。

ロックンロールだなあ。

大文豪の世界的名作を読まなくても、漫画からだって人生は学べるということです。

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『月と六ペンス』サマセット・モーム

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このブログの著者が執筆した純文学小説です。

「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」

「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」

本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

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