- ウォールデン『森の生活』とは?
- ウォールデン『森の生活』の内容、あらすじ、書評、感想
- 生きていくことは、肉体の熱を維持していくこと
- 樽の哲学者。キュニコス学派の哲学と類似する生き方、考え方
- ソローが望むのは思索と読書と執筆の生活
- 「氷点下で生きるということ」とは真逆の「森の生活」
- 『森の生活』を選ぶか。『氷点下で生きるということ』を選ぶか
- アウトドア生活(キャンプ)中に読むのに最適な本
- 時間の哲学。時間はお金で買うものではない
- 神の傑作、万物の霊長にふさわしい生き方をする
- 「命は熱」生活必需品は「熱を生むもの」と「熱を保持するもの」
- 暖をとれればいい。お金をかけないで暮らして、時間を生みだす
- たっぷりある時間で、人生の冒険に乗り出す
ウォールデン『森の生活』とは?
元祖ミニマリストといえるヘンリー・デビット・ソローがボストン近くのウォールデン湖のほとりに、自分で建てた小屋に住み、自給自足の生活を試みる、というドキュメンタリータッチの随筆が『森の生活』です。
『森の生活』は文明批判の書でもあります。またサラリーマン生活、小市民生活へのアンチテーゼです。現代のFIREムーブメントの先駆けだともいえるでしょう。季節労働者、フリーアルバイターのバイブルだといってもいいかもしれません。一種のサバイバル本ともいえます。
サバイバルといえば『ロビンソン・クルーソー』ですが1719年出版。『森の生活』は1854年です。『ロビンソン漂流記の方』が古いのですね。
人生を「買う」という行為だけで終わらせないために。『ロビンソン・クルーソー』
ウォールデン『森の生活』の内容、あらすじ、書評、感想
生まれ落ちるなり墓を掘り始めるとはどういうわけなのか?
→ 働いても働いてもお金持ちにはなれない。あげく生涯働きつづけなければならない。この生き方に疑問をもたない人は『森の生活』を読む必要はありません。
農場を相続したために、かえって不幸になっている人。
→ 精神が全て。モノは何も持っていない方がいい。というのがソローの基本的な考え方です。
不滅の魂を持っているはずの人間があくせく働き重荷に押しつぶされそうになっている。
人体の大部分はいずれ土に鋤き込まれ肥料にされてしまう。悩むことはない。おまえがやり残したことをおまえの責任に帰する者はいないのだから。
→ キリスト教で「神の似姿」とされた人間の生活は牛馬にひとしいものでした。
重労働にわずらわされて、人生の素晴らしい果実を摘み取ることができないでいる。働きづめの人間は毎日を心から誠実に生きる暇などもたない。
自分自身を奴隷にしている。人間の神性のことなどよくも口に出せたものだ。この男の最高の任務は馬にまぐさをやり、水を飲ませることなのだ。運送で得られる利益にくらべれば自分の運命などどうなろうと構わないのである。この男のどこが神々しくて不滅だというのか?
歴史、詩、神話、これほど有益な読み物を私は知らない。
原始的な辺境生活。人間の第一目的は何か。生活の本当の必要物や手段は何か。それを手に入れるにはどうしたらよいか。時代の進歩も人間生活の根本原則にはほとんど影響をあたえていない。
多少の名誉、そういうものにはいっさい耳を貸すな。一身上の問題ではあまりくよくよしないようにし、むしろ本気で別のことに関心を振り向けることにしたい。生き方はいくらでもある。
→ 思想家、作家として立ちたいと願っても、なかなかそれだけで飯が食えるものではありません。飯が食えなければ思索と執筆の生活もすぐに終わりになってしまいます。そこでソローは生活一式をすべて自給自足してみようと思ったというわけです。
生きていくことは、肉体の熱を維持していくこと
人間の必需品は、食べ物、ねぐら、衣服、燃料。寝床は夜の衣服のようなものだ。
体内温度の維持。食物は燃料。動物の生命とは動物の熱のこと。食物は内部の火を絶やさないための燃料。ねぐらと衣服は熱を保持するのに役立つ。
人間の体にとって一番大切なことは、暖をとること、体内に生命の熱を保つことである。
わずかな費用で手に入るものばかり。厚手の上着を五ドルで買えば五年間はもつ。
樽の哲学者。キュニコス学派の哲学と類似する生き方、考え方
自発的貧困。賢者たちは、貧しい人々以上に質素で乏しい生活を送ってきた。
つまらない労働から解放されて休暇が始まったいまこそ、人生の冒険に乗り出すときである。
→ お金のために働いて時間を無駄にするよりも、本当にやりたいことをやろう、というのがソロー哲学です。
まさに今この瞬間に立とう。刻一刻をたいせつに生き、それを記録しておこう。
執筆の仕事を妨げられるのは、情けないというよりは、ばかげているように思われた。
多くの人間は大きくて贅沢な箱の借り賃(家賃)を支払うために死ぬ思いをしている。
→ 『Dr.stone』というアニメでも、家賃に人生を搾取される若者が、既存のエスタブリッシュメントに対して反乱をするという描写があります。ただ生きていくためだけにすべての時間を資本家に奉仕していきていかなければならないとすれば、それは奴隷と同じです。
一番外側の衣服(家)のために、テント村をまるごと買えるほどの高い家賃を毎年納め、おかげで一生涯貧乏暮らしをしている。生涯の半分以上を費やしてからでないと、自分のテントを手に入れることはできないわけである。かせぎの三分の一は家屋の費用に消えてしまう。こんな条件、はたして賢明だといえるだろうか。
文明人が生涯の大半をもっぱら生活必需品と慰安物を得るためにのみ費やすのだとしたら、なぜ文明人は未開人よりも立派な家に住まなくてはならないのだろうか?
隣人たちと同じような家を自分も持たないとならないと思いこんだために、一生、しなくてもいいはずの貧乏暮らしを強いられている。
ときにはいまもっているよりも少ないもので満足できるようにつとめてみたらどうだろうか。
この世の仮住まいで暮らす。
最高の芸術作品とはこうした状態から自己を解放しようとする人間の戦いの表現。
地下室。人間はむらのない湿度を求めて大地に穴を掘る。家屋とは今でも巣穴の入り口になる玄関のようなものだ。
小さな新聞の切れ端がイリアスにも劣らないよろこびをあたえてくれた。
分業。他の人が私の代わりにものを考えてくれるかもしれないが、だからといって私が自分でものを考えるのをやめた方がいいということにはならないだろう。
現在支払っている家賃の一年分にも満たない金額で、一生涯暮らせる家を入手できることがわかった。
終始一貫して、人生を真剣に生きるべきだ。人間がしなくてはならないあらゆる労働から計画的に逃れることによって、ひたすら待ち望んでいた余暇と引き籠りの生活を手に入れる。
→ 「自立して」「仕事をやめる」この発想は現在のファイア・ムーブメントそのものです。だからこそソローの『森の生活』は不滅の書として今も読み継がれているのです。
FIRE! 隠居の本質は仕事を辞めることではなく、人間関係の位置を占めることを望まないということ
いちばん速いのは徒歩の旅行者だ。電車賃を労働して稼いでいる時間に、歩いて先に到達することができるから。人生の最良の時期を金儲けに費やす人々。人生の価値が最低となる老年期にやっと旅にでることができるが、そのころには元気も意欲もすっかり失せているだろう。
→ 歩くことが最強、最速。私も同意します。
すぐさま屋根裏部屋へあがって詩人の生活をはじめるべきだったのだ。
土地測量、大工仕事、日雇い仕事など指の数ほどの職業でお金を稼ぐ。
→ 正規職員よりも日雇い労働者の方がいいとソローははっきりと断言しています。夢があるならば、その夢が仕事内容と違っているならば。
FIRE早期退職。「自分が死ぬ」前提でないと仕事はやめられない。
必要な農作業はすべて夏の間に、いわば片手間でやれる。人間はウシやウマのようにつながれていなくてもよい。
私の食べ物はライ麦、トウモロコシ、ジャガイモ、米、豚肉、糖蜜、塩そして飲み物は水であった。必要な食料を手に入れるには信じがたいほどわずかな労力で足りる。動物と同じ程度の簡単な食事で人間は健康と体力を維持できる。
自給自足生活なんて無理。スーパーマーケットのない場所で、人はどうやって生きていけるのであろうか?
トウモロコシを臼でひけば、米や豚肉はなくても暮らせることがわかった。食べ物に関する限り、取引や交換は一切しないですんだ。
自分で作った穀物を家畜にくれてやり、少なくともそれ以上に健康にいいわけではない小麦粉をもっと高い値段で店から買っている。
家具など屋根裏部屋からいくらでももらってくることができる。家具を持つのはありったけの罠をベルトにくくりつけるようなものだ。こういうものを手に入れれば入れるほどひとはかえって貧しくなる。持ち物にくびきでつながれ、狭き門に家具がひっかかって動けなくなってしまう。
→ 現代のミニマリストに通じる考え方です。だからこそソローの『森の生活』は不滅の書として今も読み継がれているのです。
商売を手掛けてみたこともあるが軌道に乗せるには十年もかかる。それに対して一年間に六週間働けば生活費を全部まかなえることを知った。
労働それ自体を愛しているなら、自分の身柄を買い戻し、自由の証書を手に入れるまで働くことだ。
死ぬ権利とは何かに命を賭ける権利のこと。死ぬ自由がなければ人間の他の自由は死んでしまう。
日雇い仕事こそ独立性の高い職業。雇い主は始終経営に腐心しなければならない。日雇い仕事は労働後は自分の好きなことに没頭できる。自分自身の生き方を発見し、それを貫くという。
この地上で身を養っていくことは気晴らしに過ぎない。労働はスポーツと同じようなものだ。
ひとりで旅立つ者は今日にでも出発できるが、ポケットに為替手形が必要なものは準備が整うまで待たねばならず、出発までにはずいぶん時間がかかるものである。
現在の瞬間を仕事のために犠牲にしたくはない。
ソローが望むのは思索と読書と執筆の生活
居ながらにして精神の世界を駆け巡ること。
古典とは記録された人間の思想の中でもっとも気高いもの。それはいまも滅びずに残っている唯一の神託。ホメロスやアイスキュロス。
小説のはじまりは「怒り」。詩聖ホメロス『イリアス』は軍功帳。神話。文学
本物の書物を本物の精神で読むことは気高い修練。精神の集中を要求する。
自分を理解してくれるあらゆる時代のあらゆる人々にむかって語りかける。
書物は世界の秘蔵された富。遺産。
われわれは育ちが悪く、生活が卑しく、無学なのだ。知性が日刊紙のコラム以上に高くは舞い上がれないのである。
× × × × × ×
(本文より)
カプチーノを淹れよう。きみが待っているから。
カプチーノを淹れよう。明るい陽差しの中、きみが微笑むから。
ぼくの人生のスケッチは、まだ未完成だけど。
裏の畑の麦の穂は、まだまだ蒼いままだけど。
大地に立っているこの存在を、実感していたいんだ。
カプチーノを淹れよう。きみとぼくのために。
カプチーノを淹れよう。きみの巻き毛の黒髪が四月の風に揺れるから。
「条件は変えられるけど、人は変えられない。また再び誰かを好きになるかも知れないけれど、同じ人ではないわけだよね。
前の人の短所を次の人の長所で埋めたって、前の人の長所を次の人はきっと持ちあわせてはいない。結局は違う場所に歪みがでてきて食い違う。だから人はかけがえがないんだ」
金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。
夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。
夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。
あの北の寒い漁港で、彼はいつも思っていた。この不幸な家族に立脚して人生を切り開いてゆくのではなくて、自分という素材としてのベストな幸福を掴もう、と――だけど、そういうものから切り離された自分なんてものはありえないのだ。そのことが痛いほどよくわかった。
あの人がいたからおれがいたのだ。それを否定することはできない。
人はそんなに違っているわけじゃない。誰もが似たりよったりだ。それなのに人はかけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。
むしろ、こういうべきだった。
その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と。
× × × × × ×
「氷点下で生きるということ」とは真逆の「森の生活」
『森の生活』は文庫で上下に分かれています。ウォールデン湖畔に小屋を建てて住むにいたった理由、哲学を述べる上巻はソローの生活哲学を語っているのでひじょうに読みごたえがあります。
それに対して下巻は、実際の「森の生活」を描いていて、それはそれで興味深いのですが、どちらが面白いかと言えば圧倒的に前半部分の方が私の興味をそそります。
私が今さら『森の生活』を読み返して書評にしたためたのは、Amazonプライムビデオで『氷点下で生きるということ』というアラスカ自給自足生活のドキュメンタリーを観ていて『森の生活』を思い出したからです。
携帯用ソーラーバッテリーを日常的に使う場合。注意点と費用対効果
実際の生活を描いた部分は、小説よりも動画で見た方が臨場感が勝ります。その部分は小説では動画にかないません。
ロシアの軍事ブロガーって何者だ? なんでブログにそんなに影響力があるのか。
自給自足生活を知るという意味では「氷点下で生きるということ」の方が「森の生活」よりもずっと興味をそそります。
「自給自足生活を送る」という意味で、「氷点下で生きるということ」は現代の「森の生活」だと感じました。同じものと思って「森の生活」を読み返したのですが、ふたつはまったく別のものでした。
「氷点下で生きるということ」の登場人物たちは、勤勉でひたすら働いています。狩りをして、獲物を捌いて、食料を干して、水を確保して、薪を割って……と忙しいのです。
それに対して、ソローはそもそも執筆と思索の時間がほしくて森の生活をはじめているので、忙しく作業するということがありません。労働で忙しいということを嫌悪しています。
「氷点下で生きるということ」の登場人物は生きるために常に働いており、その働くことが生きることに直結しています。生活することそのものがよろこびとなっていて、生き抜くことがサバイバルゲームのように楽しいものとなっています。一日の労働を終えた彼らは満足して薪で沸かしたお風呂に入ってぐっすりと眠るだけです。
ソローはそういう生活をこう評しました。この男の最高の任務は馬にまぐさをやり、水を飲ませることなのだ。運送で得られる利益にくらべれば自分の運命などどうなろうと構わないのである。この男のどこが神々しくて不滅だというのか? 人間の神性のことなどよくも口に出せたものだ。
そんなふうに批判しています。「氷点下で生きるということ」は同じように自給自足生活なので似たように見えますが、まったく別なのです。質素な生活、自給自足というキーワードは同じでも、実際にはぜんぜん違うのです。
ソローの森の生活が望んでいるのは、読書と思索と執筆の生活です。精神世界の充実こそが大切で、そのために時間に重きが置かれています。くだらない労働はできるだけしない方がよしとされていて、簡素な生活はどちらも同じですが、精神世界の充実度は比較になりません。
『森の生活』を選ぶか。『氷点下で生きるということ』を選ぶか
同じ自給自足でもまったく違う『森の生活』と『氷点下で生きるということ』。どちらが面白いと感じるかは人によるでしょう。サバイバル生活の方が楽しそうと思う人もいるでしょうし、読書や執筆の生活の方が望む生活だと感じる人もいるでしょう。
え? おまえはどうなんだって?
読書やブログ執筆が趣味で著作も出版しているおまえ(私)はもちろんソローの生活の方がおもしろそうでおすすめだっていうんだろう?
いいえ、そうじゃありません。私が面白そうと感じているのは「氷点下で生きるということ」の方です。
はっきりいうとわたしはソローの生活はすでに手に入れています。もう達成済みなのです。
【FIREムーブメント】エブリデイ・クリスマスは難しくても、エブリデイ・サンデーは簡単に達成できる。
「肉体宣言」をしたとおり、生きがいは精神的なものよりも、肉体を使って感じたものの方が大きいというのが私の哲学です。
法悦境とか、瞑想とか、脳内アルファー波とか、彼岸の天国とかよりも、寒い時のお風呂とか、暑いときの水シャワーとか、マラソンの後の食事とか、セッ●スと睡眠などの方が、ずっと生きている実感が大きいというのが私の哲学であり肉体宣言なのでした。
× × × × × ×
雑誌『ランナーズ』のライターが語るマラソンの新メソッド。ランニングフォームをつくるための脳内イメージ・言葉によって速く走れるようになるという新メソッドを本書では提唱しています。言葉のもつイメージ喚起力で、フォームが効率化・最適化して速く走れるようになる新理論。言葉による走法革命のやり方は、とくに走法が未熟な市民ランナーであればあるほど効果的です。あなたのランニングを進化させ、市民ランナーの三冠・グランドスラム(マラソン・サブスリー。100km・サブテン。富士登山競争のサミッター)を達成するのをサポートします。
●言葉の力で速くなる「動的バランス走法」「ヘルメスの靴」「アトムのジェット走法」「かかと落としを効果的に決める走法」「ハサミは両方に開かれる走法」
●腹圧をかける走法。呼吸の限界がスピードの限界。背の低い、太った人のように走る。
●マラソンの極意「複数のフォームを使い回せ」とは?
●究極の走り方「あなたの走り方は、あなたの肉体に聞け」の本当の意味は?
●【肉体宣言】生きていることのよろこびは身体をつかうことにこそある。
(本文より)
・マラソンクイズ「二本の脚は円を描くコンパスのようなものです。腰を落とした方が歩幅はひろがります。腰の位置を高く保つと、必然的に歩幅は狭まります。しかし従来のマラソン本では腰高のランニングフォームをすすめています。どうして陸上コーチたちは歩幅が広くなる腰低フォームではなく、歩幅が狭くなる腰高フォームを推奨するのでしょうか?」このクイズに即答できないなら、あなたのランニングフォームには大きく改善する余地があります。
・ピッチ走法には大問題があります。実は、苦しくなった時、ピッチを維持する最も効果的な方法はストライドを狭めることです。高速ピッチを刻むというのは、時としてストライドを犠牲にして成立しているのです。
・鳥が大空を舞うように、クジラが大海を泳ぐように、神からさずかった肉体でこの世界を駆けめぐることが生きがいです。神は、犬や猫にもこの世界を楽しむすべをあたえてくださいました。人間だって同じです。
・あなたはもっとも自分がインスピレーションを感じた「イメージを伝える言葉」を自分の胸に抱いて練習すればいいのです。最高の表現は「あなた」自身が見つけることです。あなたの経験に裏打ちされた、あなたの表現ほど、あなたにとってふさわしい言葉は他にありません。
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すなわち「氷点下でいきるということ」の生活の方が私を魅了するのです。もちろん実際にやるのと、作品として面白いかどうかというのはまったく別の話しですけれど。
アウトドア生活(キャンプ)中に読むのに最適な本
アウトドアでアウトドアについて書いた本を読むのも一興だと思います。
だからアウトドア読書に向いている本を紹介したいと思ったのだが、実はそんなものはない。
読み手(あなた)の気分はその日によって違うだろう。あなたの気分に合った本を読むべきだ。
だから「アウトドアに向いている本」なんてものは、本当はないのだ。あなたの気分次第だ。
しかし教養としてのアウトドア必読書ならば紹介することができる。
アウトドアマンの必読書のひとつに『ウォールデン・森の生活。ヘンリ・デビット・ソロー著』がある。
単行本だと上下巻になる結構な長編である。しかし最初から読み始めて途中で力尽きても『森の生活』の場合は問題ない。
もっとも読むべき部分が冒頭にあるからである。
いかにして著者ソローがウォールデン湖畔で文明社会と距離を置いて森の中で生活するようになったか。
そう。この作品はハーバード大学卒業のインテリが、アメリカ近代消費社会に疑問を抱き、大量生産・大量消費。ローンを組んで住宅購入をしたり、華美なパーティードレスで着飾ったりしなければ、人間は奴隷生活から脱出して神の傑作、万物の霊長たる人生がおくれる、ということを自ら実践した記録本なのである。
ハーバード大のあるボストンから車で30分ほどのところにあるウォールデン湖の湖畔でソローは自分で小屋を建てて住み始めるのだが、どうしてそんな生活を実践するのか、そのステートメントの部分こそが「森の生活」の核心である。
実は筆者ソローは「森の生活」の中でアウトドア生活を薦めているわけではない。アウトドアの素晴らしさを喧伝しているのでもない。
そうではなく、たかが住宅を手に入れるために人生の半分も費やし、人生をおのれの墓場を掘るためにつかうぐらいならば、そういう時間の浪費とは一線を画せ、と言っているのである。
高級住宅に住まなくても、インディアンの簡易テント(ウィグワム)で暮らしたらいいじゃないか、昔から何千年も人間はそうやって生きてきたのだか、とソローは言う。
時間の哲学。時間はお金で買うものではない
時間はお金で買うものではない。
老後の贅沢のために、若い黄金の時代を稼ぐために使うのはやめよう。
時間を生み出すためには、なにも時間をお金で買う必要はない。
時間を生み出すには、労働のために使っている膨大な時間をすこし削るだけでいいのである。
誰にでもできる簡単なことだ。
そのために、最低限の生活必需品だけで生きる。
金に頼らない生き方をする。
金を稼いでから、老後に時間を金で買う生き方をするから多くの人が不幸なのだ。
今、若い時の時間こそ貴重であり、その時間を無為にするな、という今を生きる思想である。
神の傑作、万物の霊長にふさわしい生き方をする
ソローの場合は、キリスト教の影響か、人間を「肉体と、心と、神性からなる神の傑作」として捉えている。その神の傑作が、一身上の、利益のあがる仕事にのみ肉体と精神を使役し疲弊させ、おのれの墓穴を掘るだけの人生で終えることが許せなかった。
ソローの場合は、キャンプのような暮らしの果てに、詩的生活を送りたかったようだ。人間が神の愛にこたえる道はそれしかないと確信していた。
周囲の評価にあわせて豊かな家に住むために奴隷状態で生きるよりも、歴史や詩や神話、文学に生きよう、と。
もちろんこれはソローの場合であって、神や英雄や文学を追求する人だけが森の生活をする資格があるというわけではない。
森の生活のエッセンスは他の生き方にも通じるサラリーマン社会の批判の書である。
必要悪なことはさっさと終わらせて、本当に大切なことに時間を使おうという哲学である。
生き方はいくらでもある。自分の好きなことをすればいい。
その壮大な実験がウォールデン湖畔の森の生活であった。
生きるための最低限の荷物の検証は、キャンパーやバックパッカーが旅の荷物をチョイスするときに非常に似てくるのである。
だからソローの「森の生活」はキャンパーだけでなく、バックパッカーにも愛読されている。
質素でお金のかからない生活をしようといっているだけでアウトドアを積極的に推奨しているわけではないのだが、結果として、アウトドア指南書、無銭の思想書のようになってしまっている。
実験の結果、年間6週間も働けば十分の稼ぎを得られて生きていけることがわかった。
もちろんこれはソローの時代のアメリカの経済状況での話しである。
そしてソローは思う存分、好きなことをして生きていくことができるようになったのだ。
「命は熱」生活必需品は「熱を生むもの」と「熱を保持するもの」
最低限の生活必需品とは何か。たいていの人はあまり深く考えずに「衣食住」と答えるだろう。
でもどうして衣食住なのか? ソローの答えは明快である。
人間はストーブのようなものだ。命は熱である。食料は体熱の燃料でありもっとも大切なものだ。
人間のからだにとって一番大切なことは暖をとること。体内に命の熱を保つことである。
そしてその熱が冷えないように保持するために衣服がある。
夜の衣服ともいうべき寝具がある。
そしていちばん外側の衣服である家屋がある。
命の熱を雨や風に冷やされないようにすることは生活の必要最低限だ、というのだ。
登山家やキャンパーも何となくこの原則を守って行動しているが「命は熱だ」という考え方の視点はもっておいていいだろう。
キャンパーの場合、テントは最も外側の衣服ということになる。
寝袋は夜の体温保持の衣装。
アウトドアジャケットは体温保持のためのもの。
焚き火やバーベキューは体熱を保持する役に立っているという「命は熱」という目線は独特のものがある。
暖をとれればいい。お金をかけないで暮らして、時間を生みだす
だったらそれを手に入れるにはどうしたらいいのか。
生活のための必需品はあるが、生活必需品を手に入れるためだけに一生を費やすような生き方を神は望んではいない。
銀行にローンを払い続け、自ら自分という名の奴隷の奴隷監督になることはない。
だから生活にお金をかけないことをソローは提唱する。
食物は自分で畑で育てる。
衣服はおしゃれをしない。体をあたため、裸を隠す数着あればそれ以上は必要ないはずだ。
寝具も暖をとれればいい。
そしていちばん外側の衣服たる家屋は、自分で木を削ってログキャビン風のものをつくってしまった。
ログハウス(ハードシェル)じゃなくてテント(ソフトシェル)だっていいのだ、とソローは言う。雨風をしのぐにはごくわずかなものがあれば足りる、と。
ツーバイフォー住宅なんかなくたって生きていける。昔から人間はそんなものなしで何千年も生きてきたのだから。
それよりもむしろ大きくて贅沢な箱(家)の対価のために死ぬ思いをして労働することこそ問題だ、とソローは言っている。いちばん外側の衣服(家)のためにインディアンのテント(ウィグワム)をひと部落も買えるほどのお金を払い、ローンを組んで自由を鎖に繋がれて、一生涯貧乏ぐらしをする社会こそ問題だ、と。
十年から十五年もかけて、やっと一番外側の服が買えるだけなんて、それが賢者の生き方か?
それを諦めてテントで暮らせば、十五年の労働は不必要になるではないか、というのがソローの思想である。
生涯の大半を生活必需品と慰安物を得るためにのみ費やすのだとしたら、人間が万物の霊長というのは嘘に違いない。こうした状態から自己を解放しようとする人間の戦いこそ芸術である。
ちなみに私(サンダルマン・ハルト)はやがて日本の住宅価格は暴落すると思っている。人口は減っていくのに住宅メーカーはじゃんじゃん家をつくり続けている。そうしないと住宅メーカーは倒産してしまうからだ。やがて供給過剰になるに決まっている。住む場所さえ選ばなければ、将来この国で、家の問題で困ることはないだろう。
ソローの言う通り、この日本でもローンを組んで家を買うなんてバカげたことなのかもしれない。
たっぷりある時間で、人生の冒険に乗り出す
そしてお金をかけず、つまらない労働から解放されて、たっぷりある時間で人生の冒険に乗り出そうとソローは言う。
家具もいらない。持ち物を持つとは、そのモノに繋がれることである。家具を持つのはありったけの罠をベルトにくくりつけるようなものだ。
ほらね。「森の生活」のミニマリストの思想が、労働解放思想が、キャンパーや登山家に通じるのだ。放浪の旅人も同意するに違いない。
どうしてソローは原始的な森の生活を送ってみようという気になったのか。
それは時代が進歩してもも、人間生活の根本法則は何も変わらないという信念である。それは5Gインターネット時代でも同じことだ。
ソローはミニマリストであり、自然に帰れの実践者であった。
最後にソローは(アウトドア)読書について、このような見解を述べている。
読むなら軽い小さな読み物ではなく古典を、英雄の物語を読むべきだ、と。ホメロスやウェルギリウスのような。
古典は今も残る神託であり、読むことは作中の英雄たちと競い合っているようなものだ、と。
古典作家の功績と肩を並べて、知性は高く舞い上がる、と。
自分でものを書くならば、自分を理解してくれるあらゆる時代のあらゆる人々に向かって語り掛けるのだ、と。
さあ。アウトドアで『森の生活』を読んでみよう。生み出したたっぷりの時間で、焚き火で暖をとりながら。

