第一章
天上から降りそそぐようにウェディングマーチが鳴り響いている。白いタキシード姿の悠士は赤い絨緞の上で千景を待っていた。扉が開いて人の気配がした。カメラはすかさずそちらにパンした。白いウェディングドレス姿の女が現れた。
黒燕尾服の父親の腕をとって女はゆっくりと歩いてきた。一歩ごとに若さを発散させる肉体、清楚なウェディングドレスは奔放な人の心を抑圧するために存在しているのかもしれない。世の中を秩序づけ人の心を縛りつけるために。
美樹本がビデオカメラを構えてすっと脇に寄ってきた。白髪のきれいな男だった。美樹本がどんなカメラワークをするか悠士にはよくわかっていた。悠士目線のカメラワークで、じっと千景の表情を追っている。伏せた睫毛が頬に落とした淡い影を、雪山の頂のような白い鼻を、果実のような唇を。
決められたシナリオ通りに悠士は父親の腕から千景を受け取った。二人は足並みを揃えて待ち受ける牧師のもとへゆっくりと歩いていった。
通常照明がゆっくりと落とされていき、特殊照明ブラックライトに照らされる。ウェディングドレスがぼうっと暗闇に浮かびあがった。まるで海の底にいるかのような錯覚を悠士は覚えた。二人は自ら発光する深海魚のようだ。二匹の深海魚は泳ぐように祭壇へと向かった。人間よりもはるかに古い生き物だと聞く深海魚もこのように結婚するだろうか。
結婚。その言葉を聞くと悠士の心は乱れた。幼い頃のことが思い出される。闇はそれにふさわしい舞台だった。心を病んだ母親の顔が脳裏に思い描かれる。愛する人と結婚さえしていたら、母は死ぬこともなかったのだろうか。
昔、見た母の結婚写真。そこにまったく笑顔はなかった。やがて心を病み壊れてしまう自分自身のことを、そのとき母は予感していたのかもしれない。人形のように無表情だった母とは対照的に新郎だけがむじゃきな笑顔だった。その日の幸せのゆえに、のちに母を激しく憎むようになった男だ。
通常照明が灯ると、深海は再び地上の結婚式場へと姿を変えていた。まぶしさにわずかに悠士は目を細めた。現実へと引き戻される。
エメラルド色の瞳をした白人牧師が壇上からにっこりと微笑みかけた。やさしい目尻の皺、袖の大きな白い服を着て胸には黄色い十字架がさがっていた。カタコトの日本語で自分が結婚式をとりおこなうことを宣言した。荘厳な和音をかき鳴らすオルガンにあわせて式場専属の合唱隊が賛美歌を歌った。
「愛は辛抱強く親切です。愛はねたまず、自慢せず、思い上がらず……すべてのことに耐え、すべてのことを信じ、すべてのことを希望し、すべてのことを忍耐します……」
牧師がふたりに語りかけた。何度も聞いたこの一節を悠士はそらんじることができる。
「健やかなるときも、病めるときも、あなたはこの人を愛し、敬い、添い遂げることを誓いますか」
「誓います」
悠士の横顔をとらえていた美樹本のカメラフレームが千景に移動すると、同じ言葉を千景も誓った。その横顔を美しいと思う。
結婚。これが幸せとの契約だろうか。
寒い小さな北国の漁港、悠士はそこで生まれ育った。荒れた海、降り積もる白雪、噛みしめた苦い思い出たち。腐った魚の死骸のようにあの町を捨てたはずなのに、どうしてこんな時に思い出すのだろうか。
ビデオカメラの前のヴァーチャルな世界、悠士は虚構の中の自分に今でも違和感をぬぐい去れないことがある。街に出てきたときには、まさか自分がこんなことをやっているとは想像もしていなかった。しかし今では目に見えない何かの力に導かれてここにいるんじゃないかと思うことがある。何かの「流れ」が自分をここに導いたのではないか、と。
付添人に促されて、結婚証明書に万年筆でサインをした。美樹本のカメラがぐっと手元に寄って黒い文字を撮った。同じペンで千景も優雅なサインをした。千景はかつて精神科医になりたいと言って悠士を驚かせたことがあった。
精神科医というものを悠士はよくは知らないけれど、どんなに学問を積んだって自分の経験していないことがらの真の境地を本当の意味において「わかる」などということは決してないだろうと思う。
けれども導くことは可能だろう。抱えた苦悩の真の境地はうかがい知れなくても、知らないならではの感受性で未知の世界へと導くことは可能だろうと思うのだ。
たとえば傷ついた者を救うのは同じ傷を負った者だとは思わない。人には状況に対する「反応」みたいなクセがあって、同じ場所に傷を持っていると同じ状況に同じ反応を無意識に繰りかえしてしてしまい、境地に広がりが足りないと思うのだ。病んだ心の真の境地を理解することはできなくても、傷つきやすい人の反応とは違った別の世界、可能性をさし示すことはできるに違いない。閉じられた一人ぼっちの世界とは異なった世界に他者を案内することはできるはずだ。
それが信じられなければ、芝居の上演などできはしない。こんど公演される芝居を、悠士はどうしても成功させたかった。いいせりふを仕上げることができたと自分では思っている。
薄絹のベールをあげた。頬を染め、羞じらう千景。真珠のような肌、その頬にそっと口づけた。たとえ芝居とはいえ、ふれあいは暖かさを心にもたらす。プラチナのリングを千景の白く細い指にはめた。彼女が手を戻したとき、夜空を流れる星のようにリングが白い光芒をえがいた。
「カット!」
式場を切り裂くような美樹本の鋭い声に悠士の思いは中断された。いつも稽古場で聞かされているのと同じ声だった。緊張を吐き出すように息をして、千景が笑顔を見せた。これで撮影は終わりだ。悠士も緊張をといて小さく微笑んだ。
「いい撮影だったぞ、悠士」
美樹本が悠士の肩を叩いた。家族や友人役を演じた役者たちが大きな拍手をしてくれた。
撮影されたビデオは、この結婚式場のPRのために、本当にここで結婚式を挙げるカップルたちにイメージビデオとして繰り返し披露されることになる予定である。
「おつかれさま。また後でね、悠士」
千景は耳元で囁いて控え室へと消えていった。その後を追いかけるように悠士もゆっくりと控え室へと歩いていく。芝居とはいえ千景と挙げた結婚式の余韻が体のどこかに残っていた。
控え室でタキシードを脱いで、Tシャツとジーンズに着替えた。撮影に使ったものはすべて式場の備品だった。私服に着替え、控え室から外に出た。まだ駆け出しの役者だった。二十五歳になったばかりだった。悠士は美樹本が主宰する劇団『ハート・ビート』の主要な役者のひとりである。
第二章
波のさざめきが、転がるようなピアノの音と重なったとき、ふたりは軽くキスをした。
膨れた雲をかかえた空色が、水平線にふりそそぎ、紫色に変わる。
やがて、あたりは朱に染まる……
女は男のTシャツに顔をうずめた。男の胸が奏でる切ないホルンを聴くために。
シャツからは今日の潮の香りがした。
女は男の髪をそっととかす。
地球が月を愛するように、満ちゆく波に応えながら、白く照らし出された指で、静かに彼を弾くために……
全身を汗で濡らした千景が、疲れ果てたようにかすかな寝息をたてて眠っている。しなやかな白い肩が布団から露わになっていた。
きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。
ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。
波は見つめあい、惹かれあい、次くる波へとその身をよせる。
きみの吐息で揺らしておくれ。
黄金色に輝く無数の光のかけらが、藍の闇に降り落ちていくと、
きみとぼくもひとつになって、はじけて波間に溶けていった。
泡が笑う。
秘密だよ秘密だよ。
つられてぼくらも笑い出す。
愛してる愛してるよ。
月に照らされた海、エメラルドの星は瞬き、人魚の群と乱舞する。
銀の夜の、黄金の波。
あふれていくよ、あふれていく……
第三章
波打ち際に向かって悠士は砂浜を歩いていた。肩にかけた革ジャンの中にまで潮風が吹きこんできて体を冷やした。海辺の町に住んでいた。千景はまだ部屋で眠っているはずだった。
朝の散歩が好きだった。空に鳥が舞うのを見上げるのが好きだった。雲が流れるのを見るのが好きだった。海のまぶしさに眼を細めて悠士は大きく深呼吸をした。拳を何度か握ったり開いたりすると体の活力が呼び覚まされるような気になった。
幼い頃からいつも海を眺めていた。海を眺めていた時のことだけをやけにはっきりと覚えている。ほかのことはみんな忘れてしまったのに。
この海はあの故郷の漁港ともつながっている。水平線を眺めながら悠士は幼いころに思いをはせた。この海は南国の楽園の海ともつながっているのだ。
悠士が敬愛した作家・湊誠一郎が作品の舞台とした南洋の海。悠久の時の流れを語る珊瑚の白い化石。白い砂浜によせる透明に輝く海。熱帯の木々をゆらすさわやかな海風。
海の色はいったいどこで変わってしまうのだろうか。おれはそれを知らない。
悠士の故郷では太陽を奪いあうように、人は人のぬくもりを奪いあっていた。たがいに暖めあう、そんな誰もが「いい」と思えることを、人はどうしてできないのだろう。
海岸の砂をすくって風に流した。まとまりのつかない思いのように、砂は散らばって流れていった。
潮の香りを充分に吸い込むと、ようやく心やすらぐことができた。
第四章
昔は倉庫として利用されていたという地下室。そこが劇団ハート・ビートの稽古場だった。パイプが剥き出しになった天井、雑然と置いてある大道具、小道具。照明や音響の装置。椅子や衣装。床にはガムテープが貼ってあり舞台と客席をわける仮想のラインになっていた。立ち位置や大道具の置き場所にもテープで目印がつけてある。年4回の公演は劇場を借りて行うが、舞台感覚をつかむため、借りる舞台の大きさに合わせてガムテープで稽古場を仕切って使っていた。本番の間合いをつかむためである。
すでに本番さながらの通し稽古に入っていた。練習しているのは劇団のオリジナルレパートリーだった。この芝居の成否に悠士はすくなからぬ責任を負っていた。芝居の台詞の一部を彼自身が書いていたからだ。
観客に自分の台詞が受け入れてもらえるかどうかはわからない。他人のセンスと合うかどうかは賭けだった。芸術というのは賭に似ている。同時代の同国人に受け入れてもらえなくても、外国や、未来の人に受け入れられることだってある。
たとえ賭けでも、悔いのないもので勝負したいと悠士はいつも思う。いつわりのない魂を作品に込めよう。そうでなければ人の心を動かすなどできないのだから。
中央で椅子に座って美樹本が役者の動きをじっと見つめていた。足を組み脚本を二つに折り曲げて眺めながら、ときおり何かを書き込んでいる。
稽古場のすみで、悠士は演技に備えていた。化粧衣装は芝居の世界という非日常へと心を切り替える重要な装置だった。役者はメイクをしていくうちに役柄になりきっていく。ベレー帽を目深にかぶった。そして静かに出番を待った。
ガムテープで仕切られた舞台側では千景が田舎のお金持ち農夫の夫人役を演じていた。ふわりとした大きな帽子をかぶっている。白すぎる肌は夫人が健康でないこと、夫の仕事を手伝えないほど病弱なことを表現していた。潤んだまなざしと、かぼそい震える声で千景は演じた。
出番が来た。悠士は舞台に上がった。
画家『あの時期、ぼくは流れに同化しやすい感覚にあった。真実の恋に惹かれ、世界を翔けていきたいと願い、鋭敏な感覚に憧れ、極端な美に凝った。眼に見える世界の裏側には、見えない本質が何か隠れているのではないか、そういった感覚にとりつかれていた時期だった。眼に見えるものは急に何かに変化するんじゃないか。その実体の裏側には表裏一体、対極のものが潜んでいて、ふとした拍子にそれが垣間見えるのではないか。そんなイメージにとても凝っていた時期だったんだ。
何も持たなかったぼくが、君の感性は芸術だよ、と皆に褒めそやされ、自分自身もそんな感覚に酔っていた。ベールを被せた間引きされた上品さよりも、雑然とした、それでも人生に対する恋が肌で感じられるような色っぽさが好きだった。ある意味、人生を大事に思うけれど、ある意味、自分を大切にしない生き方、嗜好だったように思う』
悠士は演じるのは、自閉症の子の家庭教師をする画家だった。千景が演じるのは我が子の自閉に悩んでいた夫人だ。夫人はやがて画家に心惹かれていくようになる。劇団のオリジナル作品だった。
はじめ悠士は画家の台詞の言いまわしを自分が言いやすいように変えさせてもらった。しかし何度か美樹本と話しあっているうちに「せりふの全部をおまえにやる。好きなように書きかえてみろ」と言われたのだ。だから悠士のセリフの部分だけは悠士が書いていた。せりふ内容は変えずに、それでも自分を込めた台詞になっていた。
画家『人生には迷いの時期が必要だとぼくは思っている。迷いのない人は人間としての幅に欠けると思うし、その迷いは将来、役に立つとさえ思っている。
だけどあまりにも長い迷いは、ただ逃げているだけのような気がするんだ。
確かにそういう時期はあると思う。でも年単位でやっている人って、ヒマ人というか、愚かというか、そんなことしてるうちにハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな。
なんだかものの見方がさかさまじゃないか。どうして幸せなものを、わざわざ世間はそんなにあまくないと苦しくとらえ、わざわざ楽しめない生き方を選ばなきゃならないんだろう。しあわせの努力をしないで世間を厳しく見るだけなんて、眼を向けるところが違っているんじゃないか。しあわせの努力をして、そして実際しあわせになれば、世間なんて勝手に徐々にいい風景になるんだ。ぼくはそう信じている』
「おまえのセリフをおまえにやる。やってみろ」と美樹本に言われて、悠士は勇み立った。うれしかった。期待に応えたかった。夜遅くまでせりふと格闘する日々が続いた。何度も何度も推敲した。せりふを自分でつくることがどんなにたいへんかを思い知る日々だった。美樹本から脚本をもらったときにはサラサラと書き流してあるかのように見えたせりふ。だがほんの数行のせりふの言い回しを変えるためだけに、まる一日を費やしていたこともあった。
画家が過ごしたはずの状況や場所、風景を、脳芯が熱くなるほど思い浮かべて、経験したであろう思いや葛藤をできるかぎり想像し、自分自身の心に刻まれた似たような感情を想起してそれを再現する。役者はそうやって仮面をかぶる。劇中人物の心を魂で表現できるように。
役者が芝居を演じるためのそのやり方は、台詞を書く場合にも役に立った。
そうした役作りの課程で、人間の心というものの多くは状況や習慣が作り上げているものなのだと悠士は知った。どんな人物も心だけが独立して自律的であることはないのだ。
第五章
「真美は自分の中に湧いてくる予感とか流れとか、予知にも似たものを感じる人?」
悠士の問いかけを真美は不思議そうな顔をして聞いた。クラブを出て、朝までやっているワインバーに入った。むっとする熱気が部屋中にあふれかえっている。ワインレッドのテーブルクロス、同じ色の内装。血塗られたような真っ赤な世界だった。酔った頭がくらくらする。
「おれはそうだ。ときどき大きな流れの中に自分がいることを感じることがある」
悠士のろれつはあやしくなっていた。真美は沖縄の出身で単身上京して暮らしていた。もともとは劇団のファンのひとりで、今ではときどき劇団の手伝いをしてくれている。劇団の打ち上げで会話がはずみ、打ち解けあった。それから仲のいい友だちとしてつきあっている。
『子どものころは雪なんて見たことがなかった。私たちまるで外国人同士みたいね』
『沖縄の海の話しを聞かせて』
故郷の雪降る海のことを悠士が話したとき、目をまるくして真美は驚いていた。荒れた灰色の海に降る白い吹雪。それが悠士の原風景だった。あれを知らない人もいるんだ、といまさらのように驚いた。
悠士が憧れた作家、湊誠一郎の世界。太陽が輝く南洋の島々。それを悠士はまだ直接見たことはなかった。写真だけでしか知らない夢の場所、憧れだけの存在だった。いつかそれを自分にも見ることができるだろうか。
「望みや決断って、その時々にはこれでよしと思ってするものだけれど、それが結果的によいことかは、運・不運というか、そのときの自分にはわからないよね。
そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」
悠士の生まれ育った家にはなぜか湊誠一郎の本があった。イラストのたくさん入った海洋冒険物語だった。あれを手にしたのは単なる偶然だったのか。もしかしたらあれも流れの上での必然だったといえるのかもしれない。
湊誠一郎は海洋冒険作家といわれていた。海のロマンを描いた冒険小説をたくさんものにしていた。旅路の果ての歓喜と哀愁、そして海への果てしない憧れ……湊の小説の舞台はいつも海だった。それがどれほど幼い悠士に夢をあたえ、どれほど辛い現実を忘れさせてくれただろうか。どれほど故郷を旅立つ勇気をくれただろうか。
「幼い頃、よくひとりで海に降る雪を黙って眺めていた。ここから逃げ出したい、どこか遠くの誰も知らない場所へ行きたいといつもおれは願っていたんだ。
肌を焼く太陽と白い砂浜、まぶしいほどの海と熱帯魚が泳ぐ楽園を思い浮かべて、現実からおれは逃避していた。おだやかな波音、肌を撫でるやさしい風、人々が水着で横たわる浜、おれにとってしあわせのイメージは南国の海とつながっている」
かじりつくようにして見た楽園の写真。同じ海だというのに目の前の暗い海とどうしてこんなにも違うのか不思議でならなかった。海の色はいったいどこで変わるんだろう。どうして自分は幸せから隔てられているのだろう。
「今だってそうだ。自分では意識しないのに、何だか周囲がどんどん変化してゆく。これまでの経験からも、きっと今がおれの人生の転換期なのかなと思うんだ」
自分を信じることができない人間が、この世界にいったいどんな希望をいだけるだろう。ありのままの自分を受け入れることができない崖っぷちの自我は、ときに爆発的に泣きだして周囲の人たちを傷つけたこともあった。
「いろいろな出会いと別れがあった。そんな中でおれは人にそった生き方だけではなく、自分自身の道を見つけだしたいなと願ったんだ」
将来に対する不安――隣でカクテルを飲んでいる気負いのない真美をふっと悠士はうらやましくなることがある。真美はインターネットのウェブページデザイナーをしていた。企業のウェブサイトをつくる仕事だ。
「ウェブサイトづくりは、クライアントの要望を満たさなければならないので自由にならないことも多いんだけど、とてもやりがいのある仕事なの」
真美がそう言っていたことがある。彼女のつくったウェブサイトはとてもわかりやすく、色彩もレイアウトもそのデザイナーならではのセンスを感じさせた。コンピューターの知識があるというだけではつくれない、プラスアルファの感性が光っていた。クリーム色を主体にした目の疲れないフロントページ、ほんのちょっとしたアイコンの配置、枠取りが他のウェブページとはどこか違って気配りのセンスに満ちていた。同じ服でも実用の服とアートの服があるように、真美のはアート志向のウェブページだった。カネを貰ってこういう仕事ができるのか、と悠士はじっとパソコンの画面を見入ったものだった。センスで秀でる、というところは芸能の世界と同じだと思った。
「こうして南国の風の中で生きてきた真美とも出会い、いろんな話しを聞けたことも偶然ではないのかもしれない」
夏の輝きをやどした黒真珠のような瞳、真美のようになりたい。出会った頃から悠士は心のどこかでそう感じていた。北海の暗い荒波しか映さなかったおれの目には、きっとあたたかさが足りないのだろう。
真美は収入の不安に煽られてはいない。その安定もとても憧れる要素としてあった。
「夢を追い、自分の道を見つけている人でもギスギスしていて、少しも幸せそうに見えない人がいるよね。いくら夢を追いかけるといっても、そのために苦しみ抜いたりするのでは駄目だ。夢とは自分が今以上に幸せになれるものでなければならない。しあわせを伝え、人と分かち合えるようなものでなければ駄目だ」
真美の顔を眺めながら、幼い頃の無邪気な空想をもう一度悠士は思い出そうとしていた。そのおさな心がこれからの自分の指針となる気がした。
「人生をマイナスから出発したおれは、これからもっともっとしあわせにならなければいけないんだ。いつか自由をつかむ、芝居で食っていけるならばそれが一番いい。けれど夢はひとつとは限らない」
真美は悠士を見つめながら黙って頷いた。聞き上手な人だった。
「おれとは何者なのか。この世界でおれがなすべきことは何なのか? こうして真美とも出会えた。そして触発された。いろいろな出来事が身の回りに起きたけれど、結局、自分自身とは何なのか、何をすれば自分が一番気持ちがいいのか、一番大切なことはそれだけだという気がする。
そしておれはおれ自身になりたいな、と強く願ったんだ。人に憧れたりするのはもうやめよう、自分を憧れにしよう、自分で自分を実現しよう、と。
自分の本当に好きなモノは何か、自分が何を続けたら心から夢中になれるのか、そして思い出したんだ。湊誠一郎の小説を。太陽と海の楽園のことを」
目と耳をじっと傾けて真美は話を聞いていた。ときどき悠士は彼女に喋らされているように感じることがある。
「おれには自分の世界を夢として実現し、人生の上にのせたいという希望があったんだ。期待、かな。
人に誇れる仕事がしたい、それはたぶんおれにとっては勇気や愛を人に伝える感動をともなうものだ。流れゆく世界観の中で自分を表現してみたいんだよ。おれの好きな世界とは何だろう。ずっと何が好きだったんだろう。そして思い出したんだよ。海、それも南国の海だって――」
夢とロマン、それとビジネスを結びつけられたら最高だ。さらに芝居以外の収入をもつことで、芝居の世界でもより自由になれるのではないだろうか。仕事だけでない自分がほしい。
「本当に、何かができないかな……」
頭の中で考えながら、悠士は呟いた。どうせ人はその人なりの感性で生きていくしかないのだ。だからおれはおれの感性を信じるしかない。
「どうしておれはスキーに惹かれなかったのかな。やろうと思えばいくらでもやれる環境だったのに。
雪よりも太陽をおれは愛した。珊瑚礁の海、巨大なクジラ、体をくすぐる可憐な熱帯魚、海に溶け込むダイビングの浮遊感も、湊誠一郎の海洋冒険小説も……」
そういえば好きになった女もどこか太陽のにおいがする人ばかりだった気がする。
「けれどおれは、海が好きといっても、サーフィンをやるわけじゃない、泳ぐのが得意なわけでもない、イルカの調教師になりたいわけでもない、海の絵が描きたいわけでもない。
でも、海が好きだ。それを一生、どこかで感じて生きていられたら幸せだ。海、それはおれに幸福をもたらしてくれる予感がする。海、それも太陽に愛された海、それを感じると、おれの気持ちは解放されるんだ。
ただ波と夏の日射しと風を感じるだけでいいんだ。どこかで毎日、海を感じていたい」
海のようなロマンにあふれた仕事ができないだろうか。
真美と話しながら、悠士の心は妄想がふくれあがっていった。頭の奧がむずがゆいような、何かが生まれるような予感がしていた。
第六章
真美は業務で会社のPR用のウェブサイトをつくるかたわら、自分の趣味のページをインターネット上に公開していた。『百円ショップでアイデア生活』という内容のページで、アクセス数を数えるカウンターは、驚くほどの人数がそのウェブサイトを訪れていることを示していた。
「たいしてお金にはならないんだけどね」
真美は笑った。だが本当にそうなのだろうか。それは儲けようという気持ちでやっていないからだけのような気がする。
特定の場所に店舗を構えず、インターネット上で物品を売買し商売をしている人たちがいる。資本金が少なくても始められるサイバーショップという架空の店舗で、今後はこのような商売のあり方がますます発展していくだろうと予想されていた。そういう人たちがお金を儲け夢を叶えた成功例を真美からたくさん聞いていた。昔ながらの流通経路をもつ老舗の企業も今やこの販売ルートを無視できなくなっているそうだ。
おれもなにか同じようなことができないだろうか。真美からその話しを聞いたときに悠士の血は騒いだ。夢をかなえた人たちの物語に、嫉妬のような感情がわきあがってきたのだ。自分にもできると思わなければ嫉妬という感情は湧き上がってはこないはずだろう。
おれにだってやれる、と心が沸きあがった。だがおれに人に売るような何かがあるだろうか。あるとすればそれはモノではありえない。ロマンや夢、海への憧れとかアートとか、そういったものでしかありえないだろう。
またしても悠士の心に湊誠一郎の小説が甦ってきた。ある日、海辺にすむ貧しい少年が、ボトルに入ったメッセージを浜で拾い上げた。書かれていた文字はどこかの外国の文字で何が書いてあるかわからないが、少年は海の彼方の世界に夢をはせながら成長していく。やがて大人になった彼は憧れた海の彼方への冒険へと旅立ってゆくのだ。
湊の小説を思い出しながら、誰かに似ているなあ、と思った。誰だろうか。しばらく考えて、わかった。
そうか。おれだ、おれに似ているんだ。
故郷を離れたときのことが、思い出された。
あの海洋冒険小説のような、人をロマンの冒険へと誘う夢、そういうものを売りものにすることはできないのだろうか。夢とロマンが人の心にひろがっていくということは、苦労してでもやりがいのあることではないだろうか。それこそが自分ならではのオリジナリティあふれる商品といえるのではないか。
真美とワインバーで飲みながら、始発電車を待っている。ぶどう酒で舌を濡らしながら悠士は考え続けた。
どんなイメージも結局はモノに託さなければならないのだ。たとえば画家が画布に、作曲家が五線紙に、役者がおのれの肉体にそれを託すように。
モノ、グッズ、ギフト……そこで自分が抱いた海への憧れを表現するにはどうすればいいのだろう。ただ商品を販売するだけでなく夢を売りたい。モノそのものではなく、あくまでもロマンを売るという意味では、物品販売というよりもむしろ芝居に似ているといえるかもしれない。芝居のチケットが売っているのは夢や感動だ、ブツではない。
やれるだろうか? 真美と出会って海の話を聞いて、湊の小説を思い出して、おぼろげに見えてきた。やれるかもしれない、そんな気がする。なぜそんなことを考えさせる出会いがあったのか。おれの人生という流れの中で、それは何か意味があることなのではないだろうか。
やれる。そんな予感が強烈にした。何かから背中を押されているような気がする。自由に羽ばたく夢を、めいっぱいに生きてみたい。
悠士の心に希望が躍った。
第七章
「やれるだろうか。どう思う?」
思いついたばかりのサイバーショップの構想を、悠士は真美に話して聞かせた。朝の街を駅へと歩きながら、酔った脳裏に浮かんだ妄想を隣を歩く人に話しかける。この夢を最初に相談する相手として真美ほどふさわしい人はいなかった。南国の島の出身で、ウェブページの専門家。むしろ真美と話していたからこそ思いついたものかもしれない。
「おれにはカネも技術もない。費やせるのはアイディアとセンスだけだ。資本は頭の中のロマンしかない。最小の投資で最大の利益をあげるには頭を使わなきゃ。お金も決して借金はしない。騙したり、友人知人を頼ったひとりよがりのものではいけない。そして人に喜ばれるものでなくては。
それをやることで自分が今以上の場所にステップアップしていけるようなものでなくてはだめだ。そして自分ならではのアイデンティティがなければ。
そして仕事というからには収入がなければ。趣味では続かない。収益があるからこそ真剣に考えるし、真剣に考えるからこそ本当に喜ばれ、関わった人に納得してもらえるものができるはずだ。
多くの人に受け入れてもらうためには、表現方法も工夫しなければ。ときには自分を捨ててかからなければいけないこともあるだろう。そのひとつひとつが仕事とともに成長していくことだと思うんだ」
悠士の言葉に真美は何度も頷いた。故郷の海の上に輝くまぶしいほどの星空。人の魂を屹立させるようなあの透明な夜風。南洋の島々でも夜空は同じだろうか。
「おれは、根底に『こうなりたい』とか『こう生きたい』とか、前に進んでいく姿勢がない人とは話していても面白くないんだ。何故ってそういう人でないと、おれの本当の望みや、話したいこと、本音を理解してはもらえないから。
賭けてみようと思うんだ。たぶんきっとうまくいく。不思議なんだけど、そんな予感がする。きみはおれのことを楽天家すぎるって笑うかな」
真美は首を横に振った。だが不安視する気持ちが表情からのぞいてしまっている。彼女の気持ちが手に取るようにわかって悠士は思わずふき出してしまった。
「そうだね……そうかもしれない。失敗を危惧するのは当然だろう。でも見ていて。きっとうまくいく。たぶんおれはいろいろな人に助けられる。そして大きくなれる。そんな予感がする。なぜだかわからないんだけど、すごくそんな気がするんだ。そのかわり本当に頑張らないと。本当に本当に頑張らないと。生半可で得られるものなど何もないからね。
こうしてきみに会えたのも、運命だと思うんだ。きみと知り合わなければ、サイバーショップなんて思いつきもしなかっただろう。やっぱり何かをうまくいかせるのって、決して一人ではできないことだから。
自分の中のきれいな世界を仕事にしたいんだ。これがもう本当に最後のチャンスだという気がする。そして今、そういう流れが来ている気がする。
何で急にこんなことを思いついたのかな。流れが来ているということ以外、説明のしようがない。自分では意識しないのに、何だか周囲がどんどん変化してゆく。最近、事態が一定化しない。ものすごい速さで変わっていく。今までは流れがよどんでいて、何かの時期が満ちるのを待機していたみたいだ。
その大きな流れを見ていると、なぜか最終的に自分をいい場所に連れてゆく、その過程といった感じがするんだ。
こんなことそう度々あることじゃない。おれの人生の一コマしか見ていないきみには想像しがたいことかもしれない。おれだって自分が体験していなければ感覚として実感できず、こんな話、いよいよ宗教めいてきたなあと思うよ。
でもきっと全てが上手く行くまでこの流れは止まらないって気がするんだ。何かの力が、おれを、おれが望んだ、おれの満足のゆく土俵に乗せようと大きな流れを作っている、そんな感じがするんだ」
真美の瞳をのぞき込む。もう不安の色は消えていた。
「やってみるよ。賭けてみる。たぶんうまくいく。不思議なんだけど、そんな予感がする」
たとえ片翼でも飛ぼうとすることだ。悠士は思った。ここで飛ばなければもう飛べない。全てにおいて、やるなら今しかない。生まれ変わるのならば。
第八章
悠士と真美は駅のホームで電車を待っていた。こうして高い場所から朝の街を眺めるのが悠士は好きだった。夜の街とは違って人々がこれから活動をはじめようとする朝の街には、これから消費されようとするエネルギーが大地から立ち昇ってくるように感じる。
「夢は明るく人をよろこばすものでなければならない。知恵をこねくり回したものではだめだ」
朝の街を眺めながら、悠士は頭の中のイメージを言葉にしようとしていた。
「そうね。いくら魅力的なものでも、感情が疲れるものはいつか面倒くさいなあと思っちゃうもの」
真美が小さくうなずいた。
「たぶん苦労するのは最初だけだ。軌道に乗れば、たいして時間も手間もかからずにすむはずのものなんだ。演劇人としても両立できる健全で幸福な仕事になるはずだ」
悠士の顔を下から見上げて、真美は微笑みかけた。
「あなたは曲がらずにしなやかに自分の世界を未来に向けて広げていける人だね。そしてひとりよがりでない真っ当な優しさを持っていて、それが自分を護る盾になることを心のどこかできっと知っているのよ。
ねえ、その仕事、私にも手伝わせて」
遠くから電車がやってきた。その姿がだんだん大きくなってくる。
「みずみずしくて繊細な悠士と、逞しくて本能的な悠士。その対極の取り合わせが好き。圧倒されながらも見ていてドキドキするの。やっぱり人間も動物、本能が大事だもの。それは生命力であるし、統率力にも繋がると思うの。本能だけじゃなくクレバーだし、人とは違うなにかをあなたは持っている」
ときどき自分のもっている自分のイメージとはまったく正反対のことを人から言われて悠士は戸惑うことがある。人の目に映る自分と自分の知っている自分、どちらが本当だろうか。どちらを信じればいいのだろうか。
ときに迷い、戸惑う。だがどんな評価がくだされようとも、おれはおれのままでやるしかないのだ。
「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」
可能性という未来が悠士の胸に白く眩しい光を投げかけて踊った。
「つくづく思うよ、まだおれの終着点は見えてはいないんだなあ、まだ流れの途中なんだなあって。でもこの流れの実感が確かならば、一年後、二年後のおれは、きっと今よりもいい場所にいるはず。その先で今までの自分を超えて新しい何かに到達できる気がする。
いろいろな成功、いろいろな幸福があると思う。でも、こうして自分の手を離れたところから大きな流れを見ていると、なんとなくおれにはすべてがやがては調和し、融合していくような予感がするよ」
自分の夢でも見るかのように真美はじっと悠士の顔を見ていた。そんな彼女にいつまでも悠士は自分の夢を語り続けた。
第九章
「悠士、次の新しいシナリオをいっそ全部おまえが書いてみろ」
稽古場で美樹本に突然そう言われた。想像もしていなかったことだったので、悠士は頭が真っ白になった。脚本会議で次のシナリオのプロットは決まっていた。大まかなプロットは美樹本と悠士が意見を出し合って決めた。主人公は妊娠した女だった。
「なあ悠士、書くってことは自分の中の感情を呼び覚ましてしまうってことでもあるんだよ。おまえならわかるだろう」美樹本は言った。「創作するっていうのは、ときに危険なことなんだ。せっかく忘れていられた感情を書くためにむりやり呼び覚まさなければならないことだってある。安定していられた心をわざわざ葛藤の渦に放り込むことにもなりかねない。すると心がかき乱されて、実生活や対人関係をおかしくしてしまうことがあるんだよ。今度のシナリオの設定はおれには辛いんだ」
美樹本が言わんとしていることは悠士にも何となくわかった。演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。
ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに戻って掻き乱されてしまうことがあるのだ。たとえば演技のために思い出した愛犬をなくした当時の錯乱した感情に今の現実がかき乱されてしまうことがあったりする。悠士のようなキャリアでさえもそのようなことが過去に何度か起こったのだ。役者のメソッドと同じことが作家の身に起こったとしても何ら不思議なことではないだろう。
「おまえに賭ける。失敗してもいい。やってみろ」
悠士の決意や自信を確かめるように、美樹本はじっと悠士の目を見つめた。まるで本当の父親のようにいつでも美樹本は悠士を見守り背中を押してくれた。
この人の期待に応えたい。だから悠士はやってみようと思った。自分にできるかどうかはわからない。でもやるだけやってみよう。
脚本を書いたことはなかった。何かを表現するという意識で悠士は身の回りを眺めてみた。すると突然、世界が別のものになったように思えてくるから不思議だ。
第十章
カプチーノを淹れよう。きみが待っているから。
カプチーノを淹れよう。明るい陽差しの中、きみが微笑むから。
ぼくの人生のスケッチは、まだ未完成だけど。
裏の畑の麦の穂は、まだまだ蒼いままだけど。
大地に立っているこの存在を、実感していたいんだ。
カプチーノを淹れよう。きみとぼくのために。
カプチーノを淹れよう。きみの巻き毛の黒髪が四月の風に揺れるから。
「こっちを見ないで。鏡の中の私を見て」
汗をかいた裸の背中が言った。
「会いたかったよ」
「会うだけでいいの?」
千景は髪をとかしている。
「キスしたいよ」
「キスだけでいいんだ」
悠士は笑った。
金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。
夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。
夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。
第十一章
「泣けば母親が来てくれる、そんな信頼感がないとありのままの自分を受け入れることができなくなるんだって。精神医学の本にそう書いてあったよ」
千景の言いかたに悠士は苛立っていた。なぜそんなふうにしか言えないんだろう。自分の恋人がこれまで苦しんできたことを、精神医学の一症例として分類整理して片づけようとするなんて。
「思い出さなくなったことを吹っ切れたというのであれば、まだ吹っ切れてはいない。あの人のことは今でもときどき思い出すしね……」
鏡の前に立って髪を整えながら千景が言った。尖った肩に白いジャケットをかけていた。
「だけど私には必要な経験だったと思ってる。人の痛みがわかるようになった。人を好きになるっていうことがどういうことなのかよくわかった」
不倫の恋を正当化する千景の目に、おれはどのように映っているのだろうか。
自分の恋のことは、千景はけっして精神医学の一症例として分類して片づけようとはしなかった。自分の人生に決定的な影響を及ぼしたものとしていつまでも特別に思いつづけていた。
「私いろいろ経験豊富だから、何があっても現実は現実として受けとめられると思うよ。だから壁つくらないで。何でも話して」
感情を冷静に処理することができる頭のいい女だった。だがその反面、あらゆる価値を相対化し、すべてを無価値にしてしまう。そのことに悠士はいつもやりきれない思いをいだいていた。
「おれは思うんだ。昨日と今日は違う一日なのだし、新しい日に夕べのややこしい話など巻き戻して話す必要なんてないじゃないか。それは相手のためにも自分のためにも。なぜなら相手に重荷を感じさせてしまうかもしれない全ての結果やリスクはやがては自分に還ってくるのだから」
その不倫の恋と同じような重みで自分のことも思ってくれたなら。
「たとえ相手を好きでも、人はお互いの性格の組合せによって、自分のあまりよくない部分がつい引き出されてしまう相性っていうものがある。その結果、なんとなく自分のベストでない自分になってしまうというような。気質とか、呼吸のリズムとか、素直に謝れるタチとか、そんな相性が大切なんじゃないかな」
そんなに不倫の恋が大きかったのならば、今のこの関係は何だろう。彼女は何をおれに求めているのだろう。
「考えすぎだよ。人を好きになるって、そんなに難しいことなの?」
声はひややかだった。千景はどこか悠士のことを低く見ていた。いつも無力感を噛みしめなければならない関係だった。それは悠士に学歴がなかったからかもしれないし、収入が低かったからかもしれない。
「そう簡単じゃないさ。千景のことがとても大切なのに、時々、自分の視点からしかものを見ることができなくなる。それはたぶん君も同じだろうと思うけれど」
千景はあきれたような顔を見せた。その顔に傷つきながらも悠士は言葉をつづけた。
「他人とうまくやることと、自分を表現することが両立できないなら、どちらを選んだらいいんだろうね? 人には人のいいぶんがあって、きっとどれが正解とかはないだろう。でも人と深くつきあうためには、ときには自分の思考よりも相手の視点を理解してあわせるということもやっぱり必要なんだ。
だけど、それってとても難しいよね。だってうまくいかないと、相手のいいなり、従うだけの都合いい存在になってしまうから。誰だって自分の好き勝手に自分に都合よく生きたい。好きだからあわせられるってほど単純なことじゃないよね。相手のことを心から信頼していないと」
自分のことを認めてほしい。そんな気持ちで、いつも千景を責めたてるような口調になってしまう。
「お互いの欲を譲歩してあげる、というのもおれは大切な愛の証だと思っているんだ。ケンカはしてしまうかもしれない。けれど大切なのはその後。自由やアイデンティティも大切だけれど、それって大切な人がいてこそ価値があったりするものなんだよ。
現状はいつも一定じゃない、いろいろな気持ちや状況の変化、昨日は愛しさに相手を思いやった、けれど今日は自分の欲を優先した、そんなこと言葉で言ったらどんな人間だって同じだろう。だけどその上での愛情や振幅加減は他人にははかりしれない。おれに起こったことを本当に理解できるのはおれだけなんだ」
「そんなのあたりまえだよ。愛なんてただの思い込みなんだから。むずかしく考えすぎなんじゃない?」
千景は笑った。愛なんてただの思いこみ。不倫の恋を語るときには決してそんなふうには言わなかった。それなのに今は、愛は思い込みだという。
いったいなにが違うというのだろう。
「愛に裏切られて、夢に生きる人がいる。愛よりも夢の方が確か……そうかもしれない。ある部分、とてもそうだろう。
だけどね、愛がなければ夢を追うエネルギーはやがては枯れてしまうんだよ」
千景に認めてもらいたい。ただその気持ちだけでこんなことを喋っているのかもしれない。
だが話せば話すほど悠士のなにかが空回りしていく。
第十二章
夜の駅のホームは人影もまばらだった。暗い空に滲むようにぼやけた白い月がぼうっと浮かんでいた。ベンチに並んで腰掛けて悠士は千景の乗る電車を待っていた。ホームにまで一緒に来てしまうほど離れがたかった。
悠士の膝に手を置いて千景があまえかかってくる。
「よかった今日は話せて。やっぱり人ってこっちが裸の心を見せなければ、相手も見せてはくれないもの」
体臭が匂うほどそばに体をすりよせてきた。首に吐息がかかった。ぞくっとした。
「いないよ、こんな彼女。全部話して、すべてをあなたにあずけてる」
濡れたまなざしで悠士を見つめた。
「もう終わったこと。関係ないでしょ。昔のことなんて」
反復脅迫。心が壊れてしまいそうなほど傷を受けた者は、二度と同じ傷を受けないように心に充分な防壁ができるまで悪夢を何度も何度も心の中で繰り返すのだという。傷を傷と感じなくなるまで、痛みを痛みと感じなくなるまで、何度も何度も自分を傷つけるのだ。
「歪んでるよね。でも好き」
千景が教えてくれたことだった。おれはまさしくそれかもしれない。悠士は千景の顔を見ることができなかった。
たしかに歪んでいる、おれは。
「若気のいたりだよ。それも含めてかわいいやつだと思って」
また背中にぞくっとする電流が走った。
惚れている。それだけは間違いないのに、彼女のすべてを受け入れることができないのだ。おれは狂っているのだろうか。
「今の気持ちを見て欲しい。私はとっくに卒業してる」
ちゃんと向き合うとは、まともに目にしろということなのだろうか。すくなくとも千景はそう考えているようだった。これがわたしだ。見ろ、目をそらすな。と、いつも千景は裸の自分をさらけ出してきた。だがそれが悠士にはつらいのだ。隠してきた自分のすべてが眩しい光のもとに曝されているようで。
悠士は座席を立った。すこし距離をおいて考えたかった。後ろから言葉が追いかけてきた。
「どうして別々の方向に帰らなきゃならないの? ねえ、悠士」
追いかけてきた千景は、悠士の腕をとって勢いよく引っ張った。体が半回転する。胸に千景が飛び込んできた。抱きあった勢いで二人の体は転倒しそうになった。そのまま千景は激しい口づけをしてきた。まるで過去の記憶を唇から吸い取ろうとでもいうような激しい口づけだった。そのとき電車がホームに流れ込んで、電車の巻き起こす風に二人は更によろけた。まるで紙でできている人形のように駅のホームの上をよろめいた。
「はやく一緒に暮らそうよ」
抱きあいながら千景がつぶやいた。止まった電車の中から乗客のひとりが唖然として二人の姿を眺めていた。扉が閉まる直前に千景は電車に飛び乗った。置きざりにされたように立ちつくしている悠士を、ガラス越しに千景がじっと見つめた。眼に濃密な感情がこもっていた。視線がねっとりと絡みついて離れなかった。目を離すことができなかった。
ふたりは結ばれる運命なのかもしれない。そんな気がした。からみあう視線に特別な何かを感じた。
電車が静かに動き出した。千景が横に流れていった。それでも追いすがるように二人の視線は離れなかった。何かがつながっていた。千景の姿が電車に隠れてやがて消えていった。電車が走り去り、夜の闇に消えていくまで悠士は見送っていた。
君の澄んだ瞳に僕が映った瞬間、君の赤い靴は大地を蹴った。
黒髪が波打ち、ちぎれんばかりに両手を拡げながら。
よろこびに美しい顔をゆがめ、あふれる滴を宵の大気に溶かしながら。
君のシルエットが僕のシルエットに飛びこんだ瞬間、
世界は僕らのまわりをぐるぐると回りはじめ、
意識は君と共にやさしく彼方へとおちていった。
プラットホームの無数の靴音が、僕らの未来に拍手をおくる。
白煙立つ汽笛が、僕らの道に祝福ラッパを鳴り響かせる。
愛しい君よ。
第十三章
夜の街をたったひとりでふらついていた。家にひとりでいる気分じゃなかった。孤独な身をよせあうように夜の街には人々が集まっていた。自分もこの人たちの中のひとりだ、と悠士は感じた。この街ではみんなが孤独を抱えて生きている。
ポケットの中の携帯電話がバイブレーションで着信をつげた。とりあげると劇団の啓介からあわてふためいた声が耳に飛び込んできた。
「おい。悠士、聞いたか。美樹本さんとマリアさんが離婚するんだって」
「なんだって」
悠士は思わず大きな声で聞き返していた。本当だろうかという疑念と、やっぱりそうかという思いが瞬時に交錯した。もしそれが本当ならたいへんなことになった。
マリアの脱退、それは劇団の危機を意味していた。マリアは主宰者・美樹本の妻として、マネージメント、対外折衝を一手に引き受けている劇団になくてはならない存在だった。劇場を借りる交渉から、レンタル業者への支払いなど、劇団の庶務も経理もみんなマリアが取り仕切っていた。ふたりの離婚は劇団にとっていいことはひとつもないはずだ。
「どうして急にそういうことになったんだ」
自分が原因じゃないことを願いながら悠士は訊ねた。思い当たるふしがないわけではなかった。ただ、急すぎる。
「わからねえよ、おれにも。ただこのところ美樹本さんとマリアさん、うまくいってないみたいだったもんなあ」
確かに最近の二人の関係は冷えきっていた。だがおそらくそれだけではないだろう。そのほかにも啓介が知らないことを悠士は知っていた。
「とにかくどういう事情なのか。これからどうなるのか。美樹本さんに直接会って聞いてみよう。連絡したら今から会ってくれるというんだ。飲んでいるから来いって。悠士、お前も来いよ」
「ああ。わかった。どこだ?」
啓介から居酒屋の場所を聞いた。よく知った場所だった。
どうして急にそんなことになってしまったのか。夜の街を駆けながら悠士は考えていた。離婚……。
つい今し方、悠士は千景と結婚することになるかもしれないと考えていた。不幸な結果に終わった自分の親とは違った家庭をつくることができるかもしれない、そんな幸せな空想をした。それが……。
仲がよかった頃の美樹本とマリアの姿を思い出した。いつも見つめあい、笑いあい、とても幸福そうだったあの姿――ふたりのことをうらやましいと思ったことさえあった。母親の祐希のような悲劇だけが結婚ではないのだと思わせてくれた。その夫婦が今結婚を終わらせようというのだ。
悠士の思いは複雑だった。
なぜ結婚した二人が別れるのか。なぜ愛は終わるのか。
それが知りたいと思った。
第十四章
「突然、マリアは家を出ていったんだよ。子供を置き去りにして若い男と一緒にな」
美樹本の目は赤く濁っていた。駆けつけたときには既にめちゃくちゃに酔っ払っていた。無精髭が伸びて肌が荒れきっていた。その荒廃ぶりに悠士は胸が痛んだ。彼には美樹本には言えない秘密があった。美樹本の妻マリアと稽古場で二人きりになった時のことだ。
『あなたを一人前の男にしてあげる。だから私の言うことをききなさい』
耳元にそう囁かれて誘惑されたことがあったのだ。なぜか屈辱を感じたことをおぼえている。
ぽつりぽつりと美樹本は何があったのかを話しはじめた。苦しそうな顔で、
「マリアとおれの子はな、知能がすこしおくれているんだよ。普通の子供と同じようには学校に行けない子供なんだ」
なんだって? 悠士の心に衝撃が走った。舞台『画家と少年』は美樹本の息子がモデルだったということか。そんなことまるで知らなかった。マリアさんもそんなことはひとことも言わなかった。
「でもな、夫婦ともに仕事は順調で忙しかったから、子供の面倒は家庭教師を雇ってまかせきりだった。それが間違いだったんだよ。その家庭教師というのがマリアの不倫相手なんだ」
苦しさを飲み干すように美樹本はまた酒をあおった。
「……置き手紙ひとつ残して去っていったマリアと、せめて直接話しをしようと、おれは家庭教師のアパートへと出かけていったんだ……」
酔った目で美樹本は喋りつづけた。うまく呂律がまわっていなかった。雇ったときの履歴書の住所を調べて、美樹本はそこに出かけていったのだという。
薄汚れたアパートの二階へと美樹本は上がっていった。廊下にはひからびた虫の死骸がそのままになっていた。その黒い虫の死骸の前で、まるで台詞を忘れた役者のように、しばし立ちすくんでしまった、と美樹本は言った。
恋愛結婚だった。人並み以上の生活をこれまでマリアは享受してきたはずだ。子供だってマリアが欲しがってのことだった。それがどうしてこうなってしまったのか。どこで歯車が狂ったのか。
自分とのこれまでの日々を捨てて、子供を捨て、裕福な暮らしを捨てて、こんなぼろアパートで暮らそうとマリアに決意させたものはいったいなんだというのか。
もう自分を愛していないのだろうか。もう子供も愛していないのだろうか。それ以上の何かを家庭教師の中に見つけたとでもいうのか。
呼び鈴を押そうとして指を止め、しばらく気持ちを整理しようと美樹本は息を整えた。
衝動のままにこんなところまで来てしまったけれど、この事態にどう対処すればいいのか。劇作家だというのに、おれは今、何をどう順序立てて話していいのかわからずにいる。事のなりゆきにただ戸惑い、途方に暮れている。
ためらいを押しのけて、美樹本は呼び鈴を押した。向こうの出方を見ようと思った。
苦い思いを噛みしめている美樹本とは対照的に、無邪気な若い男の返事が部屋から返ってきた。家庭教師の声だった。親子ほどにも年齢の離れた、まだ一歩も実社会に出ていない、ただの美大生。劇団の美術にさえ使えそうもないただの絵描き志望。そいつが……
扉が開いて、入り口にまだ幼さが顔に残った家庭教師が顔を現した。
寝起きのぼさぼさの髪。目が合うと反射的に扉を閉めようとした。が、とっさに足を入れてそうはさせなかった。アパートの扉が硬質の音を夜の闇に響かせた。
「な、なんですか?」
「なんだじゃない。いるんだろう、マリアが?」
美樹本は扉を力づくでこじ開けた。
「マリア、話しをさせてほしい」
部屋の中に大声で呼びかけた。男と女の汗の匂いがした。
「ちょっとあなた、なんなんですか。警察を呼びますよ」
その言い方で、家庭教師がもはや自分を雇い主とは認識していないことがわかった。当然といえば当然だった。雇用関係が今後も続いていくと思う方がおかしい。
「マリアをかえしてくれ」
「あんた、どうかしているんじゃないか。かえしてくれって僕は盗んだわけじゃないぞ。マリアは自分から家を出たんだよ」
マリアと呼び捨てにしていることにショックを受けた。男が自分の女を呼ぶ時の言い方だった。奥さんと呼んでいるところしか今まで聞いたことがなかったのだ。歳の差もかなりあるはずだ。
「うちには息子がいるんだよ。君はその子の世話をする家庭教師として雇われたんじゃないか。だったらあの子のためにもこんなことはしないでくれ。マリアはジローの母親なんだ。いるんだろう、マリア!」
マリアは一度流産していた。だから最初の子供だったのにジローという名前をつけた。マリアがそうしたいと言ったからだ。
玄関から部屋の奧を覗き込んだ。息をひそめて隠れている女の気配がする。間違いようがない。マリアはここにいる。
無数の油絵が雑然と立てかけてある部屋だった。剥き出しの蛍光灯、あまい汗のにおいがする乱れた蒲団――
「おい、断りもなく入るなよ」
家庭教師が美樹本の胸を掴んで部屋の外に突き出した。突然の夫の来訪におろおろしていたのが、ようやく自分を取り戻したようだった。思ったよりも腕力があった。雇用関係が消滅すると相手の男が強くなったように感じる。男対男になったからだろう。臆せずに美樹本はもう一度アパートの中に呼びかけた。
「マリア! ジローはどうなるんだ。お前の子だろう」
「あんたたちは捨てられたんだよ」
「おまえに聞いているんじゃない、マリア」
「マリアは親権を放棄するって言ってるよ。あんたがひとりで育てればいい」
家庭教師は強い口調で言った。まったく男ってやつは女が絡むとこれだ。頼りがいのある男の姿を女の前で演じようとしてオス同士は争う……うんざりしたが、しかし自分が若かったときのことを思い出せば文句は言えない。自分も同じことをしてきたのだ。今度は自分が挑戦される側に回っただけのことだ。
ずっと挑戦者のつもりで生きてきたのに、いつの間におれは挑戦される側に回ってしまったのだろう。そういえば髪が真っ白になったのは何歳の頃だったかな?
「そんな勝手が許されると思っているのか、マリア」
美樹本も引きさがることはできなかった。ジローのためにも。
「許すも許されないもないさ。もうマリアはあんたと一緒に暮らす気はないと言っているんだぞ。縄でしばって無理やり連れて帰るかい? やれるもんならやってみろ」
「おれたちはまだ夫婦なんだぞ」
家庭教師を無視して、マリアに向かって美樹本は大声を出した。
「どんな法律をもちだしたって駄目さ。気持ちがもう離れてしまっているんだからな。それとも法に訴えてでも婚姻を続けたいのか」
家庭教師がせせら笑った。その顔……屈辱に美樹本の視界は歪んだ。
法や慣習などでは縛りきれない人間の自由な魂、そのようなものを劇作家としてこれまで美樹本は舞台の上で謳いつづけてきたのだ。そんな自分が法的手段に訴えて人の心を縛りつけようとするのか。
「もう何を言ってもダメなんだよ、無駄なことはやめろ」
家庭教師の言葉が追い打ちをかけてくる。劇団では、舞台という世界を取り仕切っている全能の支配者、そのおれが外の世界ではこんなにも無力だったとは。
ずしりと重たいものが心にのしかかる。紙っぺらにしか過ぎない婚姻届、その法的拘束力におまえは頼るのか。それなら今までおれが表現してきたことはいったい何だったんだ。人の心よりも紙切れの契約の方が大事か? チクショウ、なんて矛盾だ。
美樹本は声が出なくなった。答えは決まっていた。これまで自分が舞台で描いてきたことを否定するようなことは、この場で死ねと言われているようなものだ。それだけは選べない。
マリアの心が誰にあるのか、それが大事なのだった。そんなことは今さら若造に教えられなくたってわかっている。
突然、美樹本は心とはまるで裏腹の行動をとった。いきなりアパートの通路に土下座したのだ。虫の死骸やヤモリの糞がズボンを汚すのも構わなかった。
「きみ。頼む。お願いだ。きみはきっとマリアにたぶらかされているだけだ。マリアの上流階級の雰囲気や社会的地位に目が眩んでいるだけなんだ。目を覚ましてくれ。そりゃあ今はあいつには金も地位もある。まだ若く華もある。だけどそのうちにわかる。それは愛じゃない。きみ自身のためにも間違ったことはしないでくれ。おれたちの家庭を壊したりしないでくれ」
目の前の光景が信じられないとでもいうように、家庭教師は驚いた顔で突っ立っていた。
「もう帰れ。本当に警察を呼ぶぞ」
乾いた固い声で家庭教師は唇を震わせた。顔は青ざめていた。
「せめてマリアに会わせてくれ」
「それなら教えてやる。マリアは妊娠してるんだ」
石のように土下座したまま美樹本は動かなかった。妊娠だって?
「あなたを軽蔑するわ。なんて格好」
「マリア」
土下座したまま美樹本は顔をあげた。マリアが奧の部屋から現れた。慌てて着た服の着こなしだった。家庭教師と何か目配せをしたのを美樹本は見逃さなかった。
「あなた、恥ってものがないの?」
「妊娠してるって本当か?」
「あなたには関係ないわ」
マリアは肩をすくめた。力の抜けたその言い方がショックだった。
「関係ないっておまえ……。英語学校はどうなるんだ?」
「言っておくけど、離婚してもあれは私のものよ」
「おれの名義になっている」
「確かに開業資金を出したのはあなたよ。だけど今スクールは設立当時とはくらべものにならないほど大きくなっているわ。それは私の力よ。ハーフの私がスクールの顔になっているからこそ良家の子女が集まるんじゃないの。学校は私のものだわ。出るところに出たっていいのよ」
「出るところってなんだ」
「法廷よ。決まっているでしょ」
また法律か……。美樹本は全身から力が抜けていく思いがした。
「裁判で不毛に時間を浪費するのが嫌なら、学校はおとなしく私に譲ることね。それで清算してあげる。家も親権も劇団も他に何も要求しないわ」
「ジローよりも英語学校のほうが大事か」
一瞬、マリアはキッと美樹本を睨みつけた。そのような問いかけをしたことを憎むかのように。
そうまでして別れたいのか。そうまでして家庭教師がいいのか。いったいなぜだ? どうして子供を手放せるんだ? なんのための結婚だったんだ?
次々と問いかけが心に浮かんでくる。
「なんて情けない男。こんな土下座男にいつまでも関わっているのは嫌よ」
マリアは家庭教師の腕を引っ張ってアパートの中に戻ろうとした。話しを打ち切ろうとしている。
気持ちが切れていくのを美樹本は感じていた。この関係におれをつなぎ止めてきたものはこれまでいったい何だったのだろうか。
美樹本は若い頃、妻子持ちの不倫男からマリアを奪いとったときのことを思い出していた。そう、ちょうど今の家庭教師のように……あの頃は何も持っていなかった。自由と夢だけがあった。今はどうだ? おれはあの頃よりも何かを手に入れたのかな?
なにも変わっていないような気がした。あの頃に、戻りたかった。失うものが何もなく、ただ獲得するためだけに捨て身で挑戦できた若い頃に。
あの頃、おれはこの美大生のような顔をしていたのかもしれない。おれはいつ自由を失ってしまったんだろう。
今は守りつづけていくことだけで精一杯だ。マリアも、ジローも、劇団も、社会的な責任も、お金も、なにもかも。
つかれた、おれは……。
「もう二度と来るなよ」
そう吐き捨てて、大きな音を立てて家庭教師はアパートの扉を閉めた。
土下座したまま、美樹本はしばらく立ち上がることも声をだすこともできずにいた。しばらくたった後、やっと自分が何をしにここまで来たのかがわかった気がした。
もう駄目なのだということを理解するために、この目で確かめて納得するために、おれはここまで来たのだろう。
心が、力が、情熱が、体内から急速に失せていくのを感じる。
これまでおれは何のために生きてきたのだろうか。
第十五章
話し終えると、また美樹本は一気に酒を飲みほした。何ともいいようのない無念さが周囲に立ち込めていた。
愛ゆえに心を狂わすことは、悠士の人生から真っ先に排除された事柄だった。母のような生き方だけはしたくない、そう思いつづけてきたというのに、またおれはそれを目の前で見せつけられている。
「おれは妻の心ひとつ掴めなかったのか。何だったんだろう、これまでのおれの人生は」
自嘲して美樹本は笑った。人生のパートナーを失ったというだけでここまで人が変わってしまうのか。悠士はやつれ衰えた病室の母の姿を思い出さないわけにはいかなかった。あのときと同じだ。
「何にもならなかったんだなあ、おれは。誰の心の中にも生きられなかった。一番身近にいて苦労を共にしてきたマリアの心にさえも」
美樹本はうなだれた。死んだような目をしていた。
「そんなことはない。美樹本さんの生き様はちゃんとおれたちの心に生きている」
励ますように、悠士は語気を強めた。
〈おれの本当の父親は、その画学生のような薄汚い泥棒に過ぎなかったのだろうか?〉
悠士の心に疑問が渦巻く。
「そうだよ。美樹本さんがおれたちの世界を変えてくれたんじゃないか」
一緒に話を聞いていた啓介の励ましにも、美樹本は声もなく笑っただけだった。すべてがどうでもいいとでもいうように手を振って、言葉を追い払った。
おれたちの慰めでは足りないのか。自分を裏切った女でなければこの人の傷は癒せないのか。
無力感が悠士の心を黒く染める。
そばにいるというのに何もできなかった。実の息子だというのに。
あのときも、自分を捨てて去っていった男だけが、母の心をどうにかすることができたのだろう。それは美樹本さんも同じだ。これが、愛に生きるということなのか。
「マリアとは別れることになるだろう。英語学校の権利なんてどうでもいい。あいつの言うことにも一理あるし、もうおれにはどうだっていいんだ」
もう関わり合いになるのもごめんだ、とでもいうように美樹本は手を振った。
「あいつは独身の頃からずっと不倫がちの女だったからなあ。不倫がくせになるタイプっているんだよ。マリアはおれと知り合う前、銀座のクラブでホステスをしていたんだ。肌が白くてスラリと背も高く、エキゾチックなあの顔立ちだろ? ずいぶんモテたらしいが、そこで知り合う男たちはみんな金持ちの既婚者ばかりで、独身者と恋愛したのはおれがはじめてだと言っていた。それさえ本当かどうか今となってはわからないけどな」
美樹本の目は赤く濁っている。脳裏のマリアをかき消すようにまた酒をあおった。
「だいたい結婚や家族というものを何だと思っているんだ。そんないい加減な気持ちだったのか、あいつは」
美樹本は吐き捨てた。
〈もうこれ以上の醜態は見せないでくれよ、美樹本さん……〉
悠士は心の中で呟いた。尊敬した人のこんな姿は見たくない。
口元を押さえて、美樹本が急に立ちあがった。吐き気が込み上げてきたのだろう、トイレに駆け込んだ。
「ちょっとおれ、見てくるよ」
心配した啓介が美樹本の後を追った。
その場に取り残されて一人きりになった悠士は考えていた。
人は身勝手だ。美樹本にしてもそうだ。
自分が当事者か傍観者かで言うことが百八十度変わってしまう。立派な意見や建前は自分が被害者になったとたん、被害者ゆえの「感情」というものが湧いて出て、続けられなくなってしまう。
『不倫はある意味、本当に純粋な恋愛だよな』
マリアとの仲がまだ順調だった頃、美樹本は悠士にそう言っていたのだ。
『世間じゃ許されないことかもしれないけれど、自分の気持ちをどうすることもできないで愛してしまう。だからこそ本物なんだよ。マリアは一生懸命に人を愛したんだなあ』
そう言って認めていたのだ。それが今はどうだ。今は本物じゃないというのか。あのときと何も変わっていないじゃないか。昔と違うのは、自分が傍観者か被害者かの違いだけじゃないか。
啓介に肩を抱かれながら、美樹本が戻ってきた。吐いたのだろう。目に涙をためている。
「なあ悠士、おれはもう引退するよ」涙目で美樹本がよわよわしく呟いた。「劇団のことは、おまえにたちにまかせた。みんなで力をあわせてやっていってくれ」
崩れるようにして美樹本は椅子に座りこんだ。
「マリアが言ったんだ、おれのことをつまらない男だと……そんな人間のつくった芝居が人の心を打てるはずがない」
ぽつりと美樹本は呟いた。ただ愛に裏切られたというだけのことで、あの自信に満ち溢れた美樹本がここまで参ってしまうのか。怒りのような熱いものが悠士の中でたぎってきた。
「なにを言うんだ。美樹本さんとマリアさんは求めるロマンが違っただけだ。ただそれだけのことじゃないか」
悠士は、今の美樹本を認めるわけにはいかなかった。認めたら、自分のなにかが壊れてしまう。
「夢がなくても、人は生活していくことはできるよね、けれども同じ夢を持つ者どうしでないと、人生、起きて寝て食べて排泄して……ただ生活するだけの人生になってしまうと思うんだ。たとえ惚れている事実は同じだったとしても、美樹本さんの夢を解する人と解さない人に、人は必ず分かれる。そして同じ夢をもてなければ、やがては惚れている気持ちまで冷めていってしまうと思う。
美樹本さんの芸術や夢を、きっと今のマリアさんはもう何も感じなくなったんじゃないかな。だって美樹本英児は決してつまらないと評されるような男じゃないもの。自分のライフスタイルをきちんと持って、人生の夢や芸術を語れて、時に茶目っ気たっぷりの大胆なアプローチで世間の演出家たちをあっと驚かせ、写真家としても劇作家としても世間に認められている。映像的なセンスを持っていて、それでカネを稼ぐことができる。そんな男がつまらないなら、おもしろいやつなんていったいどこにいるんだ」
言い聞かせるように悠士は言った。誰に? もしかしたら美樹本にではなく自分自身に。
「自分の好きなライフスタイルで暮らしたい。きっとマリアさんはそう思っているんだろう。きっと彼女は、本心を言えば、今はもう芝居が嫌い。だから美樹本さんの演出スタイルや映像センスなんてもうどうでもよくなったんだ。派手好きな女性だから、心を感動させる夢やイマジネーションなんかよりも、お金をつかって派手にバンバン遊び歩く即物的な現実の生活でないと満たされなくなったんだろう。つまらないのはマリアさんの方じゃないか」
愛に裏切られて、自分を傷つける人間を見るのはもうまっぴらだった。悠士は勇気がほしいと思った。人を勇気づけられるだけの勇気が。
「おれは、愛は、人生は、冒険であると思っている。どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……。冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も。
マリアさんはわかっていない。自分の環境が整ったときに、自分の望む人と、自分の望む生活スタイルで……そんなことはありえないんだよ。先は見えない、予測できない、そんな中でおれたちは一つ一つ決断している。生活の変化を決意するのも博打、変化を見送るのも博打。おれが今ここにこうしているのも、博打のタイミングに飛び込んだり、見送ったりした結果だと思うんだ。
劇団に飛び込んだのだって博打だった。どの劇団に入ろうか、それも博打。どんな生き方をしようか、それも博打。あの人が好きだけれど結婚しても幸せになれないかもしれない、それも博打。じゃあもっと別な人にしてみようかな、それも博打。別れないことだって別れることと同じくらい博打だ。どんなに安全牌に見えたって、意外とそうじゃないことをおれは知っている。どんなに頭の中でいいことばかりしか思い浮かばなくたって、そう想像どおりにはいかないことをこれまでおれは何度も痛い目にあって思い知ってきた。だけどまだマリアさんは現実に痛い目を見ていない。育った環境が恵まれたすぎたせいだろう。失敗が、反省が、あの人には足りないんだ。
先は見えない、予測できない中で、おれたちはひとつひとつの決断をしていく。時の流れの中で、たった一度しかない、やり直しのきかない人生を。
この世界では、何がどこでどんなふうに絡み合うか誰にもわからない。ほんの微妙なものでさえ全てが回り巡って自分にかえってくる。先の見えないことに対して選択をしていくって本当に難しいことだ。
条件は変えられるけど、人は変えられない。また再び誰かを好きになるかも知れないけれど、同じ人ではないわけだよね。
前の人の短所を次の人の長所で埋めたって、前の人の長所を次の人はきっと持ちあわせてはいない。結局は違う場所に歪みがでてきて食い違う。だから人はかけがえがないんだ」
美樹本がいたから、今の自分たちがいる。だから悠士は自分の言葉で美樹本に立ちなおってほしかった。
あの母親でさえ今のおれができあがるために必要だったかもしれないのだ。顔も知らぬ、名前も知らぬおれの本当の父親でさえも。
「おまえはそっくりだなあ、おれの古い友達と。あいつに言われているみたいだよ、本当に」
美樹本は目の前の悠士を酒に濁った目でじっと見つめた。誰か違う人の面影を悠士の顔に見るかのような顔をして。
瞳の奥で遠く過ぎ去ってしまった青春時代のことを、思いだしているのかもしれない。
第十六章
千景の過去と母の祐希の過去が重なった。二人はあまりにも似すぎていた。ひとつだけ違うことは、母は死を選び、千景はひたすらに明るいことだった。
しかしその明るさが逆に悠士の心を苦しめた。なぜ母はおれを置き去りにして自ら死を選んだのか? その答えはまだ出ていない。
少年の日から今日までたったひとつのことだけを自分は求めてきたのかもしれない。自分が自分のままで生きてゆくことを、ありのままで肯定されることを。
その気持ちは千景も同じだったのだろう。それをわかってやれなかった。だからこんなことになってしまったのだろう。
千景が旅立とうとしている。うつむいて、千景は悠士を見ようとしなかった。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
悠士にはわからない。
光を求めていたのに。どうしてうまくいかないのだろう。闇のカードばかりが配られて、どんな好勝負ができたというのだろう。
深夜の海辺。街灯の下で悠士は語りかけた。街灯なしには何も見えない夜の世界に包まれて、二人のこと以外なにも見えなくなる。
「不思議だね人生って。運と縁の重なりあったものだ。自分で切り開くだけでもないし、周りの環境だけでもない」
千景の叔父は精神科医なのだという。身近な血筋にそういう人がいるのか。千景の夢に見通しがあることを感じないわけにはいかなかった。
「暮らしを親に左右されて、その場所から抜け出るのにおれはずっと苦しんだ。辛い記憶が体のどこかに今も残っていて、いつしか本当に同じようにゼロから自分を組み立てようと必死な人間しか、心が受け入れることができなくなってしまっていた」
路上の二人というのは微妙な距離感だ。かつては熱い抱擁を交わしたこともあった。しかし今、いつでも千景は自分の意思で歩き去っていくことができる。そして悠士にはそれを止めることができないのだ。
「愛情の足りなかった人は不幸のくじを引きやすい。なかなか幸福や安定にたどりつけない。知らない場所には辿りつけないからだ」
千景が歩き去ってしまうことにおびえながら悠士は話し続けた。おれのような生いたちでなかったのなら、二人はうまくやっていけたのだろうか。そんなことを悠士はずっと心に問いかけ続けている。
「他人の評価なんてどうでもいいでしょ。大切なのは自分がどう感じ、何を選ぶかだよ。過去を紐解けばすべての謎が解けると思うのは間違いだよ」
不倫していた時は、そんなふうには言わなかったはずだ。
その言葉を悠士は飲み込んだ。
「先が見えないから人生は楽しいと言う人がいるけれど、楽しめている人ばかりじゃないよね。楽しめているのは先に明るいもの、積み上げるものばかりを見ている人たち……その先に別れるものや失ってしまうものを見ているとなかなかそんな境地になれない。人はなかなか今を生きづらい」
言葉が途切れたら、ふたりはそこで終わってしまう気がした。だから悠士は話しつづけた。
「おれの母親が、そうだったんだ。でもおれは母と違って、いつも仲間と笑って楽しみながら力いっぱい生きていきたいと思った。今ここで命を燃やして、渇いていて、ヒリヒリして、すべてを賭けて真っ赤に燃え上がる。そんな日々が毎日続くようにと願ったんだ。
自分で選んだ道なのに、辛抱とか鍛錬とか茨の道とか表現するのは何かが違う気がするんだ。
何かをやろうとするときにおれは失敗をイメージしたりはしない。けれどありとあらゆることにはそれぞれの人から見た長所と欠点があって、失敗の可能性は含まれている。だからやめておこう。何もしない。概してそういう人たちの方が、世間では分別があると評価される。
おれはサラリーマン社会では生きていけなかった。仕事っていうのはもっと厳しいものだぞって、いろいろ注意されたし、教えられた。楽しんでやるなんて不謹慎だって言われた。
でもそんなことをしてうまくいったためしがないんだ。心が暗く閉ざされるだけじゃないか。
会社の人には何度も主張したけれど、どうしてもおれのようには考えられないらしかった。頭から相手にされなかったよ」
悠士は昔のことを思い出していた。いろいろなことがあった。すべてが無駄だったとは思いたくない。
「仕事だってなんだって、その途上で自分にマイナスな意見ならばおれは聞かない。批判は受けるし改善もするけれど、安全を選んで冒険を諦めてしまうような意見ならばおれは聞かない。マイナスな思考は本当に可能性をなくすし、幸せから遠ざかると思うんだ。別に無理をしてプラス思考なのではなくて、自然に自分の伸びたい方向に自分の分をわきまえて常識的な範囲内で向かっていきたい。あの人と話したいなあと思ったら話し、これをしたいなあと思ったら挑戦して少しずつスパイラル状に向上していきたいだけだ。
どうせ難しい。世間は確かにそういう発想なのかもしれないけれど、そんなこと言ったら全ては難しいことばかりじゃないか。可能性を危惧することは一見とても正しいけれど、そんなことばかりしていたら人類はいつまでも同じ場所にとどまって進歩してこなかっただろう。失敗の恐れがあるとか、普通はこうするだとか、人並みに生活できる上でのことならば、そんなのどうだっていいことだ。おれはただ楽しんで向上していきたいだけだ。その方が幸せになれる。決して無鉄砲なわけじゃない。失敗したときダメージが最小限になるように注意はしている。だがそれ以上は考えない。選んだ旅路が楽しいものであるようにと……ただそれだけだ。
人間には性善説と性悪説があるけれど、おれは性悪説を唱える人の方が被害には遭いにくいけれど、幸せを人からもらうのも少ないと思う。そして懐疑は懐疑を呼び、そういう人に囲まれて、その人の説を立証する形になりがちだと思う。
性善説の人は、確かにだまされたり裏切られる危険性は多いけれども、その点だけ注意して生きれば、悪人はその人の周りからいなくなり幸福に包まれてゆくと思う。性悪説の方が一見正しいし立証しやすい。でも真実と幸せとは違う。人生、黙っていたって、プラス思考でいたって、悲しみはやがて必ずやってくる。そのことに身構えたり、あれこれと理屈をこねくりまわすよりも、今、この瞬間に明るいものに向かって一歩を踏み出す方がいいじゃないか」
なにをまわりくどいことをおれは言っているのだろうか。
行くな。たったそれだけのことが千景にどうして言えないのだろうか。
ひとりぼっちの場所に戻りたくはなかった。二人で新しい境地に辿り着きたかった。
防波堤から眺める波は、月に照らされた白い飛沫を夜空に溶かしながら荒くうねっていた。それは故郷の風景を思い出させた。お前など必要ないと叫ぶような荒々しい海、もう遙か遠い場所に来てしまったと思っていたけれど、本当は気がつかなかっただけで、あの海のそばにずっといたのかもしれない。おれは何も変われていないのかもしれない。
「私、どうしたらいいの?」
千景の冷たい言葉が胸に突き刺さった。かつて心から信頼をよせてくれた人をこんな風にしてしまった。これがおれの姿なのだ。こんな世界しかおれにはつくれないのだ。目を閉じて悠士は胸の痛みにたえた。
「ゆがんだ家庭の中、道をそれないように頑張ってきたつもりだったけれど、でもやっぱりいつのまにかおれは歪んでいたのかもしれない。
人が必要とする、人生のコップの中に注がれるべき愛情の必要絶対量は、どんなに意志を強く持っても、どんなに他に楽しみを見つけても、どんなに強がって諦めたふりをしていても、どんなに友人に励まされても、どんなに未来に夢を馳せても、確実に所要の分量が存在して、どんなにごまかしても足りない分量を必死に補おうとしてしまうんだ。砂漠があっという間に水を吸い込むように、渇望していた分だけ、あたえた方が驚くほどに、愛情を見つけた時には相手に過剰に要求してしまう。
おれの場合はそれが恋人に出た。他の場所ではなんとか隠しおおせた心の渇望も、心を許した人にはその埋め合わせを無理強いするほどに現れた。まるで愛を試すみたいに。
やっぱり歪んでしまっていたんだ、おれは……」
悠士は下を向いて唇を噛みしめた。様々な後悔が胸をよぎった。
「そんなの人それぞれだよ。みんながそうじゃない。あなたがそうなだけ」
千景が言った。いつも彼女はそう言った。人それぞれ。その言葉を否定したかったんだ、おれは。
『その時々で必要な人って違うでしょ? どちらが大切かなんて較べて言えないよ』
あの時もそう言った。いつも自分を相対化されて、あげく無価値にされてしまう。いつも無力感を噛みしめなければならないつきあいだった。
自分の方が大切だと言ってほしかっただけだった。二人の関係性の中に、彼だけの場所はなかった。心はいつも満たされなかった。
「……おれは、潔くない人にはいくら待っていても本当の愛情はめぐってこない気がするんだ。欲と真髄の望みの区別のついていない人には、本当の満足、つまり幸福は訪れないと思う」
たとえ千景を傷つけてでも、曲げられないこともあった。だがそれがそもそも間違いだったのかもしれない。
第十七章
風が荒れ狂っていた。ぽつぽつと小雨が降り出してきた。
「もう……ダメだね……」
千景の涙声が、悠士の胸を突き刺した。。
「悲しいよ……」
声が震えていた。
「……いろんなこと、あったね」
心臓を握りつぶされたような気がした。
「つらいよ……」
肉声には人の心を動かす何かがある。文字にはできない魔法だ。心がじかに伝わってくる。悠士の心は千景に共鳴して震えた。
「私、あなたと仲よくなれてよかった……」
千景は泣きだした。
「私が苦しんでるの、わかる?」
これ以上、聞きたくはなかった。時間よ止まれ、今ここで。
「嫌いになって、私のこと……。嫌いになっていいよ……」
千景が泣くのを見たのは、これがはじめてだった。
不倫していた時は、彼の愛情に傷つきながらも、うれしくてよく泣いていたと話してくれた。そんな彼女の泣き顔を、悠士は一度でいいから見てみたかったのだ。ようやく千景の泣き顔を見ることができた。だがしかし……おれにはこんな涙を流させることしかできないのか。
「いやだ、いやだよ、離れたくない」
彼女を強く抱きしめた。バラバラに散らばったおのれの体の一部を必死にかき集めようとするかのように。いやだよ、千景、離れたくない。悠士は力いっぱい叫んだ。離れたくない。離れたくない。呪文のように何度も繰り返した。
腕の中に千景の震える呼吸と温もりが確かにあった。それなのにそれを取り戻せないのか。
悲しいのは一瞬だけだよ。
いやだ。いやだよ、千景。離れたくない。離れたくない。
千景の体の中に入っていこうとするかのように抱きしめた。最後まで言わせはしなかった。このままひとつになって、その瞬間に、この人生が終わってもいいと思った。離れたくない。離れたくない。離れたくない。命が爆発して叫ぶ。
きつく閉じた瞼の間から熱いものが噴きこぼれた。二人の旅路をここで終わりにするなんていやだ。離れたくない。離れたくない。
何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ。
眉間にしわをよせて目を閉じて千景も何かに必死に耐えていた。
おれをひとりぼっちにしないでくれ。
どこにも届かない言葉が、ただむなしく虚空に響いて、やがて消えていった。悠士の背中を肩を頭を、手で何かを確かめるように千景は撫でつづけていた。
見てるからね、どんな男になるか、遠くで見てるよ。
腕の中からそっと千景は離れていった。
いい男になるよね。これからもっともっといい男になる。
言葉にならない何かを悠士は呟いた。
千景の唇がかすかに動いたが、声はもう届かなかった。千景の立ち去っていく後ろ姿を、悠士はは見ていた。
何もできなかった。ただ見ていただけだった。
第十八章
汗ばんだ鎖骨が真美の体の奥に秘められた骨格を連想させた。薄黄色のタンクトップからのぞく腋。ホットパンツから健康そのものの肌を出して、大きなトートバッグを腕からさげている。眩しい街の中で、悠士は濃い黒いサングラスをかけていた。夜の世界に生きている彼は昼間はサングラスをかけていることが多かった。心の中に擬似的な夜をつくりだしているのかもしれない。その方が落ち着くのだった。
「ここは勤めている会社のおじさんに教えてもらったのよ」
ふたりが紙や紐の専門店が建ち並ぶ問屋街にやってきたのはサイバーショップの商品イメージを明確にし、材料を仕入れるためだった。
問屋街の入口駐車場にはトラックやワゴン車がたくさん停められていた。ほとんどが商用車で、地方からわざわざ買いつけに来ている人もいるようだった。普段暮らしている町にこんな問屋街があるとは知らなかった。故郷の小さな漁港、あの町を飛びだして以来、広い世界で生きているような気になっていたけれど、結局どこで暮らしても身のまわりのことで精一杯で、たいして違いはないのかもしれない。
人群れに躊躇している悠士の腕をとって、真美は問屋街の中に突入していった。古びた埃っぽい問屋街、ふれあう体、人と人。首筋を汗が流れる。耳元で聞こえる商売の声、通行人の声。だが人ごみの中に入ってしまえば外から眺めていたほどにはストレスは感じなかった。まるでお祭りの列にまぎれ込んだみたいだ。カラフルな包装やあふれるほどの商品に包まれて、なぜか気分がうきうきしてくる。まるで舞台監督が大部屋の中から使える俳優を捜しているみたいだ。果たしてこの中のおれはどれだろうか。
「これだけたくさん商品があると、かえって選べないね」
真美は困った顔を見せた。
「どれがいいとか悪いとかいう問題じゃないからね。役者の個性みたいなものさ。キャスティングする側にはっきりしたイメージがないと絞りきれない」
「そうね」
真美はくすっと笑った。あなたはこんなときも芝居を忘れないのね、という笑いだった。
編んだバスケット、きらびやかな光沢を放つ色紙、たけのこの手漉き和紙、わざと色褪せたつくりの綴り紐。真美は色々な品物を手にとってじっくりと見較べている。
「いいセンスだよね。どういう基準で選んでいるの?」
真美のセンスには時々驚かされることがある。彼女の選ぶものは、さすが成功したウェブデザイナーだと唸らされるものが多かった。
「直感だよ。感覚的なもの。言葉で説明するのは難しいなあ」
おかしな質問をするのね、という顔を真美はした。
美的センスとは何だろう。審美眼というものがあるのならば、ぜひ身につけてみたいと悠士は思う。自分のアンテナに引っかかる色はどれだろうか。自分の感性の網に引っかかる形はどれだろうか。商品を手に吟味しながらそんなことを考えていた。最後は自分の直感、感覚、感性を信じるしかないのだろう。それらは知識じゃない。知識なら言葉で説明できるはずだ。作品でしか表現できないものがある。それはこれからおれが書こうとしている芝居の脚本だって同じことだ。
悠士は劇団の新しいをなかなか書き上げられずにいた。アイディアはたくさんあるのだが一編の物語としてまとまりがつけられないのだ。エピソードがたくさんありすぎて交通整理がきちんとできない状態になっていた。どれもこれも捨てがたいエピソードばかりだったからだ。
アパートからほとんど外に出ないで執筆に苦しむ日々が続いていた。それを察して真美が今日は無理やり外へと誘ってくれたのだった。久しぶりの外の空気は新鮮だった。太陽が眩しく、歩くのは気持ちがよかった。身体をつかうと滞っていた血が流れて思考もまた動きだす。頭の中が整理されていく気がする。
「家から一歩も外に出ないのってストレスがたまるよね。外の空気にずっと触れないでいると。私は散歩をするとわくわくして元気がでてくるの」
商品を吟味しながら真美が話しかけてくる。
「悠士は何かを生み出そうとするときに、閉じこもって自分の中から何かを掴もうとするけれど、意欲って意外と自分の内側からこんこんと湧いてでてくるものじゃなくて、まわりの人や世界からもらってくるものなんだと私は思うの」
次はこっちのお店を見よう、と真美は悠士の腕を取ってぐいぐい引っぱっていく。汗ばんだ肌と肌が触れあう。
「人間って不思議だよね。私ね、ひとり暮らしをはじめたとき、どうせひとりなんだから毎日いちいち片づけなんかしなくてもいいや、その方が時間を無駄にしなくてすむ、なんて思っていたの。だけど大間違いだった。きちんと片づけないと心が引き締まらないし、結局、その方が却って万事効率が悪くなっちゃうってことにある日気づいたの」
悠士が取りかかっている脚本も、一度すべてを捨てて、そこから再構成するふんぎりがつかない限り、まとめあげることはできないのかもしれない。
「私はね、おいしいものを料理したり食べたりしておしゃれに生きてみたいの。美しく生活するってステキだよね。とてもまだ私は『美しく暮らす』域には行っていないけれど、その手前の『楽しく暮らす』ことはクリアできてる気がするんだ。生活って楽しいよね。一日中寝ているのも楽しいし、お芝居も楽しい。映画も、外出するのも楽しいし、旅行も楽しい。料理も、お気に入りのインテリアの中で暮らすのも、自分好みの服、アクセサリーを選ぶのも、運動するのも、毎日を自分で好きに使えることは本当に楽しいよね。
でもそれは健康だから。そして大好きな人がいるから」
ヤシの葉の紐や、南国の花や貝の模造品などを手にとって悠士に見せて意見を聞きながら、真美は話しつづけた。
「私はね『美しく暮らす』ところまで行きたいなって思ってるの。だけどなかなか難しい。だって楽しい毎日だけでかなり幸せだから、その上、さらにって難しいの。『美しく暮らす』ってもちろん楽しい生活がベース。その上に『自分に怠けない』という一文字が加えられたなら、私にとって人生はとても充実したもので、胸をはることができるものなんだ」
真美は悠士の顔を見てほほ笑んだ。君のまっすぐさがまぶしい。
「そうして『美しく暮らす』ことによって心が充足されたなら、あとは満ちたりたものを外に向けてひろげてゆきたい。それができれば人に対しても物に対しても自分としての可能性がひろがってゆくと思うの」
真美と話しをしていると、自分の心にある何かが揺さぶられているような気がした。眠っている感情や記憶の一部を揺り動かされるような感じがするのだ。
他人と違和感なく共鳴できる、人間同士そういうことは滅多にあることではない。それはこれまで生きてきた中で痛いほど感じてきたことだった。なかなか人と人とは合わないものだ。
「聡明なネズミも愚鈍なクジラにロマンで負ける……あなたが勧めてくれた湊誠一郎、読んでみたの。とってもすてきだった。あの物語のヒロインだって波に恋して海のかなたに夢をはせても、男ほど命をかけて海に溶けようとする気持ちにまではなれないんだもの。それが切なくて泣けた。作者はどんな人なのかしら。どんな生き方をしてきた人なんだろうね?」
真美が湊誠一郎を認めてくれたことが自分のことのように嬉しかった。千景は湊誠一郎なんか読む意味あると言ったのだ。本を借りようともしなかった。
いろいろな品物を手に取ったが、その日は結局何も買わなかった。
「時間を置いてまた来てみようよ。もう一度来て、冷静な頭で同じものがいいと思ったらそれを選ぼう」
真美の言うとおりだと思った。ふたりは問屋街をあとにした。眺めただけでも充分な収穫があった。なによりもひさしぶりに原稿を離れて外を歩いてリフレッシュされた。人間、やっぱり歩かないと駄目みたいだ。
アイデアばかりで、それを実現するよりも先に次のアイデアを思いついてしまう悠士には、真美はまたとない堅実なパートナーだった。生活に根ざした真美は、悠士よりも遙かに現実を生きていた。理想に駆け上がろうとする悠士を、見つめ、追いかけ、ときに推進力をあたえ、ときに墜落しないように支えてくれた。もやもやとしたイメージを空に描くことはできるが、なかなかそれにカタチをあたえることができない彼のイメージの翼には、真美のような大地に根を張ることのできるパートナーが必要なのだった。
それにくらべて……悠士は千景のことを思いだした。あの人はそうではなかった。
人の心は謎だった。その中で生きることは、海図を持たずに大海原を行くようなものだ。遭難してしまう人も多いだろう。
結局のところ、本当に知らなければならないのは、人の心ではなく自分自身の心なのだろう。自分の心がわからないで、どうして他人の心がわかるだろうか。千景の心や、ましてや心を病んで自ら命を断った母親の心などわかるはずもない。そんなおれにどんな物語が書けるというのか。
湊誠一郎の海洋冒険小説の中で、波間にただよう小さなボトルの中に入っていたメッセージ。主人公を旅へと誘った、海の彼方から届いたメッセージの本当の意味は結局『おまえは何者か?』という問いかけだった。主人公は誰かに呼ばれたからではなく、自分の心から湧きあがってくる問いかけに自ら答えるために旅に出たのだ。自分は何者か? それだけが闇の海を照らす灯台の光となってくれるのだろう。
インターネット・サイバー商店『ココ・ウェーブ』。そこでどんな幸福のイメージを、どのように表現するか。彼にぼんやりとしたイメージはある。手にとった人に少しでも楽園の海の幸福な雰囲気を感じてもらえるように、贈り物はヤシの葉の紐で結び、南国の赤い花と貝をちりばめて届けよう。送り主からのメッセージはたけのこの手漉き和紙に毛書体でわざと古めかしい印刷をしよう。表現には工夫を凝らして。あくまでも売るのはブツではなくロマンだ。
新しい事業を立ち上げて悠士がつくづく感じていることは、ひとりの力でやれることには本当に限りがあるなということだった。自分ひとりでは商品制作も、ウェブページのデザインもできない。やろうとしていることに対して本当に無力だった。それなのに多くの人たちが手をさしのべてくれる……彼の創り出した夢に、というよりはむしろ対外的な顔となってくれている真美のけなげさ、一生懸命さに対して。真美のひたむきな姿が多くの人の心を打ち、たくさんの協力者が次から次へと現れてくれるのだ。
『国内だけじゃなく、海外向けの英語のウェブサイトもつくって、世界に発信してみたらどう?』
真美の一言がきっかけになって、英語のウェブページもつくることになった。英語の堪能は人は……身近に思いあたる人はひとりしかいなかった。翻訳は純粋にビジネスとしてマリアに依頼した。美樹本との離婚の連絡役を引き受けていたため、定期的に悠士はマリアと会っていたのだ。マリアは快諾してくれた。「ただでいいわよ」と言われたが、正当な支払いをするつもりだった。身近な人の好意を当てにしないことは、第一のルールだった。
「おれはね、誰もが生まれて真っ白な時に願った夢が叶う人生を送るべきだと思うんだ。自分もそうなりたいし、周りの人たちにもそうであってほしい。そして最近、それは叶うような気がしている。そのやり方がわかってきた気がするんだ。
自分のままで成功できたらとてもすばらしいことだ。けれどうまくいかないなら現実に適合するように夢は変えなきゃ……それは妥協するってことじゃない。ただ適合させるだけ。
望みは叶うんだ、だけど形を少し現実に適合させるために変える。夢は本髄を残し枝葉は社会に適合するように加工する。周囲にはわかりやすいように表現を工夫する。それが夢を叶えるってことじゃないかな」
真美と喋っていると、自分でも思ってもみなかった言葉が口から出てくることがある。それほど彼女がいい聞き手だということだろう。
第十九章
「……事実って自分の体験やそれに伴う感情が残っているととても見えにくいものだよね。気持ち以外にも状況というものがあるし、人は状況や相対的に担わされる役割によって、自分の気持ちいい状態ではいられなくなってしまうってことがあるの。こんなこと言いたくないと思っても立場上言わざるをえなくなってしまったりとか、ね」
居酒屋に入って、悠士と真美はビールを飲みながら話しをしている。美樹本とマリアの離婚話が、話しのきっかけになった。真美ならば、千景の心の謎を、言葉にして解き明かしてくれるかもしれない。そんな気がして、彼は千景とのことを喋ってしまった。異性にはわからないことでも、同性ならばわかることがあるかもしれない。
「なんなの、あの人って。人間、こうやって生きるぞって力んでいるときには、見当違いの方向に突っ走ってしまっていることも多いんだよ。一生懸命すぎると周りが全然見えないし、勘違いな方向に暴走していることに自分では気づけないし、そもそもそんな時は反省なんてしないから……」
千景の話しを聞いて真美は憤慨していた。悠士の感情は複雑だった。
やっぱり歪んでいたのは千景なのか……。
それともおれは真美にそう言ってほしいだけなのだろうか? 自分の気持ちがよくわからない。
「彼女の詳しい事情は知らないから、はっきりとは言えないけれど、いるんだよねえ、好きになってくれた気持ちに応えたいって、誘われれば誰とでも寝ちゃう女の人って。拒否するのが失礼とでも思っているのかしら。
でもね、女はカラダを許せばいくらでも異性と関係がもてるんだよ。欲があるから男の人はいくらだって近づいてくるし、やさしくしてくれるわけでしょ?
でもそれって人として本当に誇りのもてるつきあいだって言えるのかな」
本当に歪んでいるのは誰なのか。千景か、マリアか、自殺した母か、それともおれ自身かもしれない。
「フリー同士で一対一で真剣に向かい合っていたら、この先ずっとこの人と一緒なんだっていうところで、期待と幻滅、欲と葛藤が絶対にあるはずだもの。
でもその場だけ楽しければいい、あとの責任は負わなくてもいいっていうスタンスだったら『ずっと』じゃないから、相性をつきつめなくたっていいじゃない。面倒なことはその場から流してしまえばいいんだからさ。差し向かいの真剣なつきあいじゃないから関係が続いただけかもしれないってことが彼女にはわかっていないんだよね」
悠士は何か言おうとしたが、言葉にならなかった。
「遊びって所詮は相手に求める感情のレベルが低いから意外とカンにさわらないものよ。本来、我慢できないものも、一時的な関係とわりきれば我慢できてしまう。毎日会うわけじゃないんだし、その時だけのつきあいなら格好つけていいところだけを見せていられるでしょ。徹頭徹尾つきあうつもりがないから我慢できてしまえることなのに、それを『私のどんな姿をみても愛してくれる』『とても相性がいい』と錯覚してしまうのよ、わかっていない人は」
真美の言葉になぜか悠士は自分が責められているような気持がした。
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「不倫マジック?」
「好きと愛とは似ているようですごく違う。私にとって愛とは、これから先をともに歩んでほしいっていう欲があるかないかの差。
愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていくおもしろみ。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない。ぜんぜんわかってもらえなくては、やがて気持ちもしぼんでしまう。人間、どんなに献身感があっても、全くの空振り肩すかしでは気持ちもやがて冷めてしまうものよ。一人芝居では人生は満足できないものなの。なにげなくお互いの位置、意味を知っている……これがとてもとても大切なことなのだと思うの。
私はできることならそんな風に結婚の本当の意味を知っている人と歩んでいきたいなあ。結婚を冒険と思っている人と、牢獄と思っている人と、たぶん両者に同じ出来事が起きたとしても、それについての感想・判断・意味づけはそれぞれ違ってくるよね。
はじめから結婚は不自由、束縛と思ってる人は、結婚の本当の意味も素晴らしさもたぶんわからないんじゃないかな。
お互い自由な精神でありたいと願い、けれど二人で生きる価値も知っている者同士であれば、そして相性がよければ、独立した精神を持ったまま歩み寄る醍醐味もわかちあえる理想のパートナーになれるんじゃないのかなあ。もちろん努力が必要だけど、その努力がまたいいと思えるの」
真美の言いたいことはわかった。けれどおれが求めているのはそういうことではないのだ。
結婚が誰を幸せにしただろうか? 美樹本を? マリアを? 千景を? 千景の相手の不倫男を? 母親の祐希を? おれの本当の父親を?
千景は今、どこで何をしているのだろうか?
喪失感と、嫉妬のような感情に、悠士は今も苦しめられていた。
第二十章
夏の雨が、坂の町に降りそそいでいた。アスファルトを濡らした雨が坂を濡らしながら駆けくだっていく。海からの夜霧が風に運ばれて視界が白くなる。潮の匂いがただよう。
「話を聞いて、自分が大事な女性が多いなあと思ったなあ。いい意味ではなく、ね」
真美と悠士は一つの傘に入って歩いていた。濡れないように寄りそって歩いた。
「自分の損得が主軸に来すぎるというか、ズレた意味で自分中心というか、相手の不具合には敏感なくせに自分の不具合は不問というか……。
妥協や食い合う関係は、もううんざりだなあ。私はもっと真実に『自分』を生きてみたいと思うの」
雨が体を冷やしていく。思考が沈静化する。
「なかなか人は変われないよね。そんなに簡単に心が変えられるなら、個性、性格なんてないってことになっちゃうもの。心こそ人なのだから。そう簡単に人は変われなくて当然なのかもね。
でも、そんな中でも、自分ばかり大切な人は何が起きてもよい経験だったって自己暗示しちゃうのよ。自分を正当化するために、起こった出来事を自分にとってよかった事だったとすべてポジティブに捉えて、そして結局は変われないんだよね。はじめから自己肯定してかかっているわけだから、変われるわけがないのよ」
そんな言葉はほかの人からは聞いたことがなかった。自ら命を絶った母の心の謎の鍵は、あるいは目の前の真美が握っているのかもしれない。
「自分が同じ経験してはじめて人の痛みがわかるようになったと千景さんは言うけれど、同じ経験なんかしなくても、わかる人にははじめからわかるものなんだよ。マザーテレサやナイチンゲールは差別や貧困や病気や怪我を自分も体験をした後で、ようやく人に優しくなれたわけじゃないでしょ?
逆に同じ痛みを経験しても、根が自分中心の人は、やっぱり自分可愛さで自分のことばかり優先するんだよ。だから結局は変われない。経験値というよりも、私は性格の問題だと思うなあ」
倉庫街を抜けると、何艘ものヨットが係留されている波止場になる。白い帆が霧の中にうっすらと浮かび上がっている。桟橋の先には巨大な木杭の上に建てられた水上レストランがあった。
「愛って何だろうね……」
真美は呟いた。かつてあのレストランの上で夢のような時間を悠士は千景と過ごしたことがあった。今となっては夢のようだ。
「おれにはわからないよ」
千景とうまくいかなかった自分にそんなことがわかるはずもない。
「いくら人を愛しても、決して自分自身まで相手に差し出してしまっては駄目だと私は思うの。どんなに仲のよい人間関係でも自分の生き方まで差し出してしまっては関係が崩れてしまう。自分の核のところ以外では相手を許し、妥協し、相手に合わせることも必要だろうけれど、自分の本質のところまでいつか理解される日を期待して差し出してしまっては駄目だと思うの」
真美の小さな身体には凛としたプライドがみなぎっていた。それがまぶしい。
「大切なのは、今、またはこれから、そばにいてくれる人に対し、自分を大切に保ち、自分は自分でたくましく生きる努力をし、過去の失敗から自分を見直し、二人で無理なく気持ちいい過ごし方をすることだと思うの。
昔は人と別れるたびに苦しんだり、どうしてそうなってしまったのだろうと一生懸命に反省し理解しようとした自分がいた。けれどある程度まで反省したら、後はもう考えたってしかたがないことなんだと今は思っているの。考えて、わかって、うまくいくぐらいなら、きっともっと人は簡単に理解しあえるし悩みもないはずだよね」
悠士は背中を丸めた。おれは真美にくらべて身体だけが大きく、中身は何もない。おれの心には何かが欠けているんだ。
「お互いの愛情、相性が合えば、一緒に過ごしていけると信じて、あとはあれこれ頭で考えるよりも、実際に相手にその時間の分だけ優しく愛情をかける方がいい。秘密はただそれだけのような気がするの」
立ち止まって真っ暗な夜の海を悠士は眺めた。どうすれば真美のようになれるのだろう。海の向こうからかすかな風が吹いてくる。
「闇はある。けれどもそれを乗り越えたところで心を自由に解き放って輝きたいの。私は生きることを肯定したい」
真美が眩しかった。
第二十一章
悠士が芝居を描くときには、まず流れるような映像が頭の中をよぎるのだった。それは包み込むような「流れ」だったり、駆け抜けるような「流れ」だったり。カメラ目線で動いているイメージを彼はとても気に入っていた。動いているものを瞬間「捉える」という感覚も、流れているものを捉えるために違った角度から「更に流れて捉える」という感覚も気に入っていた。
氷を水に入れたときの溶け出した「際(きわ)」の危うい状態とか。泣き叫ぶ狂気から諦めにも似た限りない優しさに変わる人間の「際」の表情とか。満月が闇夜に溶けてゆきそうな朧げな輪郭の「際」とか。カクテルグラスに挿した赤い花がライティングであたかも自らが発光しているかに錯覚させる「一瞬」とか。限りなく薄いガラスが絶妙なバランスで存在していたのに割れてしまった「瞬間」とか。はじめて好きな異性と触れあったときの戸惑うような期待と不安の混ざり合った「刹那」とか。
抱きしめてしまった後と触れる前の感情は全く違う。水と氷は違う。それらは静止して確立しているもの。
でも移行していこうとする「際」「瞬間」は決して静止していない。その「際」「一瞬」は決して定義づけができない。名づけることができない。その感覚の当事者ですら意識できない流れ……でも確実に存在しているもの。心に強烈に焼きついているけれど、捕らえられない一瞬。何故ならそれはすぐに次の確固たる状態に「流れて」しまうから。
さまざまな感情、状態、状況が混じり合ったその一瞬を、とても幻想的で色気があると感じていた。とても色っぽく、とても儚げ。錯覚にも似た危うい時間。そんな一瞬一瞬に、悠士はとても魅力を感じていた。
そんな「流れるロマン」を描きたい。いつも悠士はそう思って、机に向かっている。
「ねえ、聞いてる」
受話器の向こうで真美が尋ねた時、はじめて何も聞いていなかったことに気づいた。脳内の幻想を追いかけるのに夢中だった。自分の部屋で次の芝居の台詞を書いていたら、真美から電話がかかってきたのだった。
いや、そうではない。原稿を前にして、千景のことを考えていたのだ。脚本はぜんぜん進んではいなかった。虚構の世界に悲しみを移しかえることで、どうにかこうにか悠士は生きていた。書きたいことは、それしかなかった。
「あ、ああ。それでいいよ。全部、きみにまかせた」
美樹本の引退の決意は、どれだけ懇願しても覆らなかった。生まれ育った国に戻って、のんびりと余生を過ごすのだという。そんな生き方もありかもしれないと周囲のみんなも思いはじめていた。。
「頑張ろうね、悠士」
真美は言った。頑張る? なにを? なんのために? 誰のために?
悠士は自分に問いかけた。
どうしておれは生きているんだろう。なんのために生きているんだろう。千景が自由であるようにと願ったのも本心、束縛したかったのも本心だ。
「もちろん頑張るよ」
悠士は自分に言い聞かせるようにして言った。
「だけど、おれは頑張るのと犠牲にするのとは違うと思っている。おれは自分をより豊かにするために頑張りたい。自分の中の自分のために頑張りたいんだ。自分をいじめるような生き方はもうしたくない。頑張っている時間すらも愛したい」
何をしても、何もしなくても、どうせ同じこと。そんな考え方もある。その気持ちがわからないわけじゃない。だけど、悠士はやるだけやってみようと思った。泣いてばかりいた、あの頃とはもう違うのだから。
電話を切ると悠士は書棚から一冊の本を取り出した。指で文字を読むように表紙のタイトルを撫でた。窓辺に椅子を運んで、湊誠一郎の本を開いた。
本を開くことは、冒険の旅に出るようなものだ。
美樹本英児のさよなら公演のための脚本を書くにあたって、悠士ははっきりと湊誠一郎を意識していた。湊の本を読んでいると、まるで目の前に湊がいて対話しているようにさえ感じることがある。これは自分のために書かれた本なのではないか。そう思うことさえあった。湊に憧れて、湊を追いかけて、ここまで来た。湊がおれのロマンをつくったのだ。
世界に心を閉ざした母親が、ただ一人、愛読していた作家。おれの世界をつくりあげた男。湊誠一郎のロマンの世界に、自分の世界を重ねてみよう。
失敗したっていいんだ。美樹本さんもそう言ってくれた。たとえかなわなくても力いっぱい挑戦すれば、それで尊敬する作家の偉大さを本当に知り、その業績を心から讃えることができるだろう。不完全燃焼の嫉妬のような悪感情で苦しみたくはない。ねじ曲がった人生をおれはもう送りたくない。胸に爽やかな風が吹き抜けてくれればそれでいい。
おれとは何だろう。おれとは、叫びだ。
千景が教えてくれた。多くの人たちにおれは心をもらった。その心を誰かに返せただろうか。誰かの心に、おれの魂は生きているだろうか。
もう一度、机に向かうと悠士は原稿に向かった。作品の主人公である写真家は、もちろん恩師である美樹本をイメージしていた。
写真家『そのアフリカの呪術師は言ったんだ。人の世にいつもはびこるのは『呪』や『怨』だと。確かに『呪』や『怨』の感情は、人間そのものといってもいい、普遍的な感情かもしれない。
けれどそれと同じぐらい不変の光を放つものに『生きる希望』や『夢』があるとぼくは思っている。
現実が辛かった幼い頃、『生きる希望』や『夢』は、ぼくの荒涼とした心をいつもギリギリのところで救ってくれた。その頃ぼくは心では安定した幸福を求めているのに、同じような辛い境遇の人間としか本音のところでは共鳴できない、そんなふうだった。『怨み』と『夢』が心の中に共存していた。
だけど安らかになれた今、『希望』や『夢』は変わらずに求めつづけているけれど、『呪』や『怨』はもう望まないな。
気持ちはとてもわかる。その時の心境も、状況も、そこから逃れる一手も。ぼくと無関係な世界だとは思わない。
怨みも妬みも全てを含めて人間だもの。ぼくはいろいろな感情のつまった雑多な人間だもの。そういった気持ちを認めるし、へんな言い方をするけれど『評価』もする。だけどそのフィールドを求めたり、その中で自分を抱きしめて自己満足にひたる気持ちは今はもうないなあ。
人がおちいりやすいのは『怨み』や『嫉妬』だけれど、不変かつ普遍に求めているものは『生きる希望』『夢』だと思うんだ。それは自由と幸せを求める心そのものだもの。傷ついても前に進んでいく力の源だもの。
みんなそれぞれ自分が人生の主役だから。自分なりのアレンジで『生きる希望』や『夢』をかき立てられた時に、その人の人生が輝くんじゃないかなあ』
美樹本にも、マリアにも、千景にも、真美にも、そして自分自身にも。生きることへの恋と残響を、作品に込められたらいい。
第二十二章
失敗した。すべてが、終わった。
悠士は力なく椅子に座りこみ、うなだれていた。
控え室に戻ると、劇団のみんなが彼を避けるように遠巻きに見ていた。舞台の上で何が起こったのか、今でも悠士は理解できない。どうして間違えたのか? そしてどうして客席から拍手がわき起こったのか?
たった今、美樹本英児の引退公演が終わったところだった。
大切な舞台だったが、悠士がひとりでぶち壊してしまった。みんなのこれまでの稽古をひとりで台無しにしてしまった。魂を込めて書いた脚本もすべて無駄になった。
周囲からの冷たい視線が針のように突き刺さる。聞こえよがしの非難の声が聞こえてくる。何をいわれても仕方がなかった。本番中になぜおれはあんな失態をおかしてしまったのだろう。
芝居の途中、悠士は演じている役柄から、素の自分に戻ってしまった。自分に戻った彼は舞台に立ちつくし、美樹本への思いが涙と一緒に溢れ出てしまった。捨て犬同然だった自分を拾ってもらった昔のことを思い出した。演技を忘れ、そして完全に芝居の流れをぶち壊してしまった。しかしそれがかつて経験したことがないほどの拍手喝采をもらうことになるとは。
誰も予想しないことだった。そのことに劇団のみんなは戸惑っているようでもあった。演技とはいったいなんなのだろうか。そんなことを考えざるをえなくなるようなかつてないほどの大喝采だったのだ。
大失敗だったが、大成功だったともいえた。
観客の歓声に応えるように美樹本は舞台の上にあがり、お別れの手を振った。その姿に古くからの劇団のファンは大感激していた。これ以上のフィナーレを想像することができないほどの最高のエンディングになった。
劇団のファン限定の無料の招待公演だったために、芝居そのものの出来に苦情を言えない面もあっただろう。招待された観客は皆、今回の公演の意味を知り抜いていたし、悠士の涙に共鳴してくれた。もともと劇団に好意的な招待客ばかりであったし、美樹本の老いに自分の老いを重ね、美樹本の人生の引き際に自分の人生を重ねて、彼らも本心では泣きたかったのだろう。その引き金を悠士が引いたのだ。観客は皆はじめから美樹本と涙のお別れの会ができればそれで満足だったのである。
だが悠士がみんなの舞台を台無しにしたことにかわりはなかった。ましてや今回の芝居の脚本は、悠士のオリジナル処女作でもあったのだ。
その舞台は、失敗に終わった。
第二十三章
美樹本が控え室にやってきた。
周囲を見回して劇団員たちの様子を眺めた。そして悠士のところに歩み寄った。うなだれて座っている悠士をしばらく見下ろしていた。
そして悠士の肩に手をかけた。それでおしまいだった。感想も叱責もおつかれさんのひと言もなかった。
「悠士、今日はお前に紹介したい男がいるんだ。おれの古い友達だよ」
そして扉の向こうに「おい。入れよ」と呼びかけた。
その男が部屋に入ってきたとき、むっと獣の臭いを嗅いだような気がした。
誰かがアッと驚いた声をあげた。劇団員たちにざわめきがひろがっていく。スローモーションで見るように、その男はゆっくりと彼に向かって歩いてきた。
まさか……まさか……。
最初は見間違いかと思った。美樹本のすぐ隣に、無精ひげの大きな男が立っていた。見覚えのある男だった。幼い頃から読み親しんだ本の背表紙にはこの男の写真が載っていた。つい先日も、今回の脚本を書きあげるために、男の本を読み返したばかりだった。
でも、まさか。
いいや、見間違うはずがない。
湊誠一郎。
幼い頃のなつかしい思い出が悠士の胸によみがえってくる。おれの心を鷲掴みにして未来にふれた男。おれの胸に夢と冒険のロマンを吹き込んだ男。
あまりの出来事に事態がのみこめない。もとはといえば、今日の公演で悠士が混乱のあまり芝居を忘れたのは、客席にこの男の姿を認めたせいでもあったのだ。やはりそうだった。見間違いではなかった。
だがなぜ控室に来るのだ。この世でおれが最も憧れる作家がなぜこんなところに来るんだ。人違いじゃないのか。いいや、間違いない、おれにはわかる。いつか出会えると思っていた。心のどこかで。
湊と自分だけがスポットライトを浴びて、ふたりきりでこの場にいるような不思議な感覚がした。湊は悠士をじっと見ていた。
「もちろん、知ってるよな?」
美樹本の問いかけに、湊の顔を見上げたまま悠士はうなずいた。知らないわけがない。
「どうして……」
「この世界のおれの古い友達さ」
大きな体躯。尖った頬。鋭い目。針金のような髪には白髪が目立っていたが、間違いない。湊誠一郎だ。おれの憧れの。
「今日は朝からこの瞬間が楽しみでうずうずしてたんだ。悠士、今日こそ湊をおまえに紹介してやるよ。これから三人で飲みに行こう」
美樹本からそう言われたとき、悠士は自分の身に起こったことが信じられなかった。芝居の失敗で落ち込んでいたことなど吹き飛んでしまいそうだ。あれほど痛かった周囲の冷たい視線もまったく気にならない。悠士はあわてて準備に走った。
湊誠一郎と一緒に飲めるだって? 今日がこんな日になるなんて、誰に想像できたというのだろう。
第二十四章
「いろいろ教えてやってくれ。どうやらお前に傾倒しているようだから」
湊があまりに顔をじっと見てくるので悠士は恥ずかしくなる。これが作家の観察眼ってやつだろうか。大作家の目におれはどんな人間として映るのだろう。
湊は麻のシャツから日に焼けた太い腕を見せていた。白い体毛が生えているのを悠士は見逃さなかった。
美樹本は二人を会わせたことに満足しているのか、うれしそうな顔だ。
「おれと湊とは、昔おなじ劇団にいたこともあったんだ。いいライバルだったんだよ」
「なんで今まで黙っていたんですか。人が悪い」
美樹本に困惑の目を向けた。悠士が湊誠一郎の世界への傾倒を熱く語るのを、美樹本はいつもニヤニヤしながら聞いていたのだった。どうりでおかしな顔をすると思った。古くからの友人だったのか。
「いつかいきなり会わせて、驚かせてやろうと思っていたんだ」
いたずらっ子のような顔をして笑った。昔の美樹本が戻ってきたようで悠士はうれしかった。
「これからはおまえが美樹本の劇団の脚本を書くそうだな」
湊の言葉に悠士はこくりとうなずいた。だが今日の公演の失敗で、その道は閉ざされてしまったかもしれない。これからどうなるのかはわからない。
「おれの世界を舞台で表現したいと言ったそうだな」
湊が喋ると、唇を覆い隠すような無精髭が一緒に動いた。
「美樹本さん、そんなことまで喋ったの?」
悠士はにらんだ。愉快そうに美樹本は笑っている。
湊誠一郎が冒険作家としてイマジネーションだけではなく、実体験をもとに作品を書いていることはよく知られていた。作家というだけではなく冒険家としても世間に認知されていた。
かつて冒険雑誌の特集写真で見た湊は、真っ黒に日焼けした顔から鋭い眼光が人を射るように光っていた。筋骨隆々とした頑強そうな体躯。針金のように硬そうな髪と無精髭。孤独な獣のような強烈な印象だった。これがあの作品群をなした男なのか――雑誌の写真を食い入るように眺めたことを悠士は思い出した。いつか自分もこの人のようになりたい、そう思ったものだった。
今、目の前の湊は長年の潮風にさらされて荒れた肌をしている。まるで荒くれ漁師のような太い五本の指。かつて大海原を旅したことのある作家。若い頃からやれることを極限までやりつくして世間から賞賛を浴びた男。
やりつくした男? 意識せずに過去形で形容している自分に気づいて悠士は驚いた。かつてのイメージと今の湊はどこかが違うのだ。
どうしてだろう? じっくりと湊のことを観察してみる。
白髪。目尻の皺。枯れたような頬から首筋――直感的に彼は思った。この人はどこかを病んでいるのではないか。
どことなく湊からは死の匂いがした。
暗く重いものが湊の体に染み込んでいるような気がする。あるいは長年の冒険で蓄積した疲労が正体かもしれない。
しかしそんな思いは、瞬間、悠士の頭をよぎっただけのことだった。湊に聞きたいことはいくらでもあった。
どうせ何も変わらない、そんな四方から押し寄せてくる虚無を照らす、眩しい南国の太陽のような魂、絶望の向こうにある風景を見せてくれた飛翔――その源にあったのは、目の前にいるこの男の魂だった。
刹那を切りとって永遠とする男。生き方そのものが芸術であり、冒険だった男。悠士がこの世でもっとも影響を受けた男、湊誠一郎。憧れたその人に、とうとう会うことができた。
自分は何かに導かれているのではないか。ときどき悠士は感じることがある。この人とも会うべくして会ったのだ、そんな気がする。幼い日々はこの日のために用意されていたのかもしれない。
不幸から逃避するように幻想の海へと旅に出た。その世界を創った男が今、自分の目の前にいる。
宇宙を流れている何かの力が、おれの中に息づいている。
その流れの中で、これからもおれは生きていく。
第二十五章
シャンデリアが天井に輝き、巨大ガラス窓の向こうには滝が白く流れていた。生演奏のピアノが静かな時間を演出している。超高級ホテルのロビーにマリアはとてもよく似合った。豪華な人目をひく赤いドレス、輝く革靴、舶来品の黒いバックを手にしたマリアを目の前にして、悠士は居心地が悪かった。いつものシャツとジーンズ。こんな格好で、こんな場所にいてもいいのだろうか?
ロビーのソファに腰掛け、マリアはカバンから記憶媒体を取り出して悠士に渡した。メモリーの中にはマリアに翻訳してもらったサイバーショップの英語版が入っているはずだった。
「ありがとうございます」
悠士は謝礼を渡そうとした。が、マリアはそれを手で制した。
「いらないわ」
「でも……」
「いらないのよ」
マリアはどうしても謝礼を受けとろうとはしなかった。
「どうですか。家庭教師の先生とは……」
謝礼を渡すのを諦め、悠士は話題を変えた。さりげなく美樹本から探りを入れるように頼まれていたのだ。
「別れたわよ、あの男とは」
は?
はじめは聞き間違いかと思った。しかしマリアの表情から本当だとわかって悠士は唖然とした。多くの人を巻き込んで迷惑をかけ、離婚するきっかけとなった若い男と、もう別れたっていうのか。
いったいなにを考えているんだろう? つきあったり別れたりするのは個人の勝手だが、他人の迷惑をよく考えて行動するべきなんじゃないのか?
そう言いかけた言葉が、マリアの次の言葉で消し飛んでしまった。
「ところであなた千景が妊娠したっていう噂、聞いてる?」
マリアが口にした言葉を、はじめは理解することができなかった。
は?
悠士は急に耳が聞こえなくなった。時間が止まったように思える。ごくりと唾をのみ込んだ。
千景が? 妊娠? 何のことだ?
言葉の意味を理解したとき、顔から血の気が引いていくのがわかった。
妊娠?
まさか、そんな……
足元から震えが立ちのぼってくる。
そんなばかな。はじめて聞いた。
千景とはしばらく会っていなかった。
医学部に編入するための勉強をしていたのではなかったのか。それが妊娠だなんて。
本当だろうか? 誰が相手だ? まさか……
ふと気がつくと、マリアが彼の表情をじっと観察していた。彼の表情に浮かぶ感情を確認しようとしていた。
やっぱりあなたが相手なのね? その顔がそう言っているように思える。
心臓が早鐘を打っている。
そんなはずがない。いや、そうかもしれない。
マリアが嘘を言っているとは思えなかった。
妊娠というのは本当だろう。マリアにならば他の人に言えないことでも千景は打ちあけるかもしれない。二人が特別な関係なことを、悠士は知っていた。
隠しきれないほど、全身が震えだした。
「相手は?」
おそるおそるマリアに聞いた。
「そこまでは聞いてないけれど」
彼の額を汗が流れた。
「どうしたのよ、あなた、まさか」
「し、失礼します。英訳、ありがとうございました」
逃げ出すように悠士はその場を走り去った。
まさか。まさか……。
第二十六章
ホテルの外に停車してあったバイクに悠士は飛び乗って、エンジンを大きく吹かした。そしてやみくもに走った。どこを走っているのかわからなかった。路面が、信号が、通行人が、看板が、建物が、視界の後方に流れ去っていく。だがどんなに早く走っても、心を追いかけてくる不安からは逃れることはできない。
息苦しくなって彼は、とうとう路肩にバイクを止めた。胸のポケットから震える手で携帯電話を取り出そうとして、落としてしまう。それを拾い上げて、千景に電話をかけた。もう二度とコールすることはないと思っていた番号だった。だが今は、それどころではない。
コールを聞きながら、待った、待った、待った、待った。千景が電話に出るのを待った。
つながらない。誰も出ない。もし本当に妊娠しているとすれば、相手が自分である可能性は高いと思った。いやむしろ自分以外に相手はいないのではないか。だがそれならばどうして千景から何もいってこないのか。もう口もききたくないからか。それとも相手がおれではないからか。
いったいどうすればいいのだろうか。とにかくマリアの話が事実かどうか確かめなければならない。今すぐに。
千景。しばらく連絡してないけれど、今、どこにいるんだ。もう別れたとかまだ別れていないとかそんなことは関係ない。どうしても確かめなければならないことがある。電話に出てくれ。
もう一度かけ直した。だが出ない、出ない、出ない、出ない。
なぜだ。どうしてつながらないのか。
理由を考えながら、檻の中の動物のように行ったり来たり悠士は歩き回った。
時間をあらそうはずの深刻な状況だというのに、事実かどうかもわからないまま、不安は堂々巡りをするばかりだ。拳で頭をがんがんと殴ってみる。まるで自分を痛めつけて正気を保とうとでもするかのように。
千景はいったいどこで何をしているのだろう。どんな気持ちで、どこで何を考えているのか。
どうしておれにただの一言もないんだ。おれが逃げだすとでも思っているのか。
再びバイクに飛び乗って、海岸線をひた走った。
もしかしたら他の誰かが父親なのだろうか。
いいや、違う。
誰が父親かという問題ではないのだ。腹の中の子どもをどうするかという問題なのだ。
生まれるべきではなかったかもしれない子どもを母が孕んだ時、決断次第でおれはこの世に存在していなかったかもしれないのだ。その時の母の立場に、今、千景が立っているのかもしれないのだ。腹の中の子供は、かつてのおれ自身かもしれないのだ。
なにはともあれ、会って確かめなければならない。
バイクの後ろに千景を乗せていた頃の感触が思い出されて胸が疼いた。アクセルを回す。失いたくない、それだけだおれは。
ほんのわずか、真美の笑顔が脳裏に浮かんで消えた。胸が痛んだ。
千景の子供の父親はあの人かもしれないし、別の男かもしれない。だがおれかもしれないのだ。それでいい。
自分の気持ちにこだわって、大切なものを失ってしまった。そのことを後悔していた。
もう一度やり直せるのならば、大切なことは、彼女を失わないということだけだ。彼女がこのおれと正面から再び向きあってくれるかどうかということだけなのだ。それだけだ。ほかのことはささいなことだ。
なぜマリアの電話は繋がるのに、おれのコールは繋がらないのだろう。着信履歴も残っているはずなのに、どうして折り返し電話をくれないのだろう。
おれを舞台の外にして、いったい何がはじまっているのか。物語はどんな展開となっているのだろうか。いったい誰がシテで誰がワキの芝居なのか。
まさかおれに一切迷惑をかけないように、誰にも相談せずにすべてを闇に葬り去ろうとしているのではないだろうか。
千景ならやりかねなかった。そういう女だった。
頭から血の気が引いていくのを感じる。同時に腹の底から強い気持ちが湧きあがってきた。
ふと、悠士は思った。
産めばいいじゃないか。その子はおれだ。
それがいちばんの方法だという気がする。
だが千景がそれを受けいれてくれないのならば、すべてはおれの一人芝居だ。
彼はもう一度だけ電話をかけてみた。しかし電話を取りあげてくれる気配はなかった。
おれはどうしたらいいんだろう。千景と話さなければならないというのに、連絡がつかない。時間は刻々と過ぎていく。決断しなければならない刻限は刻一刻と近づいているはずだ。
暗い無力感が募っていった。
何もできないのか、おれには。
第二十七章
いつのまにか悠士は自分のアパートに戻っていた。買い込んであったウイスキーを、鎮痛剤をのむように喉に流し込んだ。誰の子かもわからない子を自分の子として育てられるのか、そのことを覚悟として呑み込もうとしているのかもしれない。
アルコールに痺れた脳には、自分を取り巻く世界がまるで夢の中の出来事のように思える。唐突に事件は起こり盤石に思えた世界はあっという間に崩れさってしまった。この世界を信頼できない。幼い頃に形づくられた心は、彼の中でまだ消え去ったわけではないようだった。
何かが鳴っていると思ったら、携帯電話だった。見ると真美からの着信だった。取り上げるのを、悠士はためらう。こうなってはもう真美との仲もどうしたらいいのかわからない。もう人間関係はめちゃくちゃだった。
不倫や無責任な出産、人の生き方をどうこう言う資格なんておれにはなかった。自分を特別だと思ったのは、ただ無知で傲慢だっただけだったのだ。自分だけはそうじゃない生き方をしようと思っていたのに、けっきょくおなじ輪廻のなかにとじこめられている。
「真美……」
悠士は言おうとして、ためらう。
「ん? どうかしたの? 何かあった? なにかへんだよ。酔っぱらってるの?」
「見捨ててくれ、こんなやつのことは。どうしようもない奴だ、おれは」
「何? どうしたのよ。何があったのか話して」
酔った脳。世界がゆれていた。ためらった末に、酔った勢いで悠士はすべてを真美に話してしまった。
「どうしたらいいんだろう、おれは……」
話を聞いて、しばらく真美は黙りこんでいた。やがて大きなため息をついて、
「ねえ、愛と妊娠とは違うよ。自分の生いたちを彼女に重ねて、あなたは責任を取ろうとしているだけじゃないの?」
静かにそう言った。
「男と女って妊娠がゴールなの? それがハッピーエンドの法則? 妊娠なんて犬や猫だってするんだよ。あなたがこれまで生きてきたことのエンディングを、妊娠と責任ということでつけてしまってもいいの?」
他にもたくさんのことを真美は言った気がしたが、そのほとんどを悠士には理解することができなかった。胸に刺さった最初の言葉だけが、頭の中でぐるぐると回っていた。
「ちょっと待ってて。私が確かめてあげるから」
だらしのない子の世話をやくように真美が言った。
「千景さんに電話をして、私が確かめてあげる」
ウイスキーに酔って世界がグラグラと揺れていた。悠士は真美に結末を委ねてしまった。どうせ運命をどうすることもおれにはできないのだ。
「折り返すから、ちょっと待ってて」
電話が切れた後も、悠士はたてつづけに強いウイスキーをあおりつづけた。
そうだ。その子は千景とおれの子でいい。あの頃に戻れるのならば。再び彼女と笑いあえるのならば。もう一度抱きしめることができるのならば。
そうすることで自分を捨てた父親をおれは乗り越えていくことができるかもしれない。そんな気もした。それがおれが過去を乗り越えていくということなのかもしれない。それがおれの運命だったのだろうか。
また携帯電話が鳴った。
どうせ真美からだろうと取り上げてみると、予期せぬ相手からの電話だった。衝撃が耳から脳天に突き抜けた。千景からの電話だったのだ。
「千景……」
「うん……ひさしぶり……」
元気のない、小さな声だった。だが間違いなく千景の声だ。言葉にならない感情が悠士の胸にこみあげてくる。
「…………」
それきり何も言わない。こちらの用件はわかっているはずだ。黙りこんでいるのは、やっぱり、そうだからなのだろうか。
「……マリアさんに聞いたんだ。妊娠したって本当か?」
沈黙に耐えられず、悠士がさきに話しかけた。
「真美さんから電話があったの」
「おれが頼んだんだ」
千景の言葉を待った。待った、待った、待った。けれども何も言わない。
「妊娠したって本当なのか?」
じれて彼は聞いた。だが震える吐息が返ってくるだけだ。
「大切なことだよ。ちゃんと答えて」
「あなたに迷惑はかけないつもりだから……ごめんね」
尖った氷を耳から脳に直接突き刺されたような気がした。
「ごめんねじゃないだろう。今すぐ会って話そう」
思わず悠士は電話に叫んでいた。
「今、調子がわるくて、とっても不安定なの。だからまたかけるね」
かぼそい声だった。
「私、絶対諦めないから。諦めるくらいなら……し」
突然、電話は切れた。
し? 死? 死ぬ? 今、そう言わなかったか?
携帯電話を握りしめたまま、悠士は凍りついていた。
死ぬって、誰が?
耳鳴りがしていた。
そこにまた携帯電話が鳴った。感情が麻痺したまま機械的に電話を取り上げてみると、今度は真美からだった。
「あ。悠士。今、千景さんと話せたよ。『妊娠してるの?』って聞いたら、『わからない、その気配はあるんだけど』だって」
「は? なんのことだ?」
なにを真美は言っているのだろう。事態がよく飲み込めない。今さっき千景は堕ろすぐらいなら死ぬと言ったのだ。
言葉のニュアンスにも違和感をおぼえた。痛ましく傷ついていた千景のよわよわしい声にくらべて、真美のは腹が立つほど普通の声だった。
「おれも今、千景と電話をしていたんだ。だいたい気配があるってどういうこと? わからないわけがないだろうに」
「私に怒鳴らないでよ。『ちゃんと産婦人科で調べてないの?』って聞いたら、『調べると堕りるっていうジンクスがあるから』行ってないんだって」
「そんなジンクスなんて! だいたいその電話、いつのことだよ」
真美への不信感むきだしの声になっていた。
「五分ぐらい前かな。すぐに電話したんだけど、話し中だったでしょ?」
「だからおれは千景と話していたんだよ。おれに迷惑をかけないって涙声だった」
千景のけなげな心を思って、悠士は声を詰まらせた。
「そんなことありえないよ。千景さんは私と話していたんだし、泣いてなんかいなかったよ」
「そんなばかな」
背筋に冷たいものが走った。ありえないことが起こっていた。まさか霊のようなものと自分は話したのだろうか。
「信じられないよ。そんなことがあるわけがない。いくら酔っ払っているからって……」
彼は首を振って、脳裏のまぼろしをかき消そうとした。
「悠士がそんなに言うなら、もう一度確認してみるね。こういうことって女どうしの方がなにかとうまく話せると思うの。もう一度電話してしっかり確認してみるからちょっと待ってて」
戸惑いながら真美は電話を切った。
いったいどういうことなんだ。何がどうなっているのかわからない。
恐怖の余韻はなかなか体を去らなかった。そこにまた携帯電話が鳴った。今度は千景からだった。
第二十八章
おそるおそる悠士は電話をとりあげた。千景は何も言わない。震える呼吸が受話器の向こうから聞こえてきた。
「千景、どうした、千景?」
思いあまって電話をかけてしまったけれど、いざとなったら言いだせない。緊張が極限に達して過呼吸になる。そんないじらしい心が受話器の向こう側から伝わってきた。この何も言えない沈黙が、まさしく『言うに言えない現実』が存在していることの無言の証明ではなかろうか。
噂は真実なのだ。一刻も早く会って大切なことを二人で決めなければ。
頭から冷たい水をかぶったような思いがした。もうすでに別れたとかまだ別れていないとか、そんなことを言っている場合ではない。
「ひどい人……」
泣きだす一歩手前というような声だった。
「ごめん……」
悠士は反射的に謝った。自分のことを言われたのだろうと思った。
「ひどいことを言われたの。自分の欲のためには人を傷つけたって平気なんだね、真美さんは。いくら自分が悠士と一緒になりたいからって、あんなこと言うなんて」
「あんなことって何だ?」
「妊娠を餌に結婚を迫るなんて汚いって。誰もそんなことしてないのにね」
投げやりに千景は小さく笑った。
「もう、いやになっちゃった、みんな嫌い。バイバイ、悠士」
「待て。どうする気だ」
悠士は電話にすがるようにして叫んだ。
「薬があるの」
「薬? 何の薬だ?」
電話の向こうに必死で問いかける。腹の中の子供を殺す薬か? 冗談じゃない、ちょっと待つんだ。そんなことをしてはいけない。その子はおれだ。おれなんだ。
「叔父さんからもらったの」
「ばかなことはやめるんだ」
千景はちょっと笑ったようだった。そんな気配がした。
「あんなふうに他人に思われるようなことなんだね、これって……」
あんなふうに? 殺す薬? 誰を? まさか千景自身を? 自殺? そんな。そんな!
「悠士も迷惑してるんでしょ」
「そんなことないよ。そんなこと誰が言った」
「真美さんからそう聞いたの。心配しないで。あなたには一切迷惑かけないから」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 今、どこ? どこにいるんだ、千景」
悠士は叫んだ。なんてことだ。とにかくただちに会って、やめさせるしかない。室内ではなく外からの電話のような気がする。が、酔っているから彼にもはっきりとはわからない。
「なにもかも、いやになっちゃった……」
「やめろ! やめるんだ! どこだ。今、どこなんだ?」
「あなたの家のそば。はじめてキスしたところ覚えてる? あの海岸の流木のベンチに座って、海を見てるの」
悠士はバイクの鍵をつかんで、もう走り出していた。
「今、行く。すぐそこに。だからすこしだけ待っていてくれ!」
「来ないで。いろいろありがとう。バイバイ」
「待て。もうすこしだけ待ってくれ。頼むから。今すぐ行く。お願いだ!」
突然、電話が切られた。
悠士は階段を駆け下りてバイクに飛び乗った。酔っているとかいないとか気にしている場合ではなかった。エンジンをかけたところでまたもや携帯電話が鳴った。無視しようかと思ったが、何か重要な用件のような気がして取りあげた。今度は真美からだった。
「なに? 用件だけ言ってくれ」
「どうしたの? 千景さんと話したよ。妊娠かどうか本当にわからないんだって。普段から生理が不順な人だとそういうこともあるらしいよ」
悠士はバイクからずり落ちそうになった。ふざけるんじゃない。どういうことだ?
「何だって。いつだ?」
「たった今」
「たった今?」
おうむ返しに怒鳴り返した。
「たった今だよ。私が電話で『彼に妊娠してるって言ったの?』って聞いたら『迷惑してるわ。あの人、ときどき妄想と現実の区別がつかなくなるのよ……』って」
真美は千景の口真似までしてみせた。
「何を言っているんだ、薬を飲むっていってるんだよ。時間がないんだ」
「薬?」真美は不思議そうに聞いた。「誰が?」
「千景に決まっているだろう」
苛立って叫んだ。
「そんなわけないって。とっても落ち着いた声だったよ。あの人、『まだはっきりとはわからないけれど、もし本当に彼の子を妊娠しているとわかったら責任とってもらうつもり』って言ってたよ」
頭は混乱し、何がなんだかわからなくなっていた。酔って狂った末に、幻覚を見ているのだろうか。
恐れていたように、とうとうおれはおかしくなってしまったのかもしれない。病んで狂って自分にこもり、ついにはみずから命を絶ったあの母親のように。
「千景はこれから薬を飲んでケリをつけるつもりだとおれに言ったんだ」
「本当? どういうことかな? あの人、『私はぜんぜん連絡なんてもらってないし、第一もう私たち別れたのよ、私から連絡なんてするはずないでしょ。いい加減なことを言うのはやめて』って向こうから一方的に電話を切ったのよ。これから自殺しようとしている人にはとても思えなかった」
「そんなバカな……」
悠士は絶句した。
誰かが嘘をついているとしか考えられない。千景か、それとも真美か。あるいは認識しているおれ自身がおかしいのかもしれない。自分は絶対に正しい、そう言いきれる自信はなかった。
「本当にそう言ったんだよ。私はもし妊娠が本当ならば、あなたのことを悪く言うのも一時の感情として仕方がないことだと思っていたの。そんなことはないと思うけれど、悠士だって本当のことを言っているとは限らないもの」
「なんでおれが嘘をつく必要があるんだよ!」
痛いところを突かれて彼は噛みついた。
「だって私にはわからないじゃない。あの人、『本当に迷惑してる。どうしてこうなんだろう彼。ごめんなさいね、あなたにまで迷惑をかけて。あの男をあんまり信頼しちゃだめよ』って言ったんだよ」
本当に頭がおかしくなりそうだった。はたしてこれが現実のことなのだろうか。酔った頭が見せる幻覚だろうか?
もう誰を信じていいのかさえわからない。自分自身さえも信頼するには足りなかった。本当におれがおかしいのかもしれないのだ。おれがおかしいことがおれにはわからないだけのことなのかもしれない。だいいち何を根拠に自分を信じることができるのだろう。これまで多くの誤解や失敗や誤った判断を繰り返してきた愚かな自分を。自分は正しい。そんなことは思い込みにすぎないのだ。
「千景は海岸にいて、今から死ぬって言ったんだ」
「そんなの絶対に嘘だよ。本当に迷惑そうな声で、たしかに彼女はそう言ったんだよ」
とにかく海岸に行ってみようと思った。行けばわかることだ。たとえ騙されたのだとしても、もしかしたら人間一人の、いいや二人かもしれないが、命がかかっているかもしれないのだから。
「またあとで電話するよ」
悠士は携帯電話を切って胸のポケットにしまった。アクセルを回すと吼えるようなエンジン音が夜の闇に鳴り響く。
荒馬がいななくようにバイクを跳ね上げながら、急発進した。
待ってろ。千景。
第二十九章
ものすごいスピードで悠士は夜の街中をすり抜けていった。信号に引っかかりそうになっても突っ切った。交差点でもそのままのスピードで車体を傾けて突っ切った。生きるか死ぬかは天にまかせた。ここで死ぬならそれがおれの運命だろう。
護岸コンクリートを乗り越えて、バイクのまま砂浜へと乗り上げた。巨大な黒いタイヤが砂に噛みついて砂塵を巻き上げた。寒くて人影ひとつない冬の夜の海。
千景はどこだ?
周囲を見回して探した。はじめて千景と口づけを交わしたところは……
いた。
そこに人影があった。
流木のベンチの上に女の影があった。そこではじめて悠士は千景と口づけを交わしたのだった。忘れはしない。
砂浜に滑り込むようにバイクを横倒しにして止めると千景の元へと駆け寄った。白い薬の瓶を手に持っている。
「何やってんだ!」
薬の瓶を力ずくで奪いとり、海の向こうに力一杯投げ捨てた。
「飲んだのか?」
肩をつかんで問いかけた。
放心したように千景は返事をしなかったが、まだ飲んでいないだろうと悠士は思った。瓶を投げすてる瞬間、白い薬の残量を確かめたのだ。まだ白い薬は瓶いっぱい残っていた。
「飲んでないんだな。まだ飲んでいないんだろう?」
両肩を掴んで揺さぶった。千景は何度か子供のように頷いた。
「バカ」
ほっとして悠士は千景の額に額を押しあてた。勢いあまって激しく頭がぶつかり合ってしまい、ごつんと頭蓋骨が音を立てた。その箇所から痛みとともにじわっと生きている実感がひろがる。
死なせずにすんだ。死ななくてよかった。
一気に緊張が解けて、悠士はその場に座り込んでしまった。砂浜の上に仰向けに倒れ込んだ。夜空を見上げながら、荒い呼吸を繰り返した。千景の返事を待つあいだ、呼吸するのを忘れていたのだった。
第三十章
夜の公園のベンチで、うつむいて真美はすすり泣いていた。
「芝居だよ絶対に。女優なんだよ千景さんは。悠士は騙されているんだよ。自殺だなんて」
真美は泣きじゃくった。
「どうして信じてくれないの?
『あの人とは遊びだったの。だけどこうなってしまったからには、結婚するしか仕方がないのかもしれない』千景さんは私にそう言ったんだよ」
悠士はどうしていいのかわからずにいた。真美の顔を直視できなかった。
何が正しいか、なにを基準に選べばいいのだろう。何を信じればいいのだろう。
「悪魔だよ、あの人は。悠士から話しを聞いたとき、私は震えがとまらなかった。恐ろしい詐欺師だよ。どうしてわかってくれないの?」
真実は藪の中――証言が食い違う。確かに誰かが嘘をついている。そうでなければ話のつじつまが合わない。だがそれもこれも認識しているおれ自身が狂っていなければの話だが。
そのことに悠士は自信がもてなかった。おれは信頼に足る人間だろうか。自分の認識は間違っていないという確かな証拠がどこにあるというのだろう。
「事件を一緒に体験したあなたが共感してくれないなんて、あの恐ろしい出来事は夢だったって言うの?」
「あれは芝居なんかじゃなかった。おれにはわかる……」
悠士は呟いた。海辺で千景を抱きしめた、あのぬくもりだけは本当だ。あのとき千景は彼の胸の中で泣きじゃくったのだった。千景が泣いた顔を見たのは二度目だった。
「人がそんなに簡単に死ぬわけないじゃない」
「死ぬよ、人は。希望を失えばあっけなく。おれは知っている。想像できないだけさ、事実を知ってはじめて慌てだすのさ、真美のような人たちはね」
「何でそんな言い方するの。何で悠士までがあの悪魔の味方なの?」
真美はくやしくて泣き叫んだ。
「傷ついたか弱い女の狂言芝居をすれば、それで全ての罪が許されるの? どんな嘘をついたっていいって言うの? 私はね、あの人がきたない手をつかってあなたとよりを戻そうとしていることを言ってるんじゃないの。人と人の関係を踏みにじるような大嘘をついて、それがまかりとおるのかって言ってるのよ」
狂ったように泣き叫ぶ真美を、悠士はどうすることもできなかった。
あれからまた千景とは連絡がつかなくなっていた。そのことが何を意味しているのかわからない。けれどあの瞬間、頭蓋骨がぶつかりあった時の痛みと生きている実感、あれは嘘じゃない。
『マリアのことを信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ』
悠士は美樹本の言葉を思い出した。そうだ。大切なのは事実かどうかということではなく、このおれが何を信じるかということなのだ。何を信じたいかということなのだ。
「そりゃあ彼女だってあなたを好きな気持ちは本当だろうし、すべてが嘘ではないから、わずかのホンネの部分で騙されてしまうんだろうけど。
だけどなんで悠士が彼女を庇うの? 私が話したことだって、悠士は直接言われたわけじゃないから実感が湧かず憎しみを抱くまでにはいかないだけでしょ」
涙のたまった瞳で真美は悠士を睨んだ。
「もういいよ、もうやめてくれ」
「だけど……」
「やめてくれ」
覆いかぶせるように悠士は叫んだ。
「何をいくら言われても、おれには判断できない。真美とばかり話して、千景とはなんの話しもしていないのだから」
本当に千景が妊娠しているのかどうか、まだ確認がとれていなかった。あの夜、千景は泣いてばかりだったし、薬を飲むのを阻止したことだけで悠士も精一杯だったのだ。
お前は何を信じるんだ? 真美が嘘をついているとは思っていない。だが……
「私、絶対に真相を暴くから。千景さんと直接会って話すから、悠士はこっそり隠れて二人の話しを聞いていて。その時、あの人が私になんて言うか、直接その耳で聞いてよ。それであの人がどんなに嘘つきかわかるはずだから」
「そんなことをする必要はない。本人に直接聞けばいいことだ」
「それじゃあ駄目。あの人があなたの前で本性を見せるわけないでしょ。あの人の本当の悪魔の姿を、私があなたに見せてあげる」
狂っているのは誰なのか、すべての謎がそれで明らかになるだろう。それがおれでなければいいのだが……。
悠士は、真実を見たいようでもあり、見たくないようでもあった。
何か大きな破局が迫っているような気がする。
第三十一章
誰もいない地下の劇団の稽古場では、千景と真美の声がはっきりと響いた。姿を隠している悠士にも、二人の声はちゃんと届いていた。
「結局、わからなかったって言うの?」
真美が聞いた。無理やり呼び出された千景はあきらかに不機嫌そうだった。
「流産したのかも知れない。でも安心して。今はちゃんと生理が来ているから」
女どうし二人だけで話していると千景に思わせれば、芝居もせずに本心を明かすだろうから隠れてそれを見ていてほしい。真美は悠士に泣きながら訴えた。
曖昧に頷いてしまったが、果たしてそううまくいくだろうか。
物陰からとはいえ、千景の姿を見たのはひさしぶりだった。あまり顔色がよくないように見えるのは気のせいだろうか。
「お芝居はもういいのよ。正直に言って。妊娠してたっていうのは嘘なんでしょう」
「そんなのわからないよ。ただ生理が来てなかったのは本当。だいたい何? どうしてそんなことまであなたに話さなきゃならないの?」
ずっと嫌な気分が悠士にはつきまとっていた。千景だけが悠士が隠れて聞いていることを知らないのだ。やはりこのやり方はフェアではない。
それに千景が嘘をついていたとして、それがわかったからといってどうなるというのだろう。知っても意味のないことを知ってどうする?
「女どうし正直に言ってよ。本当は悠士との結婚が望みなんでしょう。そのために妊娠したと見せかけた、あれは狂言芝居だったんでしょう」
「あなたにどうしてそんなことが言えるの」
千景の声は冷ややかだった。
「あなたが不倫の恋に傷ついて、結婚できなかった過去があることは知ってるのよ。でもね、人間って調子がいいもので、たとえ痛みを知っている人でも、遊ぶ立場と選ばれる立場ではまったく違う判断をしたりするものなの。甘いものがあふれると辛いものが欲しくなるし、辛いものに囲まれると甘いものの大切さが判る。でも人は遊ぶものじゃない。嗜好品でもない。限りもあるはず」
「だから、何? 何が言いたいの?」
ますます千景の声は冷たくなっていった。
「要件を早く言ってくれない? 何か誤解しているみたいだけど、私にとって恋愛問題なんて今はどうでもいいの。医学部に編入しようと思っているのよ、あのおしゃべりさんからそれも聞いた? もう頭はそのことでいっぱい。悠士のことなんてどうだっていい。今、私にとって大切なことは異性に愛されることなんかじゃない」
「そんなの嘘だよ! 汚れる前にはそんなふうには思わなかったくせに。願いが叶わなかったり傷つけられたりして代用品に走っただけでしょ」
千景の冷たい声に逆上して真美は激しく言葉をぶつけた。
「人の価値観は人それぞれなんて言うくせに、他人の価値観は全然認めてないじゃない。自分の望みを正当化したいだけ。人に対して寛容だなんて恥ずかしげもなくよく言えるよね」
真美が熱くなるほど、千景は心を閉ざしていった。きっとこの試みはうまくいかないだろう。
「人はなかなか受けとめあえないものよね。だから人間不信になっちゃって、愛情をペットに求めちゃったりする人もいる。それでもいいのよ、ペットとの関係だって大切。
だけど生まれて真っ白な人間が、あらゆる可能性があったときにも、本当に犬や猫との絆を、異性との愛情よりも望んだのかな? それって真実の望み?」
「そういう人もいるんじゃないの? 世の中には」
「もし本心からそう言うのだとしたら、やはり人は一生のうちで、心から人を愛したり、愛されたりという経験をしないまま死んでゆく人が多いということだね……」
真美はふっと一息ついた。
「そんなふうに愛を信じることができないから、また大学に戻ってまでして仕事に生きようとするのかもね。愛よりも夢の方が確か……そうかもしれない。ある部分、とてもそうだと思うの。だけどね、愛がなければ、夢を追うエネルギーは、やがては枯れてしまうものなんだよ」
美樹本のことや、母親の祐希のことをを悠士は思い出した。人間はどうしてみんなでしあわせになることができないんだろう? その答えがおれは知りたい。
「結局、人間の悩みとは、ただ一点『さみしい』だけではないかなあ。いろいろな苦しさがあるけれど、その全ては『さみしい』に行き着いてしまう。『さみしい』は全ての努力も積み重ねも信念も簡単に壊してしまう。『さみしい』は精神力では補えない。どんなに強靭な魂も脆く崩れてしまう。だけど『さみしい』がなければ、きっと愛する気持ちも生まれないよね」
千景は沈黙していた。それが何を意味するのか悠士にはわからない。
「人間の欲って実はその正反対のところにもきっとあるんだと思うの。頑なな態度の裏には、意固地な主張とは正反対の願いがきっとある。その両者をうまく融合させるのが本当の頭の良さなんじゃないかな。自分の意見を主張しあうだけじゃなくて、他人の意見、環境を理解し、共存しあえるように尊重しあうことも必要じゃない。人それぞれだからって、譲り合うことさえ放棄してしまうの?」
「そうは言ってないわ」
「知ってると思うけど、悠士はね、不倫の子なんだよ。実のお父さんの顔を知らないの。そしてお母さんは去った人を忘れられないままみずから命を絶ってしまった。そんな彼にあなたが不倫の恋を語ることが、どれだけ彼を傷つけていたか、わからないの?」
「ただ過去の一ページとして話しただけ。そんなこと気にしてたら何も話せないじゃない? どうでもいいこととして話しただけ」
「彼にはそう聞こえなかったようだけど?」
真美の言葉に千景は黙っていた。
「昨日と今日は違う一日なのだし、新しい日に、夕べのややこしい話を巻き戻して、どうして話す必要があるのかなあ? ほんとうに吹っ切れてたら、そんな話はしないはずでしょ? まだ心でわだかまっているからつい話してしまうんだと思うの」
「思い出さなくなったことを吹っ切れたというのであれば、まだ吹っ切れてはいない。あの恋のことは一生消えないと思う。奪いとりたかったけど、でも現実的じゃなかった。だけど私には必要な経験だったと思ってる。
人の痛みがわかるようになった。人を好きになるっていうことがどういうことなのかよくわかった」
恋人が昔の相手とよりをもどすのではないかという恐れ、それは自分自身がつくりあげた恐ろしい闇だ。あのときにそれに気づいていれば……暗い霧のような後悔が悠士の胸におしよせてくる。
「あなたが不倫の恋の思い出にひたるのはいいの。でもどうして悠士にそれを認めさせなきゃならないの? 悠士の否定をあなたが否定するたびに、彼は傷ついていったのよ。どうして彼の気持ちを大切にしてあげられなかったの?」
「あの人には心に壁をつくらないで何でも話して欲しかっただけ。だから私も隠さずに何でも話したの」
「まるで心療内科の治療みたいにね」
皮肉っぽく真美が言った。
「私、なんとなくわかるのよ。そういう人、よくいるから。人間、ホントの冷血漢には惚れないものだから、不倫男にもどこかやさしいとかステキと思わせる何かがあったんだろうとは思うの。
だけど『こいつは真剣に愛するに値する女だな。こいつは適当にあしらっていいような女じゃないな』と心底から相手があなたのことを愛しいと思ったら、態度が変わってくるはずでしょ? 結局、騙されていたんだよね」
「違う。愛されてた」
「もし人間として本当に愛しいと思ったら、彼女のために何かをしてあげたいと男だって思うはずだもの。
それでも愛されていたと今でも思いこんで、今の恋人にぺらぺら過去を喋りまくるなんて、自分は魅力のない女ですって宣伝して歩いてるようなもの。どうして目が覚めないのかな」
「あなたに他人の恋愛の何がわかるって言うのよ。私に起こったことを本当に理解できるのは私だけなんだよ」
「そんなに好きならその男のところに戻ればいいじゃないの。いつでも戻れるよ。何も状況は変わっていないんだから。なんなら試してみたら?」
「もう戻らない。そんな気もない。ただ、あの時の気持ちを言っただけ」
不機嫌な声で千景が言った。
「……愛って、何なんだろうね」
真美は悠士の隠れている方角にちらりと目を向けた。
「私はね、自分ひとりで生きる人生が薄っぺらい気がして、ものたりなくなってしまう時が誰にでもいつかは来ると思うの。いつかは相手の人生と自分の人生を重ねたくなってくるっていうのかな。
自分一人で好き勝手放題、ただ気持ちいいだけの時間って、やがてはつまらない、さみしいと思ってしまう。わかちあう相手が誰もいなければ。
誰にも邪魔されることなく一人で自由気ままって、すてきなことに見えるかもしれないけれど、何の反応、反響もないって意外に満足感がないものよ。自分の存在を自分しか認識しないなんてさみしい。一緒に歓びをわかちあってくれる人がいないなら、よろこびもむなしい。心から一緒に悲しんでくれる人がいないならば」
「それはあなたの場合でしょ? そんなの人それぞれだよ。一人でも楽しめる人なんていくらでもいるよ。私だってそう」
千景はせせら笑った。
「不倫の恋の時は、そうは思わなかったくせに!」
真美が叫んだ。
「人の意見は人それぞれと言って、自分を主張し、恋人を受け入れようともしないくせに。
人の意見は人それぞれだなんて、何も言っていないことと同じことよ。
私はね、ぶつかろうが何しようが所詮人間って自分と関わってくれる人が好きだし、そんな人に結局かえっていくと思うの。
だから人には自分をよく理解してくれる異性と、自分のやりたいことをする自由が、どちらも必要不可欠なんだと思うの。
でもね、きっとあなたは他人からそこまで愛されたことがない、愛をあたえたこともない。自分の力で切り開いていく人生だと思っているんでしょ? まあそういう人はきっと多いよね。信じた人に裏切られて、歪んでしまう人は。
あなたが言うように、ある時には他の異性に目がいってしまったり、ある時には自分大事で相手をないがしろにしてしまったり、それは仕方がない、自分がわからず自分の道に迷っているうちは特にね。
だけどそれらの道程を繰り返してゆくうちに見えてくるものがある。浮気や身勝手が寄り道に思えてしまう、そういう相手が必ずいるんだと思うの……」
もしかして真美は千景にではなく、おれに語りかけているのかもしれない。
そう悠士は思った。
「一人はつまらないよ。それさえ一人ではわからないことなの。
だけど二人なら、一見おもしろくない折り合いの先に、一人では決して味わえない至福の感覚が待っている。自分一人だけでは辿り着けなかった自分の中の可能性が、パートナーに触発されてひろがっていくの」
ウェブ空間の中の仮想店舗『ココ・ウェーブ』、あの仕事はまさに真美の言うとおりだった。ふたりの個性なしにはありえなかっただろう。
「妥協することの意味、逆に可能性が広がっていく感覚、守る人がいる嬉しさ、守られている安心感、自信、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに。それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士だけれど一緒に人生を作ってゆけるよろこび。それが愛ってことじゃないのかな」
真美の言葉に、千景は返事ができないようだった。背中を向けているため、表情は見えない。
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
真美の言葉は、悠士の胸をゆさぶりつづけた。
「人生のパートナーとなった二人だけは、お互いの寂しさとかずるさとか嫉妬とか、それをわかっても逃げないで、まるまる受け止めてあげなきゃ。人はそんなに人に合わせられない。気をつかいあう関係なんて、所詮ひろがりがないものよ。ひろがりがないものは所詮いつかは行き詰まるのよ。ぶつからない関係は意外と面白くないものよ。
人間の本音なんて、しょせん一皮向けば、どんなに聖人であっても汚い部分があるのよ。そんなのない、と主張する人こそ私は信頼できない。自分を真に理解している人だったら、自分の汚さをきちんと理解しているはず。人間に汚さ、自分勝手さ、欲、思い上がり、それらが無かったら、逆に人類はここまで発展もしてこなかったと思うの。生まれた瞬間に大地に立ちつくしたまま聖人として固まっちゃっていたかもね」
「じゃあ聞くけど、結婚が、誰をしあわせにしたの? 教えて。美樹本さんは? マリアさんは? 悠士の母親は? 私の相手だった不倫の彼だって『幸せな結婚生活じゃない』って言ってた。人それぞれだよ。あなたは自分の考えを押しつけているだけ」
千景が反論した。真美はもう一度ため息をついた。
「あなたは結婚は自由を失うことだと思っている。そういう人は結婚の本当の意味も素晴らしさも楽しさもわからないんじゃないかなあ。たしかに他人が信じられず、結婚が信じられない人もいるよ。そういう人は多いと思う。
結婚すればどんな人でも問題は必ず起きるもの。そんな時きっと結婚懐疑派の人たちは、『ああ。だから結婚なんてするんじゃなかった』と後悔ばかりするような気がするの。
だけど、お互いに自由を愛し、冒険を求め、二人で生きる価値も知っている者どうしであれば、独立した精神を保ったまま、歩みよることの醍醐味もわかち合える理想のパートナーになれるんじゃないかなあ。もちろん努力は必要だけれど、でもその努力がまたいいと思えるの。
ひとりは広がりがないよ。ふたりは広がってゆくの。それは誰とでも可能じゃないの。早くそれに気づいて。
あたりさわりなく気持ちいいところだけで接する関係では、愛し愛される本当の人生の醍醐味を味わうことはできない。その先にある相手の人間そのものを愛するというところまで私は行きたい。
相手が誰でもいいのでは決してない。
人間として成長したとか、成熟したとか、そんなことは関係ない。いくら成長したってあわない人とはあわないのだから。
誰もが不完全な者どうしだけれど、許し合いながら少しずつ螺旋のように育んでゆく。それが愛情じゃないのかな。
人間の汚さ、醜さ、滑稽さ、それら全てを知ってなおおのれの道を生き、いさぎよく生きる。そして単なる自己満足だけではなく、じわじわとその姿勢で周囲をしあわせにする……それが愛情じゃないのかな」
真美はおそらく途中からは千景にではなく悠士に語りかけていたのだろう。言い負かされたように、千景は黙り込んでしまった。
〈もういい……〉
真美の言葉は続いていたが、悠士は静かにその場を離れた。二人の会話を聞き続けていられなかった。
真実なんて、おれは別に知らなくたっていいんだ。
真美の言うまさにその寄り道におれはいるのかもしれない。
音を立てないように慎重に階段を登って悠士は外に出た。夜空を見上げると、白く冴えた月、闇にまたたく数えきれないほどの星たち。
人間とはなんとちっぽけなんだろう……。
たとえそれが間違っていたとしても、おれにとって大切なことが守れればそれでいいんだ。真実がなんだ。それがおれの人生にどんなプラスになるだろうか。他人の嘘や裏切りの姿を見たところでどうなる。愛は存在するとかしないとかそんな議論が何だろう。
大切なのは、おれにとって失いたくないものはなにかということだ。それだけだ。
夜空を抱くように両手を広げて、悠士は大きく息を吐いた。
おれにはおれの真実があればいい。
女たちがまだ言い争っている地下の稽古場を、悠士は黙って去っていった。
第三十二章
心の中の何かがはち切れそうになっていた。湊誠一郎に会いたい。会って話しがしてみたい。こんなときになぜ湊の顔が浮かぶのだろうか。悠士は自分の心の流れを不思議に思った。向こうは演劇界の大物、それにくらべて自分はまだ何も成し遂げていないかけだしだ。いくらいつでも会いに来いと言われているからって、こちらから連絡して会ってもらうというのは、あまりにも図々しい願いではないだろうか。
ところが連絡は湊の方からやってきた――正確には病院の事務員から。
「もしもし○○病院の○○という者ですが、✕✕悠士様でしょうか?」
「そうですが、何か?」
「湊誠一郎様をご存じでいらっしゃいますか?」
「もちろん知っています」
演劇関係者で湊を知らない者はひとりもいないだろう。
「ただいま湊様が当病院に入院されております。ご存じでしたか?」
「いや……」
初耳だった。どこか体がよくないのではないかとは感じていたが、入院していたとは。
「湊様があなたとの面会を希望しておりますが……」
その言葉を聞いた瞬間、頭を何かで殴られたような衝撃が走った。なぜおれを? とは思わなかった。なぜかそうだろうと思った。当然のような気がした。
そうか。そうだったのか。
なぜ自分のところに電話がくるのか、入院先の病院の住所をメモしながら、彼にはわかったような気がしていた。そのような場所に、人が呼ぶ関係はひとつしかない。
そうか。そうだったのか。
心のどこかでわかっていたような気がする。
そうか。こういう運命だったのか。
いつか、会えるような気がしていた。
そうか、こういうことだったのか。
第三十三章
病室の白いベッドの上に痩せこけた男が横たわっていた。長年の潮風に焼けてぼろぼろになった肌、彼の生涯を働き抜いた丸太のように太かった腕は今は細く皺を刻んでいた。白い無精髭を伸ばし放題にし、かさぶたのようなしみを肌に刻み込んだ老いた男。湊誠一郎。
悠士が世界で一番尊敬する男が、彼の時間の終わりをむかえようとしていた。あれほど一世を風靡した男なのに、誰からも顧みられず、まるで波打ち際に打ち寄せられた流木のように今は一人ぼっちで病室に横たわっていた。
点滴のチューブを腕に刺して病室の天井を睨むように眺めていた。荒海を渡った冒険家の肉体が、病室のベッドの上で静かに横たわっていた。
近づいてベッドサイドの椅子に腰かけて、おそるおそる声をかけた。湊は目を開けて、なつかしい思い出でも悠士の顔の上に見るように、目尻に皺を寄せて微笑んだ。
何をどう切りだせばいいのか……。
悠士が言葉を探してうなだれていると、何かやさしいものが髪を撫でた。
おれは、頭をなでられている? 子供のように……。
湊が苦しそうに上半身を起こして、彼の頭を撫でているのだった。
おれは……おれは……。
こみ上げてくる何かで喉が詰まりそうになった。
静かな時間が流れた。
湊はもう隠そうとはしていないのだろう。なにも言葉で確認しあわなかったが、お互いにわかっていた。悠士は黙って頭を撫でられていた。長い時間ずっと。
湊はずっとこうしたかったのかも知れない。そう思うほど悠士は手のひらに愛情を感じた。おれもずっとこうされたかったのかもしれない。
そうだったのか。おれは一生忘れない、今この瞬間を。
「どうだ。元気にやっているのか」
手を戻した湊が、枯れた声で聞いてきた。
悠士は顔を上げてはにかむ。見栄をはることはもうないのだ。
「今は脚本を書いているんだ。上演できるかはわからないけれど……」
「おまえならできるだろう」
湊は言った、と同時に咳き込んだ。いやな咳だった。この人はもうあまり長くはこの世にいられない、そう直感した。
咳き込んだことをごまかすように「がんばれよ」と湊は笑ってみせた。笑った顔が誰かに似ていると思う。誰だろうか? だが思い当たらない。どっかで見たような顔だが……
「そうだね。頑張るよ。うん、頑張る。もちろん頑張る。
だけど難しいよ、ものづくりって。世の中に出ているものって凄いよ。自分がやってみて本当にそう思った。何もない真っ白な舞台に世界を創りあげ、そこに人の心を刻むのだから。
まだまだ未熟なおれが、みんなが観たいものをつくるって本当に難しいよ。人に望まれるってことは本当に難しいことだ……」
湊の老いて濁った瞳孔に、海への郷愁のような何かの感情がよぎった。この人はおれの母にどんな思いをよせていたのだろう。死んだ母もまたこの人にどんな思いを抱いたのだろうか。
「世界を否定しても自分を正当化したい瞬間がある。作品の中で自己弁護したくなっても、書けないこともある。つくろうとしているものは個人の日記なんかじゃないのだから。かといって書くべきではないのにどうしても書かずにいられないこともある。イメージにせりふはなかなか追いつかないし、エネルギーを消耗するばかりで、なかなか完成しない。構成を間違えると部分がよかった作品も死んでしまう……だけど楽しいよ、作品に全精力を傾注するってことは。それだけは本当だ」
「一人前になったな」
湊はじっと悠士を見つめて言った。
「おれたちみんなが通ってきた道だ。おれも、美樹本も……」
その顔を見て、やっと誰に似ているのか思い当たった。
おれだ。そうだ、おれに似ているんだ。あたりまえだ……。
「本当は病室の手前で迷ったんだ。会って何を話せばいいんだろうって。逃げ帰ろうかとさえ思った。でも勇気をだして扉を開けてよかったよ」
作品に向かう悠士の興奮や不安を、湊ほど正確に理解してくれる人間はほかにいないだろう。
「考えてみれば不思議なことだった。たいして読書家でもない母があなたの本だけはもっていた。あの海の冒険の物語の数々をいつも読んでいた。
そしておれも自然とあなたの作品を読むようになり、その中で呼吸しながら育った。あなたの冒険の物語、ずっとその作品世界でおれは呼吸しつづけた。夢を育み、おれもあんなロマンをいつか書きたいと思うようになった……」
湊は黙って何も言わなかった。思いだしているのかもしれない、あの海を、母の顔や小さな男の子の姿、自分の生きてきたこれまでのすべてを。
「最近思うんだ、自分の限界ってやつを。ひとりでは本当に限界があるんだなって。別に弱音を吐いているのではなく、単なる事実認識として、ひとりの人間としての自分の限界ってものが見えてきたっていうことだけで、別に誰かに何かを頼ろうとしているわけじゃないし、そうとわかっても頑張ることに変わりはないけれど。
言いたいのは、おれはひとりで何かをできる人間じゃない、それはおれが弱いからとか情けないからとかじゃなく、別に悲しいわけでもなく、それがおれの限界なんだ、ということを知ったんだ。作品を書いていて本当にそう思った」
まるで真昼の月のように、目には見えなくても、おれの心にはこの人がいつも存在していた。
「これまではっきりと自覚できなかったけれど、やっとわかった。おれは湊誠一郎のように生きたい。湊誠一郎のようになりたいんだ」
この人に近づきたい。そしていつの日にか超えてゆきたい。これまでおれのすべてに影響をあたえつづけてきたこの人を。
「おれの夢はこうして引き継がれていくんだな……」
湊は静かに目を閉じて言った。
作中の登場人物たちは、きっと湊自身の分身だったのだろう。そして自分も同じような生き方を貫こうとしたのだろう。生身の人間が物語の中の夢に生きることがどんなに困難か。少年の日の夢に生きようとした男の生き様に悠士は胸が熱くなる。
海の彼方から届いたメッセージに応えて故郷を旅立つ少年。湊の小説『ココ・ウェーブ』あれはおれのための物語だったのかもしれない。故郷を飛び出してきたおれと、あの小説の主人公はよく似ている。湊はおれのためにあの小説を書いてくれたのかもしれない。ここに来い、と。おれのところに……。
熱いものが目からこぼれ落ちそうになる。なんてことだ。おれはいつも親父に育まれてきたんじゃないか。今までずっと。
すべてを捨てて故郷の町を飛び出してきたことも、芝居に憧れを燃やしたことも、みんなこの人の血の影響だったのか。この人からすべては流れだしていた。やっとわかった。おれの流れをつくった源が。
夢想していた父親は、いつも港から船に乗り込み海へと旅立って行く、のっぺらぼうの男だった。
こんな顔だったのか。
それは見慣れた顔だった。家に転がっていた冒険小説の背表紙にはこの男の写真があった。憧れて眺めた顔だった。幼い頃から何度も見てきた。一緒に育ってきたといってもいいほどに。
「本当に引き継げるのかな、こんなおれで。こんなちっぽけなおれの力で」
悠士はじっと手のひらを眺めた。
湊は何も言わずもう一度、かつてはたくましかったはずの腕を伸ばして、彼の頭にふれた。
死ぬのだ。この人は……。
そう直感した。そしてそのことが自分でよくわかっているからおれにこんなことを言うのだろう。最期の別れを言おうとしているのだ……
幼い頃、故郷の海岸で、大きな男性が手を引いて散歩してくれたことがあった……そうだ、思い出した。あれはこの手だった。あの男が父親だったのか。あのときも同じように頭を撫でてくれたっけ……。
下を向いて悠士は必死に涙をこらえた。だがこらえようとしてもだめだった。泣いているのを必死で隠そうとした。湊に気づかれないようにしたかったが無理だった。全身が震えだす。
どうしておれたち母子を捨てたのか。ずっとその理由が聞きたかった。でも、そんなことはもういい。
顔を上げた瞬間、湊は激しく咳こんで、血の色をした痰を吐いた。雷に打たれたように悠士は立ち上がって湊の背中に手を当てた。
「大丈夫ですか。看護士をよびますか?」
湊は手の甲で唇をぬぐい、首を振った。
「もういいんだ、おれは好きなことをやって勝手気ままに生きてきた。そのために迷惑をかけたり、傷つけた人がいることも知っている。いつどこで死んだって後悔はない」
湊はベッドサイドの引き出しから原稿用紙の束を取り出して、その表紙をしばらく眺めた後、
「この原稿をおまえに託す。どうやらおれには完成させられそうにない。続きはおまえが書き上げてくれ」
体の震えを必死でこらえながら、悠士はそれを受け取った。
永遠の別れが近い。やっと会えたのに。
何度か推敲した跡の見られる原稿用紙――物語の後半部分はまだ書きかけで、空白のマス目が並んでいた。
苦しそうな息を吐いて、湊はまたベッドに横になって目を閉じた。遙か彼方に残してきた思い出のかけらを網膜に思い浮かべているのかもしれない。
湊誠一郎の世界は理解しているつもりだった。これまで湊はたくさんの海と冒険の物語を残してきた。悠士はそれらすべてを読んでいた。作品世界の中で呼吸しながら育ったといってもいいほどだ。芝居の世界で、彼が多くの人にセンスを認められてチャンスをもらえたのも、幼い頃から湊の作品を読んで、そのロマンが心血に注ぎ込まれていたからだったといってもいい。
それで十分だ。それ以上、父から何をもらおう。もう十分すぎるものを親からもらっていたんだ、おれは。
「さあ、もうゆくんだ」
湊が促した。苦しむ姿を見せたくないのかも知れない。強い父親の姿を息子の目には残したいのかもしれない。
「また来るよ。たくさん話したいこと、聞きたいことがある」
生きてくれ。本当はそう言いたかった。
「がんばれよ、悠士」
病室を出るとき、彼の背中に短く湊は言った。
その言葉を全身で悠士は受け止めた。
第三十四章
病室の扉を閉めると、悠士は声を殺して泣いた。声を出すまいとしても、喉から絞り出すような嗚咽が漏れてしまう。
廊下を通った看護士が驚いて「大丈夫ですか」と声をかけてきた。演技でなく本当に泣いた。
あの北の寒い漁港で、彼はいつも思っていた。
この不幸な家族に立脚して人生を切り開いてゆくのではなくて、自分という素材としてのベストな幸福を掴もう、と。
だけど、そういうものから切り離された自分なんてものはありえないのだ。そのことが痛いほどよくわかった。
あの人がいたからおれがいたのだ。それを否定することはできない。
人はそんなに違っているわけじゃない。誰もが似たりよったりだ。それなのに人はかけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。
むしろ、こういうべきだった。
その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない。
第三十五章
鋸の刃のような山が眼の前にそびえたっていた。天を刺し貫くような黒い鋭峰が真っ赤な朝日に照らされていた。血の気が引くような断崖絶壁だった。
へたをすれば命を失うと言われている危険な山だった。それと知りながら悠士は山域へと踏み込んでいった。足を踏み出すごとに白い霜が砕ける音がした。ザックが肩に食い込む。荷物の重みに足をとられそうになる。
なぜ湊誠一郎は自分の絶筆となるはずの作品で、海を舞台にしなかったのだろうか。
黙々と歩きながら悠士は考えていた。
湊から手渡された未完の小説は海洋冒険小説ではなかった。山岳小説。かたくなに山頂を目指す登山家の物語だったのである。
土が凍って固くなった道。登山靴を慎重に運びながら悠士は考えつづけた。
最後の作品がなぜ山岳小説だったのか。海洋冒険作家と呼ばれた人だったのに、海の冒険で締めくくろうとしなかったのはなぜだろうか。
まるで湊が最後になって海を裏切ったかのように見えてしまう。自分のイメージを裏切ってまで山岳小説を書く意味があるのだろうか。
生涯最後の物語だからこそ、海の物語を書くべきではないのか。悠士だったらそうすると思うが、湊の心ははかりしれなかった。
険しい山の頂へと実際に足を運び、山の物語を書こうとした湊の心が知りたかった。その心を知り、託された物語を書き上げるつもりだった。だからこうして山にやってきたのだった。小説は書いたことがない、だから芝居の戯曲として仕上げるつもりだった。
舞台俳優というのは体をつかう仕事だ。体力には自信があった。だからこそ最高難度とされる地獄の針山にいきなりやってきたのだった。登山キャリアはまったくなかった。目の前の現象がよくあることなのか、そうでないのか、それさえわからないまま足を山頂へと運んでいった。大切なことは山の技術の習得ではなく、湊の作品に繋がる何かを得ることなのだ。
深い山の中をたったひとりで分け入っていった。樹氷の森を抜けてゆく。人の気配はまるでなかった。足をくじいたらその場で遭難である。ここには助けてくれる人は誰もいない。生存本能が危機警報を鳴らしつづける。太古の野性が覚醒していく気がする。
安心感というものが物事の土台だとあらためて思い知らされた。安定の土台がおびやかされると、まずは生きていくための最低条件をつくることを最優先に考えなければならない。そのときは芸術どころではない。魂を掻きむしられるような命の不安にかきたてられて、いてもたってもいられなくなってしまう。
今なら真美の言葉の意味が分かる気がする。
『つきあい始めたときの距離感で、おたがい気分が害されない距離で、気持ちのいい部分だけ見せ合って……そのようにしてつきあい続けたとしても、その状態をずっと長くは続けられないだろうなあと私は思うの』
事件の後、真美は言った。
『誰もが不完全なもの同士だけれど、許し合いながら少しずつ螺旋状に育んでゆく。それが愛情じゃないのかな。
人間のきたなさ、それらすべてを知ってなお己の道を生き、汚濁に染まらずいさぎよく生きる。そして単なる自己満足だけではなく、じわじわとその姿勢で周囲をしあわせにする……私はそのようにして生きていきたいの』
真美の言葉を思い出しながら、悠士は歩きつづけた。
それにしてもなんとここは楽園の海と違うところであろうか。
山靴が固い霜を砕く音と、荒い自分の息だけが悠士の耳に届いた。独りきりだ。考えまいとすればするほど不安は大きくなっていく。ここは孤独を見つめざるをえないところだ。
『ここから先は上級者のみに許された非常に危険な箇所です。ザイル等の装備のない方は登山を自粛してください』
そう書かれた看板の前を悠士は通り過ぎて行った。吐く息は白く、吸い込んだ空気が肺から体を冷やしてゆく。自分の内部から熱い火を燃やさなければ凍えてしまいそうだった。
『恋愛って微妙だね。私だって、前の恋人が悠士より決定的に劣っているかっていったらそうじゃないのよ。ただとりまく空気、雰囲気が違っているだけ。だけどもう一度、二人が並んでどちらかを選ぶとしたら私は絶対に悠士を選ぶよ』
真美はいつもおれに自信をくれた。嘘でも千景が同じように言ってくれたなら……悠士はそう思わずにはいられなかった。
『どちらが大切かなんてくらべられないよ。その時々で必要な人って違うでしょ?』
千景はそう言うのだ。自分を相対化されて無価値にされてしまう。いつも無力感を噛みしめなければならない付き合いだった。
『悠士とは同一線上の感覚にはなかなかならないけれど、それがいいのかもしれない。私は一時期、男性になろうとしたけれど、それは無理であり、無知なことだったのだと、あるとき思い知ったんだ。
私は女性でしかないけれど、自分のやり方で自分の世界を広げていきたい。あなたと同じようにはなれなくても、自分の道を見て、歩けるようになりたい。女性として、自分の人生をしっかりと見据えていたいの』
悠士のすべてを真美は受け入れてくれた。それなのにどうしておれは千景のことばかり考えているんだろう。
ふと狂ったように下界に駆け戻りたくなる。この大自然の中では、同じ人間だというだけで仲間だという気になる。そばに誰かがいるというだけで、それだけでいいと思えた。人間同士の相性なんてぜいたくな悩みごとなのかもしれない。
さらに進むと、また看板が出ていた。
『この先はたいへん危険です。上級者以外は引き返してください』
黄色いペンキで『危険』と書かれ、その隣に骸骨マークが描かれてあった。そして目の前に巨大な一枚岩が現れた。同時に登山道がなくなった。垂直の絶壁が行く手を完全に遮っていた。
「これを登るのか……?」
悠士は口を開けて上を見上げた。最上部を見ることができないほどの岩壁だ。つるつるの岩肌を天水が洗うように流れていた。薄く氷を張った箇所もあった。反り返っている箇所さえある。何十メートルあるのだろう。ここから山頂に向かって一気に壁を登っていくルートなのだろう。「さあどうぞ」とばかりに鉄鎖が垂れ下がっている。鎖には岩の亀裂からしみ出した水が伝って濡れていた。
落ちたら確実に死ぬな、これは。そう思うと足元から凍えるような震えが上がってきた。
千景や真美との関係のなかで、浮かびあがる自分の心に悠士は深く傷ついていた。おれは誰も幸せにできない。こんなおれには書くべきものなんて何もない。
湊の書きかけの小説の主人公は、心に下界の葛藤をかかえながらも、無理だと思える山に挑んでいく登山家の物語だった。
危険な山であることは百も承知で来たのだ。人の命を吸って輝くと噂される魔の山をわざわざ選んでやって来たのは、湊の作品を書き上げるための何かを手に入れるためだ。
どうして怖いのだろうおれは。死を恐れているのかおまえは?
どうして死を恐れるのだ。生きたいからか?
なぜ生きたいのだ? なんのために、誰のために生きたいのだ?
絶壁がそう問いかけてくるようだった。
湊から託された物語をおれは書きあげてみたいのだ。書きあげるための何かをここで掴んで帰りたいのだ。ここで死ぬわけにはいかない。
おまえは何を背負い、何を問いながら生きていくのか?
なぜ海洋冒険作家が最後に山岳小説を書こうとしたのだろう。
ここで引き返しては、その謎は永久にわからなくなってしまうだろう。
岩壁の下に立ち、上を見上げた。まるで奈落の天に落ちていくような垂直の大岩壁だった。ごくりと生唾を飲みこむ。
「行くぞ!」
自分を奮い立たせるように叫んだ。つま先がようやくかかる程度の足場しかない。左手は鎖を握り、右手は岩壁に指を立てた。指から全身の体温が奪われるように鎖は冷たかった。濡れて滑る。
すこしづつ攀じ登っていく。全身から汗が噴き出してくる。火のように熱い息を吐いていた。呼吸をしていることがまだ生きていることの証拠だった。鉄鎖を握った両腕と片足だけで全体重を支えていた。
足の筋肉が痙攣をはじめた。下を見た。死神が眼下で真っ赤な口腔を開いてあざ笑っている幻覚が見えた。足下にひろがる恐怖の幻想に震え上がった。遙か下方から風が吹き上げてくる。心に吹きつける恐怖。辿りつくべき場所が見えない。
あの事件の後、いつも真美が使っている駅で、若い女性の飛び込み自殺があった。テレビのニュースでそれを知った悠士は、自殺したのは真美ではないかと直感した。いても立ってもいられなくなって、何度も何度も真美に電話をしたが、電話は繋がらなかった。
〈携帯電話も真美と一緒に電車に轢かれてバラバラに壊れてしまっているのではないだろうか〉
そんな想像が頭をよぎった。
鉄鎖が、岩壁が、指先から体温と力を奪い去っていく。足の力だけが頼りだった。足がかりを探す。その力も限界に達しようとしていた。その時、壁のてっぺんが視界に入った。
もうすこし、あとすこしだ。
火のように熱い呼吸をしながら、悠士は壁を登り切った。必死の力をふりしぼって、とうとう登りきったのだ。
第三十六章
もはや滑落することのない壁の上で、両手両膝を大地について四つんばいのまま悠士は荒い呼吸をしていた。呼吸がようやく落ちついてくると、やっと生きている実感が湧きあがってきた。命の実感と同時に、急に全身がガクガクと震えだした。死の恐怖が、今頃になってまた襲ってきたのだった。
あの日、深夜になってから電話はようやく通じた。
『真美、生きてる? 生きているんだね?』
死者が電話を取り上げるはずがないというのに、悠士は何度も真美に生存を確認せずにはいられなかった。
何のことだかわからずにいる真美に事情を説明した。駅のホームで自殺した若い女というのが、きみじゃないかと心配していたんだ。
『いやだなあ、自殺なんてそんなことあるわけないじゃない』
明るい声で真美は笑った。あまりにもあっけらかんとした明るい笑い声だったので、悠士は自殺を心配をした自分がバカに思えてしまってなさけなかった。
立ち上がるとまだ膝が震えていた。膝を叩いて震えをどうにか止めた。世界の果てに悠士は立っていた。空が眼の前にあった。ぞっとした。なんということだ。何かにとりつかれたように、正気を失っておれはこれを登ったのか。
真美の声が脳裏に鳴っていた。
『本当のことをいうとね、私はあの事件のあまりの衝撃に誰かと話したくって、ずっと友達と携帯電話で話していたんだよ。話しすぎてバッテリーが切れちゃったから夜中まで連絡がつかず、よけいあなたに心配かけちゃったんだけど。
あのとき、悠士はすごく気が動転していたよね。だから私は「何いってるの、死ぬわけないじゃない」ってとっさに笑ってあげたんだよ。あなたに心配かけまいとして』
地獄の針山の端っこに、小さな人間が一人、立っていた。小さな水流がそこから滝になって垂直に落ちていった。断崖絶壁から下を覗き込む。高度感に目が眩みそうになった。そこはまるで世界の果てだった。
『私の明るい声を聞いて、あなたは心から安心して電話を切ったよね。だけどその後で私は泣いていた。実際に電車に飛び込まなかっただけで死ぬほどに辛かったから。
あとで私は思ったの。なんであの時、真剣に私の辛さをあなたに伝えられなかったのかなって。なんで平気なふりなんかしちゃったんだろうって。
それはね、悠士を安心させてあげるための私の瞬時の判断だったんだ。深刻にならない方が相手のためだと思ったの。平気ですよ、明るく笑えるだけのゆとりを残していますよ、って表現した方が、相手はほっと安心してくれるんじゃないかなあって……私の思いやりだった。
それであなたは心から安心してそれっきり私のことは考えてくれなくなった。
違うの。私の表現が間違っていたんだ。あなたは私のことを余計な心配をしなくてもだいじょうぶな女だと思ったでしょ……ほんと、馬鹿だね、私って……』
電話の向こうで真美は泣いていた。
第三十七章
これほどまでに過酷な世界であったのか。
白い山の凍てつくような空気を大きく呼吸して、悠士はただひたすらに山頂へと向かって歩いた。靴底を通して大地からはね返ってくる衝撃が大腿骨、骨盤、脊髄をきしませる。この身で体験してみなければわからない、そんなことがこの世界にはたくさんある。
『過去の男も女も経験もそんなこと私たちには関係ないのに。私たちには私たちのやり方と愛情と歴史と絆があるはずなのに。いつまでも過去にこだわってそれをふたりの将来の引き合いに出すなんて。関係ないよ千景さんなんて私たちには。悠士と彼女との関係は私にははかり知れないけど、そんな女なんかと私を同じラインに乗せないで』
真美の叫び声が悠士の耳から離れない。
こんな過酷な世界を、人生最後の小説の舞台に選んだ作者の心とは何なのか?
湊の顔を思い浮かべながら悠士はずっと考えていた。
人生の謎だった。自分の本当の父親。
ずっと憧れ追い求め続けた男がその正体かもしれない。確証はなかった。そんな気がしただけかもしれない。湊は何も言わなかった。おれがそう思いたかっただけかもしれない。
今、その人は死のうとしている。男が人生最後の小説に選んだのは山岳小説だった。湊とふたりでザイルを結ぶようにして荒涼たる山上の世界を悠士は進んでいった。
刺すような冷たさ。だがこの寒さ、この冷たい風は身に覚えがあった。いつだったか、どこかで体験しているような気がする。
ハッとそれに気づいたとき、悠士は衝撃を受けて呆然と立ちつくしてしまった。
はっきりとわかったのだ。この冷たく厳しい風に、悠士自身、かつて吹かれていたことがあったということを。
それは生まれ育った北国に吹いていた風だった。あの小さな北の漁港に山から吹きおろしてくる凍りつくような風の感触と同じなんだ。
そうか。そうだったのか。おれの故郷には山があったのか。
いつも海ばかり眺めていたから気づかなかったけれど、海を背にして目を空に向けた時、そこには山があったのか。そういえば……
その瞬間、湊が描こうとしていた物語の舞台が、自分の故郷と重なった気がした。
まさかあの場所を描こうとしたのか? ずっと忘れずに覚えていてくれたのか?
あの北国の小さな町で起こった出来事のことを、最後に湊は書こうとしていたのではないだろうか。母の裕希と過ごした北国の日々。そのなつかしい日々への郷愁が、湊に最後の作品を書かせようとしたのではないのか。
悠士にとっては海に面した小さな漁港の町だったけれど、世界の海を知る湊にとって、あの場所は北の山国という認識でしかなかったとしたら?
それでは、それでは作中のヒロインというのは……まさか……
悠士は感動に身が震えていた。たしかにヒロインにはその人の面影があるような気がした。
かあさん……
作中のヒロインは、確かに悠士の母親に似ていた。彼女の名前はユキ……祐希……そういうことなのか。
心の中で湊誠一郎に問いかけた。その面影がすこし笑ったような気がした。
その瞬間、戯曲の舞台を自分の生まれ故郷にしようと悠士は決めた。
小説ならできるかもしれないが、山を舞台として芝居にするには舞台装置に無理があると判断したからである。
舞台は変えよう。湊の小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。
その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない。
第三十八章
最後の作品で湊は何を描こうとしていたのか。
この山でおれは何を掴んだのだろう。
悠士は寒々とした山の周囲を見わたした。
誰もいない世界――こんな寒くて何もない世界で、とても一人では生きていけない。人の心のない世界などむなしい。人のぬくもりだけが、人を助けてくれるのだ。
本当に死にそうになったとき、おれは四肢の力をふりしぼって垂直の崖を登りきった。あれは生きたいという叫びそのものだった。千景に「離れたくない」と叫んだのと同じくらいの強さで。
おれは新しい何かを生み出せる器の人間じゃない。親父たちの残してくれた愛ある世界の中で、どうにかこうにか生きてゆくことができるだけだ。
世界ではじめてのことをやれるような人間じゃない。
愛ある世界に生きて戻るために必死に生きのびようとしただけのちっぽけな人間にすぎない。
今日、たまたまおれは生きのびることができた。しかしいずれは誰もが生き延びられない闘いを迎えなければならない。それは本当にこの肉体が滅び去る時に。
誰もがみんな一生に一度は死と向き合う。湊誠一郎は今、その旅路にいる。それをおれに見せてくれようとしたのかもしれない。
湊が母と一緒になれなかった理由がようやくわかった気がした。
苦しい旅だったろう。平凡な勤め人にだってそれなりの人生があったはずなのに。夢に生きようとするなんて、ホント、バカだな……。
登山道を歩きながら悠士は涙がこぼれてしかたがなかった。
夢に挑戦しつづけた男。
おれはあの人のような英雄じゃない。あの人のように人々から尊敬されるような生き方はできない。
だけど、あの母親を幸せにすることならできるかもしれない。
湊誠一郎が最後に書き残そうとした物語。死の近くにあってしか、夢と寄り添う場所でしか、おのれの燃えるような生を確認できなかった男の物語だった。
夢と愛の二つの希望に生きた男の物語、それがあの湊誠一郎の膨大な作品群だったのだ。その作品のしめくくりをおれは託された。おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか?
おのれに問いかける。
「ある」
悠士ははっきりとそう感じた。自分の中にその力があることをはっきりと感じる。それはおれがあの人の息子だからだ。血のつながりではなく、魂の弟子だからだ。
湊が書こうとしたことが、この山ではっきりとわかった気がした。
おれでなければ書けないなにかが必ずある。おれには表現すべきなにかがある。それは自分だからこその物語だ。
『いっしょに喜ぶよ。あなただけを見てまっすぐ進むから、時々は振り返って笑ってね。その他には何にもいらない。ふたりで暮らそうね』
そう言ってくれたのに、手を伸ばして掴めなかった。悔恨が、残響が、おれに書かせてくれるだろう。あの物語の続きを。
一歩一歩踏みしめるように、悠士は高みへと登っていった。
おれはゆく。まだ今のおれが到達していない場所へと。
おれにはおれだけのなにかを込めることができる。父の遺産のその上に。
第三十九章
ミナトはパソコンにつながった三D眼鏡をユキの頭にそっとセットした。
舞台が暗転する。
ユキの見ているものと同じものが、プロジェクターで舞台上に映し出されて、観客にも見ることができる仕掛けになっていた。
そこに次々と映されるのは、流星群、オーロラ、海嵐や吹雪、珊瑚礁やヒマラヤなど、ありとあらゆる自然のファイルだった。崩れ落ちる氷河、おそろしく澄んだ清流、砂嵐、鍾乳洞などの奇岩、溶岩がつくった奇観……
両手で三D眼鏡を支えて、無言で見入っているユキ。
ミナト『これらは君の存在以前にも在り、君がいなくなった後にも存在するものなのだから、これらに自分の心情を投影させてはいけない。ただ受け入れるだけだ。風景の中に溶けていくように、無私の自分を風のように漂わせるんだ……』
声に呪術的な響きを込めて、ミナトはユキの耳元で囁く。
悠士は舞台の袖でじっと自分が書いて演出した舞台の成りゆきを見守っていた。
主役のふたりの名前はもちろん湊誠一郎と母親の祐希からもらった。
本当は観客全員に三D眼鏡を渡して、本物の立体映像を見てもらいたかった。しかし予算も技術もかなわなかった。今はこれで仕方がない。
プロジェクターに俯瞰写真、水平写真、あるいは人間の目線、昆虫の視点から電子顕微鏡で映したミクロの世界の映像まで、ありとあらゆる視点からの巨大な映像を次々と連続して映し出していく。
ユキ傍白『次々に映し出される映像に、私は声をだすこともできずにいた。
火を噴く海底火山、大地を削る灼熱の豪雨、海のように広い湖、千年の凍土を覆う氷塊、間欠泉が吹き上げる熱湯、そして私……
そのとき私は風に吹かれて、意識だけを残して身体が世界に散らばってしまったように感じた。
風に運ばれ、私は世界を流れる……。
世界の中に溶けていくように、魂が身体から離れふっと宙に浮かんだように感じた。自分が世界になるようでもあり、世界が自分の中に入ってくるようでもあった……』
やがて宇宙の映像が映し出された。虹色に光かがやく宇宙星雲。
ユキ傍白『その時わたしは世界がどうやってできていて、自分がどんな存在なのかわかったような気がした。言葉以前のものとして感じ取ったのだ。自分の意識を消さなければこの気持ちにはなれない。自分自身が消えて宇宙の感覚だけが残ると、まるで自分が「ただ見る」だけの存在になったような気がした』
海底で硫化水素を噴き上げる熱水鉱床、血液の中を流れてゆく赤血球、そして精子が卵子に到達しカルシウムイオンの波が走った受精の瞬間。
ユキ傍白『これが世界……私とは何の関わりもなくそれ自体として存在しているもの。これが世界……私なんてちっぽけな徒事。これが世界……悠久なるもの。私は流れ、去ってゆくもの……。
私とは無関係に世界は存在している。自分を際立たせて考えることは間違っている。私たちはこの流れの中の一部でしかないのだ。
そう思えたとき、頭上から天井を突き抜けて降ってくる宇宙からの超微粒子が、私のからだを突き抜けていったように感じた。
ニュートリノ。宇宙線が自分の中を透過していく。
幽体離脱して意識だけの存在になったように、この世界に起こったすべてのできごとを自分に起こった出来事のように感じた。そこには何の違いもなかった。私は溶けていく。私はただ見て聞いて匂いを嗅ぐだけの存在となる。私は星や風と同じものになる。私は流れてゆく……』
ユキは肩を震わせて感動に泣いていた。
不倫相手のミナトにユキは妊娠していることを告げてはいなかった。だが観客はそれを知っている。
ユキ傍白『こら、ユキ、悲しむな。
風のようにあの人は行くのだから。あの風を手の内にとどめておくことなどできない。あの人はいなくなるのではない。ただ宇宙から射しこむ光のように世界中に散らばるだけ。これから私は至る所で彼を発見するだろう。どこもかしこも彼の匂いがするだろう。
私はこれまでと同じ生き方をつづけてゆけばいい。私たちは同じ大地を踏みしめて立っている。あの人と私は同じ風の中、同じ太陽に照らされて海と山と川を隔ててつながっている。同じ星を眺め、同じ宇宙を漂う。同じ世界の中にいる。
あの人と私には決して断つことのできない絆がある。あの人はいつでもそばにいる……』
背筋を伸ばして、ユキは立ち上がった。プロジェクターが急にシャットダウンして、舞台は真っ暗になった。
やがて照明が灯されると、そこには誰もいなくなっていた。
主の出ていった部屋。机やプリンタ、ファイルなどが素っ気なく置かれてある。ノートパソコンと三D眼鏡がぽつりと置き去りにされたまま。
ミナトは彼自身の人生へと立ち戻り、ユキははじめから自分がいた場所がどこであったのか気づいたのだった。
第四十章
ごつごつした岩の岬に、雪片が舞うように降る。
ユキは岩の上に座り込んで膝を抱えたまま、雪が次々に海に吸い込まれていくのを見ている。
ユキ傍白『海に雪が溶けてゆく。すべてが雪に覆われる。冷たい。
世界が白く変わる。世界に溶けて消えることができるように私は周囲と同じ温度になることを望む。雪の温度に……。自分が自分でなくなっていくように、あのときのように。
体が冷え切って無防備な生命だけが剥き出しにされたように感じる。やがて意識さえも冷やされていく。筋肉と関節が固まる。皮膚がこわばり表情を失ってゆく。動けなくなる。意識が凍っていく。やがて雪と同化してゆく……宇宙とひとつになる……』
誰にも知られない場所でユキは妊娠したまま死のうとしていた。
ミナトは海の向こうへと去っていった。ぽっかり空いた心の空白は何をもってしても埋めることはできなかったのだ。
悠士は舞台の裾から会場の様子をうかがっていた。
客席には真美がいた。千景も観ていた。そして憧れ追い求めた男も。
湊誠一郎、その男は決しておれを捨てて去っていったのではなかった。いつもそばにいた。いつでも心の中にいた。
その三カ所だけがスポットライトを浴びたように眼に映っていた。
ありがとう。めぐり会えてよかった。おれは今、人生に心から感謝できる。
すべてが流れ去り、消えていくものだとしても、だからこそ謳おう、絆を、燃える命の輝きを。
ユキ傍白『全身が凍りついてゆく。石のように冷たくなった私の体。そんな私の体の中に宇宙とひとつになりきれない部分がある。
雪を溶かすほどの熱で、体の内側から眩しい光を放っている。ドクドクと熱く血が脈打っている場所がある。そこだけが熱く鼓動し、喘ぐように呼吸している。死や闇を望まぬ爆発するような光を発して輝いている。その存在が、私が雪となり宇宙となることを拒んでいるようだ。子宮だけが熱い。
宿すもの。それが私だ。私の中には海があり、森がある。水があり、火があり、光があり、愛がある。私は大地だ。私は風だ。
それを私はこの子に伝えることができる。
私のおなかの中には南風の子供がいる。南の海からやってきた風の子が。
産み、育てるということが、私の答え』
ユキのセリフを聞きながら、悠士は湊の姿に見入っていた。病み衰え、小さくなってしまった偉大な男。看護師のような人が介添えについている。
何かに導かれるようにして自分はここに辿りついた。
上京して以来、そのことをどこかで知っていて、おれの成長する姿をずっと見まもっていてくれたのだろう。その暖かい光をどこかで感じていたからこそ、おれはここまで来ることができたのかもしれない。
あなたに恥じない舞台ができただろうか。立派に引き継げただろうか。書きかけの自分の作品の結末に、満足してくれただろうか。
主役の名前をミナトとユキに変えた。わかってくれただろうか。それがおれの心だ。
見てくれ。これがおれだ。こうしておれはここにいるのだ。
とうさん……ただの一言も言えなかった。けれどお互いにわかった。
それでいい。心の中でわかりあうことができた。それだけでいい。
第四十一章
大きな拍手で舞台は終幕となった。劇団の後輩たちにうながされて、悠士は舞台にあがった。
古くからのファンたちは、この作品を作・演出したのが、劇団に復帰した✕✕悠士であることを知っていた。
舞台の上で喝采にこたえながら、客席に目を向けると、そこにもう湊誠一郎はいなかった。
舞台の上に何かを確かめ、そして立ち去ったのだろう。誰かに何かを告げずとも、己の中で確認すればそれでよかったのだろう。
歓呼する観客たちよりも、空席となったその座席に悠士の心は釘づけだった。
かつて世界中を冒険し、小説を書き、人々に称えられたその男は、小さくしぼんだ渇いた血色のない肌をしていた。
その男の夢を、おれは引き継ぐ。
大きな熱気の渦が、客席から舞台の上に流れ込んでくる。どこに流れていくのか。この吹き抜ける風の心がわかるまでこれからもおれは流れ続けるだろう。
第四十二章
数日後、誰に看取られることもなく湊誠一郎は死んだ。
誰かの読みかけの新聞で悠士はそれを知った。肌寒い静かな白い朝だった。
ただ無色の涙があふれた。
稽古場では舞台の練習が続いていた。劇団の中でようやく悠士は実力を認められつつあった。
人生は短い。いずれ自分は消えていく。そのとき何が残るだろう。誰かの心に何かを残せるだろうか。湊がおれに残してくれたように。
手のひらで涙を拭って、しずかに新聞紙を置いた。
飛光は去ってもう戻らない。悠士には次の作品が求められていた。何の案もなかったが、きっとおれにはできるだろう、そんな自信があった。
行けるところまで行ってみよう。やれるだけやろう。あの人がくれたロマンを胸に。あの人の夢を継いで。
「さあ、みんな。美樹本さんの名前に恥じない芝居をしよう」
大きな声を出して、毅然とした態度で悠士は演出指導をした。
果てしない景色、雲を掴むようなこの気持ち。この大きな流れはどこへ向かっているのか。流れて……どこに行くのか。
おれを生み、千景や真美と引き合わせ、美樹本や湊と巡り合わせた、この奇跡の世界に自分のすべてを委ねて生きていこう。
鏡に自分の姿が映った。そして髪の毛の中に白髪を見つけた。
ふっと小さく笑った。
自分の面ざしは確かに湊に似ている。
その姿を愛おしむように悠士は小さく自分に微笑んだ。
第四十三章
真美からの手紙。
『悠士。あなたの気持ちは分かりました……悲しいけれど、もう、平行線だね。
あなたは他のことは立派だし、とてもとても尊敬してるけれど、愛に関してはとても未熟だね。
こんなことを言ってしまってごめんなさい。納得できないあなたの顔が眼に浮かぶようです。そう、きっとこれに対してもあなたは反論すると思うの。
そうなの、人ってそう簡単には変われないのよ、議論や方法論、教えや諭しでは変われない。「性格が運命」って本当にそのとおりだと思う。
私はこの性格で、今までの人生の中、いろいろな人と本心でぶつかりあってきた。でもね、誰ひとり変わらなかった。
「自分を変えたいから、お願いだから助けて。真美みたいになりたいから助言して」と拝むように頼み込んできた人も含めて、誰一人、笑っちゃうくらい変わらない。みんな自分を変えられない、曲げられない。
それはどうして?
ピンチぐらいじゃまだ人は本当には変わることができない。「いろいろあるけど自分は正しい」っていう論理に最終的に舞い戻ってしまう。
逃げられる余地がある時は、徹底的に逃げるんだよね。もちろん本人は逃げているなんて思っていないし、どうしても未来を完全には見通せないから「自分の場合は違う」という認識で、命を取られる訳じゃないし、そのまま行けちゃうから、現状のまま変わらない。
けれど、それでも多くの人に変化の時は来る。それは自分が実際の損害を受けたとき。
自分自身が人生が変わってしまうほどの損害を受けた時、どんなに自己肯定したくても、それどころではない事態ってものに、自分が間違っていたことを無理やり突きつけられるんだ。
そして「修正しなければ! でないともっと自分が損害を受ける」と、あさましいくらいに自己修正を始めるの。
だけど、たいてい上手くいかない。というか、うまくいった人を私は見たことがありません。
もう手遅れ、なんだよね。そして自分の中に物凄いエゴがあったことに気づかされる。勝手だったのは相手ではなく、自分だったんだなってことに。
悠士も私も、今回のこの決断がもたらす結果には、やがて責任をとらされる。
私が本当に真理だと思い知ったのは、いいことも悪いことも、めぐりめぐって本当にすべて自分に還ってくるってことよ。別に脅かしているわけじゃないけれど、それは本当に真理よ。
だから逆に言うと、自分を不当に攻撃してきた人は、相手が間違っていれば、自分のその時の力では成敗しきれなくても、必ずその人の人生に影を落とす。つまりはバチが当たるってことよ。
いくら自分こそ正しいと思いこんで生きていても、本当に間違ったものには必ず運勢の下降が訪れる。黙っていても本当に、歴史というと大きな単位すぎるんだけど、人生という時の流れの中で、奇跡のように成敗される。
その事例を知るたびに、何か大きな不思議な力を感じる。神の見えざる手と言うか……悠士の言う「流れ」のようなものを。
だけど、それでも、そこまで思い知っても、やっぱりそれまで変われなかった人って、その後もなかなか変われないんだ。ただ、事態により勢力としてはおとなしくなってしまって、対外的には変化しているのだけれど。
なんで、皆、そんなに変われないんだろうね。
きっとそれは「苦い水」をできるだけ飲みたくないからなんだと思うの。だって変化は苦しく、苦さがつきまとうものだから。
だから見てよ。変われない人たちはみんな結局は「ありのままの自分」を肯定してしまう。そして自分を大きく査定してる。そうでなければ、自分こそが正しい、と周囲の流れに反発してまで思い込めるはずがないもの。
本当のことを知っている人は、人生には「不可能」と「不可避」があり「不完全」であることを知っている。自分が正しい、と流れに逆らってまで思い込める強さはないの。
悠士がよく口にしていた「流れ」。流れというものは、やはり、きちんとそれなりに、すべて意味があるもの。私もいろいろなことに反発してきた人間だったけれど、今はそう思える。
結局、人は、助言なんかじゃ変われない。
だから、あなたにも、言うのはやめようと思ったの。
正直言って、どうせ伝わらない。あなたが私を嫌いになるだけ。
仮に悠士が「真美の意見も分かるんだよ」と言ってくれたとするでしょ? それでも人は変わらないのよ。本当にそうだと自分が被害を受けて思い知るまでは。
みんな自分に自信がある。それなりの人生経験もある。社会的な地位もある。収入もある。悠士のように個人の才能で社会から認められている人はなおさらだよね。そんな人たちは特に、頭では理解してくれても、結局は自分が正しいというところに舞い戻ってしまうのよ。
だから私のこの手紙も、ただの自己満足でしかない。この手紙によって、私とあなたの距離が縮まることはない。それは今までの話し合いでよく分かったことだもの。
あなたはあくまでも自分が自分でありつづけたいと思っている。
だけど私が「それでも」って思うのは、あなただからじゃない。
他の人なら、私はこういう選択はしなかった。
幸せはあたえるものだというけれど、あたえるって自分を切って差し出すことだから、楽なことばかりじゃないんだよ。誰が相手でもできることじゃないの。
たぶんあなたは人にあたえるってことの本当の意味をまだ知らない。あたえたゆえの喜びのことを知らない。ひとりで生きることを幼い頃から突きつけられてきたから、かわいそうだけどそういう生き方しか知らないのよ。だからきっと結婚のよさがわからないんだと思うの。
だけど、いつまでもそのままではいられない。どんなに人に傷つけられた過去があっても、過去に傷つけられていても、私たちは人のあいだで生きてゆかなければならないんだもの、すべては人対人の問題だもの、そうそう自分の思うようなカードは巡って来ないんだよ。たとえ外面上その形が適っていても、違った負債がまた来るんだよ。
そうでなければ私、こんなにまであなたと一緒にいたいなんて思ったりはしない。ここまで相性が合うのは珍しいと私なりの実績の中で判断したからに他ならないの。
誰だって、より幸福になりたいと人のことを考えずに願ってる。正直本音を言えば、きっと恋人よりも自分が大事。
あなたはね、自分が強いの。
確固たる己を持っているという意味ではなく、自分が嫌なものを受け入れたくないと強く強く思っているのよ。
こんなことを言って、ますます私、嫌われちゃうね。
でも、嫌われても言っておくのが、私のどうしてもおせっかいがでちゃう私の、あなたにはそうは思えないと思うけれど……捨て身のプレゼントです。
はっきり言って、悠士は「真美こそ」と反論すると思う。それはもうしかたがない。そういう反応で別に私、驚かないよ。皆、そうだったから。皆、反撃してきただけ。「心のどこかに私のこんな捨て身の言葉を残して」と願っても、みんな本当に悲しいくらいに同じだったから。
私はね、自分の人生がマイナスから始まったと思ってる。下を見ればきりがないけれどね。
でも今はかなりプラスになったみたい。世の流れ、大筋も見えてきた。とてもとても時間がかかったけれど、少しずつ試行錯誤して、苦しくても自分を曲げて、試行し、ぶつかり、泣いて試して変えてきた。その時の現状からよくなるために、自分を捨てて捨て身で変わる努力をしてきたの。なぜなら本当に真実を知りたかったし、惨めな自分が悔しかったから。
私は、それで救われてきたんだと思うの。普通は年齢と共に下降しがちな運勢が、どんどん上昇しているもの。
そして、知った。
知識じゃないんだよね、大切なことは。知識として知っただけでは、わかったことにならないものが世の中にはあるなあって。まず、それが一歩。
そして、次に知った。
世の中、人の感情そして自分の感情すら掴めず、複雑。けれどその中に、一筋、まるで一定の法則みたいなものがあるなあって。
それは自我の強い人には、正直、見えないと思う。罰は巡ってくだされるっていうのもその一種だけれど、もっと単純な……法則みたいなものがある。
それは口ではうまく表現できないし、表現しても、わかっていない人にはごく浅い認識で「そんなのあたりまえだよ」と聞き流されてしまうようなことなのだけれど。
それは、うん、なんて言ったらいいかなあ。「やわらかい自分で夢をみる」とでも言ったらいいのか……感覚的で伝わらないかもしれないけれど。
けれど、ある一定の人は、わかっているなあと感じた。
それは自活し、苦労の経験があり、雑多な人間関係に揉まれ、苦悩し、そして責任を抱え、人にあたえて、あたえられた人。愛し愛された人。人生に成功した人。そんな人たち。男でも女でも、不意に出会う本、メディアの中で、最終的に到達する場所ってああやっぱりそこであったのか、といつも私は確かめるの。そういう考えって私一人の結論じゃなくて、みんなやっぱりそうなんだなあって思い知るの。
だから人が宇宙論に行きつくのも頷ける。それを神と表現する人もいるけれど。
タイプの差、仕事の差はあっても、なぜか同じ考えに到達してる。経済人でも政治家でもそうよ、存命中に成功した芸術家とかはとくにそう。成功できなかった芸術家は、それを知る前に不遇に死んでる場合が多い。
それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則。
私が過去の不幸から運気をあげて来られたのは、小さい頃からなんとなく無意識にこの大前提を知っていたからだと思うの。体に馴染んだというのかなあ。
はっきり言っちゃうと、今のあなたには絶対に見えない。理屈としては理解できても、生き方にはならない。あなたが将来人にあたえることの喜びを知り、愛し愛されて人生に成功しなければ、理解することはできないと思う。
今のあなたにはどれだけ話しても汲みとれないこと。もしわかっても、法則と生きざまを分けて考えてしまう人は、結局のところわかっていないのと同じことなの。知識として知っただけ。役に立てずにそのうち忘れちゃう。
何故ならそれを知ればまずあたえる喜びを知り、さらには責任をもつ喜びを知るはずだもの。
そして不思議と、ひとりで生きるということの本当の意味も知るの。
あなたの自立はしょせんは不完全なもの、愛は幼いままなの。誰でもその個所は通るんだよね。私もそうだった。
でもそのまま幼いまま一生を終える人もいる。悠士は、それでいいの?
別に逆に私のことを非難してもいいの。攻撃されたらやり返す、そして自分は変わらない。それが人間だもの。いいのよ。わかってる。
でもね、かつて私はあまりにも現状が苦境で突破したかったから、騙されたと思って、今の悠士のことを言う私みたいに、私に意見してくれる先輩女性の言うがまま、自分の意志を捨ててあやつり人形のように生きたという経験があるの。前の彼と別れた後にね。
「人形のように? 自分の意志を捨てるなんて、それで生きているって言えるのか。自分があると言えるのか」
たぶん悠士はそう言うよね。繰り返すけどね、だから人は変われないのよ。
私は自分の人生を良いものにしたかったから、周囲をよく見たの。幸せに見える人たち……何かやり方、法則、性格があるはずだって。
幸せに見えた人たちは、私とはとても考え方が違っていた。私はその憧れの発想に近づくために自分を曲げることにプライドなんてなかった。
というより自分の中の防衛本能が、このまま自分を曲げなかった先の未来は暗いぞと耳元で囁きつづけたんだよね。私の直感が、今の発想のままでいる自分は危険だと囁きつづけたから自分を曲げることに悔しさも屈辱もなかった。そしてその直感は当たっていたと今でも思うの。
正直に言うとあまりにそれをやりすぎて、人に振り回されすぎたこともあったの。やっぱり人の意見って勝手だもの。だけどそれらも私にとっては必要な道程だったと思う。人の発想のまちがいも体感できたし、だんだん私の中で一筋の光みたいなもの、方針というか法則が見えてきたんだ。
当時は珍しがられたよ。私が何でも、どんな人のアドバイスでも真剣に実践しちゃうから。バカなんじゃないかって。摩訶不思議な光景に映ったみたい。
だけどそんな私も二十代後半になると自分をあまり曲げなくなった。前の彼で愛を手に入れ、その時までに得た自分の幸せの法則がもう決定版なのかと思っていたから。自分の生き方に自信があったの。必死に生きてきた中で手に入れた法則だったから。
だけど今思うと、それは若く、りきんだ考え方だった。そして愛はもろくもこわれた。
苦しくても私は、人のやらないことまで、人のやれないことまでやってきた自負があったから、前の彼と別れたときに、尊敬していたその年上の女性から助言されたある言葉が、どうしても飲み込めなかったの。
「なぜ私がそこまで言わなければいけないのかわからない。私だって悪いところもあったけれど、彼だって悪いじゃないか」って。そうしたら、
「わからなくてもいいから、騙されたと思って、とにかく私の言うとおりにしなさい」
彼女はそう言ったの。だけどその言葉は、私にはまったくカケラも理解できない、まるで宇宙人の言葉のようだった。普通だったら、
「ああ。この言葉、反論もできるけど、わからないわけじゃない。でもこんなことするの、悔しいなあ……」
ふつうはその程度じゃない? だけど、それは本当に、その言葉の出所も、発想も、まったくすべてが私には理解できない思考のアドバイスだったの。まるっきりわからなかった。
理解できず反発する私に、
「彼を取り戻したくないならすることはないわよ。だけど本気で取り戻したいんなら、演技でもいいから言うとおりにそうしなさい」
理想的な家庭生活を営んでいるように見えた年上女性にそこまで言われて、あまりにその言葉の意味が理解できない私は、その人の言った言葉を紙に書きおこしてブツブツと丸暗記したんだ。それくらい意味がわからなかったから。肌で理解することなど、まるっきりできなかったから。
そして私はね、その年上の女性の言葉どおりに彼に伝えたの。暗記したセリフを棒読みしたっていうのかな。その通りにしてみたの。
そうしたら、彼が軟化したのがわかった。
それでもそのアドバイスの根底にある思想が、私には結局、わかってはいなかった。ただその言葉に反発しながらも、その根底に横たわる法則を理解する必要があるなあって、自分の中の防衛本能みたいなものがまたほんの少しだけ働いたんだ。彼が軟化したのは事実だったからね。
だけどどうしてそんな理屈になるのか、いくら頭をひねっても本当にわからなかった。当時、あまりのわからなさに、アドバイスしてくれたその女性に、私は泣きながらくってかかったんだ。
「私はあなたとは経てきたものが違うのよ。あなたの人生だってどれほどのものなのよ!」
ってさ。自分の幸せの法則に自信があったから。
でもね、その人は少し涙ぐんで静かに言ったのよ。
「誰も好きで助言しているんじゃない。いい加減、助言する気持ちも分かって」って。
そう言われてさえ私にはわからなかった。ただ相手の涙に反抗・反論を一時引っこめただけ。
だけど、その人の言った言葉は心に留めた。何かが心に引っかかっていた。
望む人生にならないなあ。自分は正当なはずなのにどうして?
それは自分の意見にどこか流れに逆らった力みがあるからなんだと思うの。
あなたとつきあってからも、私はそのアドバイスをことあるごとに読み返していたの。わからなかったけれど、お昼休みにふっと。理解できないけれど、お風呂からあがってふっと。納得いかなかったけれど、今日わからなくても、一週間後にはわかるかも。
変わろうとしている人にとって、状況に変化がなくても、事態は必ず変化しているものだから。私なりにそれは体得してきた真理だったからさ。
あなたとつきあいはじめた頃も、実はまだ半信半疑だった。その言葉の表面じゃなく、言葉の裏の思想がさ。
言おうか? もう、こんなになっちゃったし……その、アドバイスの言葉を。
最大の秘密だったけれど、核心を、さ。
私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。
一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。
私は反論したんだ。「そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか」て。そうしたらこう言われたの。「奴隷でいいから、とにかくそうしなさい」って。
あなたと出会ってからも、そのことは納得いかないながらも、いちおうは頭にはあったの。でも、やっぱり、うまくできなかった。まったく理解できないことは実践できないもの。私のプライドにひっかかる。やっぱり自分は変えられない。
けれど、相性の良さがとても起因したんだと思うけれど、そのうち少し納得いかないことでも、すべてあなたにまかせられるようになったの。前の私だったら「なんで私が……」と反抗していそうなことまで、あなたとならすんなりとできた。
そうしているうちに、私の中で変化が起こった。そしてあのアドバイスの意味が、少しずつ自分のものになっていったの。
あれは女が奴隷になれって意味じゃない。異性との共存の中で、更なる自分を自由に解き放てって意味だったんだ、って。
仮にあのとき、はじめから言葉でそんなふうに言われても、当時の私には実感できないし、真髄が理解できなかったと思うの。生き方の指針とはならないというか。
だから、とにかく相手の言うなりになれ。まず不本意でも動いて、その中で後から真理を知れっていう教えだったんだなあと今ではわかるの。
それと同時期に様々な事態が溶けてきてどんどん単純化し、いろんな真実がはっきりと見えてきたの。昔読んだ本も更なる深い所に本当の意味があったんだなあとわかった。そして自分が望みながらも反発してきた結婚の意味も今更ながらに知ったんだ。
人って、やっぱり不完全。
前の彼は、生まれ育った沖縄の家族はとても仲良く、幼い頃から愛情は十分にあたえられたけれど、長男としての責任を背負っていた。愛情や安心を弟たちにあたえなければいけない立場にあったんだ。
けれど彼は、あたえた後の成果、意味、意義を知ってた。だから自由が好きだったけれど、私との結婚を望んだ。
だけど、違った個所が欠けてた。
悠士はね、彼のようなつまずきは、きっとしない。だけどあなたはきっと違った箇所でつまずいちゃう。たぶんあなたは「自分」につまずいちゃう。すべてうまくはいかないのよ。
あなたは、きっとそのつまずきを上手く回避する予定だろうと思うの。それができるかどうかは、いかに自分を曲げて改革を起こしたかによる。そしてその時に対面しているパートナーによる。友達はどうとでもなる。親も老いてやがて消えてゆく。自分にとって最大のキーパーソンは、唯一、伴侶だけだ。それは「いい人」「悪い人」なんてカテゴリーに分類して判断できるものじゃない。そんなに簡単なら、失敗はないよね。
「ならばそんな危険な賭けはしない。一生、独身だ」
それも選択だけれど、そのまま意外と一生いけない。そりゃあ命を取られる訳じゃないから、どこまでを満足とするかだけれど。楽を選んだツケってやがて必ず来るのよ。
いつか必ずあなたにも自分という地盤が揺れるときがくる。人はやることをやっておかなかったツケは、本当に巡ってくるの。
こうやって、一生懸命書いても、あなたにはきっと伝わらない。あなたは以前の私ほどには変わろうと思っていないから。たぶん、機嫌を損ねてしまうだけ。
でも、いいの。もう慣れてるから。
これが私の、最後になっちゃう、かな……愛情表現です。
ほかの人にだったら、私もこんなことはもうしない。
いいの、自己満足、です。
きっと「人それぞれだろ。生き方も人それぞれ」で、片づけられてしまう。
うん、それでいいの。みんな、そうだもの。
反論はいいの。
きっと私が憎たらしくて私を打撃する言葉をたくさん考えつくと思う。お互い自分の体で自分のツケを払うだけ。自業自得。本当にこれは真理の中の真理というか、まさしくこれだけで世の中が回っているのか、と思うくらいの真理だから。
私はね、結婚するだけならすぐにでもできるの。相手が誰でもいいのなら。
彼ができたと言っているのに、いまだに結婚してほしいとプロポーズしてくる人もいる。なかなか私、嫌われないみたいでさあ。
だけど私は探してた。誰でもいいのでは決してなく「この人だったらついて行きたい」って心から思える、心から惚れきることのできる男性を。
やっとそんな人を見つけたと思ったのだけど……。
また、この先、そんな人が現れるのかなあ。それとも「惚れぬくことのできる男性」よりも「あたえあえる相性」のみを追求してゆくべきなのかなあ。
それは、この先、ゆっくり見ていきたいなあと思っているの。
本当に、人は、変わらないもの。
あなたの地盤が揺れて、変化の時が来るまで、私、待てないし。
それに人って、結局、思い知っても、あんまり変わらないんだよね。
どんなに苦境でも「自分に有利な」という箇所を少し減らしただけで、結局、変われないの。
最大によくいっても、いちおう表面上のお礼をいわれる程度で、相手は私の本当の意図を理解しないし、私たちの仲が「おまえそんな生意気なこと思ってたのか!」ってなるだけで、それか「これも愛情だよ」って逆に説教されちゃうだけで、結局なんにも変わらないの。
もう、いいの。知ってるもん。そんなこと。
だけど、それでも言ったのは、私の愛情、です。
私だって何も憂さを晴らしたかったり、相手を攻撃したかったり、そんな自分の都合で一生懸命言っているわけじゃ決してないのに、絶対にわかってもらえないのよ。「おまえこそわかってるのか」とか「おまえだって××だろ」とか「おまえの方こそ間違ってる!」とか。それでおしまい。
わかってる。でも、いいの。
私が、あなたと、本音でつきあった、あ・か・し、です。
ケジメっていうかな。
お互い自分の人生の中で、見えざる流れによって、いいことも悪いことも、自業自得でおしりをふかされちゃう。今はどっちが正しいか論じあって傷つけ合うのはやめようね。いずれおのおのに結論はでるから。
私達、本当に刺激しあえたし、楽しかったんだもん。
私は、また頑張らなくちゃいけない。また少し、勇気を出して踏み出さなくちゃ。
人生の答えなんて、いつが本当の最終的な答えなのか、わからない。
だけど、人生、きっと今楽をしても、いつかはツケが必ずくるし、結局ずっとどんな人も頑張りつづけるのだろう。
ただ、頑張る「踏ん張り」の質は、選択できると思うの。流れに乗り遅れないようにしかたなく踏ん張ることもあれば、苦しさから逃れるために努力する頑張りもある。
私は、未来に向けて幸せにひろがっていく頑張りを選びたい。ようやく、それができる位置にきたし、暗黙のルール、法則、流れもわかった。
ねえ、悠士。
お互い、頑張ろうね。
本当は、私は、あなたのそばを、離れたくないの。
ただ、もう、行き止まりだなあ、って。
私の恋人は、やっぱりあたえあえる喜びを知っている人でないと、本当の意味での大きな喜び、結果がでないもの。
望んでいる未来を見ることができないもの。
前の彼の時ほど、私があなたとの別れを悲しんでいないように見えるかもしれないけれど、そんなことはないよ。
あなたは、私の中でとても魅力的な男性だったよ。ほんとうに。
私の中で最高にかっこいい男性だった。
一番、すき。
一番、あった。
ずっと一緒にいたいと自然に思える、唯一の男性だった。
だけど愛に対して、どう向き合うか。
それが別れに繋がったんだね……
ねえ、悠士。
感じて。
人はそうそう、本音を出さない。
恋人同士だって、そう。
私のようなタイプは、珍しい。
本音を出して傷つけあうのは、誰だって、自分可愛さに避けているもの。
私だって、自分の落ち度、自己認識の甘さで自己評価をきちんと下せなかった。素直に聞こうとしていても、私にも言いぶんってものが存在したからさ。
けれど、もう私も、誰にもここまでは言わなかった。
ここまで言ったのは、ホント、あなたを愛していたから。
それでも、きっと、伝わらない。
だけど、お互い、自分を信じて、自分の人生で、自業自得を支払おうね。
生意気なことを、いろいろ言いました。
ごめんなさい。
愛をこめて。 真美
第四十四章
海岸線を悠士はバイクで走っていた。海原は白く泡立っていた。もうずっと独りだった。季節に不似合いな渡り鳥が、たった一羽、迷ったように大空を飛んでいった。
おまえの姿こそ今のおれかも知れない。
孤独な翼の行方を目で追いかけた。
おれも一緒に飛べたなら……この思いよ、風になれ。
よろこびも、かなしみも、愛する人がくれた。
ぬくもりも、さみしさも、大切なものはみんなみんな愛する人がくれた。
思いの輪廻は今もこの胸に。
悠士は手のひらで胸をおさえた。
愛とは移ろいやすいものだ。愛はその全てが頂上に到達できるわけではない。愛という冒険に出かけるのは簡単だけれど、続けてゆくのは本当に難しい。愛しあっていても、人の欲や思惑や疑心で、すぐにすれ違い、壊れてしまう。
悠士はバイクのスピードを上げた。
湊誠一郎が生涯をかけて追求してきた愛はすべて「許し」で完結していた。悲しい愛の終結を見ても、それでも愛は素晴らしいものだ、人には未来が必ずある、という祈りに満ちた物語だった。
自分の人生の全貌を悠士はまだ知らない。どう紐解かれて、どうまとまっていくのか。
自分で決断し自力で歩んでいる人生だけれど、ようやく裾野が見えてきたばかりだ。
幸せを願って、それぞれの分岐点で、自分なりに選択し決断しているけれども、人に対する見極めのあまさ、運や実力に対する高すぎる見積もり、いろいろな条件が加味されて、ときに誤った決断をしてしまう。
人生には、不思議な、流れというめぐりあわせがある。
本当に、ちょっとしたサジ加減。あの一言がなかったら、あの時あの場所にいかなかったら。そんな些細なことが大きな意味を持つことがある。
それはきっと、人生という大河の、流れのはやい時期。
今おれに必要なことは、大河の流れに飛び込んで変化することなのだろう。
今こそおれは変わらなければならない、今までの自分を捨てて。愛する人といっしょに生きていけるように。
それが失敗しても上手くいっても、きっと「今」では想像もできないおれが待っている。きっと今とは全く違う感情を加えてるおれがいる。そしてそれはきっと次の更なるいい方向へと流れてゆく。
その自分の姿を早く見てみたかった。
自分の思いを追いかけて、悠士はバイクを走らせている。
おれの人生は、この先どこに流れて行くんだろう。
たぶんおれの人生は、おれの想像の範疇を超えている。おれの書いたシナリオ通りには行かないようになっているのだ。
けれど確信にも似た予感がある――なぜかきっと大丈夫だと思える。
なんとなく、おれは運命に守られているような気がする。誰かが、どこかで見まもってくれている気がする。
なぜって……背中を押しているような「流れ」をいつも感じるから。
大切な瞬間には、いつもこの風を感じていた。
片腕を前に伸ばして、悠士は指先に未来を触れようとした。
ヘッドライトを震わせながら対向車線のバイクが走り去っていった。爆音を響かせて過去へと走り去っていった。
その残響が胸を突き抜けていつまでも残った。
第四十五章
遠い昔、エメラルドの海に、まだ島々が漂っていた頃のお話しです。
島の岬の神殿では、まぶしいほど白い歯の少年が、いつも少女の髪に赤い花を挿してあげていました。
はにかんでうつむいた少女の頬が挿した花の色に染まると、
いつも少年はまぶしそうに目を細めて微笑んでいたの。
髪に挿した花はいつも夜にはしおれてしまったけれど、
次の日の朝には変わらず、また少年が花を挿してあげたんだ。
けれどある時、島々に争いが起こって、少年は少女と離れ離れになってしまったの。
二人の間には、涙色した海。
月の満ち欠けは、いつ再び会えるか知れない二人に、悲しみを降らせたの。
ある夜、少年は祈りをこめて、布に赤い花の絵を描き、思いを託したの。
風の神と、海の神に。
ぼくはまだ帰れない。あの島にいるきみよ、ぼくの想いを知っておくれ。
届けておくれ。ぼくの心を。
きみに花を挿してあげることはできないけれど、ぼくの心を込めたこの赤い花を贈るよ。
その時、風にさらわれて、少年の手から赤い花の布きれが舞った。
海に漂う赤い花はまるで白い波頭と戯れているかのよう。
すると星屑を映し出す波から一頭のイルカが現れて、海におちた布をそっと口にくわえた。
月の光をあびながら、白いイルカは波を蹴り、星の夜空に跳びあがり、青い海に舞い落ちる赤い花を、少女の島へと運んでいった……
満月の照らす、明るい夜。
少女の手元で、赤い花の絵は、一輪の本当の花になったんだ。
(完)
『海の向こうから吹いてくる風』
著 者 アリクラハルト
初 版 2025年8月
copyright © 2025 arikuraharuto All right reserved.
