小説の限界。日本語の限界。
このブログの筆者は小説を書いています。
× × × × × ×

(本文より)
カプチーノを淹れよう。きみが待っているから。
カプチーノを淹れよう。明るい陽差しの中、きみが微笑むから。
ぼくの人生のスケッチは、まだ未完成だけど。
裏の畑の麦の穂は、まだまだ蒼いままだけど。
大地に立っているこの存在を、実感していたいんだ。
カプチーノを淹れよう。きみとぼくのために。
カプチーノを淹れよう。きみの巻き毛の黒髪が四月の風に揺れるから。
「条件は変えられるけど、人は変えられない。また再び誰かを好きになるかも知れないけれど、同じ人ではないわけだよね。
前の人の短所を次の人の長所で埋めたって、前の人の長所を次の人はきっと持ちあわせてはいない。結局は違う場所に歪みがでてきて食い違う。だから人はかけがえがないんだ」
金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。
夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。
夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。
あの北の寒い漁港で、彼はいつも思っていた。この不幸な家族に立脚して人生を切り開いてゆくのではなくて、自分という素材としてのベストな幸福を掴もう、と――だけど、そういうものから切り離された自分なんてものはありえないのだ。そのことが痛いほどよくわかった。
あの人がいたからおれがいたのだ。それを否定することはできない。
人はそんなに違っているわけじゃない。誰もが似たりよったりだ。それなのに人はかけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。
むしろ、こういうべきだった。
その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と。
× × × × × ×
小説を書き上げてつくづく思うことがあります。「ああ。日本語だなあ」と。最初の一行目から最後の行まで全部活字、全部日本語です。
日本に憧れる外国人にはマンガ好き、アニメ好きが多い

『YOUは何しに日本へ?』という番組を見ていると、訪日外国人の中には、めちゃくちゃ日本大好きという人がときどきいます。
そういう人の多くが日本に憧れた理由として、アニメが入口になっていたりします。
『セーラームーン』とかね。ああいうの、他の国にはありませんからね。
わたしたち日本人が『ベルサイユのばら』を見てフランスに憧れるように、『ドラえもん』を見て日本に憧れる人がいるというわけですね。のび太の家なんてTHE・日本ですからね。
ウィキペディアWikipediaのまちがい発見した場合の対処法
活字とちがい絵は国境を軽々と超えていきます。
ジュール・ベルヌなんか、時代の影響で小説家だったけれど、現代の日本に生まれていたならばマンガ家になっていただろうと思います。表現力が段違いですからね。
ベルヌのマンガ、読みたかったなあ。

