バトルものは、売れる少年マンガの黄金律。しかしバトル以外に何を描けばいいのかわからなくなってしまう
ずっと小説を書こうと思っていました。この稿の筆者は小説の出版をしています。
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主人公ツバサは小劇団の役者です。
「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」
恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。
「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」
アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。
「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」
ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。
「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」
惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。
「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ」
劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。
「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」
ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」
尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。
「妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ」
そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。
「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」
そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。
「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」
そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。
「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
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子供の頃からずっと小説を書こうと思っていたのですが、あまりにも本ブログのタイトルの由来にもなっているドラクエや少年マンガに影響を受けて、すっかり物語が書けなくなってしまいました。
何故書けなくなったのかというと、敵を殴ったり切り倒したりしないと物語にならないという脳になってしまったからです。少年マンガって敵と格闘ばかりしているんですよね。ドラクエも敵とバトルばかりしています。そういう作品ばかり見ていると、バトルしないとストーリーじゃないというか、バトル以外に何を描けばいいのかわからなくなってしまうのでした。
現実社会は非接触の世界なのに、接触系バトルばかり読んでどうする
バトルものを描け! 売れる少年マンガのセオリーとしては決して間違っていないと思いますが、小説を書こうとすると大問題が発生します。バトルシーンというのは絵で見せるものなので、あまり小説に向いていないのです。小説は心の内面を描くことは得意ですが、迫力のある画面を読者に感じさせることは苦手です。映画や漫画にはかないません。
そもそもこの世界にはバトルしかないのでしょうか。恋愛だってバトル、企業だってバトル、宗教家だって心のバトルをしていると解釈すれば、すべてはバトルものだと言えるかもしれません。「生きていくことはバトルだ」と解釈するならば、すべてはバトルものでしょう。
私の小説『ツバサ』も恋愛系の成長譚ですが、しっかりと心の闘いをしているので「バトルもの」といっていいかもしれません。ただドラクエや少年マンガに影響されたバトルというのは、心の闘いでは終わらないんですよ。物理的に相手をぶっ飛ばしたくなるんですよね(笑)。
実際に『ドラゴンボール』『ワンピース』『北斗の拳』は相手を直接パンチしてますし、『鬼滅の刃』『進撃の巨人』は相手を武器で斬っています。
長い間、こういう接触系バトルにあまりにもどっぷりとつかりすぎました。しかし現実世界はほとんどの場合は非接触(バトル)ですよね。接触系バトルをすれば逮捕・収監されてしまうでしょう。こういった接触バトルものばかりに触れていると、非接触でできている現実社会にどう対応していいのかわからなくなってしまいます。
人生の教科書(もっとも影響を受けた本)には「パンチでぶっとばせ」と書いてあるのに、現実には「やっちゃだめ」となっているからです。
唯一、男女のセックスという接触系があります。これこそは福音、希望です。ただしマンガや小説で表現できるかというと……ポルノにならないように注意しましょう。
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小説家志望なら少年マンガよりも少女マンガがおすすめ
そこで少女マンガです。少女マンガは少年マンガのように敵を殴ったり斬ったりしないはずです。それでは少女漫画は何を描いているのでしょうか?
少女マンガを精読し分析すると、少女マンガでは……
気になる人の行為(視覚刺激)にガーンと衝撃を受けています。
周囲のヒソヒソ話や聞えよがしの悪口(聴覚刺激)にガーンと衝撃を受けています。
これが少年マンガのパンチ・技に相当するんですね。なるほどー。
敵側の言葉に打ちのめされたり、自分の心の弱気に打ちのめされます。他人といる場面でも、一人の場面でも、悩みます。苦しみます。
ガーンと殴られ系の衝撃だけでなく、『ちびまる子ちゃん』みたいに顔に斜がサーッとかかる系の衝撃もあります。隠れて泣いてしまうというパターンもあります。少年マンガにはなかなか見られない「泣く」という反応パターンは新鮮でした。ダメージにもいろんな種類があるということですね。
少女まんがでは、心の衝撃、それがバトルの代わりなのですね。。相手の言葉や行為が敵のパンチに相当します。逆に主人公側の応酬パンチは、直接言い返したり、その弱い心を克服しようと心の闘いをして克己するのがそれに相当します。接触系バトルをやらなくても、立派にバトルものとして成立しているのでした。
好ましくない話題、ひそひそ話を聞いてしまう。陰口に傷つく。心を揺さぶられる。感情がへこむ。誰かの声が頭の中で響き渡る。くやしくて泣く。にらむ。目が合う。突っ張りとおせるか。チッと舌打ちや、ジロッと睨みなど無言の攻撃もある。どちらがどう勝ち、どちらがどう負けるか。勝ちざま、負けざまが見せ場。
偶然会う。恋のドキドキ。期待の重圧と、実力のなさに悩む。頑張っていることが評価されない。苦しむ。汗を流す。昨日の自分を超えていく努力をする。
マイナスの影響とプラスの影響がある出来事で物語が進行するのではなく、出来事に絡みつく感情で進行する。
他人の期待に応えようとする。自分一人なら止められるのに止めたくても止められない。それが頑張る動機になる。ライバルの成長の視覚刺激。高い壁に次々とぶつかる葛藤。悩み。挫折して泣いて縋る。負けるものか。
感情の渦巻きで怒涛の展開をしていきます。
少年まんがから「殴る」「斬る」を除いたら? 少女まんがから学ぶバトルしない物語の盛り上げ方
少女マンガを研究してみました。少年マンガとは違った意味で、少女マンガもやっぱりバトルものでした。
パンチというのは触覚的刺激です。少年マンガにはこのパンチ系が多いのですが、少女マンガは聴覚的刺激と視覚系刺激とが多いようです。少年マンガは肉体的に打ちのめされるのですが、少女マンガは精神的に打ちのめされるのです。
心に衝撃を受けるのは主人公側だけでなく、脇役も心に衝撃を受けながら、もつれあうようにして物語は展開します。この場合、衝撃を受ける側、傷つく側が話主・語り部となりますね。傷つき方が見せ場であるからです。小説でこれをやる場合はあえて主人公(感じる側)を決めないほうがいいかもしれません。傷つく側が話主です。
生きていくことはたたかいだから、どんな物語でも、すべてはバトル(心の葛藤)ものなのです。
しかし現実は少年マンガよりも少女マンガに近いものです。実社会では心の葛藤、視覚的刺激、聴覚的刺激はありますが、接触刺激(パンチや斬撃)は滅多にありません。格闘技をやるか、大震災・大洪水に巻き込まれるか、性的接触しない限り、実社会に接触刺激はないといっても過言ではないでしょう。小説も同じです。基本的に小説は接触刺激ではなく心の渦巻きで展開されていきます。
人生を学びたいなら少年マンガよりも少女マンガを読むべきでしょう。
接触系バトル漫画やバトルゲームばかりしていると、非接触プレイばかりの現実社会に適応できなくなるぞ。