吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』から学ぶ、苦痛の哲学。苦痛によって正常を知る。
悩み、ありますか? 苦しみ、ありますか?
「くやしくてやりきれない」そんな気持ちになることがあるでしょうか?
本稿は吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』から学ぶ、悔しさを昇華する方法について語っています。
この稿を読めば悔しさ、苦痛の正体がわかり、マイナスの気持ちをどうすればプラスに変えられるかを知ることができますよ。
× × × × × ×
このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
× × × × × ×
くやしさは冒険の人生の勲章
『挫折を経験した事がない者は、何も新しい事に挑戦したことが無いということだ。』
相対性理論で新しい宇宙観に挑んだアインシュタインは言っています。
アインシュタイン理論によれば、失望とか挫折はあったほうがいいってことになりますよね?
くやしさは挑戦したあかし、冒険の人生の勲章でもあります。
しかしなかなか人間、感情をスパッと割り切れるものじゃありません。
もし挫折とか失意の人がいたら、いい本を見つけたので紹介します。
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』。そこにはこのように書いてあります。
「王位を奪われた国王以外に、誰が国王でないことを不幸に感じる者があろう」と。
非常に際立った表現だと思います。具体的に書いてくれるから、言いたいことがよくわかりますよね。私もいろいろとくやしい思いを知っていますが、国王になれないことを不幸と感じたことは一度もないな(笑)。
私たちは、会社の課長になれなかったらくやしいと感じますが、国王になれなくてもくやしいとは思いません。たしかに、たしかに。
それは、会社の課長にはなる機会も実力も自分にあると思っているけれど、国王にはなる機会も実力もないと自分で思っているからです。
つまりくやしさとは、自分にはそれを成し遂げる力があると自覚しているということなんですね。
くやしさと逆の姿を思い浮かべれば、自分の本当に望んでいる気持ちがわかる。
「片目を不幸と感じるのは、本来人間が二つ目を備えているはずなのにそれを欠いているからだ。もともと人間が一つ目だったら片目を悲しむものはいない。むしろ二つ目を悲しむに違いない」と『君たちはどう生きるか』には書いてあります。
いい表現ですね。小説というのは結論を述べるものではなく、このように比喩を表現するものだと思います。そうすることでただ結論を述べたよりも、結論が深くなり、より印象深くなるという効果があります。
不幸や悲しみは、周囲との比較によって生じるというのです。
苦痛には自分の本当のねがいや人間のあるべき姿を導き出す力がある。
私はどうすれば速く走れるか死ぬほど考えたランナーですが、足が三本あれば速く走れるとしても、三本足にはなりたいと思いません。
× × × × × ×
※雑誌『ランナーズ』の元ライターである本ブログの筆者の書籍『市民ランナーという走り方』(サブスリー・グランドスラム養成講座)。Amazon電子書籍版、ペーパーバック版(紙書籍)発売中。
「コーチのひとことで私のランニングは劇的に進化しました」エリートランナーがこう言っているのを聞くことがあります。市民ランナーはこのような奇跡を体験することはできないのでしょうか?
いいえ。できます。そのために書かれた本が本書『市民ランナーという走り方』。ランニングフォームをつくるための脳内イメージワードによって速く走れるようになるという新メソッドを本書では提唱しています。「言葉の力によって速くなる」という本書の新理論によって、あなたのランニングを進化させ、現状を打破し、自己ベスト更新、そして市民ランナーの三冠・グランドスラム(マラソン・サブスリー。100km・サブテン。富士登山競争のサミッター)を達成するのをサポートします。
●言葉の力で速くなる「動的バランス走法」「ヘルメスの靴」「アトムのジェット走法」「かかと落としを効果的に決める走法」
●絶対にやってはいけない「スクワット走法」とはどんなフォーム?
●ピッチ走法よりもストライド走法! ハサミは両方に開かれる走法。
●スピードで遊ぶ。スピードを楽しむ。オオカミランニングのすすめ。
●腹圧をかける走法。呼吸の限界がスピードの限界。背の低い、太った人のように走る。
●マラソンの極意「複数のフォームを使い回せ」とは?
●究極の走り方「あなたの走り方は、あなたの肉体に聞け」
本書を読めば、言葉のもつイメージ喚起力で、フォームが効率化・最適化されて、同じトレーニング量でも速く走ることができるようになります。
あなたはどうして走るのですか? あなたよりも速く走る人はいくらでもいるというのに。市民ランナーがなぜ走るのか、本書では一つの答えを提示しています。
× × × × × ×
どんなレースに出ても自分よりも速くて強いランナーがいます。それが市民ランナーの現実です。勝てないのになお走るのはなぜでしょうか? どうせいつか死んでしまうからといって、今すぐに生きることを諦めるわけにはいきません。未完成で勝負して、未完成で引退して、未完成のまま死んでいくのが人生ではありませんか? あなたはどうして走るのですか?
星月夜を舞台に、宇宙を翔けるように、街灯に輝く夜の街を駆け抜けましょう。あなたが走れば、夜の街はイルミネーションを灯したように輝くのです。そして生きるよろこびに満ち溢れたあなたの走りを見て、自分もそんな風に生きたいと、あなたから勇気をもらって、どこかの誰かがあなたの足跡を追いかけて走り出すのです。歓喜を魔法のようにまき散らしながら、この世界を走りましょう。それが市民ランナーという走り方です。
× × × × × ×
「悲しみ、苦しみに出会うおかげで、僕たちは本来人間がどういうものであるか、ということを知る。苦痛によって正常を知る」と。『君たちはどう生きるか』では内臓のたとえでこのことを説明しています。正常ならば内臓の働きを感じないが、不調だからこそ内臓の働きを感じることができる、と。
「心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じている。苦痛のおかげで人間が本来どういうものであるべきかということをしっかりと心にとらえることができるのだ」と。
友達からいじめられたり、仲間はずれにされたりしたときに感じる苦しみやつらさは、それが人間本来あるべき姿でないことから生じていると吉野源三郎はいいます。つまり友達とは仲良く受け入れられている状態こそが人間本来の姿だと。悔しさと逆の姿を思い浮かべれば、自分の本当に望んでいる気持ちがわかります。
自分の本当の気持ちを知るのに悲しみや苦悩、くやしさは使えるというのです。
コペルくんへの言葉は、作者自身への言葉だったからこそ、今もなお人の心を打つ
「憎み合ったり敵対し合うことを不幸と感じ苦しむのは、人間が本来、調和して生きてゆくべきものだからだ」と『君たちはどう生きるか』にあります。
『君たちはどう生きるか』は1937年に刊行された本です。これから日中戦争(1937-1945)それにつづく太平洋戦争(1941-1945)がはじまろうという時代です。時代背景を考えれば、どれほど勇気ある執筆だったかということがわかりますよね。
本書では、外国人とも憎み合わず、敵対せず、調和していくようにと暗に子供たちを導いています。軍国少年教育とは真逆のヒューマニズムですね。もっとも白人植民地主義者は押し入り強盗みたいなものですから「押し入り強盗と友達になろうとしても無理だ」という主張にも一理あると私は思います。
しかしそういう考えとは別に、逆の考えもあったし、それを主張できた人がいた、ということを心にとどめたいと思います。あの時代に、よくまあこのようなことが書けたものだと思うのです。。
作中では、上級生に制裁される友達仲間の輪に怖くて加われず逃げたコペルくんが、自分を恥じるシーンで描かれている言葉ですが、作者が描きたかったのは、おそらく戦争のことでしょう。上級生というのは軍国主義者の大人たちにかこつけた仮託だと思います。
作者の吉野源三郎はコペルくんのような世間や軍人や官憲を恐いと思う心を持ちながらも、自分の心の声が叔父さんのように囁くから、勇気をもって正しいと思うことをしたのでしょう。
コペルくんへの言葉は、作者自身への言葉だったからこそ、今もなお人の心を打つのに違いありません。
「人間が自分をみじめだと思うのは、本来、みじめなものであってはならないからだ」と。
「もって生まれた才能を自由にのばしてゆけないことをやり切れないと思うのは、本来、人間はそうあるべきだからだ」と。
戦争によって家畜のように戦場に追い立てられみじめな思いをして、もって生まれた才能を無駄にしてしまった多くの若者たちがいました。
敗戦後に戦争反対をいうのは簡単ですが、まだ勝敗もさだかでない時期に「若者の才能が自由に伸ばせないみじめな軍国主義はやめろ」というのは難しいことです。
原爆を落とされて敗戦した後なら、ハルノートどおりに満州なんて無血引き渡ししてしまえばよかったんだと言えますが、ケンカに負ける前に満州放棄は難しかったと思います。
それで戦争を避けられても、魂が死んでしまう。
それでもそういうことが決する前に「周囲に流されるのではなく、自分で考えて、自分の道を勇気をもって行け」ということは、まさにそのように考えている者でなければできないことだと思います。
吉野源三郎も、悩み、苦しみ、くやしさから、おのれの本当の気持ちに気づいたのでしょう。
苦しみや悲しみは生きるために利用できる
「ぼくたちは、自分の苦しみや悲しみから、いつでもこういう知識を汲みだすことができる」
苦しみや悲しみを否定したり消し去るのではなく、生きるために利用しましょう。
くやしさをしっかりと見つめて、分析して、逆の感情を思い浮かべます。
それこそがあなたの望んだ本当の姿です。
マイナスの感情を、プラスに昇華することができます。
「自分勝手な欲望や虚栄心から、不幸や苦労を感じるならば、それらを去れば、不幸や苦労はなくなる。自分勝手な欲望や、虚栄心を持つべきではないことを苦痛や苦労が教えてくれる」
「ぼくたちが悔恨の思いに打たれるのは、自分はそうでなく行動することもできたと考えるからだ」
失意はあってもいいのです。失意あっての冒険の人生です。
失意から、自分の欲望、本当のあるべき姿を知ることができます。
「苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲みだしていこう。正しい道を歩いてゆく力があるからこそ、こんな苦しみもなめるのだ」
苦痛はただの苦痛ではない。自分の本当の望みや、あるべき理想を教えてくれるのです。
悩みがあっても、悩みをかかえたまま走ればいい
私たちは、どう生きるか? それは私には言えません。個人がそれぞれ結論をだしていくべき問題です。
しかし、失意、苦悩、くやしさから本当の自分の気持ちがわかれば、どうすればいいのか、もうわかりますよね? わたしにいえることは、ただ一つ、うじうじ考えるより、今この瞬間即座に行動した方がいい、ということだけです。
いつまでも考えているのはもうやめよう。いつまで考えつづければ気が済むのですか?
きっとあなたはもうコペルくんよりもはるかに年上のはずです。もしかしたら執筆当時の吉野源三郎よりも年上になっているかもしれません。
悩みがあっても悩みをかかえたまま走ればいい。いつまでもうじうじすんな!
私たちは、どう生きるか? その答えは人それぞれですが、たとえどんな答えであっても、それを今すぐ行動にうつすべきだと思います。冬には春になったら始めよう、春には夏になったら始めよう、では何も始まりません。やってみて、ぶつからなければ、くやしさも苦悩もないのです。何かに気づくこともありません。
「僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進歩してきたのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。そして僕はそれに役立つような人間になりたいと思います」
コペル君は苦痛から、この考えにいたりました。苦痛には自分の本当のねがいや、人間のあるべき姿を、導き出す力があるのです。
戦前にこういうことを書いた人がいたということが、私たちに勇気をくれます。