ここでは「それでも性差は存在する…」と小さく呟くガリレオ・ハルトの声をお届けします。
話しは合わないが、ケンカはしない
パートナーのイロハと結婚した。とても仲良くしているが、しかし話が合うというわけでは決してない。
いや、どちらかというと話しは合わない方だと思う。
昔はあまりにも話しが合わなくてイライラしたこともあった。パートナーと真正面から向き合おうとすればするほど、あまりにも話しがあわなくて欲求不満がたまっていった。
その不満が爆発してケンカをしたこともあった。
今もその話が合わないところは解消されていない。
ところが今は昔のようにケンカをすることはなくなった。
「真正面から向き合わない」スキルをおぼえた
どうしてケンカをすることがなくなったのか?
それは「真正面から向き合わない」スキルを覚えたためである。
どういうスキルかって?
「相手の話を耳を傾けて傾聴しない」というスキルである。聞くともなしにラジオを聴いているように相手の話しを聞き流しているのが今の私だ。
そういうスタンスに立つことで、話が合わなくてイライラすることはなくなった。
まともに向き合うことでケンカになるぐらいならば、話しを聞き流してケンカにならない方がずっといい。
今の僕はイロハの話を聞いていないことがよくある。
生返事は最高の返事
彼女が何かを言っているが、意味として耳には入ってきていない。
「ああ、ああ」と生返事をしているだけだ。
それでいいと思っている。
自分の感性とかけ離れた内容に話しを同じ地平線にまでもっていくのは大仕事だ。
ときどき「聞いてないでしょ!」と怒られることがあるが、それはお互い様である。
イロハも私の話しをちゃんと聞いていないのだ。「ふーん。そうなんだー」と言っているときは、たいてい話しを聞いていない。
生返事である。
しかしそれでいいと思っている。それでイロハもストレスをためずに「喋る」という快楽だけを享受しているのだから。
昔は「人の話を聞かない」ことを軽視されているように私が感じて、ケンカの原因になったこともあった。
でも今はお互いに相手の話を聞いていない。聞かないことでフラストレーションを回避している。
ケンカするぐらいなら「ん? 今、何か言った?」ぐらいの方がいい。
生返事は最高の返事なのだ。
違いは個性の差ではなく男女の性差
ところで私ハルトと妻イロハは、一人の人間として話が合わないのであろうか。
話の合わない人をパートナーに選んでしまったミスチョイスなのだろうか。
それともそもそも異性だから、もともとあまり話しが合わないのだろうか。
この違いは個性ではなく男女の性差なのではないのかと思うことが私にはよくある。
およそ男と女であれば、たいていの人は話が合わないのではないだろうか。
話しが合わないのは、男女の脳の性差のゆえではないのか。だとすればなおさら彼女にイライラしても始まらない。
たとえば、男の子はたいてい昆虫が好きだが、イロハは昆虫が大嫌いである。そして驚くほど昆虫を知らない。
たとえばオニヤンマとかミヤマクワガタを男の子なら誰でも知っているが、そういうのをイロハはさっぱり知らないのだ。
ただ無知な女だというなら話しは終わりだ。しかしこの話しには続きがある。
イロハは花の名前を無茶苦茶知っている。萩の花とかケイトウとかクチナシとかリンドウとか。
ふつうの男の子が知らないような草花の名前をやたらと知っているのだ。
こんなに花に詳しい人がどうして虫を全然知らないかなあと不思議に思うほどだ。
能力差ではなく、性差としか言いようがない
たいていの男の子は恐竜が大好きである。スピノサウルスとかモササウルスとか。
しかしイロハにはティラノサウルスとアロサウルスの区別もつかない。「骨だなー」としか思わないらしい。興味がないのだ。草食恐竜と肉食恐竜の区別も、陸生動物か海生動物かの区別もよくわからないようだ。
ただの頭が悪い女だというのなら話しは終わりだ。しかしこの話しには続きがある。
イロハはふつうの男の子(ハルト)が全然わからない畑の野菜にやたらと詳しいのである。
ドライブしていると畑では地方の特産が栽培されている。オクラとかインゲンマメとかコンニャクとかサツマイモとか、驚くほどイロハは知っている。
どうしてそんな草の見分けがつくのかな?
男の子にはスピノサウルスとティラノサウルスの差の方がわかりやすいが、女の子にはネギとタマネギの差の方がわかりやすいようなのだ。
能力の差ではなく、頭がいいとか悪いとかではなく、これは性差としか言いようがないのではないか。
たとえばイロハには方向感覚がほとんどない。クルマでドライブしたら男の子は目的地がだいたいどっち方角にあるか把握しているものだが、その点、イロハはさっぱりである。
旅行をしても場所のことは覚えていない。その代わりその日の着ていた服や見た花や食べたもののことはやたらとはっきりと思えている。
コシャリを食べたのがエジプトだったのかヨルダンだったのかモロッコだったのかイロハは覚えていないのだ。
しかしコシャリがどんな料理で、中に何が入っていたかはやたらと詳しく覚えている。
ハルト「コシャリってどんな料理だっけ?」
イロハ「ひよこ豆とレンズマメの混ざったマカロニご飯だよ。トマトソース味で……。どこで食べたんだっけ? モロッコかな?」
ハルト「エジプトだよ」
いつもこんな具合である。
同じ経験をしても、覚えていることが夫婦でまるっきり違うのだ。
個体差というよりは、性差という方が正しい
イロハ「マレーシアのナシレマって覚えてる? おいしかったよね。また食べたいね。あれ、家でつくれないかな?」
ハルト「ナシレマッ? なんだっけそれ?」
イロハ「ほら。朝、海に向かう途中で屋台で買って食べたじゃない? バナナの葉でつつまれていて。きれいな砂浜を馬が駆けて行くのをずっとナシレマ食べながら眺めてたじゃない。私がクラゲに刺された海だよ。マラッカだっけ?」
ハルト「ああ。あれか。わかった、ナシレマ。ペナンだよ。」
という具合である。
同じ体験をしても、こうまでくっきりと覚えていることに差があることをどう説明すればいいのか。
個体差というよりは、性差という方が正しいのではないかという気がするのだ。
どちらの性が上ということではなく。
そう考えると個人の個性の差でもない「話があわないこと」に目くじらを立てるのは愚かなことだ。
「酒を飲むなら女と飲むより男と飲んだ方が楽しい」という男や、「女子会、最高!」という女は、むしろ当然なのかもしれない。
興味の方向性の違いが脳の性差だとすれば、同性の方が話しが合うのが当然だ。
異性の話しは聞き流すぐらいでちょうどいいのではないか。
「星の王子さま」のように、まともに相手の話しを聞いてストレスをためて離婚してしまうような不器用でなくて本当によかった。
こんにゃく芋を知り、アーケロンが分からない女。花を知り、トンボやセミがわからない女。
会話があるのがいいとは限らない
会話があるのがいいとは限らない。
言葉の通じない海外に憧れるのも、言葉とか意味とかいうものにうんざりしているからかもしれないではないか。
というわけでイロハさんよ。私が君の話しをろくに聞いていなかったとしても怒っちゃ駄目だ。
深謀遠慮な行動なのだよ。生返事というのは。
生返事が夫婦の中をつなぐと思ってくれて構わない。