『インベスターZ』から知った「人口ボーナス」理論
日本が高度経済成長したのは、その時代に働き盛りだった人たちが特別に頑張ったからではなく、たんに人口ボーナスがあったからだ、という説があります。わたしがこの説を知ったのは、『インベスターZ』という投資系の漫画でした。
高度経済成長を支えたのは世代でいうと団塊の世代です。第一次ベビーブーム世代ともいいますね。高度経済成長期は彼らが頑張ったから成し遂げられたことではなく、ただたんに人口ボーナスがあったからだ、というのはいったいどのような意味なのでしょうか?
「人口ボーナス」理論とは?
人口ボーナスというのは、子供や高齢者に比べて、生産人口、労働人口が多い状態だと定義されています。この状態のときには、低い社会保障費を経済成長に投資できるし、各個人の消費が拡大することから、国として経済成長するという理屈です。
まあ、そんな難しいことを考えなくても、単純に人口が増えればGDPは大きくなるのは自明のことです。中国がいい例ですね。日本の三倍の経済規模を誇りますが、人民全員が日本人よりも豊かなわけではありません。人口は日本の十倍以上ですからね。国としての経済成長はGDPベースで語られることが多いので、このように単純に人口が増え続ければGDPは大きくなります。
あの経済成長期は、それだけのことだ、というんですね。人口ボーナス理論によれば。
言葉がなければ、定義、考え方、概念も存在しない
わたしは学生時代に経済ではなく文学に全振りした人間なので、学び舎で真正面から経済理論に取り組んだことは一度もありません。
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主人公ツバサは小劇団の役者です。
「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」
恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。
「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」
アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。
「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」
ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。
「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」
惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。
「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ」
劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。
「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」
ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」
尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。
「妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ」
そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。
「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」
そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。
「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」
そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。
「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
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こんな「人口ボーナス」なんて言葉はいつごろから言われるようになったのでしょうか? 昔からあった言葉なのでしょうか? もしも昔からそういう言葉があったのなら、そういう定義、概念があったということと同じです。現在、日本が人口ボーナス期にあって、やがて人口オーナス期になることは、誰にでもわかったことではありますまいか? とくに経済学者はなぜそれを指摘しなかった!?
ウィキペディアで調べると、人口ボーナスというのは、アメリカの学者が21世紀初頭に言い出したことみたいです。つまりそれまではそんな考え方もなかったということです。
高度経済成長はその時代に働き盛りだった団塊の世代が「おれたちが頑張った。おれたちは偉い。おれたちには年金受給の資格がある」というのは、じゅうぶんな理屈だったのです。だって反論する理論がなかったのだから。個人の実感としてはもちろん頑張ったのでしょう。でもほかの世代だって頑張っている人は頑張っています。それは個人の問題で世代の問題ではありません。
新人類も世界を刷新、革新できなかった
まあ、今は反論する理屈があるから、高度経済成長は、団塊の世代の特別な努力によって成し遂げられたことではないということになりました。経済理論がなくても、生活実感としてそれはわかります。
たとえば新人類と呼ばれた世代の人たちも、世の中に華々しくデビューしましたが、新人類という言葉にふさわしい新しい世界をつくりだすことはできませんでした。新人類という言葉だけで、世界を新しいものに刷新することはできなかったのです。ましてやバブル世代なんか泡のように膨らんではじける好景気を指すだけの言葉なので、そんな世代が世界を革新できるわけがありません。それと同様に団塊の世代も、その数の力で日本のGDPの記録的な成長をつくりましたが、その世代だけが特別視されるべきなにかを持っていたわけではありませんでした。
こうしてみると、やっぱり世代ではなく、天才が世の中を変えたんだなあと思わざるを得ません。団塊の世代だけが特別に頑張ったのだから年金を満額受け取れて、下の世代はそれにくらべて頑張っていないのだから年金を受け取れなくても仕方がないというのは、考え方が間違っているということですね。