『バックパッカースタイル 楽園探求の旅』アリクラハルト

本-映画-メディア
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『ドラクエ的な人生』とは?

心の放浪者アリクラハルトの人生を走り抜けるためのオピニオン系ブログ。

書籍『市民ランナーという走り方(マラソン・サブスリー。グランドスラム養成講座)』。『通勤自転車からはじめるロードバイク生活』。『バックパッカー・スタイル』『海の向こうから吹いてくる風』。『帰国子女が語る第二の故郷 愛憎の韓国ソウル』『読書家が選ぶ死ぬまでに読むべき名作文学 私的世界十大小説』Amazonキンドル書籍にて発売中です。

●まえがき

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旅の目的は「冒険」ではなく「真理」

西遊記の三蔵法師のモデルとなった玄奘三蔵が西へと旅立ったのは「冒険」がしたかったからではありません。「真理」を手に入れたかったからです。「この世に生きることの意味」「どうすれば苦しみから救われるのか」を知りたかったからです。旅のどんな苦難にも耐えられたのは、大乗仏教の経典の中に自分の求めているものがあると信じていたからでした。

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旅をするのは「何かを探しているから」

この本の著者であるアリクラハルトは、バックパッカースタイルで世界30か国100都市以上を旅してきた旅人です。その私にも似た思いがあります。旅をしたのは冒険がしたかったからではありません。どこかで何かを探していました。

楽園探求の旅。言うのは簡単です。しかし楽園とはどんな場所でしょうか。そこに何があれば私は満足できるのでしょう。旅路の果てに私が掴んだ楽園思想とは? それをまとめたのが本書になります。

幸せに生きるとはどういうことなのか。そもそも幸せとは何なのか。人生の意味を追求せずに旅をすることに、私はあまり興味がありません。

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大切なのは「どこにいるか」ではなく「心になにが映ったか」

百聞は一見に如かずの精神で、自分とは違う価値観を生きている人々をこの目でたくさん見てきました。彼らの価値観を、自分の人生に反映させることはできないものでしょうか。自分の人生を変えることはできないものでしょうか。

やればできる、というのが本書の結論です。旅から感じたこと、学んだこと。それこそが西天取経の旅の「お経」に相当する私の旅人生の言葉です。

本書は人間の魂に一時代を画する哲学というような大それたものではなく、私のための道標です。

バックパッカースタイルで生きてみたら、アリクラハルトはこんなものを見つけた。アリクラハルトはこんなことを感じたというようなことが書いてあります。

しかしだからといって、それを伝えることが無駄だとは思っていません。

私にとって真実でも、あなたにとって真実とは限りません。そのことはよくわかっています。それぞれの人にとっての真実は、各人の具体的な状況、具体的な経験の中で、それぞれが見つけるものでしょう。

しかし真実を見つけるための方法論は伝えることができます。それが本書の説くバックパッカースタイルです。ユーミン主義であり、プアイズムであり、新狩猟採集民としての生き方であり、お客さまという権力であったりします。

自分が何を求めていたのか。自分がどうしてそんな場所をさまようことになったのか。道に迷ったときに、ここに戻って確認できるように、そのための道標です。それが同じように人生の旅に船出しようとする若い皆さんの参考になれば、これにまさるよろこびはありません。

また、私自身のあらたなる旅立ちの前の、決意表明でもあります。人はいつまでも旅人です。人生という旅を、私はバックパッカースタイルで通り過ぎてみようと決めたのです。

アリクラハルト

 

 

●ユーミン主義

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天才も老い、すべては未完成に終わる

ロンダニーニのピエタと呼ばれる作品をご存知でしょうか。サン・ピエトロ大聖堂の「この世のものとは思えないほど美しいピエタ」を彫った天才、ミケランジェロの最後の彫刻作品といわれるものです。

サン・ピエトロのピエタほどの彫刻を二十代でつくってしまった天才は「芸術家の中の芸術家」とか「神の如き」など、生前から最高の賞賛をうけた大芸術家でした。その彼が、老境に達して作り上げた最後の彫刻とはどんなものだったのでしょうか?

私はこのミケランジェロ最後の作品、ロンダニーニのピエタを実際に見たことがあります。ピエタというのは、十字架から降ろされたイエス・キリストの亡骸を抱く聖母マリアを主題とした作品のことです。だから聖ペテロ大聖堂のものだけでなく、ほかにもピエタと呼ばれる作品がたくさんあります。十字架のキリストみたいな、よくあるタイトルの作品だと思っていいでしょう。

ロンダニーニのピエタは、神の如しと称えられたミケランジェロが八十代で制作した生涯最後の作品でした。老いた彼は、腰が曲がって、鑿を振るう力もなく、視力を失いながら、病に倒れる前日までこれを彫り続けたと言われています。それほどまでに執念を燃やして取り組んだ遺作ですが……悲しいほどに不出来でした。そして悲しいほどに未完成でした。二十代の頃のピエタとはくらべようもありません。多くの人がガッカリして足早に通り過ぎていくその彫刻の前で、私はしばし腑抜けたように佇んでいました。

「天才も老い、すべては未完成で終わる」

私が感じていたのは、ある種の哀しみでした。あのミケランジェロの最後の作品がこんなものとは……若き日に神がかった作品をつくった天才が、人生の最後に、こんなものしか作れなかったのか。

不出来な彫刻の前でいろんな思いが湧きあがりました。人間の成長とはなんなのでしょうか。ロンダニーニのピエタを見ていると、人間の後半生は、手に入れるものよりも失うもののほうが多いのではないか、と思わずにはいられません。その彫刻は、聖母のかなしみではなくて、人生の残酷な現実を表現しているような気がしてなりませんでした。

時間が足りない。それが人生。未完成でもそれが人生。ゴッホのように無名のまま死んだ芸術家とは違って、ミケランジェロは生前から芸術家としての富と名声を手にしていました。なにも無理してこの作品をつくらなくてもよかったのです。それでもミケランジェロが死の前日まで鑿をふるっていたということが、後世の私たちに何かを伝えてくるのです。

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死ぬ前に気づくことというのは、たぶん「ありきたりのこと」でしかない

私はミケランジェロの最後の作品に多くの期待をよせすぎたのかもしれません。私たちは偉人や天才に何かを求めすぎているのでしょう。偉大な天才たちの生涯には、凡人の知らない人生の真理が隠されているはずだ。彼らはそれを作品に残して死んだはずだ。たとえばお経とか聖典のなかに。私たちはそんな幻想を抱きがちです。まえがきに登場した玄奘三蔵もそのひとりでした。

しかしよく考えてみれば、ミケランジェロをはじめ、この地球上でこれまでに何人の天才たちが生まれ、去っていったでしょうか? 死ぬ前に天才たちが真実を悟ったり、なにかを残しているのなら、この世は真実に満ち溢れているはずです。

しかしどこを探してもそんなものは見つかりません。きっと死ぬ前に気づくことというのは、たぶん「ありきたりのこと」でしかないのです。

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退職するとは、新たな生き方をするということ

人間というのは「いつわりの永遠」を信じて生きています。何もかもいつか消えてなくなるという考え方は気持ちよいものではないために、昨日のように明日も続くと仮定して「いつわりの永遠」を生きています。このままずっと生きていく前提で日々暮らしています。私も昔はそうでした。もしかしたら自分だけは特別で、ずっと生きていられるんじゃないかとさえ思っていました。認識している「この私」が消えてなくなるなんてありえないことのように思えたのです。たぶん皆さんにも経験があるのではないでしょうか。

ところがシリアスにタイムを追及していたマラソン大会で自己ベスト記録が更新できなくなったあたりで、そうじゃないことに気がついてしまいました。もう自己ベストが更新できないということは、そこがピークで、自らの衰え、老いに直面していることを意味します。

私は自分が坂を下っていることを自覚して、しばらくして、勤めていた仕事をみずから辞めました。

経済的な自立を達成し、早期にリタイアするというFIRE(Financial Independence, Retire Early)という言葉がよく聞かれます。最近流行りの言葉ですが、仕事に人生を捧げない生き方は昔からありました。ただ呼び名が変わっただけなのです。

仕事を辞めるにあたって、私には大きな葛藤がありました。それは自分はいったい何歳で死ぬのだろうか、ということでした。早期退職というものは、自分が死ぬ前提でないと考えられません。なぜなら、もしもずっと生きるなら、退職後の財政収支はいつかはマイナスになってしまうに決まっています。働いているうちはまだ「いつわりの永遠」という幻想の中で生きていけます。すくなくとも働き続けている以上、財政収支は赤字にはならないからです。でも退職すれば、いつかは収支がマイナスになるに決まっています。いわゆる「長生きリスク」「高齢者貧困」問題に直面しなければなりません。いつか死ぬ前提でなければ、仕事をやめることはできないのです。

早期退職するということは「いつわりの永遠」幻想をきっぱりと諦めて、自分がいつか死ぬことをリアルに認めるということでもあります。これが六十歳ならば体のあちこちにガタが来て、否応なしに「いつわりの永遠」を諦められるかもしれません。しかし四十代で早期退職する場合はどうでしょうか? まだ肉体は若々しく活力横溢です。その状態で自分の死を現実のこととしてリアルに受け入れるのは、かなりの想像力を必要とします。

金銭的に不安がないのに、多くの人が早期退職を実行できないのは、この恐怖が原因なのだと思います。早期退職しても、また仕事に戻る人がいるのは、「いつわりの永遠」という共同幻想の中で生きていく方が気持ちが楽だからではないでしょうか。

自分がいつか死ぬということを、リアルに認めるということはなかなか辛いことです。しかしそれを直視しなければ早期退職はありえません。そして退職しなければ、旅人の人生は歩めません。退職するということは、新たな生き方をするということなのです。

自分もいつかは死ぬ。この幸せもいつかは終わる。それを認めなければ、早期退職などできるものではありません。

私が旅人として生きるにあたってもっとも厳しかったのは、退職することだった気がします。

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ユーミン主義とは?

私がなぜ早期退職に踏み切ったのか? そのきっかけとなった出来事についてお話しします。

かつてバックパッカーとして東南アジアを放浪していたときに、何もしないで寝転がっている人=遊民を各地でたくさん見ました。とくに印象的だったのは、マレーシアのマラッカでのことです。いつものように真昼間から公園やベンチに寝転がって何もしていない人をたくさん見かけました。小汚い格好の、サンダル履きの男たちです。

その同じ街で、スーツ姿のピシッとしたサラリーマンを見た時、私はギョッとしました。日本では当たり前のスーツ姿のサラリーマンですが、マラッカでは違和感しかありませんでした。

〈スーツなんか着て仕事をしているなんて、かわいそうな人だ……〉

あわれみを覚えたことを、今でもよく覚えています。ビジネスシューズを履いたスーツ氏が、働かざるを得ない立場の貧しい人に見えたのです。そしてそう感じた自分に驚いたのでした。

マラッカでは、何もせずに寝転がっている人たちの方が私には豊かに見えたのです。彼らは仕事がなくて困っているという雰囲気ではなくて、のんびりしていて、べつに働かなくてもいいから働かないという雰囲気でした。これは私にとって衝撃的な体験でした。日本の普通の生き方であるビジネスシューズを履いたスーツ氏が、貧しい生き方をしているように見えたのですから。

〈みんなが休んだり遊んだりしているのに、自分だけ働かなきゃならないなんて、かわいそうになあ〉

あの瞬間に、私はいつか早期退職することを決意していたのかもしれません。決まりきった時間に決まりきった場所に行って決まりきったことをしなければならないのは、貧しい生き方です。それとは逆に何もしていない遊民がじつに豊かに見えたのでした。どっちになりたいかと聞かれたら、サンダル履きの方になりたい、と私は即答したでしょう。今でもそう思っています。

遊民の豊かさとは金銭的なものでは決してありません。しばりのない豊かな時間こそが遊民の宝ものです。

この時の強烈な印象が、私のユーミン主義の原点です。明治末期の高等遊民と区別するために、この感じ方のことをユーミン主義とカタカナでゆるく名づけました。

ユーミン主義とは、貯蓄残高や持っているモノで人生の豊かさを判断しない生き方のことです。自分の好きなことができる時間の量、したくないことをしなくてもいい自由、遊びたい時に遊び、のんびりしたい時にのんびりできる時間を大切にする考え方をユーミン哲学、ユーミン主義と呼んでいます。

そもそも人生の豊かさとは金銭的な資産額で決まるものでしょうか。

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しばりのない豊かな時間こそが遊民の宝もの

ユーミンの豊かさとは金銭的なものでは決してありません。しばりのない豊かな時間こそが遊民の宝ものです。世界を旅してきましたが、本当に美しいものは、すべて無料でした。カネで買えるようなものは、じつはたいしたものではありません。

ユーミンは遊んだり、雑談したり、寝転がったりしています。ユーミンは豊かです。ありあまる時間が人間関係をつくりあげているからです。

日本のホームレスが遊民に見えないのは、気候の影響が大きいのでしょう。暑すぎる夏や寒すぎる冬が彼らを惨めにさせます。とくに寒さは人間の思考をガラッと変えてしまいます。暖房と食事のために人は労働するのです。なにごとも天候しだいです。母なる自然にはかないません。

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プラスを獲得する人生よりも、マイナスを排除する人生を選ぶ

ユーミン主義はFIREと似た概念ですが、FIREには、貧乏に陥らないようにする備えのニオイがプンプンします。それに対してユーミン主義はそんなものはケセラセラです。FIREは「とにかく仕事を辞めたい」という動機が見え隠れしていますが、ユーミン主義は「しばりのない豊かな時間を楽しく暮らそう」という積極的な態度です。仕事が楽しければやればいいのです。

ユーミンの豊かさとは金銭的なものでは決してありません。しばりのない豊かな時間こそが遊民の宝ものです。

人生は一度きりです。いい人生を送るために、一番わかりやすいシナリオは、何かを獲得してプラスになることでしょう。たとえば仕事を得て収入を得る、恋人を得て歓びを得る、趣味を得て充実を得る、子供を得て生きがいを得る、など。

獲得する人生はわかりやすくて説得力があります。しかし問題は、何もかも全部得られるわけじゃないということです。どこかで利害が対立し、必ず挫折します。たとえば「子供を得て生きがいを得る」と「趣味を得て充実を得る」は両立しがたいことがあります。時間は有限だからです。私の先輩は「子供はかわいい。だけどウザイときもある。子供にスイッチがあって、好きな時にオン、オフできればいいのに」と冗談で言っていました。いいところ取りができればいいのですが、そうそう人生あまくはありません。

多くの人が、人生でプラスを獲得することばかり考えていますが、マイナスを排除する人生っていうのを考えてもいいんじゃないでしょうか? そのほうがずっと簡単で、即効性があります。

たとえば「子供が欲しくないわけじゃないが、お金も余暇時間も取られすぎるから自分にとってはマイナスのほうが大きいから諦める」とか。得ることばかりにこだわると、得られなかったときに、後悔ばかりの人生になります。それよりもむしろマイナスを排除したことから生じたプラスに目を向けたらどうでしょうか。そちらに目を向ければ人生は充実します。たとえば仕事で大金と名声を得るのはきっぱりと諦める、とか。いっけんするとマイナスのようですが、そうすることによって好きなようにつかえる自分の時間をたくさん得ることができます。

何かを獲得するよりも、何かを捨てることのほうが簡単です。何かを獲得するためにあくせくすることに疲れてしまったら、いっそ手放したらどうでしょうか。それがユーミン哲学です。捨てるのは、損したことではありません。そのマイナスの裏に必ずプラスがあるはずです。

死ぬ時に一千万円の貯金を残して死ぬとすれば、それは一千万円ぶんだけ、ただ働きしたのと同じことです。その労働は必要なかったということですから。死ぬ直前に「もっと時間がほしい。この金はいらないから、それを得るために使った時間を返してくれ!」と泣き叫びたくなるような人生を送りたいでしょうか?

人生とは時間のことです。ユーミン主義ではお金よりも時間を大切に考えます。

私にとって人生の目的とは、感動をたくさんもつことです。失敗の人生とは、生きている時間を無駄にしてしまうことです。

感動をたくさん持てるようにすることは、たった今からでも可能です。大切なのは、お金でなく、時間ですらありません。いのちの輝きなのです。それがユーミン主義です。

●POORISM。プアイズム。ビンボー主義

『タイタニック』という映画をご存知でしょうか。豪華客船の「上層階のお金持ち」よりも「最下層の貧乏人」の方が人生は楽しい、という映画でした。違いましたっけ?

ヒロインのローズはお金持ちの暮らしにうんざりして自殺しようとしますが、貧乏人のジャックと知り合って、貧しい人たちの剝き出しの暮らしの中に人生の楽しみを知ったのでした。

世界各国を旅してきた私はときどきお金持ちと勘違いされることがあります。たしかに交通費は惜しみなく使っていますし、けっして貧乏人ではないでしょう。しかしいつだって安チケ、安宿です。移動はバスや電車が基本ですし、夜行便を使って宿泊費を浮かせることを常に考えています。バックパッカーの多くは自分のことをお金持ちとは思っていません。むしろ貧乏人だと思っている人が大半でしょう。

なぜならバックパッカーの楽しさの大半は、お金を使わないことから生まれるからです。ツアー旅行者がバスで移動するところを、バックパッカーは歩いて移動します。カネがないからではなく、そっちの方がおもしろいから、そうするのです。

同様に、先進国よりも発展途上国のほうが楽しいから、貧しい国ばかりさまよい歩いています。安い国にしか行けないからではありません。この感受性にはすこし説明がいるかもしれません。

ただ通り過ぎて眺めるだけならば、高級住宅地よりも貧民窟のほうが、ずっとおもしろいとバックパッカーは感じるのです。なぜかというと高級な場所ほどプライバシーが確保されていて人が見えません。しかしスラムでは人間の姿がむき出しになっています。貧しさは、人間を素朴にします。人間は貧しいほどわかりやすい存在になり、文明的になればなるほどよくわからない存在になるのです。

なぜ発展途上国のほうが旅して楽しいのかといえば、人が見えるから。人の行動が生きることに直結しており、生きることがむき出しのところが面白いからです。貧しいほど生活が原始的でわかりやすく、メシを食うために経済活動しているってことが実感できます。しかし豊かで何でもすぐに買える世界で暮らしていると、何のために何をして生きているのか往々にしてわからなくなってしまうのです。

バックパッカーがインスパイアされるのは、豊かな国を歩いている時よりもむしろ貧しい国を歩いている時のほうでしょう。

多様性という意味でも、貧しい国のほうが興味深いことが多いものです。ある国が経済発展すると、だんだんアメリカに似てきます。日本に似てきます。すると面白くなくなってくるのです。見たことのある市街地、見たことのある服装、知っているルール、知っているマナー、発展するほどそうなります。しかし通り過ぎてただ眺めるだけのバックパッカーは、それでは面白くありません。ホームタウンと違っていたほうが、いろいろな意味で面白いに決まっています。

バックパッカーはこのように各地を飛んで回っている割にはお金を使っていません。お金を使わないからこそ各地で遊ぶことができるのです。このスタイルを私は英語でPOORISM(プアイズム)と名づけました。貧乏のPOORと、主義を意味するISMからなる私の造語です。日本語ではビンボー主義と呼んでいます。

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自宅ほど快適なホテルはない

ビンボー主義者の私ですが、これまでにリッチなホテルに泊まったこともあります。インドではマハラジャが泊まるような超豪華なホテルにステイしました。為替の差のおかげです。

しかし、どれほど豪華なホテルでも自宅よりも快適だということはありません。そもそもこの世の中に自宅よりも快適な宿泊先なんてあるのでしょうか。

高級ホテルに宿泊すれば、ふかふかのベッドやソファーがあるかもしれません。しかし所詮は旅先ですから、着がえる服の選択肢も限られます。読みたい本も、ゲーム機もありません。愛用の椅子もパソコンもありません。加入している動画サブスクも見られません。お風呂がないのは当たり前です。どんなに高級なホテルでも、そこはやはり自宅ほど快適な場所ではないでしょう。

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僕らが旅にでる理由

それほど自宅が一番だったら、なぜ旅に出るのでしょうか? その答えは「なぜ山に登るのか」に答えることに似ています。

私は登山もやるのですが、正直にいうと、山の上には何もありません。世界の真実も、お宝も、神様もいません。逆に下界にあるすべてがありません。快適なベッドも、トイレもない。音楽も、着替えも、おいしい食事も、他者の存在もありません。下界の暮らしがどれほど恵まれているか、それを実感するために山に登っているといっても過言ではありません。不自由がなければ自由がわかりません。抑圧があるからこそ、解き放たれたときの喜びがあるものです。

世界一快適な自宅を離れて旅をするのだから、旅先のホテルぐらい不自由で望むところだと考えるのがバックパッカースタイルです。何もかも快適だったら自宅を離れる意味がありません。どうせ目を閉じればどこだって同じです。ホテルなんて安宿で十分です。

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ビンボー主義と、貧乏とは違う

私のかかげるプアイズムというのは貧乏そのものとは違います。貧乏というのは買いたいものを買うお金がない人のことですが、プアイズムは買うお金があっても買わない主義のことです。

買いたいものがない人、モノに興味がない人はすでにビンボー主義者です。「人生に必要なモノはすでに持っている」と考えている心の豊かな人はビンボー主義者です。人生に必要なものはそう多くはありません。あなたはきっともうすべて持っています。

ビンボー主義者は、熟慮の上でモノを買わない選択をします。この世界では、どこかで物欲を断ち切らない限り、欲望にきりがありません。足るを知る者こそビンボー主義者だといえるでしょう。

貧乏主義者はあえて貧乏を楽しもうとする姿勢をもっています。そこがミニマリストとの違いです。エアコンの効いたテントでのグランピングよりも、自然を感じられる一般的なキャンプの方が楽しいと思う感覚です。私は高級ホテルよりも安宿のほうが好きです。リッチなホテルというのは、どこでも似たりよったりで、それほど特徴がありません。快適な反面、ぜんぜん記憶に残りません。ところが安宿は千差万別でバリエーションに富んでいます。ときにエアコンがなかったり、蚊に襲撃されたり、臭いがしたりしますが、個性があって忘れられません。ハズレを引くこともありますが、安くていい部屋もたくさんあります。いい部屋を引けるかどうかはギャンブルのようなものです。翌朝になってみないと結果はわかりません。そこに一喜一憂することになるのです。そのギャンブル性がまたおもしろかったりします。

たまには不自由するのもいいものです。リッチなホテルでコーヒーを飲んだことはすぐに忘れてしまいますが、極寒のネパールの安宿で震えながら飲んだ熱いチャイと輝く星空のことは一生忘れません。

高級な場所よりも、貧しい場所の方がショックを受けたり、感動したり、記憶に残ったりするものです。そういう感覚のことをプアイズム、ビンボー主義と私は呼んでいます。

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いちばんすばらしいものはすべて無料

そもそもリゾートホテルの宿泊代はどうして高いのでしょうか?

窓から海が見えるなどの付加価値に、人は多くのお金を支払っています。しかしベランダから海を見るくらいなら、自分の足で波打ち際まで歩いていけばいいと考えるのがバックパッカースタイルです。そのほうが目の前に大きな海がひろがっています。波の音も大きく聞こえます。サンダルを脱いで海に入ることだってできます。部屋のベランダから見るよりも、その方がずっと海を実感できます。それがバックパッカースタイルです。

時間も、太陽も、海も、星空も、風も、人生においてもっとも素晴らしいものは、すべて無料です。誰しもに平等にあたえられています。なんのために高いホテル代を払わなければならないのかわかりません。

サハラ砂漠で見た朝日も、エーゲ海で見た夕陽も、アリゾナを渡る風も、エジプトの砂漠の上に輝いていた星も、いちばんすばらしいものは無料でした。ビンボー主義者はそのことをよく知っています。

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プアイズムの極意。お金を節約することは、稼ぐことと同じ

もっともすばらしいものは無料だと自覚することで、貯金残高を無駄に減らさずに、長旅をして、すばらしい経験をすることができます。この考え方、感じ方こそがプアイズムの極意です。節約することはお金を稼ぐことと同じだという感覚です。

高級ホテルに泊まってレストランで食事をするよりも、安宿に泊まって地元の大衆食堂に混じったほうが楽しいものです。地元庶民料理は高級ホテルよりも安くて特色ゆたかです。おいしい食べものは意外と安いものです。おいしいから普及し、普及するから安くなるのです。高くなければおいしくないと思うのは間違っています。これがプアイズムです。お金を使わずにすばらしい経験をすることはできるのです。

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モノを買わなくなった。物欲が消えた

バックパッカー暮らしは、私をビンボー主義者にしました。バックパッカーはすべての荷物を自分で運ぶため、必要最低限のものしか運べません。荷物が重くなると結局辛い思いをするのは自分です。自分のために本当に必要なものを吟味・厳選し、それだけを持ち運ぶようになります。それがバックパッカーのスタイルです。

キャンプ愛好家は、あえて原始的な道具で、自然と向き合って楽しもうとする人たちですが、あの感覚に似ています。厳選した一軍ギア(相棒)だけに囲まれているというスタンスはビンボー主義者そのものです。

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新しいものを買わないのは、ケチだからではなく、古いものへの愛情・愛着が深いから

厳選されたギアを相棒に旅をしていると、ほんとうに何も買わなくなります。なにかを見ても欲しいという気になりません。物欲がなくなっていきます。ヘビーローテーションでボロボロになったものを平気で使うようになります。ときどき誰かに「新しいのに買い替えたら?」と言われますが、どうしてもその気になれません。買い替えたくないのは、ケチだからではなく、愛情深いからだと自分では思っています。

私にとって新しくモノを買うということは、古いモノとお別れするのと同じことです。新しいものを買うということは、一軍選手を交代させるということです。ローテーションから外れた古いギアは二軍行きになります。使わなくなるとモノは急に色褪せてしまいます。やがて引退となります。サヨナラです。

ビンボー主義者にとって、新しいものを買うことは、今使っているものを捨てるのとほぼ同義です。新しく買うのが嫌なのではなく、古い物を捨てるのが嫌なのです。今使っている愛着のあるギアと別れるつもりでないかぎり、新しいものを買おうという気にはなれません。たとえば犬を飼っている人が、飼い犬が老犬になった頃、新しい子犬を買ったとしたらどうなるでしょう? 老犬を今までどおりに全身全霊で愛していると本当に言えますか? 今まで100%だった老犬との時間の多くは子犬と費やすことになるでしょう。時間を割くのは愛情を割くのと同じことです。独身女性が人生のパートナーを選ぶとしたら、じゃんじゃん新しいものに買い替える人よりは、古いものを大切にする人のほうがいいのではないでしょうか? 古いものをどんどん捨てて新しいものに買い替える人は、女性(つまりあなた)も新しいものに替えるかもしれません。

古いものへの愛情が、新しいものを買うことにセーブをかけているのです。こうして私はモノを買わなくなりました。物欲がないこともプアイズムの特徴のひとつです。

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最も大切なのは「人生の経験」

最も大切なのは、人生の感動です。私たちはすばらしいことを経験するために、この世に生まれてきたのです。お金を使わなくても感動にめぐりあうことができます。ここが貧乏主義者の腕の見せどころです。

もしも自宅の荷物が、バックパックにすべて収まるぐらいになれたなら、地球を我が家にして、いつでもどこへでも旅に出ることができます。どこにいてもそこが旅先。それが理想です。

そんなにモノを持たなくても快適だということを知っただけでなく、むしろモノを持たない方が快適だという感受性がプアイズムです。

モノを持たないほど、人は自由です。

プアイズムは、人の心を自由にする方法論のひとつということができるでしょう。

 

 

●新狩猟採集民という新しい生き方

かつて人類はみんな狩猟採集民でした。狩猟採集民は定住せず、獲物を追ってさすらい生きた旅人でもありました。ところが農業革命が起こり、人間は定住するようになりました。さらに貨幣が発達し、蓄財が可能になりました。そして個々人の仕事は専門化されて、専門分野に関してはやたらと詳しいけれど、専門外のことはまったくわからないという人間ばかりになったそうです。それが現代人です。もしも商店で買い物することができなかったら、私たちは生きのびることができるでしょうか。現代人のほとんどはもう生きのびることは無理でしょう。大半の人は、もはや「買う」という行為でしか生きていくことが不可能になってしまいました。まずはこの事実を認め、受け止めましょう。

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新しい民族。新狩猟採集民

もういにしえの狩猟採集民に戻ることは私たちにはできません。だったらここで発想を変えましょう。買うという行為でしか生きていくことができないのなら、いさぎよくそれを認めようじゃありませんか。そしてそれを前提とした生き方をしていけばいいのです。

これは逆にいえば、商品を買うという行為で我々はどこででも生きていけるということです。かつて狩猟採集民が獲物をもとめてさまよい旅したように、我々もさすらい旅に生きることができます。購買力さえあればどこででも生きていけるのですから。人生の感動や経験を追い求めて旅する人生が可能です。生きていくためのシェルターや食料はお金で買えばいいのです。こんな時代の子だからこそ、それを逆手にとって利用してやるのです。お金で買うことでしか生きられないのならお金で買って生きていきましょう。

食べ物を追って旅するものを狩猟採集民だとするのならば、経験や感動を追って旅する私たちはもはやかつての狩猟採集民ではありません。私たちは新狩猟採集民です。これが私たちの新しい生き方です。

買うということしかできないことを、生き抜く力の劣化だとか、恥じたり、情けなく思ってもしかたがありません。もはやそういう生き方しかできないのですから。

しかしその上で、かつての狩猟採集民よりも、私たちは自由に地球の上を歩き回って、思う存分、人生を謳歌してやろうじゃありませんか。かつて誰も行けなかったところまで行って、できなかったような生き方をやってやりましょう。

新しい波に乗っかって、力いっぱい燃えて、世界中のどこででも、おいしいものを食べ、汗を流し、泣いたり笑ったりして生き抜いてゆけばいいのです。

そのようにして旅に出ましょう。新しい民族、新狩猟採集民族として。

 

●「お客さま」という権力

経験や感動を求めて旅を続けていくと、やがては日本という島国を飛び出すことになるでしょう。

外国で暮らす方法はいくつかあります。留学や仕事で行くことを考える人が多いと思いますが、私はもっといい手を知っています。

それは「お客さま」になることです。外国で暮らすためには、企業家や、大金持ちのインフルエンサーになる必要はありません。総理大臣や社長、外交官やエリートサラリーマンになる必要もありません。ただお客様になればいいのです。成功者にも、有名人にもならなくていいのです。ただお客様という身分で旅立てばいい。

お客様というのは、ひとつの権力です。お客様になれば「こちらへどうぞ」「なにをお持ちしましょうか?」「なんでもお申しつけください」と歓待をしてもらえます。仕事で成功する必要はありません。がんばって偉くなる必要はありません。無名でいいのです。ただのお客様で十分です。

お客様という権力を行使すれば、出張のように時間に縛られたり、やることを上司にいちいち指図されたり管理されることもありません。留学のようにテストに合格しなきゃならないノルマもありません。すべての時間を自分の自由に使うことができます。そのためにはお金が必要ですが、プアイズムを実践すればいいだけのことです。

お金は選択と集中です。うちの近所に、ボロ屋に住みながら超高級車を乗り回しているオジサンがいます。車に乗っているときだけ彼はリッチに見えます。旅人も同じようなものです。旅をしているときだけ彼はリッチに見えます。このように節約したお金で、豊かな経験をすればいいのです。

そもそも人生の豊かさとは何でしょうか? 感動やすばらしい経験のことではありませんか?

豊かな人生は、権力を手にしなくても、出世しなくても、お金持ちにならなくても、かんたんに手に入れることができます。ただお客さまという権力を行使すればいいのです。そのほうがずっとスマートで、ずっと自由で、いつか来るその日を待つこともありません。今すぐに手に入れることができるのです。

 

 

●強くてニューゲーム。人生ゲームをもう一度はじめからプレイする方法

ふだんの仕事というのは、基本的には同じことの繰り返しです。仕事が細分化され専門化されるほど同じことばかりするようになります。よく言えばスペシャリティーですが、悪く言えばマンネリ。

それゆえに仕事だけの人生だと「このまま人生が終わってもいいのか」という思いに、冒険好きはとらわれます。

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旅は言葉が通じない国の方が面白い

仕事にくらべたら、海外放浪はトラブルの連続です。「今夜、泊まる場所があるか?」「飛行機に乗り遅れた」「体調こわした」「盗難に遭った」など枚挙にいとまがありません。

人間、ピンチになって、生存本能がアラートを鳴らすと、自分の中に眠っていた信じられない勇気と力が目覚めることがあります。

国内を旅しても、生存本能が危険を感じるようなレベルのピンチに遭遇することはまずありません。やはり旅は言葉や常識が通じない国の方が難易度が高くて面白いのです。不安や恐怖が旅をおもしろくしてくれるのです。生存本能が覚醒するようなピンチに陥り、脳がめざめる。恥やプライドを捨てて、ただ生きのびようとするおのれの必死さを確認できれば、帰国してからも強く生きていくことができます。それがバックパッカースタイルです。

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困難を面白いと感じられるかどうかで決まる

外国のことは暮らしてみなければわからないと私は思っています。短期の旅行で語れるのは自分の体験だけであり、その国のことは語れません。

自分のことしか語れない。それが人間たるものの限界であるのかもしれません。

いつか私は外国で長期間暮らしてみたいと思っています。外国で暮らすというのは、自分が無力な子供になるのと同じです。言葉が通じず、社会のシステムもわかりません。困ることの連続です。その困難を面白いと感じられるかどうかがこのゲームを楽しめるかどうかの資質だといえるでしょう。

子供の頃は、何も知らず、一人では何もできませんでした。言葉や社会のルールをひとつひとつ覚えて、長い時間をかけて独り立ちしたものです。そして大人になって、言葉も、生きていくルールも、母国ではあらかた覚えてしまいました。いわばゲームクリアした状態です。しかし外国に行けば、もう一度はじめから人生ゲームをプレイしなおすことができます。不安やおののきをまた経験できます。無力だった少年時代を追体験することができるのです。

ただし子供の頃と違うのは、お客さまという最強のステータスをすでに持っているということです。いわばこれは「強くてニューゲーム」でしょう。

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やがて慣れる。先に進むしかない。

母国では見たことのないような面白いものが、世界にはたくさんあります。最初は大興奮で見てまわるわけですが、残念なことに見慣れてきます。どんなものでも、やがて慣れて、刺激がなくなってきます。これは母国で経験した過程とまったく同じです。そこがどんなにパラダイスのような場所であろうとも、一か所にとどまっていると、やがては慣れて、飽きてしまうのです。

いつまでも刺激を受けて、感動をつづけるためには、移動し続けるしかありません。求めているのは「定住」「移住」ではなく「感動」「興奮」です。どんな場所もやがて慣れます。先に進むしかありません。

そもそも人間は、いつまでも「ここ」にいられるわけじゃありません。いつかは旅立つときがくるのです。私たちはこの場所にトランジットしているだけなのです。

どんな人も旅人です。先に進むしかありません。その覚悟をすることが、バックパッカースタイルなのです。

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スマホが変えた海外放浪。世界観

スマートフォンの出現によって、旅行のスタイルや人々の世界観は大きく変わりました。たとえば旅先の宿泊地ですが、現地で安宿街を嗅ぎまわって探すスタイルよりも、スマホで探して予約した方が簡単・確実で、しかも安い宿が探せる時代になりました。旅行者の勘、旅の嗅覚のようなものがあまり役に立たない時代になりました。旅人の経験値よりも、デジタルリテラシーのほうが有効という世の中になりました。たとえば外国語なんて覚えなくてもスマホが翻訳してくれます。

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かつては不確実性に賭けられる勇気が旅人の資質だった

かつてバックパッカーには、なんとかなるだろう精神の人しかなることができませんでした。よくいえば「勇気がある人」しかバックパッカーにはなれなかったのです。行った先で泊まれる宿があるかどうかもわからないという不安の中で旅をしていたからです。インターネット以前は、宿の予約なんかできなかったし、ろくに情報もありませんでした。最悪、野宿するガッツのある人しか放浪の旅人にはなれませんでした。不確実性に賭けられる勇気が旅人の資質だったのです。

しかしスマホの普及とコロナ・パンデミック以降の予約社会によって、旅から不安という要素はとても小さいものとなりました。今はスマホで宿の予約ができるし、直接メールでやりとりもできます。いくらでも旅の情報がとれます。SNSによる評価社会も旅の不安を消しています。人々の情報共有によって、行ってみなければわからないということがほぼなくなりました。

不確実性に賭ける地図のないゲームだった放浪が、攻略本のあるロールプレイングゲームのようになりました。このゲームに参加資格はありません。それがオーバーツーリズムの原因のひとつです。すべて予約済の旅に勇気などの特別な資質が必要でしょうか?

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トラベルはトラブル。人生は関門突破ゲームだ

世界はどんどん便利になっていますが、面白くなくなっていく側面もあります。たとえば賢すぎるスマートフォンが冒険の舞台をだいなしにしてしまうことがあります。不安や予想外のトラブルこそが、旅を面白くしてくれる要素なのに、スマホは魔法のようにそれらの舞台装置を消し去ってしまうからです。

たとえば敵の存在しないロールプレイングゲームなんて何が面白いでしょうか? 障害物、迷路、トラップのないゲームなんて、すこしも面白くありません。プレッシャーや挑戦がなければ、ゲームは色褪せ、刺激のない、意味のないものになってしまいます。プレッシャーがなければ満足もありません。挑戦は人生というゲームに不可欠な要素、あなたの旅を意味あるものにしてくれます。挑戦がなければ、視野を広げて、成長し、レベルアップする甲斐もありません。

トラベルはトラブル。トラブルがあってこそ旅は面白くなります。なぜなら旅が関門突破ゲームになるからです。あっさりクリアできたら手ごたえがなくて面白くありません。

もしも人生をゲームと見做すならば、日々、このゲームにアクセスし、エンカウントを繰り返してレベルアップしましょう。外敵もあるでしょう。しかし最大の敵は心の中にいます。臆病や怠惰、自信のなさが心の中に巣食っているかぎり、ヒーローの物語は紡がれません。

ルートの困難さは、あなた自身のエキサイティングな冒険の一部、不可欠なものです。それらを乗り越えてこその物語です。チャレンジの報酬は、人生の歓喜、感動です。歓喜や感動のない人生に、どんな生きがいがあるでしょうか。

もし人生に退屈や行き詰まりを感じているのなら、心の敵に負けているのです。頭で考えず、肉体を使い、小さなクエストから達成していけば、バイブスを取り戻し、いつかラスボスのところにたどり着くでしょう。

このゲームの勝者は一度も負けない人ではありません。途中でなんど負けてもいいのです。より多くのクエストを達成し、レベルアップして、最終的にラスボスを倒した人がヒーローです。諦めないこと、やめないことが大切です。ゲームならば、途中でやめない限り、いつかラスボスにたどり着くと信じていますよね? 人生でも同じ信念で次のレベルに進みましょう。いつかラスボスを倒すためにスキルを磨き、試練や障害物を乗り越えるために奮闘し、その中で心の敵、古い自分を打ち負かしてゆきます。過去の自分、限界を超えてこそ、本当の意味でのレベルアップです。

バックパッカーの旅をRPGにたとえるならば、旅先はミッションです。とりあえずの目的地になります。この先何が起こるかわかっていたら旅は面白くありません。先がわからないからこそおもしろいのです。見込み違い、ハプニング、アクシデントがあってこそ、旅のゲーム性は高まります。すばらしいけれども難易度の高い旅先こそがラスボスです。

この物語は、困難を乗り越える物語です。試練によって成長し、困難な場所にたどり着き、感動とか絶望とか何かを得て、旅立った場所に戻ってくるというストーリーです。旅の困難さこそがダンジョンや迷路であり、成長素材となるのです。難易度が高いほど旅は面白いゲームになります。失敗も敗戦もゲームの一部です。チャレンジの要素はこのゲームになくてはならないものなのです。

外国で暮らすというゲームが面白いのは、その昔、勇気と希望だけを持って世に出た若い頃をもう一度生きなおすことができるからです。資産や、心の強さは持ち越したままで、強くてニューゲームを楽しめるのです。

ときにはスマホのディスプレイを眺めるのをやめて、生身の自分だけでトラブルを克服できるか、挑戦してみるのも面白いと思います。自分のミスや、自分ではどうにもならない天災、トラブルに見舞われることがあるかもしれません。しかしいくらゼロからゲームを再出発だといっても、これまで生きてきた中で磨いてきた勇気、自信、判断力が失われたわけではありません。レベル1からのリスタートだったとしても、それらの武器がきっと自分の旅路を助けてくれるはずです。

ときに理不尽な目に遭って、忍耐力がためされることもあるでしょう。語学力を試されることがあるかもしれません。人間力がためされることもあるでしょう。

自分の身にふりかかるいかなることも達観し、受け入れ、不安やトラブルとたわむれて克服するのがバックパッカースタイルです。プレッシャーやトラブルは避けられません。むしろこのゲームには必要不可欠な要素なのです。心の敵を倒し、障害物、迷路、罠をクリアして、歓喜や感動に向かって旅を続けるのです。

これはあなた自身の物語です。主人公はあなたです。このゲームのヒーローはあなたなのです。

人生もまた関門突破ゲームだと私は思っています。

●インバウンド規制緩和。旅人が世界を変える

ある日のことです。古都のお寺の庭園を歩いていたら「写真禁止」の貼り紙がありました。本堂の仏像も撮影禁止でした。本堂のほうはわからないこともありません。しかしなぜ庭園まで写真禁止なのでしょうか?

本堂の仏像や掛け軸ならば、信仰の対象だとか、ストロボ光で色褪せるからとか、それなりに理由が思い浮かびますが、庭の写真がダメな理由がわかりません。売店で庭園の絵葉書の売り上げが落ちるからではないかと勘繰りたくもなります。

かつて岡本太郎さんが、西洋はいいものを美術館などでかんたんに見せてくれるのに、日本は隠してなかなか見せてくれないと嘆いていました。なんでもかんでも禁止にすればいいってものじゃないんだけどなあ、と思っていたら、周囲の外国人たちが写真をバシャバシャ撮りまくっていました。「写真禁止」という漢字が外国人には読めなかったのでしょうか? 中国人もたくさんいましたが。

お寺の関係者もそれを見ていましたが、あまりにも多くの外国人が写真を撮っているので、もう注意をするのも諦めていました。そこで私も便乗して写真を遠慮なく撮らせてもらいました。庭の写真を撮ることがいけないことだとは思えなかったからです。

この現象をインバウンド規制緩和と私は呼んでいます。自由な旅行者である外国人が、理不尽な日本の規制をぶち破ってくれるのです。外国人の感受性が、日本を自由に開放してくれるのです。海の向こうから吹いてくる風が、日本の風土に風穴を開けてくれるのです。

悪法も法なりという人がいます。しかし私はそれではなにも変わらないじゃないかと思います。

たとえばあなたが麻薬をやらないのは法が規制しているからだけですか? 法が許したら麻薬をやるのでしょうか。そこに自分の判断はないのでしょうか?

私には自分の判断があります。無意味な禁止はないほうがいいのです。自由が多い方がいいのです。法の許可と禁止のあいだには、グレーゾーンがあります。

インバウンド規制緩和によって、旅人が世界を変えることを私は望んでいます。バックパッカーとしての自分も、その自由解放戦線のゲリラの一人でありたいといつも願っています。

国境や言葉の壁なんてものは、なくなったほうがいいと私は思っています。それが時代の趨勢だと確信しています。人間をとりあえず国籍で色分けするような今の判断基準は、時代遅れのものとなるでしょう。それをなくしていくのは、ネットワーク情報網であり、国際企業であり、旅人たちです。

もしかしたら私も、そしてあなたも、どこかの国の理不尽な規制を、バックパッカースタイルで変えていくきっかけになれるかもしれません。そしてそれはとても意義のあることではないでしょうか。訪れたその国の人たちにとっても、自分自身にとっても。

 

 

●あとがき

私は人生はハレ(晴れ)とケ(褻)だと思っています。ハレは非日常の特別な日、ケはあたりまえの日常という意味です。

多くの人はハレを大きく盛ることを考えがちです。海外旅行はハレの代表選手だといえるでしょう。人生でいちばんの遠出は新婚旅行だという人も多いのではないでしょうか?

しかし私はほんとうに大切なのはハレではなくてケのほうだと思っています。日数でいえばケのほうがはるかに多いのですから、ケの日常の充実なしに人生の充実はありえません。

新婚旅行のときに感じた気持ちは、二度と戻らないその瞬間だけのものです。しかし新婚旅行レベルの遠出はその気にさえなれば毎年だって行けます。もっと遠くまで行くことさえできます。

何人もの相手と結婚することはできませんが、新婚旅行レベルの密度の旅を続けることは可能です。それがエブリデイ・クリスマスであり、バックパッカースタイルなのです。

聖なる教えを求めた仏僧が一歩一歩歩いて目的地に近づいていったように、旅をしながら生きて行くことはできないかと考えたことが、バックパッカースタイルのそもそもの始まりでした。暮らすように旅することを意識していくうちに、いつしか日常を旅先のように過ごすようにと発想が逆転しました。

日常をバックパッカーのように暮らしていると、ほかの人が気づかないようなことを気づいたり、感じないようなことを感じたりします。

海外旅行は、私の生き方を変えました。いや正確にいうと、あくまでも海外旅行の果てに私がたどり着いた人生哲学、バックパッカースタイルがひとりの人間の生き方を完全に変えたのです。本書はその内容を語ったものです。

1990年代は、円高を背景に、海外旅行・長期滞在が割安でした。しかしこれからの日本人にとって海外旅行は、多くの人から富裕層の遊びと見なされる高級品になってしまうかもしれません。

しかし本書では、富裕層でなくても海外旅行を楽しむやり方を説いています。大切なのはお金ではなく考え方なのです。お読みいただければ、その理由がわかるでしょう。

最後に、本文ではふれなかったことですが、私は人生というのは愛されてナンボだと思っています。バックパッカースタイルでもスタンスはまったく同じです。

まえがきで、私の旅の目的は「冒険」ではなく「真理」だと書きました。幸せに生きるとはどういうことなのか。そもそも幸せとは何なのか。それを追求せずに旅をすることに私はあまり興味がないと書きました。旅をするのは、何かを探しているから。そこに何があれば満足できるのか? そんな私が旅路の果てに掴んだ楽園の思想とは? と書きました。その答えをここにはっきりと書いておきましょう。

「ああ、幸福というものはなんて些細なことで決まるものなんだろう。ぼくは賢者たちの書いたものは全部読んでしまったし、哲学の極意もみんな習得した。だがそれでも一輪の薔薇がないために、ぼくの生涯はみじめなものになってしまうのだ」

これはオスカー・ワイルドが書いた『ナイチンゲールと薔薇』という小説の中の一節です。

行く先々で嫌われるのなら、何のために旅するのかわかりません。もちろん拒絶もあるでしょうが、それと同じぐらいのウェルカムがなければ、なんのために旅をしているのかわかりません。

 

私は愛されるバックパッカーになりたいと思います。

求めているのは、旅先の人たちから愛されることです。真のバックパッカースタイルとは、人々から愛されるように振舞うことなのです。

2025年8月 アリクラハルト

 

奥付

 

『バックパッカースタイル 楽園探求の旅』

 

著   者  アリクラハルト

初   版  2025年8月

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