ケン・フォレット『大聖堂』。原題はピラーズ・オブ・ジ・アース。「地上の柱」
ケン・フォレット『大聖堂』。原題はピラーズ・オブ・ジ・アース。「地上の柱」です。
「小さな王子さま」を「星の王子さま」としたように、「Bonnie and Clyde」を「俺たちに明日はない」としたように、原題よりも日本版のタイトルのほうがいいなあと思うことはひじょうに多いのですが、本作ばかりは「大聖堂」よりも「地上の柱」のほうが私はいいタイトルだったのではないかと感じました。たしかに大聖堂の建築描写がやたらと多い作品ではありますが、作者はなにも大聖堂のことを書きたかったわけではありません。
『大聖堂』の内容、魅力、あらすじ、書評
作品冒頭に呪いをかける魔女が登場します。妊娠中のこの女はエリンです。司祭と騎士と修道士に呪いをかけました。
不当な仕打ちを受けたものの呪いが、ことのほか効き目がある。呪われろ、病と悲嘆に、飢えと苦痛に呪われるがいい。ニワトリの血の犠牲を捧げる。
大聖堂を建てたいという夢を持つ建築家トムビルダー。しかし仕事はうまくいかず、さらに盗難に遭い、貧しさの中で妊娠中の妻は男の子を生んで死んでしまいます。
あたし、あんたに抱かれたことを、いちども後悔しなかったわ。大聖堂を建てられるといいわね。あんたは美しいものをつくる人よ。あたしのために美しい大聖堂を建ててね。
シャベルの一振りことに、やがて首が隠れ、彼が口づけした口が隠れ、ついに顔全体が覆われて、永久に視界から消えた。
トムの子を育てる修道院長フィリップは、アリエナの父伯爵の反乱計画を通報します。ウォールランと取引をして、ウォールランは司教に、フィリップは修道院長となりました。
親しすぎは侮りをまねく。今のままならあんたは手の届かない神聖な存在だ。しかしそれは彼らがあなたをもっとよく知るようになるまでのことだ。ここにとどまっていれば後光は消える。尻を掻いたり鼾をかいたりするのを聞けば。
修道院の生活はきびしいものでした。
緘黙令。誰とも口をきいてはならず、ほかの者もかれに話しかけてはならない。これが予想以上に辛い罰なのだ。孤立感は一日で耐えがたくなり、なんともみじめな気分に落ち込んでしまった。
アリエナはウィリアムとの婚約を拒否します。
あなたは下品だから嫌い。本を読まない人だから嫌い。犬と、馬と、自分のことにしか興味のない人だから嫌いなの。鈍くて、愚かだから。嫌い。軽蔑する。虫唾が走る。ぞっとする。だから、あなたなんかとは結婚したくないの。
エリンの息子ジャックは、定住のため、トムの仕事のため、大聖堂に放火します。
笑われたことで、びくびく怯えてばかりいた弱虫の幼児に戻ってしまったような気がした。
放火。義理の兄にいじめられている。
私はゆるさないからね。ジャックはわたしの子なのよ。
ここで譲ってしまっては、後々までも禍根を残す先例をつくる。
教会における権力争いの中で、トムとエリンは正式の夫婦でないことを責められます。
法的には姦通者ということになる。職人が修道院の境内においてそうしていることを同列に論じるわけにはいかない。姦通はありきたりの罪であるとはいえ、肉欲というものを修道僧は忌み避ける。
女はわざわいのもとだ。厩に発情した牝馬が一頭でもいると、牡馬はみんな噛みついたり蹴とばしたり手に負えんようになる。虚勢馬ですら気が荒くなる。修道士は虚勢馬のようなものだ。肉の欲望は断たれているが、それでも女陰のにおいは嗅ぎつける。
キングズブリッジ修道院なんか、おシッコをひっかけてやる! くたばってしまえ!
あらん限りの声でわめくなり、スカートをまくりあげ、両ひざを曲げ、書物の上に尿をあびせかけた。
悲しくて、腹を立てることもできやしない。あんたの女房になりたかったわ、でも、どんな犠牲を払っても、ということはできない。
彼女は最後のチャンスに小便をひっかけてしまった。
エリンはトムと別れ、森へと帰るのでした。
わたしはもう、あんたと旅をする気はないのよ。森へ帰るのよ、あんたはついてこないで。
思いとどまらせる言葉も、もう思いつけない。無力感しかない。二度と抱くことはできないのだ。
着飾ることの効用を思い知らされた。もしも正装していたら、ああもそっけなく追い払われることはなかったであろう。
フィリップとウォールランは教会内で権力を争います。争うのは王権をめぐる政治も同様でした。
お互い対等であるかのような議論が交わされたが、この一言でおのれの優越を回復したのである。
ご再考いただければ感謝いたします。祈りながら、お待ちいたします。
いさぎよく引いたように見せかけて、そのじつ、問題が未決であると、締めくくりの言葉で念を押したのである。この手はおぼえておこう。相手に拒絶されそうになったときは、延期という手段があるのだ。
ウォールランの眼に、自分がどう映っていたか。人身御供にされながら、にこやかにうなずいているお人よし。侮辱されても笑顔で耐えた。裏でこっそり舌を出していた。
伯爵家としての権力を失ったアリエナ兄弟は、ウィリアムの暴行を受けます。
この売れた肉体を組み敷いて、脚を開かせるとき、彼女の顔に浮かぶ恐怖の表情を見てみたい。
おまえはもうお姫様ではないんだよ。ただの反逆者の娘で、もうすぐ路頭に迷い、飢えることになるんだ。うちの息子の嫁にする値打ちもない。二度と口をきくんじゃない。
アリエナは羊毛商人として独り立ちしようと、女だてらに頑張ります。
自分が本気で神父の眼を焼きつぶすつもりだったのはわかっている。が、そのことを愧じるよりも、むしろ自分の強さに瞠目する想いであった。二度と他人の餌食にはならないと決意してから、その決意を守り抜いているじぶんをあらためて見直している。
トムは、とうとうエリンを妻にします。
トム自身が、彼女では満足できないことはわかりきっている。彼の胸の内には、あの何をしでかすかわからない、勝ち気で情熱的なエリンを恋い慕う気持ちがくすぶりつづけているからである。
こんなに愛しているのがわからんのか。どうして早くそれをいわなかったの? おれの女房になってくれるか、エリン? ええ、トム、あんたの女房になるわ。
伯爵となったウィリアムは自分の領地を力で支配しようとします。
こいつらはおれのことなどなんとも思っていない。この連中を思い通りに動かすことはできないのか? ただですむと思っていたのか? おれがそれほど阿呆に見えるか? そうなのか? なんとか言ってみろ! 怒りにまかせて殴りつけた。これであいつらもおれをあざ笑うことはありまい。
ウィリアム伯爵は、フィリップ修道院長の富を暴力で奪おうとします。けんめいにフィリップは抵抗するのでした。
フィリップの望みはみじんに砕けた。結局、正義よりはウィリアムの軍勢のほうが優先されたわけだ。
わたしはもう怯えた子供ではない。成人し、信仰に鍛えられ、死の恐怖にあえぐ人々を救うようにとつかわされたのだ。
イングランドの政変によっても、フィリップの修道院は浮沈します。
昨日、彼はイングランド王であった。昨日、彼は許しをあたえようとしなかった。今日の彼は、他人の許しがなければ立ち上がることさえかなわない状態におかれている。
フィリップは修道士としての務めも忘れません。
空腹は耐え忍ぶべきものだ。断食は苦行のための格好の機会になる。
トムの義理の息子ジャックは、アリエナに恋します。
自分の望みはわかっている。アリエナのかたわらに横たわり、その肉体を愛撫したい。
しかつめらしい女のどこかに、いまなお、あのお転婆娘がひそんでいるに違いない。
ジャックは物語を語って聞かせた。様々に表情を変える。不正に怒り、裏切りに狼狽し、勇敢な行為に心をわき立たせ、英雄的な死に涙した。
アリエナは羊毛商人として大成功しますが、誰とも結婚しようとしません。
おれの女房になってくれるか? とうとう口にした。こうなると、気の毒だが、きっぱりと断らねばならない。やんわりとした拒絶を、ためらいの証しと見、男はいっそうしつこく迫ってくるものなのである。
彼には彼の責任を果たすことを期待した。だが男の中には、それを気がある証拠と誤解する者もいるのである。そして怒り出し、まるで彼女に不当に非難されたかのように振舞うだろう。いわれなく辱められたと思い込み、攻撃的な態度に変わるのである。
トムの実の息子アルフレッドと、エリンの息子ジャックは、そりがあわず暴力沙汰の喧嘩をします。
あなたの二人の息子を一緒にこの現場で働かせることは、わたしが承知しない。どちらか一人には出て行ってもらわねばならぬ。
厳しい態度でのぞまねばならん。それが誇りも規律もある建築職人としての名誉を回復する。
アリエナの羊毛の在庫は、襲撃してきたウィリアムに焼かれてしまいます。この火事でトムは死んでしまうのでした。
火事。長年の努力と労苦の結晶を、富と安泰を保証するすべてを飲み込もうとする焔を、アリエナは半狂乱のまなざしで見つめながら、もがきつづけた。その場に横たわったまま、絶望の叫びをあげた。
火事以降、病気にかかる者がほとんどいないと指摘する人もある。病気は悪臭によって蔓延するという賢人たちの説の正しさが証明された形であった。
ウィリアムハムレイをわたしは拒絶した。悲劇はそこからはじまったのだ。もとはといえばわたしの強情さが原因なのだ。
アリエナは、アルフレッドと結婚せざるを得ない立場となりました。弟をふたたび伯爵にするという父との約束のためでした。
そしていまふたたび申し分ない結婚の申し込みを断わろうとしている。
アリエナはアルフレッドの下品さを忌み嫌い、弱いものいじめの態度を軽蔑し、卑劣さに愛想をつかし、頭の回転の鈍さに逆上するだろう。結婚は地獄以外のなにものでもないはずだ。愛してもいない男と結婚するなんて最低じゃないか。
ジャックは最後の懇願をしますが、アリエナに受け入れられません。
これ(セックス)とくらべてどれほどの価値があるというんだ? 誓いなんてただの言葉じゃないか。これこそが真実じゃないか。あなたとぼくの真実だ。
アルフレッドは、エリンに勃起不全の呪いをかけられてしまいました。
おまえが鈍いからこっちまで立たん。魔女のエリンのせいだ。おれを憎んでた。おまえなんざ犬とおんなじだ。床の上で寝ろ!
エリンは家を飛び出し、恋するジャックの後を追いかけて旅に出るのでした。
ジャックは妊娠の事実を気ままな青春時代の終わりと感じショックを受けているのではないだろうか。ふつう男は九か月かけて自分が父親になるという事実に慣れてゆくものだ。だがジャックはそれをただちに受け止めなければならない。
いまでは自分の問題は自分ひとりで完璧に処理できるけれど、いつでも自分のために戦ってくれる人がいると実感できるのは心強い限りで、そうした安心感というか、心からくつろげる感情を長い間忘れていた。
ジャックとアリエナは、フィリップの修道院に戻るが、まだアルフレッドと正式な離婚していないので、ふたりの関係を認められません。
男と女のことになると、どうして、ああも意固地になるか、わかる? 自分にその自由がないからよ。自分には禁じられているのに、他人がおおっぴらに楽しんでいるのを見ると腹が立つんでしょ。
アリエナの弟リチャードは軍事の才能はあるが、稼ぐ力はないのでした。
どうして彼は自分で稼がないんだ? 干からびたパンで済ませているぼくが、リチャードのベーコンの費用をはらわなくちゃならないんだよ。
なにをいっているんだ。承服できないだって? 狐に食べられるのを承服できないといくら鶏がいったって、鶏の運命が変わるわけでもあるまいに。
いまとなっては彼女を自分のものにするのは無理だろうが、ほかのだれにも彼女を渡さないようにすることならできる。
暴虐なウィリアム伯爵と結婚した幼な妻エリザベスは夫婦関係に悩んでいました。
伯爵の命令を伝えるのよ。夫はあなたに感謝するでしょうし、あなたをないがしろにするものには厳しく当たるようになるはずよ。そうなれば、かれらもあなたのいうとおりにする習いになるわ。そうなったら、あなたを熱心に助けてくれるものとそうでない者との区別をつけ、助けてくれるものはひいきにして彼らがやりたがる仕事をさせ、そうでない者にはよごれ仕事をあてがうの。そこまでくれば彼らだって奥様の言うことを聞いていれば損はないと悟り始めるでしょう。それに伯爵よりあんたのほうが慕うようになるはずよ。彼はそう人に好かれる人じゃないから。あなた自身が独立した権威になれるはずだわ。ほとんどの伯爵夫人がそうなのよ。
フィリップの大聖堂建築も財政難のため、労使関係がもめるのでした。
いわねばならないことを慎重に下ごしらえし、そっけない言い方でこの件をぶち壊しにしないようにしなければならない。受け入れることができるもの、断固拒否すべきもの、交渉に応じてもいいものを、決めておく必要がある。
フィリップがこの要求を持ち出さないことをジャックはすでに知っている。フィリップ院長がこの点で譲歩したとき、みんなの張りつめた帆は風を失ってしおたれてしまうだろう。
アリエナもまたしびれを切らします。エリンのときのように。
あなたとまともな生活が送れる日を十年も待ったのよ。
裏切って落ちぶれたリミジアスを、フィリップは救うのでした。
「これはこれは。わざわざ見物においでなすったか」
「もどってくる気はないか?」
「一介の修道士としてもどってきなさい。残された日々を祈りと瞑想のうちに送り、魂が天国に召される準備をするのだ」
同じく裏切って落ちぶれたアルフレッドが、まだ妻であるアリエナにカネの無心をし、それがうまくいかないと犯そうとします。それを見た弟のリチャードはアルフレッドを殺してしまうのでした。これによってアリエナはジャックと結婚することができました。
アルフレッドがいまアリエナにしたことにではなく、十八年前、ウィリアムがリチャード自身にしたことに憤激しているのである。
たくさんの人が関わった大聖堂は完成しました。トムの子ジョナサンは、実はフィリップの子ではないかと疑惑を持たれます。その疑念を晴らすためにジョナサンは自分のルーツを求めるのでした。
ジョナサンが自分自身を奇妙で異常な存在だと感じているに違いない。わたしのどこがいけないのだ? ほかの人にはあって当然のものが、どうして、わたしにだけ与えられないのか? わたしは苦しみ続けました。
フィリップと、ウォールラン、ウィリアムは、最後まで人の性のように争います。そして大司教を暗殺することで権力を一手にしようと画策します。
なにもかもおしまいだ。暴力が勝ったのだ。足下にぽっかり口を開けた深い淵にゆっくり沈んでゆくような気がする。先ほどまで揺るぐこともないように思えたものが、もろくも崩れ去ってゆく。生涯かけて闘ってきた。だがいま、その闘いに最終的に敗れたのだ。
父親を殺された六歳児の頃と同じ憤りだった。世界全体に向けられた、子供っぽく理不尽なあの憤り。
フィリップは暴力に敗北したと絶望しましたが、堂々と殺された大司教は信者から聖人あつかいされて、思わぬ大逆転が待っていました。聖者殺害の実行犯ウィリアムは絞首刑となります。
今日よりのち、世界は昨日までの世界とは違ったものになる、と彼は思った。
フィリップは新しい時代が来たことを感じるのでした。
『大聖堂』のテーマ、なにが言いたかったのか?
作者が『大聖堂』で言いたかったことは、人間の歴史、人というものの性、だと思います。キリスト教の聖堂をモチーフに、世の栄達と無縁と思われる修道士ですら権力争いをし、自然条件や上位権力に影響されながら、なんとか人生をまっとうしようとそれぞれに頑張ります。
人生をまっとうするための、納得のできる生き方をするための、その大切な一本のスジが、トムビルダーや、フィリップや、ジャックにとっては、大聖堂の建築だったというだけのことなのでしょう。
人は憎みあうものだし、ゆるすことも、愛し合うこともできるのでした。