「まちゼミ」とは?
「まちゼミ」って知っていますか? たいてい商工会議所を中心に市町村単位で行われている「まちおこし」イベントです。お店の人が講師となって、専門店ならではの専門知識や情報を参加者に講演するゼミナール形式のイベントです。たとえば和菓子屋さんは和菓子の情報をお伝えするわけです。お店の人にとっては自分のお店をPRできて得です。イベントに来てくれた人は未来の顧客になってくれるかもしれません。
イベント参加者にとっては、興味ある分野の専門家の話しを聞くことができて、新しい知識を得ることができます。多くのゼミは無料ですし、楽しめるだけでなく、同じ分野に興味を持った友だちができるかもしれません。
まちゼミでは商店街マップなどを作成することが多いようです。マップがあれば講師のお店の位置がわかります。地方の商店街は共存共栄なので、みんなで「まち」を盛り上げることが、結局、自分たち全体の利益につながることから最終的には「まちおこし」イベントとなることが多いのが、まちゼミの特徴です。
「事業者」も「お客さん」も「商店街(まち)」も「三方よし」というすばらしいイベントです。わたしはこのイベントに参加したことがあるのですが……ひじょうにおもしろいイベントでした。無料だったのでどんどんやっていただきたいと思います。
しかし……放浪の旅人としてひとつだけ感じてしまったことがあります。あまり建設的な意見ではありませんが、それをここでは書こうと思います。
「地球こそ我が家」だと考えられるのならば、旅人の生き方を選んでほしいとわたしは思います。だってどこへ出かけても「そこは自分の庭」なのですから。どこへ行くのも自由だし、何ひとつ怖がることなどないからです。
農耕民族的な生き方と狩猟採取民的な生き方
わたしは人間の生き方には大きく分けてふたつの生き方があると思っています。
ひとつは農耕民族的な生き方です。定住し、自分の住んでいる場所を開拓しようという生き方です。自分が住むその場所に魅力的な何かを引っ張ってきたり、イベントを開催したりします。
まちゼミを開催するような人たちは、このグループに属します。
自分の住んでいるその場所が、将来、魅力的になるのを待つ(布石を打つ)という生き方です。
もう一方で狩猟採取民的な生き方というのがあります。こちらのグループは定住を好みません。今いるところが魅力的じゃないならば、魅力のある場所へ自分が移動すればいいのです。開拓して成果を待つのではなく、自分が魅力的な場所へ行ってしまおうという生き方です。
この場所が魅力的な場所になるまでいつまでかかるかわかりません。もしかしたら一生のうちに間に合わないかもしれません。この場所が魅力的な場所になるまで待っていられない。だから故郷を捨てて旅に出ます。自分が魅力的な場所に行ってしまうならば、引っ越した翌日から魅力的な場所に住むことができます。
「自分の庭は地球だ」という意識改革が、アウトドアライフの本質
もちろん農耕によって人類は富を蓄えて飛躍的に進歩したことは知っています。農耕なしにこれほどの人口を養えないことも知っています。しかしどうも農耕民族的な生き方には「集団」の匂いがします。農耕の集団を考えるということは、市長とか総理大臣とか集団のリーダーの発想です。あなたがリーダーの器なら別ですが、庶民ならば何もリーダーの発想をしなくてもいいのでは?
農耕民族的な生き方とは、家を買ったり田んぼを買ったりする生き方です。不動産を所有するという生き方は豊かに見えます。しかしどれだけ大きな庭を買っても、自分のものとその他に境界をつくって区別している限りは、しょせんはちっぽけな世界を生きることになります。
どれほど大きな庭を得ても、もっと大きな庭を所有している人への妬み、羨みは消えません。境界の内側だけが自分の世界だと思っている限りは。
しかしよく考えてみてください。
どれほど広い「自分の庭」を購入しても、そこに雪山はなく海もありません。どれほど広い庭であっても地球に比べたら狭い貧相な場所でしかありません。
ただ地球こそが自分の庭だと認識する意識革命においてのみ、豊かさを手に入れることができるでしょう。巨大な庭園であってすらも、ちっぽけな箱庭にすぎないと思えるのです。
地球の自然を手に入れてはじめて妬みや所有から自由になることができるのです。その広大さの前には誰もが平等ですから。
「自分の庭は地球だ」という意識改革こそが、アウトドアライフの本質なのではないでしょうか。
なにも「ここ」とは限らない。「おらが村」が盛り上がらなくても、自分が盛り上がっている場所に行けばいい
お客様のひとりとして、無料で「まちゼミ」を楽しませてもらいながらも、こんなことをわたしは感じてしまいました。「まちゼミ」の人たちはどうにかして「おらが村」を盛り上げようと頑張っているのですが、そんなことをしなくても自分が盛り上がっている場所に行けばいいんじゃね? というのが旅人としてのわたしの率直な感想です。
農耕民族的な生き方をしている人たちが「おらが村」を何とかして魅力的な場所にしようと知恵をしぼって頑張っているのですが、彼らの一生の間に「おらが村」が劇的に魅力的な場所になるとは思えませんでした。もし運動が成功しても果実を味わうのは子や孫の世代でしょう。次の世代でもいいと思うのが農耕民族的な生き方をしている人たちの特徴なのかもしれません。
旅人はそうは思いません。この場所がどんなに魅力的な場所になるとしても、自分が死んだ後では意味がありません。むしろ限られた短い生きている時間のあいだに、どれだけ「このわたし」が魅力的な体験ができるか? それこそが重要だと考えています。だから魅力的な場所にみずから近づいていくのです。待つのではなく。
無料で「まちゼミ」を楽しませてもらいながら、まちを盛り上げようとしている人たちに、わたしはひとこと言いたくてなりませんでした。旅人の生き方について。それは「集団の生き方」に「個人の生き方」をぶつけるってことです。
このコラムを読んだみなさんはどちらでしょうか。
「庭つきの自分の家」が持ちたいですか? それともそんなものにまったく興味がないと思えるでしょうか?
そう思えるかは「自分の庭は地球だ」と考えられるかどうかにかかっています。
「地球こそ我が家」だと考えられるのならば、農耕民族的な生き方ではなく、狩猟採取民的な生き方つまり旅人の生き方を選んでほしいとわたしは思います。
だってどこへ出かけても「そこは自分の庭」なのですから。どこへ行くのも自由だし、何ひとつ怖がることなどないからです。