どうもハルトです。みなさん今日も楽しい旅を続けていますか?
神流町恐竜センター
神流町恐竜センターというところに行ってきました。そこが主目的地ではなく、たまたま前を通ったので寄ってみた、という感じだったのですが、大満足の施設でした。
展示が充実していて驚きました。群馬県中里村(現在の神流町)が施設を作ったようですが、どこからこんな建設資金を捻出したんだろう、というぐらいの内容の充実ぶりです。
翼竜の化石も、タルボサウルスも「こいつが生きていたらステキなのになあ」と想像力を刺激する展示でわくわくしました。Tレックスの産状骨格(レプリカ)も他の博物館にはない形の展示で、化石発見当時の姿を見ることができたし、ライブシアターも地方都市の小さな博物館のものとなめていたら、予想以上にしっかりしていてびっくりしました。
恐竜の化石を見ながら、私は考えていました。
「地球の王者だった恐竜たちが滅んだように、人類もやがて滅んで消えるんだろうな」と。
人類なんかよりも圧倒的に大きくて強い恐竜たちが滅んでしまった歴史というものの前に、人類だけが生き残れると考えるのはおかしなことです。むしろ恐竜たちがそうであったように人類もまた滅び去る、と考えた方が当然であると思います。
地球が滅ぶよりも先に、人類は滅び去る
地球の歴史45億年を1年間に例えると、恐竜の歴史は12月13日から26日まで14日も続きますが、人類の歴史は12月31日の23時37分頃だそうです。二つの世界大戦を経験した20世紀は31日の23時59分59秒のたったの1秒間。まだ人類は恐竜にくらべたら一瞬の存在でしかありません。
よくSF作品で「古代の超文明は存在した! 彼らはわたし達より遥かに高度な科学力をもっていた!」なんていう設定がよくあります。漫画『風の谷のナウシカ』の巨神兵を生み出した古代の民とか。オーパーツなんていうものもあります。
しかしそれは「過去」のSF的空想物語ではなくて、我々人類が滅び去った後「未来」の種族が、過去の私たちの人類の文明のことを知って感じるはずの物語なのではないでしょうか。
そのデジャヴ。予言的な物語であるような気がします。
古代の超文明とは、未来人から見た我々の文明のことなのではないでしょうか。
地球が滅ぶよりも先に、人類は滅び去るでしょう。
子供のいる人に限って「子孫を残すのは人類としての義務」的なことを発言する人がいますが、彼らは義務を果たそうとしたのではなく、自分にとって「快」「安」「楽」なことをしただけでしょう。それが結果として子供を産むことだっただけで、義務云々は後からとってつけた理屈だと思います。
その子孫もやがては滅び去ります。
「さすがに超古代人は賢者であった」そんな風に惜しまれたい
その先の「新しい未開の種族」たちが、滅び去った古代の超文明に思いをはせる時、「超古代人(=我々)の人生は、生産のためにこき使われて奴隷のように苦しいものだった」「親は己の欲望を抑えてまで苦労して子孫を育てたけれど、結局は滅び去った」などと思われるのは人類の恥辱ではありませんか。
それよりも「彼ら(=我々)は楽しく生きた。輝いて生きた。楽しく、笑いながら、この世界から消えた」
そんな風に未来の種族からは思われたいものです。「ああ、彼らは最高だったなあ」「さすがに超古代人は賢者であった」そんな風に惜しまれたいものです。
新しい時代の生き物が、古い時代の生き物よりも必ずしも優れているわけではありません。神流町恐竜センターで滅び去った恐竜の化石を見ながら、私はそんなことを思っていました。
ところでティラノサウルスはニワトリになって現代も生きているという説があります。
史上最強の陸上動物が何を間違えば臆病者のチキン野郎になってしまうんだか(笑)。あまりにも皮肉すぎる結末ですね。