江戸川乱歩と三島由紀夫の『黒蜥蜴』
ここでは江戸川乱歩原作『黒蜥蜴』について語っています。
しかしテキストは乱歩の『黒蜥蜴』ではなく、三島由紀夫の戯曲『黒蜥蜴』です。
またドラマ化された「江戸川乱歩の美女シリーズ」についても語っています。
『黒蜥蜴』は非常に江戸川乱歩的で、同時に三島由紀夫的な作品でありました。
人間は社会と妥協して生きている人がほとんどですが、限りなく純粋な人が夢を妥協しなかったとき、犯罪者となってしまうこともありえるのかもしれませんね。ちょうど三島由紀夫がそうだったように……。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
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『黒蜥蜴』江戸川乱歩と三島由紀夫
私が三島由紀夫の最高傑作と考える『サド侯爵夫人』は、三島由紀夫の戯曲ですが、実際には共同執筆者としてサド侯爵というフランスの作家がいました。二人の著者がいたからこそ奇跡の名作ができたと思っています。
それと同じように『黒蜥蜴』には三島の他にもう一人の執筆者がいます。もちろん江戸川乱歩その人です。
むしろ戯曲の執筆者は、三島以上に江戸川乱歩だとも言えるでしょう。
『サド侯爵夫人』におけるサドよりも、直接、江戸川乱歩が関わっています。
ストーリーの筋はほぼ乱歩ですから。三島らしさはセリフの耽美的な表現に凝縮されています。
世の中、同じことをいうのでもいい方次第だと思いませんか?
そこには『サド侯爵夫人』を彷彿とさせるような悪徳(犯罪)と美徳(市民生活)が相照らしあうような表現が散りばめられています。
ここまで両者の相性がいいのは三島が歩み寄ったというよりは、もともと江戸川乱歩の世界と通じるものがあったためでしょう。
作品は価値観の反転に次ぐ反転です。
そして三島の真骨頂は小説ではなく戯曲にあったのではないかと私は思うのです。
【書評】『黒蜥蜴』バロック調の大芝居
江戸川乱歩『黒蜥蜴』のどのようなところが三島的だったのでしょうか。
主人公の美貌の緑川夫人こと女賊・黒蜥蜴は、「永遠の若さ、美しい肉体のために、人間のはく製をつくろうとする芸術家」です。
三島が、若く美しい青春の絶頂に死ぬことを望んでいたことは、つとに知られています。三島は老醜を嫌悪していました。
三島の肉体美ははく製にこそなりませんでしたが、写真におさめられています。
三島の『黒蜥蜴』には、かの名探偵明智小五郎が出てきます。最初読んだときには、ちょっと驚きました。うまい譬えかどうかわかりませんが、アガサ・クリスティーを読んでいたら、シャーロック・ホームズが登場してきたかのような印象です。
私の中で明智小五郎が、生きているからでしょう。明智小五郎がキャラ立ちしすぎていて江戸川乱歩の戯曲かと思ってしまいます。しかし三島由紀夫が書いています。これはそういう戯曲なのです。
戯曲の中で緑川夫人こと黒蜥蜴と明智小五郎は犯罪論争をします。探偵と犯罪者は同じ犯罪に向きあうが、自分の心に純粋な方は犯罪者であり、探偵にはどうしても犯罪を理解しきれないところがある、と。
そして満たされない思いを犯罪者に抱くのです、報いられない恋のような……。
三島が黒蜥蜴を書いたのは、ここが書きたかったからでしょう。乱歩作品おとくいの変装シーンも登場します。
長椅子ソファに人間が入って運び出されるという牧歌的な誘拐も、乱歩の少年探偵団シリーズではおなじみですね。いや、重いだろ! 運ぶときに分かれよ!
黒蜥蜴は、変装が見破られないのは「そもそも本当の私なんてないからだ」とさらりといいます。肉体の見た目ではなく、魂の存在感のようなものがあるから、人は人であると考えなければ、このような表現は出てきません。
明智に恋する「私」は、どの私なのか? ラブストーリーを演じた芸能人が共演者に本当に恋をしてしまうことはよくあることです。その時、恋したのは演じた役者なのか、演じた役柄の気持ちが続いているだけなのか? すぐに離婚してしまう場合は、役者と役柄の区別がうまくできなかったためかもしれませんね。
明智に恋する「私」は、どの私なのか? あした別の鏡に映る別の私に訊くとしましょう……と逃亡しつつ第一幕が終了します。
ブンガクしちゃってますね!!
戦前と戦後の価値の大転換が、劇を動かす
「死ぬつもりでいたおまえは美しかったのに、生きたい一心のおまえは醜かった」
黒蜥蜴は雨宮潤一にいいます。三島美学が炸裂しています。
戦争という不条理な死のなかに意味を探し激しい命を燃やした戦前と、価値観が大転換し信じられるものが無く、無意味、無目的に生きる戦後を経験した三島だからこそのセリフだと思います。
いわば戦前と戦後の価値の大転換が、三島の作劇法のひとつでした。『サド侯爵夫人』ではフランス革命を同じ装置として利用しています。
善人が悪人、悪人が善人。きれいはきたない、きたないはきれい。犯罪者が夢追い人で、名探偵が小市民。敗戦により、鬼畜米英だったアメリカ兵が陽気ないい奴らで、神兵だった日本軍は庶民を無視した嫌な奴らだったということになりました。
奇跡を起こせるのは恋だけ。恋を失ったら“私の世界”には二度と奇蹟は起こらない
黒蜥蜴でも、そのような価値の大転換が物語を動かしていきます。明智と黒蜥蜴は追う者、追われる者という立場で惹かれあうようになります。
泥棒は泥棒でも恋泥棒ですね。『ルパン三世カリオストロの城』(1979年)のような話しだともいえます。泥棒さんが盗んだのは財宝ではなく恋心でした。
追い、追われる関係が、恋する二人にそっくりだという意味では北条司の『キャッツ・アイ』(1981年)のようでもあります。
「あなたがこれ以上生きていたら、私が私でなくなるのが恐いの。そのためにあなたを殺すの。好きだから殺すの」明智を殺す際、黒蜥蜴はいいます。
「海をごらん。暗いだろう。夜光虫があんなに光っている。この世界には二度と奇蹟が起こらないようになったんだよ」
なぜこんなことをいったのか? 恋する人が死んだと思ったからです。奇跡を起こせるのは、恋だけだからです。
バロック調のあやしい闇とエロス。江戸川乱歩の世界
やがて物語は、「恐怖美術館」へと向かいます。恐怖美術館には黒蜥蜴が「美しいと感じた人間のはく製」が全裸で展示されているのです。
バロック調のあやしい闇とエロス。江戸川乱歩の真骨頂の世界です。青少年にあたえる影響がどうの、とか、人権がどうの、とか、作家の倫理を問われなかった時代でした。エンターテイメントはエンターテイメントとして、自由に妄想の翼を江戸川乱歩はひろげました。
この「乱歩あるある」のヘンタイチックなバロック設定も、やはり三島の好みだったと思います。雨宮は黒蜥蜴の愛撫を受けるために「自分がはく製になっても」と裏切りの芝居を打ちます。黒蜥蜴に嫉妬してもらうためでした。
結局、明智は変装していて実際には死んでおらず、黒蜥蜴の悪事を暴きます。そして美女、黒蜥蜴は逮捕の一歩手前で自殺します。若く美しいまま、おのれの芸術である恐怖美術館で、虜囚の辱めを受けることなく死んでいくのです。
黒蜥蜴は最後に呟きます。「うれしいわ。あなたが生きていて」
自分が死んでも、奇跡が起こる世界であってほしい
自分が死んでも、奇跡が起こる世界であってほしい。
現実の世界では明智が探偵で黒蜥蜴が泥棒でしたが、心の世界では明智が恋泥棒で黒蜥蜴が探偵でした。
明智の心を探して探してやっと探して見つけたら冷たい石ころでした。
明智は最後に呟きます。黒蜥蜴の心こそダイヤモンドだった。本物の宝石はもう死んでしまった、と。
江戸川乱歩の美女シリーズ。探偵版「男はつらいよ」
原作の江戸川乱歩『黒蜥蜴』は1934年の作品です。戯曲の三島由紀夫『黒蜥蜴』は1961年の作品です。
三島の戯曲では美貌の女賊・黒蜥蜴の役を美輪明宏さんが演じて大ヒットしたそうです。
ところでひと昔前にテレビで『江戸川乱歩の美女シリーズ』というのがあったのをご存知でしょうか?
絶世の美女が登場し、明智小五郎と互いに男女として惹かれあう。けれど決して結ばれないというパターンでした。
犯罪者の美女は毎回入れ替わるのですが、明智小五郎は常に天知茂さんでした。探偵版『男はつらいよ』的なところがありました。常に報われない犯罪者美女との淡い恋を明智小五郎は繰り返します。
令和の時代にはぜったいにつくれないようなエログロ満載の大掛かりな名作シリーズでした。
この美女シリーズにも『黒蜥蜴』がありました。1979年『悪魔のような美女』です。
ところでこの美女シリーズで明智小五郎役を見事に演じた天知茂さんですが、三島の戯曲『黒蜥蜴』で明智小五郎役を演じて当たり役になったのだそうです。
三島の戯曲のおかげで、美女シリーズの天知茂があったといえるかもしれません。
※美女シリーズいちばんの名作・おすすめは『パノラマ島奇談』を元にした『天国と地獄の美女』です。
明智小五郎役は天知茂の死後、北大路欣也、西郷輝彦とバトンタッチされるのですが、すばらしい名優が演じても、初代・天知茂にはかないませんでした。江戸川乱歩の暗いエログロの中で、大スター俳優の輝きが浮いてしまった印象でした。
『江戸川乱歩の美女シリーズ』のお約束である「犯罪者の美女と明智小五郎が惹かれあう」展開も、三島戯曲『黒蜥蜴』のお陰だったのかもしれません。
江戸川乱歩原作の怪盗はほとんどが男性であり、女賊相手に惹かれあう展開ではありません。
犯罪者役を常に絶世の美女とし、いつも明智と惹かれあう展開にしたのは、三島版『黒蜥蜴』があったからだとはいえないでしょうか。
いにしえの永遠のテーマ、それが恋愛
三島由紀夫の戯曲『黒蜥蜴』が、後世に残した影響について語ってきました。
同じ文庫の中には、戦争をモチーフにした戯曲(若人よ甦れ)と、右翼左翼の政治闘争をモチーフにした戯曲(喜びの琴)がおさめられていましたが、どうしても古びた感じが否めません。
やはり、物語というものは恋愛をモチーフにした方がいいようです。
恋愛ならば命を捨てるほど情熱を賭けても不思議はありません。その気持ちは青春のたびによみがえり、永遠に古くなりません。いつの時代でも、どこの国民にも通じるモチーフが恋愛ではないでしょうか。
「今さら戦後の話しかよ」「今さら左翼の話しかよ」と飽きられることはあっても「今さら恋愛の話しかよ」という若者は世界中のどこにもいないのに違いありません。
いにしえの永遠のテーマ、それが恋愛です。たとえそれが犯罪者と名探偵の心の恋愛であったとしても。