ドストエフスキー作品『白痴』のあらすじ、読書感想文
ここではドストエフスキー『白痴』の書評をしています。主人公は「てんかん」の病のために、またロシアを知らないために、相手の言うことを言葉通りに受け取るほど無垢なために白痴と呼ばれるムイシュキン伯爵です。
作者ドストエフスキーはムイシュキンを「現代のキリスト」「無条件に美しい人間」として描こうとしたらしいのですが、どのあたりが無垢な殉教者なのか、この稿ではそこを解き明かしていきます。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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癲癇とはどんな病気? てんかんで白痴ってどういうこと?
作者ドストエフスキーも「てんかん」持ちだったことで知られています。癲癇もちで白痴というのはどういう意味なんでしょうか?
癲癇とはどんな病気なのでしょうか?
てんかんは、突然、けいれんしたり、意識を失って倒れるなどの病気です。これを「てんかん発作」といいます。原因は脳の電気信号の異常によるとされています。その信号の強弱によって人によって「てんかん発作」もさまざまなのだそうです。突然目の前でぶっ倒れてヒクヒクと痙攣されたら、たしかにヤベエ奴には見えるかもしれませんね。白痴には見えないかもしれないけれど。その異常信号のせいで、症状の悪い人は脳機能障害にまで行ってしまう人もわずかながらいるそうです。しかし実際に癲癇もちのドストエフスキーは、史上最大の文豪と評価されることもあるのです。私はそうは思わんけど。
ドストエフ好き? うんにゃ。嫌い。
イエスが子供に慕われる描写はない。
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ギロチンになる死刑囚の会話内エピソードから冒頭スタートします。
子どもに慕われるムイシュキン。子どもに愛される子どものような男。
私は聖書を精読していますが、イエスが子供に慕われる描写はなかったのではないかと思います。遊んであげるというような。なぜなら奇跡を奇跡と感じることができるのは常識ある大人だけであり、何も知らない子供にとっては奇跡もあたりまえのことになってしまうからです。
汽車の中でたばこを社外に投げ捨てられ、おかえしに子犬を車外に投げ捨てるエピソードがあります。この犬を投げ捨てるエピソードは妙に印象に残りました。持参金目当てのガーニャ。おおっぴらに「金のため」に「人の思いもの(老人トーツキィの情婦)=ナスターシャ」と結婚しようとする。
卑劣漢ですな。ドストエフスキー作品には、こういう「典型的な」「あからさまな」「恥を知れといいたくなる」人物がよく登場します。
ドストエフスキーは今日の日本人にとっても本当に名作といえるのか?
嘲笑しようとわざわざ近寄ってくる女。こういう嫌味な人間を登場させるのが、ドストエフスキーの真骨頂なのです。書き手としては普通はここまで露骨なのは書きたくないんですけどね。典型的な嫌な奴とか、典型的な嫌味とか、絵に描いたような典型的な悪人が本作でも登場します。
呼ばれてもいないナスターシャのパーティーに行く侯爵。そこで「生涯一の悪い行いを告白するゴッコ」を行います。トーツキイの情婦であったことと、お金にがめついことで、男に軽蔑され捨てられると思っているナスターシャ。「幸福になれないなら、いっそ別れましょう」などという。こういう反応を現代精神科では「防衛機制(反復脅迫)」といいます。いじめられてきた犬が、やさしい人にも、おびえて噛みつこうとするようなものです。
プライマル・スクリーム(原初からの叫び)
人名を理解するのに苦労するロシア文学。和訳版は人名を統一した方がメリットが大きいのではないか?
ガーニャに火中から取れば10万ルーブリあげると試すが、意気地がなく取れない。
ちなみにガーニャというのは男です。ワーニャというのは女です。わからんっちゅーの。日本語のようにタケシは男で、シズカは女だというように、名前から日本人は性別などが連想できません。あだ名で読んだり、フルネームで読んだり、ドストエフスキー作品は人名を理解するのに苦労します。
ロシア人が読む場合、呼びかけ方で「親しみ」「関係性」を表現しているわけで、原書ではそれを表現するために使い分けて表現されているわけですが、和訳された書物の場合、名前は統一した方がいいんじゃないでしょうか。どうせ日本人が読むものですから、ロシア本国の繊細な呼びかけによる関係性なんて日本人にははかりしれませんし、それをとるメリットよりも、誰が誰だかわからなくなるデメリットの方がずっと大きいと思います。
同じ人物の名前を三通りぐらい覚えなければなりません。ただでさえおぼえられないというのに……。
読書家の定義。登場人物の名前の覚え方・テクニック
日本人感覚だと「キチガイ」ばかり登場する。だから「白痴」なのか?
ラゴージンは、恋によって現在うけている苦しみのために、ナスターシャを憎み、女が女房になったら腹いせしようと考えている。女房にならなかったら殺そうと決めている。
どういう変態なんでしょうか? かなり屈折した変態ですね。
ナスターシャは金めあてでなく、背後に白刃があるから、ラゴージンが気になっている。
女の方もかなりの変態です。精神的マゾっぽいところがあります。
時計のために長年の友だちを刺し殺す男のエピソード。時計を見せびらかすスネ夫をのび太が殺しちゃうみたいなエピソードです。日本人の感覚だとキチガイだと思うんですけど、こういうあからさまなのを臆面もなく出してくるのがドストエフスキーという作家です。日本は温和で暮らしやすいけど、ドラマがあるのはロシアかもしれません。
エリツィンのように「ソ連とロシアは違うのだ」と五木寛之は予言した
赤ん坊の笑顔を見た母親のうれしさは、罪びとが真心こめてお祈りするのを見た神のうれしさと同じ。これがキリストの最も重要な思想なんだ。
私はそうじゃないとおもいます。キリスト教の本質は、この肉体この意識のまま死者が復活すること、そして永遠の命を得ることができるということです。
「イエス様を信じれば、この肉体、この意識のままで復活して永遠の命を得ることができる」ことです。たしかに愛も説きました。しかし最重要なのは愛ではなく、死んでも復活できるということです。これは一種の詐欺師の手口であってキリスト教が一部いいことをいっているから(愛の教え)と言って、その宗教全体が信じるに足る(復活できる)、という議論は成立しません。」
十字架を交換して義兄弟の契りを結ぶムイシュキンとラゴージン。いくらキリスト教思想で意気投合したからって、いきなり義兄弟はムチャじゃないかな。義兄弟の契りが唐突な気がします。元々ふたりはナスターシャをめぐる相いれないライバル同士だったのです。
前世の約束なら、ナスターシャはおめえがとるがいい。あれはおめえのもんだ。おれはおめえに譲った! ラゴージンをわすれないでくんな。
ナスターシャはたえまなく自分の穢れを自覚するのが、ちょうど誰かに復讐でもするような快楽なんです。マゾですねえ。なんだか分裂症の人のように見えます。あるいは作者は分裂症の人を描きたかったのだとすれば成功していますね。
『告白』を読むイッポリート。拳銃をこめかみに当てて撃つが、銃弾が出ない。不発か。未装填か。恥じて泣くイッポリート。大声で笑うもの。雷管を入れ忘れた。ぼくには廉恥心がある。永久に恥辱を受けた。意識を失って倒れた。自殺しかけたのは『告白』をアグラーヤに読んでもらいためか。ほめてもらいたかった。われわれはあなたを愛しかつ尊敬しています。どうぞ生き残ってくださいといってほしかった。自殺未遂か、狂言自殺か、はっきりしないエピソードです。このように本筋と関係のない小エピソードが『白痴』では妙に印象に残りました。
うそをつくときに、まるで類のないようなことを、ちょっと上手に挟むと、その嘘がたいへん本当らしくなるものよ。
嘘つき、多いんだよなあ。ドストエフスキー作品。
ムイシュキンとラゴージンとナスターシャの経緯は、会話の中で語られる場合も多く臨場感がありません。
ムイシュキンがナスターシャにプロポースしたこと。しかしナスターシャはラゴージンと駆け落ちしたこと。それをムイシュキンが取り返したこと。ムイシュキンとナスターシャは一所に暮らしたこと。ストーリーの上で、ひじょうに重要な要素であるはずの、これらのことが、説明ゼリフと呼ばれる会話の中で説明されるだけなのです。非常におくれた演出法ですね。
シャーロック・ホームズが過去に起きた事件を、いま目の前で現在進行しているかのように演出した手法をぜひ見習ってほしいものです。
ホームズ・ワトソン・スタイル。シャーロックホームズ60編の読むべき順番
死臭にこだわり。死臭が好きなのか?
じゃあ自首しないんだね。あれをかつぎ出さないんだね
どうしてどうして。
ひとつ心配なのは、においが出やしないかってことなんだ。おめえ、においがするかい?
死臭にここまでこだわる人も珍しいのではないでしょうか?
死臭といえば『カラマーゾフの兄弟』ゾシマ長老の死臭を思い出します。
ドストエフスキー作品の読み方(『カラマーゾフの兄弟』の評価)
これほど死臭を執拗に描写する作者はヘンタイなんじゃないかと思います。
カラマーゾフの兄弟『大審問官』。神は存在するのか? 前提を疑え!
ナスターシャ殺しの犯人ラゴージンは喪心と熱病の状態に。ムイシュキンは白痴に。
なんで? 過剰な精神ストレスが原因でしょうか?
こういうのを女脳というんでしょうか。とりとめのないことをひたすら饒舌だな。ドストエフスキー。
実際のドストエフスキーはギャンブル狂で、賭ケグルイの果てに、出版社からお金を借りたのが『白痴』誕生の背景だそうです。身を亡ぼすほど賭博に狂った人間が「無条件に美しい人間」を描こうってそれは無理じゃないですかね? まず自分が斎戒沐浴してから……というのが日本人の発想だと思います。「それとこれとは別」というのが大文豪なんですかね。女を抱きながら悟りの世界に達してしまうような人が世の中にはいます。ドストエフスキーもそのような「常人でない人」だということでしょうか。
「唐突」「分裂症」「気持ち悪い」「キチガイ」
人間の感情は一筋縄ではなく、瞬間瞬間でコロコロ変わるものだ、ということをドストエフスキー本人は描きたいんでしょうが、小説でそれをやろうとするから「唐突」「分裂症」「気持ち悪い」「キチガイ」に見えるのです。
ドストエフスキーは今日の日本人にとっても本当に名作といえるのか?
このドストエフスキー作品の傾向をわたしは「モダンアートみたいなものだ。わかる人とわからない人がいて当然だ」と評しました。
『白痴』に登場するヒロインたちにも同じことが言えます。そして私はこの人たちの描き方が「好きになれない」「理解できない」のです。
ドストエフ好きー? と聞かれたらわたしは「いや、嫌い」とすなおに答えるしかありません。
白痴、のムイシュキンは、どこらへんが現代のキリストなのか?
ドストエフスキーは『白痴』の主人公、ムイシュキンを「現代のキリスト」にしようと作劇したそうです。ムイシュキンのどのあたりが、現代のキリストなのか? それを考察してみたいと思います。
まずは見なく接することが類似しています。たとえばイエスは売春婦などが相手でも予断をもって接しません。ムイシュキンも「自分はけがれている」と感じている愛人歴のある女を、そのいい面だけを見て愛します。
また、ムイシュキンは社会性がなく子供のように純粋であるために、人間関係がうまくいかなかったりします。イエスも刑死していることから社会との関係が良好だとはいえませんでした。ムイシュキンは白痴という世界でしか生きられません。イエスの思想も、信じない者にとっては妄想にすぎません。汚れた人は生きていけるのに、純粋な人は生きづらいというところは、イエスと一致しているといえるでしょう。
もしも現代にキリストのような人物が現れたら、人々は受け入れることができるでしょうか?
ドストエフスキーの答えは、当時も今もノーだろうということなのです。
白痴の内容
→ 私は小説の魂は細部に宿ると思っています。あらすじをいくら聞いても、その小説の魂にふれることはできないでしょう。それではドストエフスキー『白痴』の魂にすこしふれてみましょう。
大の男が、恐ろしさのあまり泣き出すなんて夢にも思いませんでしたよ。
人が人を殺したからって、その人を殺してもいいものでしょうか。いいえ、絶対にいけません。
ここでよくながめることができないくらいなら、外国へ行ったって急にできるようになるわけがないじゃありませんか。
幸福になることができるなら、ものの見方を知っているはず。
いろんなことを空想したものです。私は牢獄の中でも偉大な生活を発見できると思うようになりましたよ。
もし命を取りとめたらどうだろう。無限の時間がすっかり自分のものになるんだ。そうなったら時間をむだに費やしやしない。→ そう思ったけど実際は時間を空費する人生だった。
きみは子供だ。背丈と顔は大人に似ていても、発育とか精神とか性格とか知能の点においても決して大人ではない。わたしは大人と、世間の人と、大きな人といっしょにいるのを好まないんです。
私はスイスへあまりにも多くのものを残してきました。私は何よりも人々に対して丁寧で正直でありたいと思いました。世間でも私のことを子どもと言うかもしれません。みんなは私のことを白痴と考えています。
よ、読むようにだって? で、あなたは読んだんですか? 嘘だ。あなたが勝手に読んだんだ。こん畜生……あなたには黙っていることができないんですか。少しは私の身にもなってくださいよ。
無言で煙草を汽車の外に投げ捨てられたので、無言でペットの犬を汽車の外に放り投げた。おもしろいエピソードだと思ったらそれとそっくり同じ話が新聞に出ていた。嘘ばなしだった。
横面を張り飛ばされる。あなたはきっと自分のしたことをとても恥ずかしく思うようになりますよ。こんな仔羊みてえなもんをイジメやがって。
ガーニャは金のために他人の情婦(ナスターシャ)と結婚しようとする。
現代の人間にとっては、際立ったところもなければ性格も弱い、これといった才能もない平凡な人だと言われるほど侮辱的なことはありません。一人前の卑劣漢の数にも入れてくれない。
あの男はあなたを愛しているのではなく、あなたのお金を愛しているのです。
ロゴージンはあたしを商品扱いにして競ったんじゃありません? あんなことがあったあとでも、結婚するつもり? 自分の憎んでいる女を家へ入れようというんですか。
あなたの花嫁がロゴージンと駆け落ちしようとしたことをあとであなたは恥ずかしくならないかしら? あんたの女房はトーツキイの妾だったと言われたら、恥ずかしくはなくって?
七万五千ルーブルと結婚するのを幸福と思うなんて、よくもそんなことが考えられたものねえ。
おれの女だ。みんなおれのもんだ。女王さまだ。大詰めだ。
十万ルーブルを暖炉の火の中に放り込む。素手でとったらガーニャのもの。まあだらしのない。気が狂ったんだ!
ムイシュキン公爵。コーリャが話してくれましたよ。この世であなたほど賢い人にはまだであったことがないって。
もしあたしがあんたの女房にならなかったとしたら? 身投げして死ぬって言ったじゃないか。でもきっとその前にこのあたしを殺すでしょうね。
きみの恋は憎しみとすこしも区別がつかないものなんだね。その恋が消えてしまったら恐ろしいことがおこるかもしれない。きみは現在うけている苦しみのために、あの女をとても憎むことになるんだよ。→ロゴージンはわかりやすい精神構造ですね。
あの女はきみに何を望んでいるんだろう。二度までもきみを嫌って婚礼の間際に逃げ出した。
みんな嫉妬だよ。きみがやたらに誇張して考えてるからだよ。
私はこの土地であったことをなにもかもすっかり忘れてしまいたいよ。胸の中から抉り出してしまいたかったんだよ。
「主よ、キリストに免じてゆるしたまえ!」と念じて友だちを切り殺して時計を奪った男。
はじめて赤ちゃんの笑顔を見た母親の喜びっていうものは、罪びとが心の底からお祈りするのを天井からごらんになった神さまのよろこびとまったく同じことなんでして。
心配するなよ。あんたの十字架をもらったからには、決して時計のために斬り殺したりしないよ。もしそれが運命の約束なら、あんたがあの女をとれよ! あんたのもんだよ! 譲ったよ! このロゴージンを忘れるなよ。
→時代で仕方がないとはいえ、女性の意志はまるっきり無視ですね。まるでモノのように扱われています。
あんたは公爵の感謝の念ばかりを感情に入れているんじゃありませんか。よくもまあお礼は決して言いませんよなんて口が聞けたものだこと。
ぼくはただ万人の幸福のために生きたかったのです。その結果何が生まれたでしょう。何もありません。あなたがぼくを軽蔑する結果になったばかりです。何ひとつ思い出となるべきものさえ残すことができず。一つの事業もなく、たった一つの信念をひろめることもできずに。もしこんな肺病にかからなかったらきっと自殺でもしていたでしょうよ。
いや、それにしても、こんなあなたのような人を、なぜ世間では白痴というんでしょう、合点がゆきませんよ!
まず最初に私を棺に入れて、土の中に埋めてから、そのあと娘をあの人にやってください。みんながあなたを騙しているのに……あんな男を信用して、よくも恥ずかしくないんですね。かいのないお人好しだこと。まるで男とも言えやしない。
「うちに来てはいけない」白痴にはこんなふうに書いちゃいけないってことを考えてもみなかったんですよ。なにしろ言葉どおりに受け取るんだから。
彼女が自分の方を見ていたことを体全体で直覚した。おそらくそのまなざしはものすごく、憤懣の炎が燃えて、顔には紅がそそいでいたに相違ない。
惚れるならなんだって他の女と一緒にしたがるんだろう。公爵の幸せなところがみたいなんていうのを見りゃあ、やっぱり惚れてるんだよ。
なんであいつは他の人から見ると正気なのに、ただおめえにばかり気ちがいに見えるんだい。
ピストル自殺。雷管を入れ忘れたのだ。ついうっかりして忘れたんです。わざとじゃありません。ぼくは廉恥心がある。ぼくは永久に恥辱を受けた。彼はついに意識を失って倒れた。イッポリートが自殺しかけたのはアグラーヤに『告白』を読んでもらいたいがためかもしれぬ。われわれはあなたを愛し尊敬しています。どうぞ生き残ってくださいといってくれるのを望んでいた。
ナスターシャはあなた一人を愛している。これは嫉妬です。いいえ、嫉妬以上です。あの女がラゴージンと結婚するとお思いなすって? あの女はあたしたちが式を挙げたら翌日、自害してしまいます。
ラゴージンがわたくしを憎まずにいられないほど愛しているのを、わたくしはよく知っています。あの男はわたくしを殺すでしょう。わたくしがこうしてあなたに手紙をさしあげているのをちゃんと知っているのでございます。
ダチョウ倶楽部のような展開。しゃべるなよ。花瓶を壊すなよ……いわれるほどそうしてしまう。
わたしが生きているうちは、公爵をうちのアグラーヤの婿にするわけにゆかない。
どんな権利があって、あなたがこの人を愛してるってことをあたしやこの人にうるさく広告なさるんですか? あなたは自分でこの人を捨てたじゃありませんか。逃げ出したじゃありませんか。誰が仲人役を買って出てこの人と結婚しろと勧めたんです。何のためにあたしたちのあいだへ割り込んでくるのです?
→ラゴージンほどじゃありませんが、ナスターシャの心も謎というほどではありません。
精神的マゾというか、自分を卑下して、相手にふさわしくないと思い、それでもその気持ちに気づいてほしいとアピールする心情は理解することができます。
私のものだ。私のものだ。あの高慢ちきなお嬢さんは行っちゃったの? ははは。わたしはあやうくこの人をあの娘に渡すとこだった。いったい何のために? どういうわけで? ふん、気ちがいだ。きちがいだ。
あの男はアグラーヤさんがいなかったら、ほんとうに死んでしまうかもしれない。アグラーヤさんもあの男があれほどまで自分を愛していることを一生知らずに過ごしてしまうかもしれないぞ。しかしふたりを同時に愛するなんて、いったいどんなふうなんだろう。なにか別々な二つの愛で……ふん、なかなかおもしろい……しかし、かわいそうな白痴だ。いったいあの男はこれからどうなるのだろう?
風俗嬢に説教して自分のものにするタイプの男か?
ムイシュキンには二つの愛があります。ナスターシャへの愛とアグラーヤへの愛です。
ふたつの愛の違いは、ナスターシャへの愛は彼に喜びと救済をもたらし、彼を高尚な精神的な存在へと導きますが、アグラーヤへの愛は快楽と苦悩を伴い、誘惑と罪へと引きずり込むものだと言われています。精神的で純粋な愛と、肉欲的な愛と言われることもあります。
しかしむしろわたしが読んだ感想だと、ナスターシャに対する愛は、同情に近いのかな、と。イエスがマグダラのマリアに感じたような「みんなはきみをけがれているというし、自分もそう思っているかもしれないけれど、そうじゃないんだよ。かわいそうに。お金持ちの公爵である自分が結婚すれば、それを世間に証明できるかな」というぐらいに感じました。だからこそナスターシャは引け目を感じて瀬戸際で逃げるのではないでしょうか。そして「愛されずんば殺す」というラゴージンに殺されてしまうという……。
一般的な男の愛は私にはアグラーヤに向いているように見えます。一般的な男の愛には情欲、性欲が含まれます。それを否定するのはウソであり、詭弁です。
そうではないというのは、まさにキリスト教的価値観からそう判断しているだけであって、ドストエフスキーの文章からは性欲や堕落を感じられませんでした。
もしも現代にキリストのような人物が現れたら、人々は受け入れることができるでしょうか?
ドストエフスキーの答えは、当時も今もノーだろうということなのです。