ジャン・ジャック・ルソー。フランス革命の功労者。自由の哲学者
ここではジャン・ジャック・ルソーの著書『エミール』の書評、感想、内容紹介を行っています。童謡『むすんでひらいて』の作曲者としても有名なルソーですが、作曲家、小説家というよりは社会哲学者として有名です。1712-1778年の生涯です。サドと同時代の人物です。
フランス革命1789年の直前に亡くなっています。その自由の思想はフランス革命に影響を与えたと言われ、革命の功労者とされています。
私はルソーをフランス人かと思っていたのですが、生まれはジュネーブでした。フランスで活躍した人、という言い方が正解のようです。
『エミール』のあらすじ、内容、感想、書評
そのルソーの書いた『エミール』は、教師ルソーが教え子エミールを教育するという態をとっています。
こう書くとあたかも小説みたいですが、実際にはガチガチの哲学書でした。すくなくとも近代小説のような雰囲気ではありません。圧倒的に著者ルソーの独白で占められています。
人間の運命はいつも苦しんでいることにある。
肉体の苦しみはほかの苦しみにくらべればはるかに残酷でも、そのために生きることを断念するようなことはめったにない。痛風を苦にして自殺する人はいない。絶望に追い込むのは心の苦しみ以外にはない。
→そうでしょうか? ガンを苦にして自殺する人がいるのでは? 大哲学者ルソーが言ったからといって正しいと鵜呑みにすることはできません。よく検証する必要があります。
人間はどうして時間をつぶしていいかわからないので、自分の身体をまもるために時間をついやしている。
けっして失う心配のない生命は、かれらにとってはなんの値打ちもない。ただ一つの喜び、まだ死なないという喜びを毎日あたえてくれる。
→ただ生きるだけでなく、価値あるもののために命をつかえ、と言っています。
動物は病気のとき、なにも言わずに我慢して、静かにしている。
→断食。エンザイム。オートファジー現象。血管内プラークで生きていく断食派の悟りの境地について
忍耐の乏しさ、心配、不安、そしてなによりも薬が、どれほど殺してしまったことだろう。
→病院に行くと病気になる。病院ぎらいのはじめての人間ドック体験記。
生命をまもるために時間を費やしていれば、それだけ生命を楽しむ時間が無駄になるから、そういう時間はへらすようにしなければならない。
植物性の食事は有益。乳で育てられた子供は、いっそう腹痛や虫をおこしやすい。動物性の物質は腐敗すると虫がわくからだ。
→医学的根拠もなく、経験と直感でルソーはこう書き記しているわけです。当時は梅毒を治療するために猛毒である水銀を処方するという時代でした。
ジャコモ・カサノバ『回想録』世界一モテる男に学ぶ男の生き方、人生の楽しみ方
しかし表現はともかく動物食よりは植物食という結論は現代医学から見ても当たっています。
人間の最初の声は不満と泣き言だ。悪いことはすべて彼のうちに苦痛という感覚を生み出すにすぎない。子どもは、泣くとき、思うようにならないのだ。欲求を感じているのだが、それを満たすことができないのだ。
なにかを作ろうと壊そうと、それはどちらでもいい。ただ事物の状態を変えればいいので、変えることはすべて行動なのだ。壊す作業は手っ取り早いので、子どもの活発な性質には向いている。
→インド三神の中では破壊神シヴァの方が、維持神ヴィシュヌよりも人気があるようですね。
怪我をした場合、苦しみを与えるのは、その傷であるよりも、むしろ恐れなのだ。人は勇気をもつことを最初に学び取り、すこしばかりの苦しみを恐れず耐え忍んで、やがてはもっと大きな苦しみに耐えることを学び取る。苦痛というものを知らずに成長するとしたら困ったことだ。
西洋の仏教思想。ルソーの仏陀的な側面
不幸はものを持たないことにあるのではなく、それを感じさせる欲望のうちにあるのだ。現実を超えた欲望を持つ者は、たとえ神であろうと弱い存在だ。あるがままで満足している人はきわめて強い人間だ。そうすればわたしたちはいつも満ち足りて自分の弱さを嘆くこともなかろう。弱さを感じるようなことはないだろう。
→これと同じことを言った人を私たち日本人はよく知っています。この人ですね↓
だから能力を大きくすることによって実力を大きくすることができるなどと考えてはならない。
人間の弱さはどこから生じるか。その力と欲望とのあいだにみられる不平等から生じるのだ。だから欲望を減らせばいい。そうすれば力が増えたのと同じことになる。
→出費を減らせば収入が増えたのと同じこと、という理屈です。お金持ちとは収支がプラスの人のことを言うのです。
『あやうく一生懸命生きるところだった』もうお金持ちになるのはあきらめた。
無人島でひとり余生を過ごすとなれば、哲学者も一冊の書物もひらいて見ないだろう。その代わり島のすみずみまで訪ねて見ることを決してやめないだろう。
現代人が、石器時代にタイムスリップしたら、生き残れるだろうか?
自由に生き、人間的なものにあまり執着しないこと。それが死ぬことを学ぶいちばんいい方法だ。
死の必然は賢明な人間にとっては人生の苦しみに耐える一つの理由となるにすぎない。
病気に耐える苦しみよりも多くの苦しみを病気をなおそうとして自分にあたえている。
→現代の延命治療について語っているみたいです。水銀飲んでた時代の人の言うこととは思えませんね。
きみは死をまぬがれることはできない。しかしきみは死を一度経験するだけだ。
自分の意志どおりにことを行うことができるのは、何かするのに自分の手に他人の手を継ぎ足す必要のない人だけだ。あらゆるよいもののなかで、いちばんよいものは権力ではなく、自由であるということになる。ほんとうに自由な人間は自分ができることだけを欲し、自分の気に入ったことをする。
旅人が世界を変える。インバウンド規制緩和が日本を自由に開放する。
水銀治療していた時代の人の健康観。
この書物をよいものにつくりあげるためには、わたしは楽しみながら書く必要があるのだ。
もともと人間にとっては、自分の食欲よりもたしかな医者はない。その時それがいちばんうまいと思った食べ物がいちばん健康にいいものであったことは疑いないと思われる。
→そうでしょうか? 私はそうは思いません。おそらく自分の食べたいものばかり食べていたら高脂血症になり、糖尿病になり、高血圧になり、健康に悪いと思います。
自分の血の状態というものはなかなか自分ではわかり難いものです。だから人は生活習慣病というものになるのです。
わたしたちの様々な感覚の中で味覚は一般的にいって、わたしたちにもっとも強い刺激をあたえる。ただ私たちを取り巻いているだけの物質よりも、私たちの体の一部となる物質にいっそう大きな関心をもつ。触覚、聴覚、視覚にとっては無数のものがどうでもいいものだが、味覚にとってはどうでもいいというようなものはほとんどなにもない。
遺伝子DNAは変わらないのにどうして寿命が延びたのか? 食品添加物と和食とウォーキングと寿命との関係性
子供を肉食動物にしないことがなによりも大切だ。肉をたくさん食うものがそうでない者よりも残酷で凶暴であることはたしかなのだから。
トレイルランの王者スコット・ジュレクの『EAT&RUN』走ることと、食べること
ボンボンが歯を悪くすること、あまりたくさん食べると太ることを彼女にわからせることができた。成長するにつれてほかの趣味をもつようになり、いやしい楽しみを忘れるようになった。
→ここに見られるのは「太るのはよくない」という思想です。ルソーは「太るとモテない」といっているのではありません。「健康に良くない」と言っているのです。
昔から「太るのはよくない」思想があることにちょっと驚きました。昔は太っている=裕福という発想で太っている人の方が好まれたと聞いたこともあります。血液検査が数値化されたり、肥満の健康への害が医学的に証明されるよりもはるか前に、こういう発想ってあったんですね。
自然にかえれ=書を捨てよ街に出よう
すくなくとも彼はその子供時代を楽しんだのだ。自然が彼にあたえたものを何ひとつ失わせるようなことはしなかった。
最初の教育は疑いもなく女性の仕事である。
→母親の役割の重大性について説いています。ルソー先生はエミールだけでなく、ソフィーという女性にも教育を与えます。このソフィーというのはエミールの配偶者となるべき存在です。
子供のとき人を打とうとするものは大人になって人を殺そうとすることになる。
決して他人に害を加えないこと、という教訓はできるだけ人間社会に縛られないようにすること、という教訓を含んでいる。というのは、社会状態にあっては、ある者の利益は必然的に他のものの害になるからだ。社会にある人間と孤独な人間。社会にあってこそ悪人は他人に害を加えようとする。ひとりでいるのは善人だけだ。
なかなか年寄りにならないようにするにはどうすればいいんでしょう? 若い時に賢く生きるのです。
人が見てくれなくてもよいことをするように。苦しみはいずれ神がつぐなってくださる。これこそ本当の宗教だ。
世の中というものが女性の読む書物だ。
→『書を捨てよ街に出よう』といった日本の詩人がいました。寺山修司の独創ではなくルソーら哲学者の上に立っての発言でしょうね。
一家の母にふさわしい人は、修道院にいる修道女とほとんど変わらないぐらい家の中に引っ込んでいる。
習慣によって節制をまもるようになった。
いつから結婚は家長の指名から本人の意思・自由恋愛となったのか?
ソフィー。夫はあなたが選んだ人でなければならない。わたしたちが選んだ人であってはならない。
→『エミール』を読んでいると、ルソーの時代は原則的に親が結婚相手を決めていたという風に読めます。ではフランスではいつから自分の意思で結婚できるようになったのでしょうか?
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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もちろん指輪を贈るプロポーズのようなものはローマ時代の昔からあったのですが、あくまでも主流は親が決める家同士の結婚・家どうしの結合でした。
本人の意思による結婚というものは、自由意思が家同士の結婚を凌駕して駆逐したというよりは、家同士の結合という仕組みが勝手に滅び去ってなくなったといった方が正解でしょう。
家内制手工業の時代は「誰が家族か」「どんな親戚がいるか」が重要な問題でした。家族は労働力だったからです。
しかし工業化時代となって人々は家よりも会社と結びつくようになりました。年金や生活保護や介護保険の制度が充実し、人々は家よりも国家と結びつくようになりました。
つまり家というシステムの重要性が薄れたため、家長が嫁を決める制度がなくなったのだと言えるのです。
明治時代の小説のように、家父長制度と闘って自由恋愛が勝った、というわけではありません。
わたしたちにはあなたの幸福だけで十分なのだ。
生涯をともにしたいと思う男性が見つかるまでに、青春を失ってしまわなければならないこともしばしばある。
→現代の独身アラフォー女性にダイレクトにあてはまる言葉ですね。
彼女に付きまとう危険。すこしたてば美醜は夫にとってどちらもなんでもなくなり、美しさは困りもの、見にくさはありがたいものになるからだ。
馬で行くよりも愉快な旅のしかたはひとつしか考えられない。それは歩いていくことだ。
彼は人間が幸福になれる限界において幸福なのだ。そのうえなにかつけくわえようとすれば、ほかのものを損なうだけのことだ。この最高の幸福は手に入れたときよりも期待しているときのほうがはるかに快いものだ。
彼はひとりの女性で満足するように自然によって決められている。このことは男女の数が等しいことによっても確認される。強いオスが何匹ものメスを自分のものにしているような種類の動物では雌雄の数が等しいということはなかなか見当たらない。
男性よ、きみの伴侶を愛するのだ。きみの労苦をいたわるために、きみの苦しみを和らげるために、神はきみに伴侶をあたえているのだ。これが女なのだ。
心の欲望に掟をあたえていない。
人間はいっそう多く愛着をもてば、いっそう多くの苦しみをまねく。すべては過ぎ去る。おそかれはやかれ遠ざかっていく。それなのに永遠に続くことになるようにそれに執着している。あのひとも死ぬことになる。
自然はきみにただ一度だけ死ぬことを命じている。
死すべき存在、滅び去る存在であるわたしは、あしたにも消えていくこの地上にあって、永遠の絆をつくりあげようなどと考えるべきだろうか。
失うことを学ぶがいい。
勇気を失わないでいること。
書物を読んだだけで満足するような人々にまかせておこう。
潰瘍のひとつひとつを別々に手当てすることではなく、そういう潰瘍を生じさせる全身の血をきれいにすることが問題なのだ。
必然の束縛。それに耐えることを生まれたときから学んできたし、死ぬまでそれに耐えるつもりだ。
見捨てられないとしてもわたしはやっぱり死ぬことになる。死は貧しさの結果ではなく自然の掟なのだから。
死は決して「わたしは生きた」と言えないようにすることはできない。
羞恥心はあらわに意志を告げることを避け、征服されることを願っている。口ぶりは拒絶していても、心と目が許しているとき、それを知らずにいるだろうか。
愛が長く続いたあとは、なごやかな習慣が失われた愛に代わるものとなり、信頼の魅力が情念の激しさに代わることとなる。もうベッドを別にしてはいけない。気まぐれなことをしてはいけない。
あたえるもののねうちを大きくするために拒まなければいけない。
できるだけ愛想よくするのだ。ふくれっ面をすればもっと愛してもらえるなどと考えてはいけない。
※わたしの自由な精神は、むしろ怠惰な性質からきているのです。社会生活のほんのちょっとした義務にさえ耐えられない。しなければならないこととなると、わたしには拷問の苦しみです。
※眠りそのものよりもはるかに快い体と心の休息をベッドの上に見出すのでした。
※肉体の苦しみは精神から自由をうばいます。
東洋思想を紹介することで西洋で高く評価されるというタイプの文人
見てきたようにルソーの思想の中に仏陀の思想に通じるものが多く驚きました。
まるで西洋の仏陀と言ってもいいような具合です。
ときどきこういう人っていますよね。西洋人でありながら東洋思想に傾倒している人。
たとえばヘルマン・ヘッセとか。
『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ。白人が見た仏陀。解脱する方法
ヒッピー系の文学にも東洋への傾倒が見て取れます。
東洋思想を紹介することで、西洋で高く評価されるというタイプの文人が、ヨーロッパにはときどきいるなあ、と感じます。ルソーにもそれを感じました。
ほんとうに偉大なのはルソーじゃなくて仏陀なんじゃないの?