- 創造の秘密を知りたいのなら、この『西遊記』を読みたまえ
- 沙悟浄が実は一番強い? 孫悟空よりも沙悟浄の方が強いなんて嘘だと思う。
- 物語の主人公は、言わずと知れた斉天大聖・孫悟空
- 一番弟子の孫悟空(孫行者)。昔、大暴れした伝説のヤンキー。得意技は一寸法師殺法。
- 師匠の三蔵法師(陳玄奘。唐三蔵)。泣いてばかりの無力な子どものような存在
- 二番弟子の猪八戒(猪悟能)。おたんちんのあほんだら。旅の一行の道化役。狂言回し。
- 孫悟空・猪八戒は、ドンキホーテ・サンチョパンサに似ている。
- 三番弟子の沙悟浄(沙和尚)。黒い顔。縁起の悪い面つきの坊主。カッパじゃない
- 三蔵法師の四番弟子? 龍王の息子が化けた白馬・龍馬
- 孫悟空だけでなく、猪八戒も、沙悟浄も雲に乗れる
- 西遊記に見るスカトロジー
- 『西遊記』の書評・魅力・あらすじ・解説・考察
- 仏教と道教と中国神がごちゃ混ぜ。それが西遊記の魅力
- すべて釈迦の掌の内。世の理(ことわり)から飛び出せる者はいない。
- 妖怪たちの正体は? ゴジラとは違う西遊記の妖怪たち
- 伝説の西天取経の旅の始まり
- 旅の後見人は観世音菩薩・観音さま。如来になるための前段階にいるのが菩薩
- 大乗仏教と上座部仏教。三蔵が求めるのは大乗の経典。露骨な大乗重視
- 通行手形というパスポートのようなものを所持している
- 地球を1.5周。インドまで大回りしすぎの三蔵一行
- 旅の苦難、試練。唐三蔵の苦難は、約束されたものだった。
- 鳩摩羅什三蔵法師と般若心経の謎。
- 中国四大奇書の共演『三国志演技』のパクリ
- 傲慢さが魅力のヤンチャ小僧。
- 人身売買。食人習慣がかいま見られるエピソード
- 神の族(うから)。弥勒菩薩に文殊、普賢。スター選手ばかり登場する。
- 道教と仏教が争っている風で、実はごちゃごちゃ。
- 西遊記は冒頭のヤンキー時代がもっとも面白い
- 大団円。西天取経
- 西遊記の敵役で最強なのは誰だ? 強敵ベスト3
- 観音様は自ら菩薩にとどまり如来・仏に解脱しない存在
- 旅をするのは、何のためか?
創造の秘密を知りたいのなら、この『西遊記』を読みたまえ
創造の秘密を知りたいのなら、この『西遊記』を読みたまえ。
誰もが知っている物語ですが、意外と原典を読破した人は少ないと思われる『西遊記』。その原典にはそう書かれているそうです。
中国四大奇書「西遊記」はさまざまな人の手を経て、1570年ごろに成立したとされています。日本でいう戦国時代、織田信長のころですね。
西遊記の記述には矛盾も多く、それは多くの筆者の手を経てきているために整合がとれなかったとされています。
実在の訳経僧・玄奘三蔵の『大唐西域記』をもとに、架空の冒険物語がつくられました。
主人公を敬虔な僧侶である玄奘ではなく、神通力をもつ孫悟空としたことで、物語は圧倒的に面白くなりました。『大唐西域記』は646年成立。日本でいう大化の改新のころですね。
中大兄皇子のころの玄奘の物語を、織田信長の頃に完成させているのですから、その壮大さがわかるというものです。
沙悟浄が実は一番強い? 孫悟空よりも沙悟浄の方が強いなんて嘘だと思う。
モンキーマジックで有名な堺正章の西遊記とかドリフターズの『飛べ!孫悟空』とか、これまでにいくらでも映像化されてきました。
だいたいのストーリーを知っている『西遊記』をなんで今さら読もうかと思ったのかというと、上の動画がきっかけです。
えっ? 沙悟浄が実は一番強いって本当?
ホントかいな。とわたしは思いました。西遊記で最強なのは孫悟空のはずです。直感的に嘘くさいと思いました。そんなわけないと思うんだけど……でも原作を通読していないと、反論もできません。それで原作を読んでみることにしたのです。
読んだ結果は……やはり沙悟浄が三人の中で実は一番強いというのは嘘でした。「釣り」ってやつかもしれません。中野美代子訳十巻読破しましたが、そんな記述はどこにもありませんでした。この投稿者さんは何が根拠なんでしょうか? 出典は?
西遊記を知れば知るほど、孫悟空よりも沙悟浄の方が強いというのは明らかにおかしいとわかります。本当にそうなら力を出し惜しみせずに献身すべきで、取経後に闘戦勝仏になるのは沙悟浄でなければならないはずです。どっちかというと馬鹿力でまぐわを振り回す猪八戒の方が沙悟浄よりも強い印象ですね。地位も上ですし。
たしかに原作を読むと悟空はけっこう敵の妖怪に追い詰められて負けることもしばしばで(たいてい観音様などに助けてもらいます)、イメージ通りの最強というわけではありませんが、沙悟浄の方が強いということは絶対にありません。
流砂河の怪物・捲簾大将・沙悟浄は降妖杖を振り回す怪僧です。まぐわを振るう天蓬元帥・猪八戒とは互角(実際に冒頭の出会いでは引き分けています)かもしれませんが、如意棒を振るう斉天大聖・孫悟空にはとてもかないません。
「沙悟浄って孫悟空よりも強いらしいよ」
「それどこ情報?」
「ネットです」
「だろうね!」
インターネット上には適当なガセネタがあふれかえっていますので注意が必要です。
物語の主人公は、言わずと知れた斉天大聖・孫悟空
孫悟空がほかの二人(猪八戒、沙悟浄)と別格なのは、この物語の主人公であるからです。
妖怪の捕虜になってしまった唐三蔵、猪悟能、沙和尚を孫行者が助けるというのが物語の王道パターンで、師兄あつかいされている「若い頃に大暴れした伝説のヤンキー」孫悟空は、強さも神通力も別格です。
三蔵法師が主人公ではありません。取経の旅をしている主役は三蔵ですが、救うべきもの(弱い師匠)があり、敵に立ち向かい、天界に顔がきき、勝利を手にするのはあくまでも孫悟空です。
斉天大聖の斉天とは天に斉(ひと)しい、という意味だそうです。
『西遊記』は、まさに斉天大聖の強さそのままに史上最強におもしろい本でした。
一番弟子の孫悟空(孫行者)。昔、大暴れした伝説のヤンキー。得意技は一寸法師殺法。
さて三人の弟子の中ではいちばん強い孫悟空ですが、実は原作西遊記のエピソードの中では、それほど強くなかったりします。強敵とはだいたい互角で決着がつきません。広大無辺の神通力を持っているのですが、それは敵の妖怪も同じことだからです。
それなのになぜ悟空が「強い設定」強いイメージになっているのかというと、昔、天界で大暴れした若い頃のエピソードに一目おかれているからです。まさに伝説のヤンキーみたいなものです。
海底の龍王を下して如意金箍棒を手に入れ、龍王や毘沙門天だって悟空にはかないませんでした。
その若い頃の大暴れ伝説がなければ、敵を倒しきれず、玄奘をひとりでは守り切れず、いつも誰かに助けをお願いに行く弱っちょろい奴にさえ見えます。
ところが天界に助けを呼びに行くと「斉天大聖さま!」と下へも置かぬ扱いを受けるのです。偉い人が一目置くぐらいだから凄いんだろうな、という印象が読者に残るのです。それもこれも大昔の大暴れ伝説が生きているからです。
ちなみに悟空の得意技は「如意棒でぶったたくこと」ではありません。意外にも変化して妖怪の腹の中に忍び込んで内臓を責めるという一寸法師のような技が必殺技です。
孫悟空の造形にはインド神話『ラーマヤーナ』に登場する猿神ハヌマーンが影響していると言われています。
インド神話『ラーマーヤナ』のあらすじ。ギリシア神話との類似点
「これは、わたくしの一番弟子たる孫悟空でございます」玄奘はその言葉をだんだん誇りをもって人に語るようになります。
取経の旅が成就すると、三蔵法師の取経の旅を助けた功績により、闘戦勝仏という仏となりました。
師匠の三蔵法師(陳玄奘。唐三蔵)。泣いてばかりの無力な子どものような存在
実在の人物、玄奘をモデルにした悟空の師匠です。物語中、悟空を緊箍児という頭の輪っかで締め上げてお仕置きすることができる存在ですが、妖怪を前にして三蔵法師は泣いて怯えるばかり。前世の功徳によって高位の存在という輪廻の裏付けがなければ、何もできない無力な僧侶でしかありません。死ぬ覚悟もありません。
前世では釈迦如来の二番目に高位の弟子・金蝉子だったとされます。しかし仏法を軽んじたために、取経僧に落とされたという因縁です。輪廻の中で玄奘は「かぐや姫」みたいな懲罰中なわけです。
そして高位な因縁をもつことから、三蔵の肉を食べれば解脱・長生きできるということで妖怪たちに常に狙われる存在です。ブタさんの猪八戒を食った方がうまそうなのに(笑)。
高僧であるにもかかわらず、凡俗の眼しかもちません。だから悟空には見抜ける妖怪や悪を見抜けません。悟空は妖怪を痛めつけているのですが三蔵の眼には人間をイジメているように見えてしまうのです。そして頭の輪っかを絞めて悟空を懲罰し、破門したりします。
「冥府にいたりなば、よろしく閻魔に訴えよ。そのとき忘れるな我が姓は陳。なんじの仇の姓は孫なるぞ。われ西天取経の僧なれば。ゆめ声明を違うるなかれ」
物語の前半では高僧らしくなく責任のがれをしたりします。
「お師匠様ったらきれいさっぱりと他人に罪をなすりつけちまいましたね」
「心配なのはあなたですよ。わたしがいなけりゃ、西天には行きつけないだろうと」
「今度という今度はほんとにおまえと縁を切る。わたしが西天に行きつけようが行きつけまいが、おまえの知ったことか」
啖呵を切りますが、妖怪に対して三蔵はほとんど何もできません。前世において修行を積んだ選ばれた人という設定がなかったら、尊敬に値するようなところはどこにもありません。
悟空がいなきゃ西天取経の旅なんてとてもかなえられない存在です。ほとんど父親のような孫悟空に対して、無力な子供のようです。
「悟空や! どうしたらいいのかね」「悟空や。おまえの言うとおりにする」
「お師匠様ったら、あなたはにせの聖地やにせの仏像の前では馬を降りて拝むくせに、ほんとの聖地やほんとの仏像の前に来たときには馬から降りようともしないんですね」と悟空にからかわれたりしています。
ま、これで師匠なんですから、あきれたものです。バラモンがクシャトリアの上位に位置するようなものですね。
何もできない無力な三蔵が誘拐され、それを助けに行く悟空が妖怪と戦いますが互角の勝負で勝ちきれません。天界に助けを呼んで妖怪の正体が明らかになると無力化するというパターンがつづきます。
物語の主人公は圧倒的に悟空なのですが、唐の国に戻ったときには、弟子たちは後ろに下がり、悟空は口をつぐみ、喋るのはほとんど三蔵ばかりになります。史実との整合を最終回でとるのでした。こうして功は玄奘のものとなります。
こちらは道中にて弟子とした者たちでございます。
十四年の旅。来る日も来る日も山や嶺、広大な林、幅広い川に出くわすことも、稀ではございませんでした。
取経の旅が成就すると、玄奘は栴檀功徳仏という仏となりました。
ちなみに往路に十四年かかった天竺大雷音寺までの取経の旅、帰りは四日で戻れました。取経が成就し、三蔵が解脱したので、雲に乗ることができるようになったためです。
こういうところが仏教というよりは道教なんだよな。雲に乗るのは仙人(道教)です。仏(仏教)は雲に乗りませんよね?
道教も仏教も儒教もごちゃごちゃ。でもそこが中国でうまれた西遊記の魅力です。
二番弟子の猪八戒(猪悟能)。おたんちんのあほんだら。旅の一行の道化役。狂言回し。
さて、伝説の三蔵法師の西天取経の旅。さぞや旅の仲間たちは仲良しで、この旅が終わるころには固い絆で互いに離れがたくなっているのかと思ったら、そんなことはぜんぜんありませんでした。
とくに二番弟子の猪八戒はすぐに旅のパーティーを解散して家に帰ろうとします。
棺桶を買って師匠を生めるとしよう。それから、おいらとおぬし、それぞれ行き先を考え、解散だ!
取経の目的が達成できないとなると、すぐに旅のパーティーを解散しようとします。
「おい。悟浄、すぐに荷物を持ってこい。解散だぞ」「解散したら、おぬしは流砂河に戻って人でも食ってろ。元に戻って、めいめいのんびりくらそうぜ」
パーティーの解散を言い出したのは一度や二度ではありません(笑)。
まあ、猪八戒は孫悟空に何かというと命令されて、どなられていますので、あまり快適な旅ではなかったかもしれません。
とんがり口にばかでかい耳の坊主、と思われていますが、豚の妖怪です。しかしこの猪八戒は物語には欠かせない人物となっています。
まるで『ドン・キホーテ』にお笑い担当の狂言まわし、サンチョ・パンサが欠かせないように。
兄貴は知らんだろうがね。米っていうのはいいものなんだぜ。毎日食えば減っていくんだからな。
猪八戒は欲望に忠実な太っちょです。サンチョも同じですよね。
取経の旅が成就すると、三蔵法師の取経の旅を助けた功績により、浄檀使者菩薩という菩薩となりました。
孫悟空・猪八戒は、ドンキホーテ・サンチョパンサに似ている。
猪突猛進の孫悟空と、それを茶化す道化役の猪八戒。ふたりの立場はまるでドン・キホーテとサンチョ・パンサのようです。
サンチョはことわざ、故事成語、いいつたえが好きなのですが、猪八戒もことわざ、民間伝承が大好きで、よく「××とことわざでいうじゃないか」と引用してきます。
史上最高の文学? 狂気と正気のラ・マンチャの男『ドン・キホーテ』
猪突猛進の孫悟空と、太ったお笑い担当で冷やかし屋の猪八戒はまるでドン・キホーテとサンチョ・パンサのコンビのようです。すると三蔵法師はドルシネアの役ってことになるかもしれません。猪八戒ぬきで西遊記は成立しないと思いました。それほどピエロの重要な役回りを猪八戒が果たしています。
ほぼ同時代の作品なので、パクったとか影響されたとかいうことはないと思いますが『ドン・キホーテ』にサンチョ・パンサが欠かせないように、『西遊記』には猪八戒は欠かせません。
猪八戒「おいらはもともと観音菩薩から善をすすめられて、戒を授かり、その取経の人のお供をしろといわれているんだ。観音さまが猪悟能という法名までつけてくださったのです。五葷三厭(ネギ、ラッキョウ、ニンニク、タマネギ、ニラ、獣肉、魚肉、鳥肉を食べないこと)を断ち精進料理だけを食べてきました」
三蔵「それなら八戒という別の名まえをつけてやろう」
こういうわけで猪八戒とも呼ばれるようになったのです。「まぐわ」という農具を武器にしています。
三番弟子の沙悟浄(沙和尚)。黒い顔。縁起の悪い面つきの坊主。カッパじゃない
さて、問題の沙悟浄です。孫悟空よりも強いというのはガセネタでした。中野美代子訳十巻を読破しましたが、そんな描写はどこにもありません。沙悟浄が悟空アニキの力を思い知らされるシーンはいくらでもありましたが、悟空よりも強い描写なんてどこにもありませんでした。
降妖宝杖という武器を使いこなす玄奘の三番弟子ですが、いつも三蔵の留守の守り役で活躍の場面はすくない感じです。
流砂河を縄張りにすることから日本では河童ということになっていて水の専門家。水場の戦いならまかせろ、という感じですが、原作では猪八戒も水軍提督だったこともあり、水の戦闘の専門家だったりします。そういう意味でも三人の中ではいちばん影が薄いのが沙悟浄です。残念でした!
取経の旅が成就すると、三蔵法師の取経の旅を助けた功績により、八宝金身羅漢菩薩という菩薩となりました。
三蔵法師の四番弟子? 龍王の息子が化けた白馬・龍馬
さて三蔵の一行は師匠と弟子の三人の合計四人のように見えますが、実はもうひとり?います。
それは三蔵が乗る白馬。三蔵法師が乗る白馬はただの馬ではありません。罪を背負った龍王の息子が変化した姿です。ただの馬ではなく龍馬なのです。
観音「そいつはもとはといえば西海龍王のせがれだよ。火事を起こして宮殿の明珠を焼いたばかりに天宮で死罪とされたのです。それをわたしが玉帝からもらい下げたのです」
悟空の仙気の術で白馬に変わりました。
「そなたはこれからくれぐれも心して罪を償うのだよ」
取経の旅が成就すると、三蔵法師の取経の旅を助けた功績により、もとの姿に戻って八部天龍馬(八部天広力菩薩)という菩薩となりました。三蔵の四番目の弟子といえるかもしれません。
孫悟空だけでなく、猪八戒も、沙悟浄も雲に乗れる
雲にのって空を飛べるのは孫悟空だけ。みなさんもそういう印象ではないでしょうか? しかし原作をよく読むと猪八戒も沙悟浄も雲に乗って空を飛べます。
地上の人間たちは、三人のことを「人相の悪い僧侶」「気味の悪いやつ」と敬遠しているのですが、彼らが雲に乗ることで聖僧であることを知るのでした。
ただし猪八戒と沙悟浄の乗る雲は悟空の「筋斗雲」ではなく、悟空の筋斗雲ほどのスピードはありません。
でも飛べるだけすごいじゃん、八戒。悟浄。
西遊記に見るスカトロジー
ジョナサン・スウィフト著『ガリバー旅行記』におけるスカトロジー(糞尿嗜好)についてはよく議論されるところですが、西遊記におけるスカトロジーについては議論されているのをあまり聞きません。なのでここに記しておきます。西遊記におけるスカトロジーはガリバー旅行記以上だと思います。
ガリバーは小人族の火事をオシッコで消したりするので、作者スウィフトのスカトロジスト(糞尿嗜好)ぶりを喧伝されるわけですが、西遊記にも同じようなシーンがあります。
たとえば太上老君に化けた悟空が、妖怪たちに、聖水だと偽って小便を飲ませたりしています。
あと、悟空も八戒も、大便のために行為を中座することがよくあります。人間が主人公の小説ですら、排泄シーンは省かれるのが常なのに、なんで妖怪が主人公の物語で、わざわざうんこのために中座する必要があるのでしょうか。妖怪なんだから糞便なんてしない設定にしてしまえばいいではありませんか。
八戒、まぐわを放り出し、うんこをしはじめました。
「あんまりびっくりしたんで、うんちがでるんだよ」
このように西遊記にはスカトロジーな描写が一部に見られます。
たとえば訪れた国の皇帝が体調不良なのですが、便秘が原因でした。食べた「ちまき」が腹の中にて凝固してしまったのです。零丹を服用して数回くだしたが、出てきたもの(うんこ)は、すべて三年前の凝固物でした。国王はおまるを出させ、四五回は用を足した。女官がふたり、おまるの中を検めます。なんとも汚いどろどろのなかに、もち米のかたまりがごろんとまじっているのでした。
たとえば、三蔵と八戒が水を飲んで妊娠してしまいます。老婆がおまるをもってきて、使わせてくれました。
「かわいいおにいちゃん」しきりにささやきながら、悟空のおちんちんをつかもうとしています。
たとえば変装が必要な場面で、泥をこねようとして、土におしっこをまぜてお面をつくり、三蔵の顔にぺたり貼り付けた。臭いお面となってしまいました。
たとえば服用する薬に白馬の小便を混ぜたりします。「馬のイバリみたいな生臭いものを薬に混ぜてどうするんだ?」「おれたちの馬はもともとは西海の龍なんだ。あいつがおもらししてくれたらどんな病気でもすぐなおるぞ」
うんちやおしっこが好きなのは子どもと決まっていますが、西遊記は子どもの好奇心をそのまま持ち続けたまま大人になった作者によって書き綴られたのかもしれませんね。
『西遊記』の書評・魅力・あらすじ・解説・考察
東勝神洲・花果山。この山こそ聖と濁とが分離して、混沌がわかれたのちに生まれた山。その山の石卵から生まれた石猿が水簾洞のボス猿となる。仙術を学び、仙人から孫悟空の名前をいただく。
混世魔王を倒す。身外身の法でにこ毛を変化させ、筋斗雲で空を飛ぶ。そして東海の海底にて龍王から如意棒を手に入れる。
三界・五行の外にいる存在。悟空は閻魔帳から自分の名前を消す。
玉帝にも素直に従わず、斉天大聖を名乗り、巨霊神を倒し、托塔李天王(毘沙門天)とその息子・哪吒太子を退け、四大天王、観世音菩薩に派遣された恵岸も退けます。
全く強い孫悟空。しかしとうとう太上老君が金剛琢という魔法の武器を悟空の頭に命中させ倒れたところ二郎真君たち七兄弟にとらえられた。しかし刑罰をあたえるが、かすり傷ひとつつけられない。拷問により火眼金晴あかめと呼ばれるようになるが、傷つけられぬままに逃亡した。追ってきた雷将三十六人を撃退したところでとうとうお釈迦様の登場です。
このあたりが500年前天界で大暴れしたという悟空のヤンキー伝説です。この伝説抜きには後段の孫悟空は語れません。なぜなら仏法に帰依した後の悟空はほとんど妖怪を自力で倒しきれないからです。ほとんど天界の托塔李や哪吒や太上老君や観世音菩薩の力を借りて妖怪を調伏しているからです。強い孫悟空のイメージは、冒頭の伝説のヤンキー時代がつくりあげたといっても過言ではありません。
仏教と道教と中国神がごちゃ混ぜ。それが西遊記の魅力
ちなみに西遊記には神さまたち(神族)が登場するのも魅力のひとつです。
塔を手のひらに持つ托塔李天王(毘沙門天)はインド由来の仏教関係者(四天王)ですが、その息子の哪吒太子は道教神です。封神演義で活躍します。
ヤンキー悟空を決定的にやっつける太上老君というのは、道教の開祖といっても過言ではない老子が神格化されたもので、中国神です。
日本人にはあまりなじみのない二郎真君というのも実在の中国人が神格化された中国神です。
悟空を追いつめた紅孩児は改心して善財童子になります。
『西遊記』は仏法に帰依し、大乗仏法をひろめることを是とする小説ですが、そのわりには道教神、土着の中国神がごちゃまぜです。しかしそういうカオスが『西遊記』の魅力だったりします。
すべて釈迦の掌の内。世の理(ことわり)から飛び出せる者はいない。
悟空は筋斗雲をもってしても釈迦の手のひらから逃れることはできず、地に叩き落されます。
ここでいう釈迦如来とは世の理そのものでしょう。さしもの孫悟空も世のことわりから飛び出してその向こう側に行くことはできませんでした。仏教の真理はこえられないのです。
悟空を押さえつけた釈尊の手のひらの五本の指が石となり五行山となります。五行山に封じ込める呪文はオン・マニ・パドメ・フン。これは観世音菩薩の真言です。なんでお釈迦様が観音様の真言を唱えるのか謎ですが、カオスなところが西遊記の魅力(笑)。
妖怪たちの正体は? ゴジラとは違う西遊記の妖怪たち
もっとも有名なライバル牛魔王とはヤンキー時代に義兄弟の契りを結んでいたりします。
七兄弟で、牛魔王。蛟魔王。鵬魔王。獅駝王。そして美猴王たる石猿。
西遊記に登場する妖怪はゴジラやウルトラマンの怪獣みたいな架空の怪物ではありません。ウシの化け物、虎の化け物、象の化け物、サソリの化け物など現実の動物の化け物なのでした。そして天界から逃げ出してきた神の係累が化け物になっているパターンがほとんどでした。だから悟空も勝ちきれないのです。
有名な金角・銀角は、太上老君の使っている童子が正体でした。道教の最高神の使用人を降伏させられるのは悟空ではなく太上老君その人本人でした。
原作を読むまでは孫悟空は無敵かと思っていたのですが、そうでもありませんでした。物の怪の親分にけっこうな確率で負けています。負けて、観音様(天界の誰か)の助けを借りて、物の怪の正体をあばきます。正体を暴けばもはや敵は神通力を失って降伏します。これがパターンです。
まあ、いっつも悟空が鎧袖一触で敵を倒したら、物語上、おもしろくありませんよね? 口では無敵のおれさま孫さまと大言壮語しますが、妖怪との対戦成績は「引き分け」がもっとも多いと思います。ドラゴンボールのあの人(しっぽのある主人公)にくらべたら、案外、強くありません。
独角兕大王には如意棒さえ奪われてしまいます。哪吒太子さえも敗れます。魔王は李老君の牛が正体でした。これも飼い主、ご主人様が登場すれば妖怪は降参するパターンでした。正体がバレると神通力を失ってしまうのです。これによって獨角兕大王は元の青牛に戻され、太上老君に引かれながら天界に帰っていきました。
怪物の正体も野生動物の化身とか、偉い人のペットとか、そういうパターンがほとんどでした。
伝説の西天取経の旅の始まり
釈迦如来「法は天を語るもの。論は地を語るもの。経は鬼を済度するもの。この三蔵で計三十五部、一万五千一百四十四巻ある。その信者に千山万水を越えて、わたしのところに真教を取りに来させるのだ。」釈迦如来は阿難と迦葉に命じて金襴の袈裟ひとかさね、および九環の錫杖、緊箍児(頭の輪)をもってこさせた。
玄奘の取経の旅は彼の発心というよりも、運命でした。旅を企画したのは玄奘本人ではなく、布教したかったお釈迦様のほうです。
旅の後見人は観世音菩薩・観音さま。如来になるための前段階にいるのが菩薩
観音さまが西天に取経の旅をする修行者を探す旅の途中、流沙河で沙悟浄(観音の助言で九つのされこうべを首にかける)、ブタの妖魔・猪悟能(八戒)、泣いている一匹の龍を白馬に変じて、修行者が通るのを待たせるのでした。そして五行山のオンマニペメフンの真言の下、苦しんでいる孫悟空に対して「東土の大唐国から取経の人を待て」と告げるのだった。
旅を企画したのがお釈迦様なら、旅の後見人となっているのは観音菩薩です。どっちが偉いかというと仏(如来)であるお釈迦様ですね。如来になるための前段階にいるのが菩薩です。
観音「わが仏門では寂滅を真となす。逃れられぬときにはわたしがみずから出向いてそなたを助けてやろう」
旅の途中、さんざん観音様に助けていただく悟空ですが、旅が成就したのちは、観音様でも知り得ないことを知覚します。
悟空は師匠がもう一難を経なければならないこと、ここに留められたのはそのためであることを、胸の中ではっきりと知っていたのでした。
観音様ですら知り得なかったことを知っている悟空。悟空は観音よりもえらい(神通力をもっている)のだ。闘戦勝仏という仏になる孫悟空は、この観音菩薩の地位を追い抜いてしまいます。
しかしわたしが読んだ別の子供向けの西遊記には、如来となったのちも、悟空は観音様には頭が上がらなかった、というオチがついていました。なかなかしゃれた解釈だと思いませんか?
大乗仏教と上座部仏教。三蔵が求めるのは大乗の経典。露骨な大乗重視
唐の太宗皇帝の施餓鬼法要を執り行う高僧として選ばれたのが陳玄奘法師でした。玄奘は陳さんだったのか。なんかラーメン屋みたいだな(笑)。
観音様から袈裟と錫杖を拝領した玄奘は仏典を念じ、語り、宣べました。ところが観音さま「そこな和尚! そなたが説いているのは、小乗の教えのみだぞ! 大乗の教えを説くことはできるのか?」
玄奘「大乗の教えのなんたるかは、知らないのでございます」
観音「そなたのこの小乗の教えでは、亡者を済度して昇天させることはかなわぬぞ。わたしのところにある大乗の仏典三蔵こそが、無量の寿をまっとうさせることができるのです。」
太宗皇帝「その仏典とはいずこにあるのか?」
救苦救難の観世音「はるか西天の天竺国なる大雷音寺にまします、わが仏如来のところにあるのです。それこそ、あまたの憎しみの結び目をときほぐし、思わざる災難を消すことができるのです」
かつて日本などに流布している大乗仏教は、タイなどに流布している小乗仏教よりも上位の存在だと言われていました。ここで観音様がいっていることは、そのへんの考え方が剥き出しです。中国も大乗仏教なのですね。
しかしいまではタイなどの仏教を軽視するのを反省し、小乗仏教とは言わず上座部仏教なんて言ったりします。大乗と小乗の違いは「個人の悟り」をどこまで高く評価するかという点にあります。
通行手形というパスポートのようなものを所持している
太宗皇帝「南無観世音菩薩」「これより三蔵と号してはどうかな?」
玄奘「ひとたび旅立ちましたからには、なにがなんでも西天に到着し、みほとけにまみえてお経を戴く所存です。」
玄奘「弟子たる陳玄奘。これより西天取経の旅を進めまする。ねがわくば真教を下賜され、東土につかえさせたまわんことを」
旅をはじめるに際して、陳さんは皇帝と義兄弟になり義弟となります。そして三蔵というおくり名をもらいます。唐三蔵と玄奘が名乗るのはこのためです。
ちなみにこの玄奘の義兄弟の太宗皇帝は歴史に名高い実在の名君とされています。太宗皇帝の政治問答集「貞観政要」という書物が残り、彼の治世は「貞観の治」と呼ばれています。名君だったのですね。
ちなみに太宗皇帝は玄奘の西域の政治や経済などに興味を持つ反面、仏教にはさほど興味をしめさなかったそうです。般若心経よりも大唐西域記のほうに興味があったんですね。
そして太宗皇帝から玄奘は、通行手形という今でいうパスポートのようなものをもらいます。玄奘は国が変わるたびに律儀に国王に拝謁し通行手形に押印してもらうのでした。今でいう査証VISAみたいですね。
地球を1.5周。インドまで大回りしすぎの三蔵一行
さて西天取経の旅ですが、物語上では十万八千里といわれています。一里が560mだから、60,480kmになります。地球一周が4万kmだから、地球を1.5周している計算です。
長安からインドにいくのにどれだけ遠回りしてるんだ!
と、いちおうツッコんでおきます。おそらく「あまりに遠い」という白髪三千丈と同じ表現なのだと思います。
蛇行すればそれぐらいの距離になってしまうのかもしれません。人間の腸の長さが7~9メートル、血管の長さが10万kmだといいますから、クネクネして進むとそれぐらいになるのでしょうか。
実際の玄奘のルートは、ヒマラヤ山脈は越えられないために、ウズベキスタンからカザフスタンを通って、タシケント、バーミヤン、ラホールと通って、パキスタンから北インドに入ったようです。かなりの大まわりをしています。
インドは西南の方角にありますが、文字通り西へ西へとまずは進んだのですね。西へ西へと、そのまま中東まで行ってしまわなくてよかったな、と思います。そうしたら今頃日本はイスラム教(610年成立)になっていたかもしれませんね。
今のような日本でいられるのは西への旅の進路を間違えずに適当なところで南下した陳玄奘さんのおかげだと言えるかもしれません。
旅の苦難、試練。唐三蔵の苦難は、約束されたものだった。
さて唐僧の西天取経の旅を守る旅が始まりました。
この山は両界山。東半分はわが大唐の管理下。西半分は韃靼の領土。→韃靼というのはタタールですね。西南ではなく、西へ向かっている証拠です。
おれさまはお上をたぶらかした罪でまるまる五百年というもの苦難を受けたんだ。
悟空は神通力をちょいとはたらかせることとし、からだをひと揺すりするや、一匹の蜜蜂に化けたのでした。
広目天王に「火よけ覆い」を借りて三蔵だけを火から守り、残りは燃え尽きたりします。広目天は仏教四天王ですね。
鳩摩羅什三蔵法師と般若心経の謎。
悟空や、観音といい、妖怪といい、どっちみち一念のなかにあるのだよ。その根本はということになれば、すべては無に帰してしまうのだ。
→色即是空、空即是色というやつですね。
烏巣禅師「西天なる大雷音寺は遠い、遠い、はるか遠方じゃ。おまけに道中には虎豹のたぐいがたくさんおって難儀なことじゃ。
烏巣禅師は三蔵に般若心経を教えます。それを三蔵は一度で覚えてしまい、ですから、今にいたるまで世に伝わっているのです。このお経こそは修行の根本であり、成仏への門戸であるといえるでしょう。
西遊記にはこう記されています。
上の写真の解説文によると、般若心経を漢語に訳したのは、玄奘三蔵ではなく、鳩摩羅什三蔵法師ではないのかな? インド語の仏典を色即是空、空即是色と漢訳したのは?
調べたところ、玄奘三蔵がインドから持ち帰った仏典の中に「般若波羅蜜多心経」もあり、玄奘は般若心経の訳もしているそうです。このシーンはそのことを象徴的に表現しているのでしょう。
ところが玄奘より前に鳩摩羅什(350-409)も訳していて、色即是空、空即是色のところは鳩摩羅什時代に完成していたそうです。
中国四大奇書の共演『三国志演技』のパクリ
「ああ、天よ。孫さまを生み、なおかつ、こんな輩を生むとは、いかなるおつもりですか?」
なんかこのセリフ、聞いたことありませんか?
「ああ。天はこの周瑜を地上に生まれさせながら、何故孔明まで生まれさせたのだ」
これですね。呉の美周郎、周瑜のセリフです。どうやらこれは周瑜のセリフのパクリだそうです。中国四大奇書の共演ですね。
成立年度でいうと三国志演技の方が先輩です。
卑弥呼の頃の出来事を応仁の乱の頃に成立した三国志演技に対して、中大兄皇子の頃の出来事を織田信長の時代に完成した西遊記が引用することができたのですね。
傲慢さが魅力のヤンチャ小僧。
おれさまはいままでに三回しか人に頭を下げたことはないんだ。西天で仏祖を拝し、南海で観音を拝し、両界山でおれさまを救ってくれた師匠を拝したときだけだ。いまこのばばあを拝したとなると、四回目ということになる。五臓六腑が煮えくり返る思いだなあ。
悟空はぶるんんとからだをゆすって、ちっぽけな羽虫に化けました。
おれさまも坊主の暮らしが身についちまって、ごらんのとおり風来坊だ。功徳を積みながらの旅がらす。
なにもかもみほとけたる如来のせいだぞ。自分は極楽にでんと座ったきり、何にもしないで三蔵のお経をいじくりまわしているだけじゃないか。ほんとに人にすすめる気があるのなら東土へお経を届けてくれるべきだろう。それをおれたちに取りにこいだとさ。そのため師匠は生命を落としちまったんだ。
歯に衣着せぬものいいが孫悟空の魅力です。相手がお釈迦様でもお構いなしです。そして「おれさま語録」(笑)。
このろくでなしのサルめが!
そして「おれさま語録」の大言壮語のわりには、またしても妖怪に負けてしまいます。
相手は文殊菩薩の乗る獅子と普賢菩薩の乗る象と天翔ける大鵬金翅鳥であった。これも当の文殊、普賢、そして釈迦如来にたすけてもらいます。
人身売買。食人習慣がかいま見られるエピソード
西遊記にはかつては食人の習慣があったのだろうなあ、と思わせる描写も多々あります。
そもそも妖怪たちが玄奘を狙うのは「仏教の布教を邪魔」しようとしているのではなく「玄奘の肉を食う」のが目的です。その肉を食べれば、玄奘が積んできた功徳を自分のものにできるからです。それによって霊力を得ようとしているのです。
女たちが料理したものは人間様の脂肪を炒めたり煮詰めたりしたものやら、人間様の肉を煮たり焼いたりしたものだったのです。脳ミソを炒めて豆腐らしくしたものやら……
「女菩薩よ、貧僧は生まれてこのかた精進料理しかいただかないのですが」
玄奘はいいます。
「ここでは人間を食べるほど飢饉なのですか?」
「これは人参果という果物なんですから召し上がってもかまわないのですよ」
この人参果というのは朝鮮人参のことでした。西洋のマンドラゴラみたいですね。仙丹みたいな架空の薬もあれば、朝鮮人参のような実際のものも登場します。虚実ないまぜ。こういうところをして「創作の秘密を知りたければ本書を読め」と言っているのでしょう。
『西遊記』には食人だけではなく、人身売買の習慣も生々しく記載されています。
「銀五十両も出せば男の子ひとりぐらい買えますし、銀百両なら女の子が買えますよ」
神の族(うから)。弥勒菩薩に文殊、普賢。スター選手ばかり登場する。
弥勒菩薩も笑和尚として登場します。いまだに布袋様だか弥勒菩薩だかよくわからない金満さん。中国版ではこうなっています。
羅刹女の芭蕉扇。太陰・月の精葉であるから火気を消すことができるのじゃ。火を消そうとすると火が燃え上がる。羅刹女に騙された。
そもそも道とはほんらい中国に存したもの。それを逆に西方にいったい何を求めようとなさるのか。まず目の前の本文を点検なさるがいい。
ラーマーヤナに酷似するシーンもあるという。ラーヴァナにさらわれたシーターを、ラーマの指輪を持ってハヌマーンが探しに行くというシーンだ。山を持ち上げたというハヌマーンこそが孫悟空のモデルだという人もいます。
インド神話『ラーマーヤナ』のあらすじ。ギリシア神話との類似点
道教と仏教が争っている風で、実はごちゃごちゃ。
唐朝の僧たちよ。朕が道教を敬い仏教を禁じたのは何ゆえだと思うか。どうだ、わが国師と雨乞いを賭けてみないか。
そんなことをいう国王もいました。それに玄奘が勝つことで国王は道教を棄てて仏教に帰依するのですが、孫悟空を助けるのが玉帝だったり、太上老君だったりするので、そんなに道教をないがしろにしていいのかな、と思わざるをえません。老子が神格化した太上老君には跪いています。悟空は降三世明王みたいな存在ではありません。
以後はゆめゆめいんちきを信じないことですな。三教(儒教、仏教、道教)をひとつにして、僧も敬い、道士もたっとんでください。
そんなセリフもありました。
「我が家では関聖をおまつりしております」
また僧侶の三蔵が一晩の宿を乞うのですが、道教寺院だから断られるというシーンが登場します。断られた悟空が怒って大暴れするわけですが。
いちおう仏教と道教は明確に別なものだったのですね。
孫さまはな、心を入れ替え正道に帰し、道教を棄てて僧になったのさ。
仏教のために尽くして最後には仏さまになる孫悟空ですが、道教でも斉天大聖は神さまとしてあがめられています。将来神として崇められることになる道教に対して、物語の悟空は仏教派でからかったりしています。そういうカオスなところも西遊記の魅力のひとつなのです。
おまえは仏の路を歩き、わしは道ダオの路を修めておる。
西遊記は冒頭のヤンキー時代がもっとも面白い
孫悟空の戦いというと牛魔王や金角・銀角が有名です。それらは物語の中盤以降に登場するのですが、西遊記でもっとも面白いのはじつは冒頭ではないかと思います。
いわゆる悟空が天界で大暴れするヤンキー時代ですね。毘沙門天のような四天王や、龍王たちをバッタバッタとやっつけます。「強いぞ孫悟空」と痛快なのが一巻です。
中盤以降になると悟空の「俺様語録」の大言壮語は相変わらずですが、実際には戦いに勝てなくなります。たいていはひきわけ。しかも戦いの最中に三蔵法師を拉致され、助け出すこともできず、仏教界(ときに道教界)の大物に助けてもらうパターンが大半です。
仏教への信者を増やす意味ではこのパターンが黄金なんでしょうが、物語としてみたときには「勝てないウルトラマン」みたいで、いまいちな感じがします。ウルトラマンが怪獣が現れるたびに勝ちきれず、いちいちM78星雲に助けを求めるとしたら、そんなドラマ見たいですか?
だから西遊記は冒頭の一巻(冒頭)がいちばんおもしろいのです。
大団円。西天取経
最終目的地は天竺の大雷音寺。
その前に流れる川がありました。川を渡っていると死体が流れてくる。
「こわがることはありませんよ。あれは、お師匠さま、あなたなんです」
三途の川、渡し守カロンなど、死の彼岸の前には川が流れているイメージは古今東西共通ですね。
キリスト教の『天路歴程』にも同じイメージがありました。その川を渡るためには死ななければならないのです。
こうして陳玄奘は成仏します。西遊記はいうまでもなく仏教の物語ですが、中国らしい混沌で道教や中国神が入りまじっています。
二郎神君とか、哪吒太子なんて、日本人にはあまりなじみがありませんよね。これはいってみれば、スサノオノミコトや八幡大菩薩が物語に登場するようなものです。
おれたちはお師匠さまのおかげで解脱し、お師匠さまもおれたちに保護され教えをきちんと守ったからこそ、めでたく凡胎を脱することができたんです。ここでは美と悪、善と凶のちがいが、よっくおわかりになるでしょ?
なんじの国たる東土は、仏教を信ぜず、罪悪が世に満ちている。わが三蔵は苦悩を脱し、災厄をのぞくものである。三十五部、一万五千一百四十四巻からなる。これぞ修身の教にて正善の門である。
ところがホッとしたところを騙されて、字の書いていない白紙の教巻をもらいうけてしまいます。最後まで面白いのが西遊記です。
やっとのことでもらい受けた有字の経典は濡れて石に貼りついて剥がれず、欠落が生じてしまう。
「もともと天地っていうのは欠けたところのある不完全なものなんです。ところがこのお経だけは完全そのものだったんです。いま、貼りついて欠け、欠落ができてしまったのは不全の妙に応じたからなんですぜ。人の力ではどうすることもできませんよ」
このように教訓にも満ち溢れています。
往路に十四年かかった取経の旅、帰りは四日で戻れました。凡胎を脱した三蔵も雲に乗れるようになったためです。そして8日で天竺の如来のもとに戻ってきます。
玄奘はかつてお釈迦様の第二の弟子たる金蟬子でした。説法に耳を傾けず教えを軽んじた罰で苦難を得ることになったのですが、東土に信仰をもたらした功果を褒めらえて栴檀功徳仏という仏になります。。
五行山下の猿王だった孫悟空は闘戦勝仏という仏に。
天蓬元帥だった猪八戒は浄檀使者という菩薩に。
捲簾大将だった沙悟浄も金身羅漢という菩薩に。
白馬は八部天広力菩薩という菩薩に列せられました。
願わくばこの功徳もて、ことごとく菩提の心をば発し、ともに極楽の国に生まれ、ことごとくここに報ずんことを。
長大な物語はこのようにして終わります。
西遊記の敵役で最強なのは誰だ? 強敵ベスト3
西遊記最強の敵役と言えば牛魔王、もしくは金角・銀角かと思っていたのですが、じっさいに原作を読んでみるとそうではないということがわかりました。
ここでは私的西遊記の敵役、強敵ベスト3を発表させていただきます。あくまでも「敵役」前提なので釈迦如来や観世音菩薩、太上老君や顕聖二郎真君などの聖者・正義の味方はのぞきます。
第三位。紅孩児。
龍王の雨でも鎮められないほどの火を吹く牛魔王の息子。孫悟空とサシで戦って勝っています。力で勝てない悟空は最後に観音様に助けを求め、観音が紅孩児を倒します。そして改心して善財童子となります。最初に悟空に力で圧勝したキャラクターです。
第二位。獨角兕大王。
太上老君の宝器・金剛琢で孫悟空の如意棒を奪い悟空を敗退させています。援軍に来た哪吒太子、十八羅漢も破り、他の天界からの援軍をすべて退けます。最後に太上老君が正体を見破って従わせます。大王の正体は太上老君の乗り物の青牛でした。老子って牛に乗っているイメージですものね。あの老子の牛が正体です。
第一位。黄眉大王。
やはり孫悟空を破り、二十八宿、蕩魔天尊、国師王菩薩など天界の援軍たちも退けます。最後に弥勒菩薩が登場し、黄眉大王の正体を見破ります。正体は弥勒菩薩の侍者の童子でした。正体を見破られるとなぜか神通力を失い、反抗する意欲を失って無力化するというのは黄眉大王に限らずすべての妖魔、変化たちの共通の性質です。
第一位から第三位まで孫悟空に勝ったことは同じですが、順位は「どれほど強い援軍を退けたか」で決めました。哪吒太子よりも、国師王菩薩の方が格上だろうという判断です。また順位づけには「その正体」も参考にしました。
正体がサソリの化け物とか、貂の化け物とかよりも、善財童子や、老子の牛や、弥勒菩薩の侍者の方がとうぜんながら格上だという判断です。
観音様は自ら菩薩にとどまり如来・仏に解脱しない存在
孫悟空が破れた紅孩児を倒して改心させ善財童子(侍者)にするなど悟空以上の力を見せた観世音菩薩が、最後に悟空よりも格下の地位にとどまるというのは納得がいかないところです。
そもそも三蔵を見出したのも観音様ですし、三蔵の受けるべき試練を自ら買って出たりもしています。
まあ、観音様の池から逃げ出した鯉が化け物(霊感大王)になって人間を食ってしまうなどの大ポカもやらかしていますが(笑)。
それにしても悟空が仏になるのに観音様が格下の菩薩にとどまるというのはちょっとおかしいという気がします。
これはきっと観音様が自ら菩薩にとどまっていると考えるしかありませんね。
オン・マニ・ペマ・フム。
旅をするのは、何のためか?
玄奘が西へと旅をしたのは、自分の楽しみのためではありませんでした。
人びとの平和のため、幸せのためだったのです。
西遊記は旅の目的が、人間の完成のため、さとりのため、人々のしあわせのためだということを最後に教えてくれます。
偉大なるビルドゥングススロマンだと言えるでしょう。
「旅をするのはお経を手に入れるため。お経とは真実のこと。人のしあわせ、人生を完成させるため」アリクラハルト。