テレビでカラオケ番組を見ていたら、H2Oが『想い出がいっぱい』を歌っていた。ずいぶん昔、まだ萌え系アニメの無かった頃、『みゆき』というアニメのエンディングテーマだった曲だ。
最近バブリーダンス『ダンシング・ヒーロー』がウケてリバイバルヒットしている荻野目洋子が妹みゆきの声優さんをやっていたアニメだ。シャキシャキっとした声でとても若松みゆき(妹)の声に合っていた。
なつかしく聞いていたら『みゆき』をもう一度読み返してみたくなった。アニメだと時間がかかるがマンガで読めば二日もあれば読み終えることができる。
「読者にくらべて作者はたいへんだよなあ」と思った。
ホント、4年の連載も読者は一日か二日で読み終えちゃうんだから。読者は楽だ。
あだち充『みゆき』のあらすじ
あらすじに関する私の考え方はこちら。いわゆる『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』妹萌えのハシリのような作品である。
海辺で交際を申し込んだ可愛い女の子がOKの返事をくれたが、実は数年ぶりに再会した血のつながらない妹だったことがわかり驚くお兄ちゃん主人公(若松真人)。
結婚もできる異性として妹(若松みゆき)を意識するが同時期にできた彼女(鹿島みゆき)への好意からなんとか兄と妹としてふるまおうとするお兄ちゃん。
ところが妹はモテモテで、最終的には「男として到底かなわない」「幼馴染のお兄ちゃん」が妹みゆきにプロポーズするという「あれか、これか」の絶対的な局面が訪れる。
ついに兄としてふるまいきることができず、映画『卒業』のダスティン・ホフマンみたいに最後の最後、披露宴で本心をむき出しにして花嫁(妹)を略奪。兄妹から夫婦になるというお話です。
昔、読んだ頃は、妹と結ばれるという感覚がわからなかった。しかしもう十分すぎるほど大人になった今ならばわかる。
たとえば「妹か、恋人か?」は「妻か、愛人か?」に置き換えて感じてみたら如何だろうか。
「妹か、恋人か?」は「妻か、愛人か?」に置き換えて感じてみる
幼いころは、まだ自分の頭ではなく、多くの人がどうするかを行動の基準にしていたと思う。
自分の判断ではなく、常識というメガネで世の中を見ていた。
妹と結ばれるなんて世間が許さないのだから、当然、恋人のみゆきと結ばれるのだろうと思い込んで作品を読んでいた。
だからラストシーンのどんでん返しが衝撃だったのである。まさか妹を選ぶなんて!
だが長く生きてきて、常識的な結論なんて何の意味も持たないとよくわかった。
おれはおれの結論を出さなければこの人生に満足することなんかできないのだ。
大人になった今、この作品を読み返すと、作者は最初から恋人ではなく妹を選ぶつもりで物語を書き進めていたのだろうな、ということがよくわかる。
妹ではなく恋人と結ばれるなんて、なんらの驚きもない。あとは「どのように結ばせるか」それだけだ。
主人公の若松真人も最後は自分の答えを見つける。たとえそれが世間の常識的な答えでなくても、自分の人生の答えは自分の真心だけが知っている。
彼は恋人ではなく、血のつながらない妹を選んだ。本当に愛している女性を選んだのだ。
その感覚はこのように置き換えてみたらわかるのではないだろうか。
同居して身の回りの世話をしてくれてドキドキ感が薄れがちな妹を選ぶか、普段は離れているから会いたくて頭の中でいろいろ妄想できる恋人を選ぶか。「妹か恋人か?」は、「妻か、愛人か?」に置き換えてみたらわかりやすい。
ドキドキ感が薄れがちな愛妻(妹)を選ぶか、いつも新鮮で会えない時間が長い不倫愛人(恋人)を選ぶか。状況は似ている。
人によっては妻を捨てて愛人を選ぶ人もいるだろうが、妻のもとに戻っていく人も多いだろう。世間体を重視して家庭に戻る人もいるだろう。何もかも捨てて新しい人と知らない場所に旅立つ人もいるだろう。
そこで愛する人を選ぶのが真の人だ。
主人公の若松真人は最後の最後まで常識的な答えである恋人の鹿島みゆきを選ぼうとしている。彼女は真人につきあって大学浪人までしてくれるような非のつけどころのない恋人で、だからこそ妹みゆきも一歩引いたスタンスをとっていたのだ。
しかし妹が結婚する時になって、最後の最後で本当の気持ちが隠し切れず噴出してしまう。
控え目であるが、読者にそれと気づかせないように、作者のあだち充は真人の本当の気持ちを表現している。目線や態度で、本当に大切なのは若松みゆきだということが推理小説の伏線のように埋めてある。
結末を知っているから、もう一度読んだときにそのことに気づくのだ。
作家のテクニックを学べ。どんなところに主人公の本心が出ているか
どんなところに本心が出ているのか?
若松みゆきが結婚の申し込みを受けた後に、鹿島みゆきとのデートを、主人公は忘れてすっぽかしてしまっている。
デート中も妹みゆきのプロポーズのことで頭がいっぱいで、目の前の恋人みゆきのことは忘れている。
深夜まで帰らない妹みゆきを心配したお兄ちゃんが、恋人みゆきの家に駆け込んだ時の第一声は「みゆきは…?」。夜中に恋人みゆきに会えた嬉しさよりも、妹みゆきの心配の方が勝っている。
若松みゆきの手編みのサマーセーターの手直しをしようとする鹿島みゆきから編み物を奪い取る。
失敗作でも好きな人が全部作ったやつがいいんだよね。失敗したところも含めて。
そして披露宴のスピーチで泣き出してしまい……もういいか。
そして衝撃のラストシーンである。
ラストシーンが作品を決める。アニメの歌詞を原作のラストシーンに持ってくるなんて…!
H2Oの『想い出がいっぱい』が漫画版のラストシーンでも流れるんですね。アニメ『みゆき』の主題歌です。自分の作品の主題歌をラストシーンに持ってきちゃうなんて、そんな作品は滅多にありません。
それほどこの曲の完成度が高かったということでしょう。作詞したのは阿木燿子さん。
「大人の階段昇る君はまだシンデレラさ」
歌の歌詞を流しながら、後日譚が描かれます。
一番気になるのはフラれた形の鹿島みゆきですが、傷心旅行中の北海道で、若松みゆきにフラれたもう一方の完璧男、沢田優一と偶然、出会います。
交差点で信号は赤だったのに、お互いを認識して微笑むと、その瞬間、信号が青になります。
上手だな~。と思ったのを覚えています。あだち充先生のことですよ。作家として、上手だな~と。
お互いもうフリーなので、青信号でいいってわけです。信号は心の中の象徴ではないでしょうか。
もしこれで二人が結ばれたら鹿島みゆきが若松真人とつきあったことも無駄じゃなかったことになります。そのおかげで沢田優一と出会えたわけですから。
同じ相手にフラれた同士、盛り上がるよな~。今夜はすすきので飲んでください。連絡先を交換することを忘れずにね。
二人が結ばれる以外のストーリーを妄想することができません。
「少女だったと懐かしく振り向く日があるのさ」
H2Oの『想い出がいっぱい』のラストと同時に、物語は大団円を迎えます。
海の家のバイトとか、高校三年生の夏は二度と帰らない、とか。
『みゆき』を読んでいると自分も高校生時代に戻ったようで、胸が切なくなります。
あの頃、一回しかなかった夏が、大人になると「一度きりの夏」ではなくなっているのはどうしてでしょうか。
本当はこの夏も、この瞬間も、二度と戻らない一度きりの時間だというのに。