日本文学の大家、谷崎潤一郎
私は国文科の出なのですが、これまでほとんど日本文学は読んできませんでした。明治以降の文学には西欧へのコンプレックスのようなものが屈折して描かれていますが、私は、日本国内でうじうじと悩んでいるぐらいなら、とっとと世界を旅して劣等感を払拭してしまえばいいのにと思います。「アホか!」と。三島由紀夫が太宰治に「あんたの苦悩なんて器械体操でもして体を鍛えればなおっちまう」と言ったそうですが、白人コンプレックスにはそんな冷めた目で見ています。
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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!
かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。
しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。
世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。
すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。
『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。
その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
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『知人の愛』の魅力、あらすじ、内容、書評
ナオミという名の女は「混血児かしら」と周囲から言われます。外国人のような名前だと描写されるのですが、当時はあまりナオミという名は一般的ではなかったのでしょう。
今では「渡辺直美」「川島なお美」「ちあきなおみ」「財前直見」「奈緒美」など、たくさんのナオミさんを思い浮かべることができるのに対して、ガイジンだとナオミ・キャンベルぐらいしか思い浮かびません。逆に彼女を日本人みたいな名前だなあと感じる人もいるのではないでしょうか。植村直己なんていう世界的な登山家もナオミさんでしたね。
ヒロインのナオミがそうであるように『痴人の愛』は谷崎の白人趣味がモロだしの作品となっています。
ナオミは妻であると同時に、世にも珍しき人形であり、装飾品でもあった。
ますます強く彼女の肉体に惹きつけられていった。私は特に『肉体』といいます。それは彼女の皮膚や歯や唇や髪や瞳やその他あらゆる姿態の美しさであって、決してそこには精神的の何ものもなかったのですから。
→三島由紀夫の『肉体』とはだいぶちがう肉体ですね。三島のは自分の、男の肉体ですが、谷崎のは他人の、女の肉体です。
自分はナオミを精神と肉体と両方面から美しくしようとした。精神の方面では失敗したけれど、肉体の方面では立派に成功した。
アントニーがクレオパトラに征服されたのも、つまりはこういう風にして、次第に抵抗力を奪われ、丸め込まれてしまったのだろう。愛する女に自信を持たせるのはいいが、その結果として今度はこちらの自信を失うようになる。
もし私に十分な金があって気随気ままなことができたら、あるいは西洋に行って生活をし、西洋の女を妻にしたかもしれません。
白皙人種の婦人に接近しうることは、私にとってひとつのよろこび……いや、よろこび以上の光栄でした。
→ 白人コンプレックスは、白人に似た容貌と名前を持つナオミへと向かうのでした。
「あの女アひでえ腋臭だ、とてもくせえや」
私にはその香水と腋臭とのまじった甘酸っぱいようなほのかなにおいが、決して厭でなかったばかりか、言い知れぬ蠱惑でした。それは私にまだ見たこともない海の彼方の国々や、世にも妙なる異国の花園を思い出させました。
→ 谷崎はニオイフェチだったのでしょうか。このような描写をわざわざ差し込むのですから、すくなくとも「においフェチ」趣味を理解していたことは間違いないでしょう。
「私のパパちゃん! 可愛いパパちゃん!」
→ はい。パパ活ですね。このオヤジ(もう故人)、なんだかエロいんだよなあ。
無数の花びらが降ってくるような唇の捺印。花びらの薫りの中に自分の首がすっかり埋まってしまったような夢見心地。
私がこの女を抱いてやる時、常にこの獅子っ鼻の穴の洞窟を覗き込む。けっして他人のもののようには思えません。
→ 谷崎は鼻フェチだったのでしょうか。このような描写をわざわざ差し込むのですから、すくなくとも「鼻フェチ」趣味を理解していたことは間違いないでしょう。
寝ぼけて足の裏をなめた「足を舐めたっていいじゃないの。譲治さんなんか始終だわよ」「そいつあ一種の拝物教だね」
→ 谷崎は足フェチだったのでしょうか。間違いありません。
彼女を糾明するにしても、その際に処する自分の腹をあらかじめ決めておかなけりゃならない。「そんならあたし出て行くわよ」と言われたとき「勝手に出ていけ」と言えるだけの覚悟ができているならいいが……
→ 男と女は「惚れたもん負け」です。つまりはこういうことです。
「なんだおまえは。おれに恥をかかせたな! ばいた! 淫売! じごく!」
→ 相手を罵倒する言葉として「じごく」というのは聞いたことがありません。おもしろい表現だなあと思いました。地獄なのはおのれの心境であって、相手じゃないと思うんですが。谷崎のオリジナルなのか、その時代の人はみんなこう言ったのか?
私は今まで彼女が酒を飲んだところを一度も見たことはなかったのです。
→ 私は「今まで彼女が泣いたところを一度も見たことはなかった」というモチーフで小説を書いたことがあります。
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主人公ツバサは小劇団の役者です。
「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」
恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。
「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」
アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。
「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」
ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。
「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」
惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。
「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ」
劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。
「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」
ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」
尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。
「妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ」
そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。
「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」
そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。
「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」
そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。
「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
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開いた口がふさがらない……十九の娘が、かくも大胆に、私を欺いていようとは! ナオミがそんな恐ろしい少女であるとは、今の今まで、いや、今になっても、まだ私には考えられないくらいでした。
「これから決して熊谷なんかと遊びはしないね?」「うん」この「うん」でもって、お互いの顔が立つようにどうやら折り合いがつきました。
→最初は「男の顔」を立てようとした譲治(ジョージという外人の名前を連想させます)。しかしやがてナオミの肉体のために男のプライドを捨てることになります。そういうところがマゾヒズム小説だとされるゆえんです。
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この女はすでに清浄潔白ではない。この考えは私の胸を暗く閉ざしたばかりでなく、自分の宝であったところのナオミの値打ちを半分以下に引き下げてしまいました。ただ自分ばかりがその肉体のあらゆる部分を知っているということに、彼女の値打ちの大半があったのですから。
→ 異性経験が豊富なほど男の価値はあがりますが、女の価値は下がります。残念ながら昔からそう決まっています。男はハンターだから豊富な異性経験は狩猟の成果数を誇れますが、女性は「受け入れるだけ」なので「たやすい獲物」と見られてしまうんですね。
これが現実です。AV女優が、一般女優よりも低く見られているのはそのせいです。
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あなたの方で信じてくれなけりゃあ……以前のことはもう言わないって約束じゃないの。
→ 男は昔のことをグチグチ言うものなんですよ(笑)。なんだか谷崎潤一郎にとても親近感がわいてきました。
ナオミは私にとってもはや貴い宝でもなく、ありがたい偶像でもなくなった代り、一個の娼婦となったわけです。夫婦としての情愛も昔の夢と消えてしまった。どうしてこんな不貞な汚れた女に未練を残しているのかというと、まったく彼女の肉体の魅力、ただそれだけに引きずられつつあったのです。
→いやまったく正直な告白で(笑)。さすが大文豪です。
ナオミさんにはあなたの知らない男の友だちが、幾人あるか知れやしません。
はじめての男のところへ行って、その晩すぐに泊まるなんて……どこの人だかわからない女を泊めるほうも泊めるほうだな。
→ナオミは白人男と対等に恋愛しています。主人公譲治の劣等感はさらに燃え立ちます。
おれはどんなに恋しくても、もうあの女は諦めなければならないのだ。おれは見事に恥をかかされた。男の面に泥を塗られた……。
顔を突っ伏し、わあッと泣きながら、とてつもない声で叫びました。
「ぼくは……もうあの女をキレイサッパリあきらめたんです!」
→ はい。泣いたら惚れます。あんたの負けですぜ。
みんなが慰みものにしているんで、とても口にはできないようなヒドイあだ名さえついているんです。あなたは今まで、知らない間にどれほど恥をかかされているかわかりゃしません。
→ ひと昔前だったら「サセ子」とか「ヤリマン」とかあだ名されていたんでしょう。
多くの男に肌を見せるのを屁とも思わない女でありながら、たといわずかな部分でも、決して無意味に男の眼には触れさせないようにしていた。
→ 谷崎潤一郎『陰翳礼讃』を彷彿とさせる描写です。
「これから何でも言うことを聴くか」「あたしが要るだけ、いくらでもお金を出すか」「あたしに好きなことをさせるか、一々干渉なんかしないか」
→ この勝者の雄たけびはカタルシスでした。みごと主客転倒し、マゾヒストとサディストがおさまるべき位置におさまったのでした。
その欠点を取ってしまえば彼女の値打ちもなくなってしまう。浮気な奴だ、わがままなやつだと思うほど、一層可愛さがましてくる。
→ 先日読んだ『イーロン・マスク』というアスペルガーの世界一の企業家の書物にも同じ内容が書かれていました。イーロンの人の心がわからないという欠点がなおったら、世界一の企業家でいられないのではないか、と。
私自身はナオミに惚れているのですから、どう思われても仕方ありません。
→ でしょうね。マゾヒストの開き直った告白でした。
ここまで女性の肉体にオールインした作品ははじめて読んだ
団鬼六『花と蛇』のようなポルノは除いて、ここまで女性の肉体にオールインした作品ははじめて読んだ気がします。
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すがすがしいまでにマゾヒストで、それを隠そうという気もなく、カタルシスのある読後感でした。
正直、わたしも女性以上の人生のよろこびはないのではないかと思っています。
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ほかの谷崎作品も読んでみたくなりました。おもしろかったです。
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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!
かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。
しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。
世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。
すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。
『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。
その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
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