第九章
すべてが、終わった。
ツバサは力なく椅子に座りこみ、うなだれていた。
控え室に戻ると、劇団のみんなが彼を避けるように遠巻きに見ていた。舞台の上で何が起こったのか今でも理解できていない。どうして客席から拍手がわき起こったのか。
たった今、キリヤマサキの引退公演が終わったところだった。
大切な舞台だったが、ツバサがひとりでぶち壊してしまった。みんなのこれまでの稽古をひとりで台無しにしてしまった。せっかく書いた脚本もすべて無駄になった。
冷たい視線が針のように突き刺さる。聞こえよがしの非難の声が聞こえてくる。何をいわれても仕方がなかった。本番中になぜおれはあんな失態をおかしてしまったのだろう。
芝居の途中、彼は演じている役柄から、素の自分に戻ってしまった。自分に戻った彼は舞台に立ちつくし、キリヤへの思いが涙と一緒に溢れ出てしまった。昔のことを思い出した。演技を忘れ、そして完全に芝居をぶち壊してしまった。しかしそれがかつて経験したことがないほどの拍手喝采をもらうことになったとは。
そのことに劇団のみんなは戸惑っているようでもあった。演技とはいったい何なのだろうか。そんなことを考えざるをえなくなるようなかつてないほどの大喝采だったのだ。
観客の呼び声に応えるようにキリヤは舞台の上にあがり、お別れの手を振った。その姿に古くからの劇団のファンは大感激していた。最高のエンディングになった。これ以上のフィナーレを想像することができないほどの。
無料のファン招待公演だったため、芝居そのものに苦情を言えない面もあっただろう。招待された観客は皆、今回の公演の意味を知り抜いていたし、ツバサの思いにすなおに共鳴してくれた。もともと劇団に好意的な招待客ばかりであったし、キリヤの老いに自分の老いを重ね、キリヤの人生に自分の人生を重ねて、彼らも本心では泣きたかったのだろう。その引き金をツバサが引いたのだった。観客は皆はじめからキリヤと涙のお別れの会ができればそれで大満足だったのである。
だがツバサがみんなの舞台を台無しにしたことにかわりはなかった。ましてや今回の芝居の脚本は、ツバサのオリジナル処女作でもあったのだ。
第十章
キリヤが控え室にやってきた。
周囲を見回して劇団員たちの様子を眺めた。そしてつかつかとツバサのところに歩み寄った。うなだれて座っているツバサをしばらく見下ろしていた。
そしてツバサの肩に手をかけた。それでおしまいだった。感想も叱責もおつかれさんのひと言もなかった。
「ツバサ、今日はお前に紹介したい男がいるんだ。おれの古い友達だよ」
そして扉の向こうに「おい。入れよ」と呼びかけた。
その男が部屋に入ってきたとき、むっと獣の臭いを嗅いだような気がした。
誰かがアッと驚いた声をあげた。劇団員たちにざわめきがひろがっていく。スローモーションで見るように、その男はゆっくりと彼に向かって歩いてくる。
まさか……まさか……
最初は見間違いかと思った。キリヤのすぐ隣に、海賊のような無精ひげの男が立っていた。見覚えのある男だった。幼い頃から読み親しんだ本の背表紙にはこの男の写真が載っていた。
でも、まさか……
いや、見間違うはずがない。
ミナトセイイチロウ――
幼い頃のなつかしい思い出がツバサの胸によみがえってくる。おれの心を鷲掴みにして未来にふれた男。おれに夢と冒険のロマンを吹き込んだ男。
あまりの出来事に事態がのみこめない。
もとはといえば、今日の公演でツバサが混乱のあまり芝居を忘れたのは、客席にこの男の姿を認めたせいでもあったのだ。
やはりそうだった。見間違いではなかった。
だがなぜ控室に来るのだ。この世でおれが最も憧れる作家がなぜここにくるんだ。
人違いじゃないのか。いいや、間違いない、おれにはわかる。
いつか出会えると思っていた。心のどこかで。
ミナトと自分だけがスポットライトを浴びて、ふたりきりでこの場にいるような不思議な感覚がした。
ミナトはツバサをじっと見ていた。
「もちろん、知ってるよな?」
キリヤの問いかけに、ミナトの顔を見上げたままツバサはうなずいた。知らないわけがない。
「どうして……」
「この世界のおれの古い友達さ」
大きな体躯。尖った頬。鋭い目。針金のような髪には白髪が目立っていたが、間違いない。ミナトセイイチロウだ。
「今日は朝からこの瞬間が楽しみでうずうずしてたんだ。ツバサ、今日こそミナトをおまえに紹介してやるよ。これから三人で飲みに行こう」
キリヤからそう言われたとき、ツバサは狂喜のあまり飛び上がりそうになった。芝居の失敗で落ち込んでいたことなど吹き飛んでしまった。あれほど痛かった周囲の冷たい視線がすこしも気にならない。ツバサはあわてて準備に走った。ミナトセイイチロウと一緒に飲めるだって?
今日がこんな日になるなんて。想像もしていなかった。
第十一章
「いろいろ教えてやってくれ。どうやらお前に傾倒しているようだから」
ミナトがあまりに顔をじっと見てくるのでツバサは恥ずかしくなる。これが作家の観察眼ってやつだろうか。大作家の目におれはどんな人間として映るのだろう。
ミナトは麻のシャツから日に焼けた太い腕を見せていた。白い体毛が生えているのをツバサは見逃さなかった。
キリヤは二人を会わせたことに満足しているのか、うれしそうな顔だ。
「おれとミナトとは、昔おなじ劇団にいたこともあったんだ。いいライバルだったんだよ」
「なんで今まで黙っていたんですか。人が悪い」
ツバサはキリヤに困惑の目を向けた。彼がミナトセイイチロウの世界への傾倒を熱く語るのを、キリヤはいつもニヤニヤしながら聞いていたのだった。どうりでおかしな顔をすると思った。古くからの友人だったのか。
「いつかいきなり会わせて、驚かせてやろうと思っていたんだ」
いたずらっ子のような顔をして笑った。昔のキリヤが戻ってきたようでツバサはすこしうれしかった。
「これからはおまえがキリヤの劇団の芝居を書くそうだな」
ミナトの言葉にツバサはこくりとうなずいた。だが今日の公演の失敗で、その道は閉ざされてしまったかもしれない。これからどうなるのかはわからない。
「おれの世界を舞台で表現したいと言ったそうだな」
ミナトが喋ると、唇を覆い隠すような無精髭が一緒に動いた。
「キリヤさん、そんなことまで喋ったの」
ツバサはにらんだ。愉快そうにキリヤは笑っている。
ミナトセイイチロウが冒険作家としてイマジネーションだけではなく、実体験をもとに作品を書いていることはよく知られていた。作家というだけではなく冒険家としても世間に認知されていた。
かつて冒険雑誌の特集写真で見たミナトは、真っ黒に日焼けした顔から鋭い眼光が人を射るように光っていた。筋骨隆々とした頑強そうな体躯。針金のように硬そうな髪と無精髭。孤独な獣のような強烈な印象だった。これがあの作品群をなした男なのか――雑誌の写真を食い入るように眺めたことをツバサは思い出した。いつか自分もこの人のようになりたい、そう思ったものだった。
今、目の前のミナトは長年の潮風にさらされて荒れた肌をしている。まるで荒くれ漁師のような太い五本の指。かつて大海原を旅したことのある作家。若い頃からやれることを極限までやりつくして世間から賞賛を浴びた男。
やりつくした男? 意識せずに過去形で形容している自分に気づいてツバサは驚いた。かつてのイメージと今のミナトはどこかが違うのだ。
どうしてだろう? じっくりとミナトのことを観察してみる。
白髪。目尻の皺。枯れたような頬から首筋――直感的に彼は思った。この人はどこかを病んでいるのではないか。
どことなくミナトからは死の匂いがした。
暗く重いものがミナトの体に染み込んでいるような気がする。あるいは長年の冒険で蓄積した疲労が正体かもしれない。
しかしそんな思いは、瞬間、ツバサの頭をよぎっただけのことだった。ミナトに聞きたいことはいくらでもあった。
どうせ何も変わらない、そんな四方から押し寄せてくる虚無を照らす灯台のような男の魂、絶望の向こうにある風景を見せてくれた飛翔――その源にあったのは、目の前にいるこの男だった。
刹那を切りとって永遠とする男。生き方そのものが芸術であり、冒険だった男。ツバサがこの世でもっとも影響を受けた男、ミナトセイイチロウ。
憧れたその人に、とうとう会うことができた。
自分は何かに導かれているのではないか。ときどきツバサは感じることがある。この人とも会うべくして会ったのだ、そんな気がする。幼い日々はこの日のために用意されていたのかもしれない。不幸から逃避するように幻想の海へと旅に出た――その世界を創った男が今、自分の目の前にいる。
宇宙を流れている何かの力が、おれの中に息づいている。
その流れの中で、これからもおれは生きていく。
第十二章
シャンデリアが天井に七色に輝き、巨大ガラス窓の向こうには白い滝が流れていた。生演奏のピアノが静かな時間を演出している。超高級ホテルのロビーにマリアはとてもよく似合った。豪華な人目をひく赤いドレス、輝く革靴、舶来品の黒いバックを手にしたマリアを目の前にして、ツバサは居心地が悪かった。
ロビーのソファに腰掛け、マリアはカバンからUSBメモリーを取り出して彼に渡した。メモリーの中にはマリアに翻訳してもらったココ・ウェーブの英語版が入っているはずだった。
「ありがとうございます」彼は謝礼を渡そうとした。マリアはそれを手で制した。「いらないわ」「でも……」「いらないのよ」マリアはどうしても謝礼を受けとろうとはしなかった。
「最近、どうですか。例の家庭教師の先生とは……」
謝礼を渡すのを諦め、ツバサは話題を変えた。さりげなくキリヤから探りを入れるように頼まれていた。
「別れたわよ、あの男とは」
は?
聞き間違いかと思った。本当だとわかってツバサは唖然とした。多くの人を巻き込んで迷惑をかけ、離婚するきっかけとなった若い男ともう別れたっていうのか。そんなに簡単に……。
マリアは何を考えているんだ? つきあったり別れたりするのは個人の勝手だが、他人の迷惑をよく考えて行動するべきなんじゃないのか。
そう言いかけた言葉が、マリアの次の言葉で消し飛んでしまった。
「ところであなたアスカが妊娠したっていう噂、聞いてる?」
マリアが口にした言葉を、はじめは理解することができなかった。
は?
急に耳が聞こえなくなった。時間が止まったように思える。ごくりと唾をのみ込んだ。
アスカが? 妊娠? 何のことだ?
言葉の意味を理解したとき、顔から血の気が引いていくのがわかった。
妊娠?
まさか、そんな……
足元から震えが立ちのぼってくる。
そんなばかな。はじめて聞いた。
アスカとはしばらく会っていなかった。
医学部に編入するための勉強をしていたのではなかったのか。それが妊娠だなんて。
本当だろうか? 誰が相手だ? まさか……
ふと気がつくと、マリアが彼の表情をじっと観察していた。表情に浮かぶものを確認しようとしていた。
やっぱりあなたが相手なのね? その顔がそう言っているように思える。
心臓が早鐘を打っている。そんなはずがない。いや、そうかもしれない。
マリアが嘘を言っているとは思えなかった。
妊娠は本当だろう。マリアにならば他の人に言えないことでもアスカは打ちあけるかもしれない。二人には特別な関係があることを、彼は知っていた。
隠しきれないほど、全身が震えていた。
「相手は?」
おそるおそるマリアに聞いた。
「そこまでは聞いてないけれど」
彼の額を汗が覆っていた。
「どうしたのよ、あなた、まさか」
「し、失礼します。英訳(これ)、ありがとうございました」
逃げ出すようにツバサはその場を走り去った。
第十三章
ホテルの外に停車したバイクにツバサは飛び乗って、エンジンを大きく吹かした。やみくもに走った。ただ、走った。路面が、信号が、通行人が、看板が、建物が、視界の後方に流れ去っていく。だがどんなに早く走っても、心を追いかけてくる不安からは逃れることはできなかった。
息苦しくなって彼は、とうとう路肩にバイクを止めた。胸のポケットから震える手で携帯電話を取り出そうとして、落としてしまう。それを拾い上げて、アスカに電話をかけた。もう二度とコールすることはないと思っていた番号だった。だが今は、それどころではない。
待つ、待つ、待つ、待つ。
つながらない。誰も出ない。もし本当に妊娠しているとすれば、相手が自分である可能性は高いと思った。いやむしろ自分以外に相手はいないのではないか。だがどうしてアスカから何もいってこないのか。もう口もききたくないからか。それとも相手がおれではないからか。
いったいどうすればいいのだろうか。とにかくマリアの話が事実かどうか確かめなければならない。今すぐに。
アスカ。しばらく連絡してないけれど、今、どこにいるんだ。もう別れたとかまだ別れていないとかそんなことは関係ない。どうしても確かめなければならないことがある。電話に出てくれ。
もう一度かけ直した。だが出ない、出ない、出ない、出ない。
なぜだ。どうしてつながらないのか。
理由を考えながら檻の中の動物のように行ったり来たりツバサはそこら中を歩き回った。
時間をあらそうはずの深刻な状況だというのに、事実かどうかもわからないまま不安は堂々巡りをするばかりだ。拳で頭をがんがんと殴ってみる。まるで自分を痛めつけて正気を保とうとでもするかのように。
アスカはいったいどこで何をしているのだろう。どんな気持ちで、どこで何を考えているのか。
どうしておれにただの一言もないんだ。おれが逃げだすとでも思っているのか。
またバイクに飛び乗って、海岸線をひた走る。
もしかしたら他の誰かが父親なのだろうか。
いいや、違う。
誰が父親かという問題ではないのだ。腹の中の子どもをどうするかという問題なのだ。
母の祐希が生まれるべきではなかったかもしれない子を孕んだ時、あの人に勇気がなかったならば、おれはこの世に存在していなかったかもしれないのだ。その時の母の立場に、今、アスカが立っているのかもしれないのだ。腹の中の子供は、かつてのおれ自身であるかもしれないのだ。
なにはともあれ、会って確かめなければならない。
アクセルを回す。バイクの後ろにアスカを乗せていた頃の感触が思い出されて胸が疼いた。
失いたくない、それだけだおれは。
ほんのわずか、ミカコの笑顔が脳裏に浮かんで消えた。胸が痛んだ。
アスカの子供の父親はおれの知っているあの人かもしれないし、別の男かもしれない。だがおれかもしれないのだ。それでいい。自分の気持ち、そんなものにこだわって、大切なものを失ってしまった。そのことを後悔していた。
もう一度やり直せるのならば、大切なことは、彼女を失わないということだけだ。彼女がこのおれと再び向きあってくれるかどうかということだけなんだ。それだけだ。
なぜマリアの電話は繋がるのに、おれのコールは繋がらないのだろう。着信履歴も残っているはずなのに、どうして折り返し電話をくれないのだろう。
おれを舞台の外にして、いったい何がはじまっているのか。物語はどんな展開となっているのか。誰がシテで誰がワキの芝居なのか。
まさかおれに一切迷惑をかけないように、誰にも相談せずにすべてを闇に葬り去ろうとしているのではないだろうか。アスカならやりかねなかった。そういう女だった。
頭から血の気が引いていくのを感じる。同時に腹の底から強い気持ちが湧きあがってきた。
産めばいいじゃないか。その子はおれだ。
ツバサは思った。
だがアスカがそれを受けいれてくれないのならば、すべてはおれの一人芝居だ。
彼はもう一度だけ電話をかけてみた。しかし電話を取りあげてくれる気配はなかった。
おれはどうしたらいいんだろう。アスカと話さなければならないというのに、連絡がつかない。時間は刻々と過ぎていく。決断しなければならない刻限は刻一刻と近づいているはずだ。
何もできないのか、おれには。
暗い無力感が苛々と募っていった。
第十四章
いつのまにかツバサは自分のアパートに戻っていた。鎮痛剤をのむように買い込んであったウイスキーを喉に流し込んだ。誰の子かもわからない子を自分の子として育てられるのか、そのことを覚悟として呑み込もうとしているのかもしれない。
アルコールに痺れた脳には、自分を取り巻く世界がまるで夢の中の出来事のように思える。唐突に事件は起こり盤石に思えた世界はあっという間に崩れさってしまった。この世界を信頼できない。幼い頃に形づくられた心は、彼の中でまだ消え去ったわけではないようだった。
何かが鳴っていると思ったら、携帯電話だった。ミカコからの着信だった。
取り上げるのを、ツバサはためらう。
こうなってはもうミカコとの仲もどうしたらいいのかわからない。もう人間関係はめちゃくちゃだった。
不倫や無責任な出産、人の生き方をどうこう言う資格なんておれにはなかった。自分を特別だと思ったのは、ただ無知で傲慢だっただけだったのだ。自分だけはそうじゃない生き方をしようと思っていたのに、けっきょくおなじ輪廻のなかにとじこめられている。
「ミカコ……」
「ん? どうかしたの? 何かあった? なにかへんだよ。酔っぱらってるの?」
「どうしようもない奴だ、おれは。見捨ててくれ、こんなやつのことは」
「何? どうしたのよ。何があったのか話して」
ミカコが懇願する。酔った脳。世界がゆれていた。ためらった末に、彼はすべてを話してしまった。
「すまない……」
話を聞いて、しばらくミカコは黙りこんでいた。やがて大きなため息をついて、
「……ねえ、愛と妊娠とは違うよ。自分の生いたちを彼女に重ねて、あなたは責任を取ろうとしているだけじゃないの?」
静かに言った。
「ねえ、男と女って妊娠がゴールなの? それがハッピーエンド? だったら簡単だよ。妊娠なんて犬や猫だってするんだよ。あなたがこれまで生きてきたことのエンディングを、責任ということでつけてしまってもいいの?」
他にもたくさんのことをミカコは言ったが、そのほとんどを彼には理解することができなかった。胸に刺さった最初の言葉を、なんとか自分に落とし込もうとむなしくあがきつづけていた。
「ちょっと待ってて。私が確かめてあげるから」
だらしのない子の世話をやくようにミカコは言った。
「アスカに電話をして、私が確かめてあげる」
ウイスキーに酔って世界がグラグラと揺れていた。すべてを投げ出して彼はミカコに結末を委ねてしまった。どうせ運命をどうすることも彼にはできないのだ。
「折り返すから、ちょっと待ってて」
電話が切れた後も、彼はたてつづけに強いウイスキーをあおりつづけた。酔った頭でツバサは考えている。
そうだ。その子はアスカとおれの子でいい。あの頃に戻れるのならば。再び彼女と笑いあえるのならば。もう一度抱きしめることができるなら。
そうすることで自分を捨てた父親をおれは乗り越えていくことができるかもしれない。そんな気もした。
それがおれが過去を乗り越えていくということなのではないだろうか。それがおれの運命だったのかもしれない。
また携帯電話が鳴った。
どうせミカコからだろうと取り上げてみると、予期せぬ相手からの電話だった。衝撃が耳から脳天を突き抜けた。なんとアスカからの返信だった。
「あ、アスカ……」
「うん……ひさしぶり……」
元気のない、ちいさな声だった。だが間違いなくアスカの声だ。言葉にならない感情がツバサの胸にこみあげてくる。
「…………」
それきりアスカは何も言わない。こっちの用件はわかっているはず。黙りこんでいるのは、やっぱり、そうだからなのか?
「……マリアさんに聞いたんだ。妊娠したって本当か?」
沈黙に耐えられず、ツバサがさきに話しかけた。
「ミカコから電話があったの」
「おれが頼んだんだ」
アスカの言葉を待った。待った、待った、待った。けれども何も言わない。
「妊娠したって本当なのか?」
焦(じ)れて彼は聞いた。だが震える吐息が返ってくるだけだ。
「たいせつなことだよ。ちゃんと答えて」
「あなたに迷惑はかけないつもりだから……ごめんね」
尖った氷を耳から脳に直接突き刺されたような気がした。
「ごめんねじゃないだろう。今すぐ会って話そう」
ツバサは電話に叫んでいた。
「今、調子がわるくて、とっても不安定なの。だからまたかけるね」
かぼそい声だった。
「私、絶対諦めないから。諦めるくらいなら……死」
突然、電話は切れた。
死?
今、そう言わなかったか?
携帯電話を握りしめたまま、彼は凍りついていた。
死ぬって、誰が?
耳鳴りがしていた。
そこにまた携帯電話が鳴った。感情が麻痺したまま機械的に電話を取り上げてみると、今度はミカコからだった。
「あ。ツバサ。今、アスカと話せたよ。『妊娠してるの?』って聞いたら、『わからない、その気配はあるんだけど』だって」
「は? なんのことだ?」
ミカコは何を言っているのだろう。
事態がよく飲み込めない。今さっきアスカは堕ろすぐらいなら死ぬと言ったのだ。
言葉のニュアンスにも違和感を覚えた。いたましく傷ついていたアスカのよわよわしい声にくらべて、いらつくほど明るい声だった。
「おれも今、アスカと電話をしていたんだ。だいたい気配があるってどういうこと? わからないわけがないだろうに」
「私にどならないでよ。『ちゃんと産婦人科で調べてないの?』って聞いたら、『調べると堕(お)りるっていうジンクスがあるから行ってない』んだって」
「そんなジンクスなんて! だいたいその電話、いつのことだよ」
ミカコへの不信感むきだしの声になった。
「五分ぐらい前かな。すぐに電話したんだけど、話し中だったでしょ?」
「だからおれはアスカと話してたんだよ。涙声でおれに迷惑はかけないって言ってた」
けなげな心。思わずツバサはうっと声を詰まらせた。
「そんなことありえないよ。アスカは私と話していたんだし、泣いてなんかいなかったよ」
「そんなばかな」
背筋に冷たいものが走った。ありえないことが起こっていた。まさか霊と自分は話したのだろうか。
「信じられないよ。そんなことがあるわけがない。いくら酔っ払っているからって……」
彼は首を振って、脳裏のまぼろしをかき消そうとした。
「ツバサがそんなに言うなら……もう一度確認してみるね。こういうことって女どうしの方がなにかとうまく話せると思うの。もう一度電話してしっかり確認してみるからちょっと待ってて……」
戸惑いながらミカコは電話を切った。
いったいどういうことなんだ。何がどうなっているのかわからない。
恐怖の余韻はなかなか体を去らなかった。そこにまた携帯電話が鳴った。今度はアスカからだった。
第十五章
恐怖が体をつきぬけた。おそるおそるツバサは電話をとりあげた。アスカは何も言わない。震える呼吸が受話器の向こうから聞こえてきた。
「アスカ、どうした、アスカ?」
緊張が極限に達して過呼吸になる。思いあまって電話をかけてしまったけれど、いざとなったら言いだせない……そんないじらしい心が受話器の向こう側から伝わってきた。この何も言えない沈黙が、まさしく『言うに言えない現実』が存在していることの無言の証明ではなかろうか。
頭から冷たい水をかぶったような思いがした。噂は真実なのだ。一刻も早く会って大切なことを二人で決めなければ。もうすでに別れたとかまだ別れていないとか、そんなことを言っている場合ではない。
「ひどい人……」泣きだす一歩手前というような声だった。
「ごめん……」反射的に謝った。ツバサは自分のことを言われたのだろうと思った。
「……ひどいことを言われたの。自分の欲のためには人を傷つけたって平気なんだね、ミカコは……いくら自分がツバサと一緒になりたいからって、あんなこと言うなんて……」
「あんなことって何だ?」
「……妊娠を餌に結婚を迫るなんて汚いって。誰もそんなことしてないのにね」
投げやりにアスカは小さく笑った。
「もう、いやになっちゃった、みんな嫌いだよ……バイバイ、ツバサ……」
「待って。どうする気だ」
ツバサは電話にすがるようにして聞いた。
「薬があるの」
「薬? 何の薬だ?」
受話器の向こうに彼はまた叫んでいた。腹の中の子供を殺す薬か? 冗談じゃない、ちょっと待つんだ。そんなことをしてはいけない。その子はおれだ。
「叔父さんからもらったの」
「ばかなことはやめるんだ」
アスカはちょっと笑ったようだった。そんな気配がした。
「あんなふうに他人に思われるようなことなんだね、これって……」
あんなふうに? 殺す薬? 誰を? まさかアスカ自身をか? 自殺? そんな……そんな……
「ツバサも迷惑してるんでしょ」
「そんなことないよ。そんなこと誰が言った」
「ミカコからそう聞いたの。心配しないで。あなたには一切迷惑かけないから」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 今、どこ? どこにいるんだ、アスカ」
ツバサは叫んだ。なんてことだ。とにかくただちに会って、やめさせるしかない。受話器の向こうに耳を澄ました。室内ではなく外からの電話のような気がする。が、酔っているから彼にもはっきりとはわからない。
「なにもかも、いやになっちゃった……」
「やめろ! やめるんだ! どこだ。今、どこなんだ?」
「……あなたの家のそば。はじめてキスしたところ覚えてる? あの海岸の流木のベンチに座って、海を見てるの」
彼はバイクの鍵をつかんで、もう走り出していた。
「今、行く。すぐそこに。だからすこしだけ待っていてくれ!」
「来ないで。……ツバサ。いろいろありがとう。バイバイ」
「待て。もうすこしだけ待ってくれ。頼むから。今すぐ行く。お願いだ!」
突然、電話が切られた。
階段を駆け下りてバイクに飛び乗った。酔っているとかいないとか気にしている場合ではなかった。
エンジンをかけたところでまたもや携帯電話が鳴った。無視しようかと思ったが何か重要な用件のような気がして取りあげた。ミカコからだった。
「何? 用件だけ言ってくれ」
「どうしたの? アスカと話したよ。妊娠かどうか本当にわからないんだって。普段から生理が不順な人だとそういうこともあるらしいよ」
バイクからずり落ちそうになった。ふざけるんじゃない。どういうことだ?
「何だって。いつだ?」
「たった今」
「たった今?」
おうむ返しに怒鳴り返した。
「たった今だよ。私が電話で『彼に妊娠してるって言ったの?』って聞いたら『迷惑してるわ。彼、ときどき妄想と現実の区別がつかなくなるのよ……』って」
ミカコはアスカの口真似までしてみせた。
「何を言っているんだ、薬を飲むっていってるんだよ。時間がないんだ」
「薬?」ミカコは不思議そうに聞いた。「誰が?」
「アスカに決まっているだろう」
苛立って叫んだ。
「そんなわけないって。とっても落ち着いた声だったよ。あの人、『まだはっきりとはわからないけれど、もし本当に彼の子を妊娠しているとわかったら責任とってもらうつもり』って言ってたよ」
頭は混乱し、何がなんだかわからなくなっていた。酔って狂った末に、幻覚を見ているのだろうか。
恐れていたように、とうとうおれはおかしくなってしまったのか? 病んで狂って自分にこもり、ついにはみずから命を絶ったあの母のように。
「アスカはこれから薬を飲んでケリをつけるつもりだとおれに言ったんだ」
「本当? どういうことかな? あの人、『私はぜんぜん連絡なんてもらってないし、第一もう私たち別れたのよ、私から連絡なんてするはずないでしょ。いい加減なことを言うのはやめて』って向こうから一方的に電話を切ったのよ。これから自殺しようとしている人にはとても思えなかった」
「そんなバカな……」
彼は絶句した。
誰かが嘘をついているとしか考えられない。アスカか、それともミカコか。あるいは認識しているおれ自身がおかしいのかもしれない。自分は絶対に正しい、そう言いきれる自信はなかった。
「本当にそう言ったんだよ。私はもし妊娠が本当ならば、あなたのことを悪く言うのも一時の感情として仕方がないことだと思っていたの。そんなことはないと思うけれど、ツバサだって本当のことを言っているとは限らないもの」
「なんでおれが嘘をつく必要があるんだよ!」
痛いところを突かれて彼は噛みついた。
「だって私にはわからないじゃない。あの人、『本当に迷惑してる。どうしてこうなんだろう彼。ごめんなさいね、あなたにまで迷惑をかけて。あの男をあんまり信頼しちゃだめよ』って言ったんだよ」
本当に頭がおかしくなりそうだ。はたしてこれが現実のことなのだろうか。酔った頭が見せる幻覚だろうか?
もう誰を信じていいのかさえわからない。自分自身さえも信頼するには足りなかった。本当におれがおかしいのかもしれないのだ。おれがおかしいことがおれにはわからないだけのことなのかもしれないのだ。
だいいち何を根拠に自分を信じることができるのだろう。これまで多くの誤解や失敗や誤った判断を繰り返してきた愚かな自分を。
自分は正しい。そんなことは思い込みにすぎない。
「アスカは海岸にいて、今から死ぬって言ったんだ」
「そんなの絶対に嘘だよ。本当に迷惑そうな声で、たしかに彼女は言ったんだよ」
とにかく海岸に行ってみようと思った。行けばわかることだ。たとえ騙されたのだとしても、もしかしたら人間一人の、いいや二人かもしれないが、命がかかっているかもしれないのだから。
「またあとで電話するよ」
彼は携帯電話を切って胸のポケットにしまった。アクセルを回すと吼えるようなエンジン音が夜の闇に鳴り響く。
荒馬がいななくようにバイクを跳ね上げながら、急発進する。
待ってろ。アスカ。
第十六章
ものすごいスピードでツバサは夜の街中をすり抜けていった。信号に引っかかりそうになっても突っ切った。ここで死ぬならそれがおれの運命だろう。
交差点でもそのままのスピードで車体を傾けて突っ切った。生きるか死ぬかは天にまかせた。
護岸コンクリートを乗り越えて、バイクのまま砂浜へと乗り上げた。巨大な黒いタイヤが砂に噛みついて砂塵を巻き上げた。寒くて人影ひとつない冬の夜の海――
アスカはどこだ?
周囲を見回して探した。はじめてアスカと口づけを交わしたところは……
いた。
人影があった。
流木のベンチの上に女の影があった。忘れはしない。そこではじめてツバサはアスカと口づけを交わしたのだった。
砂浜に滑り込むようにバイクを横倒しにして止めるとアスカの元へと駆け寄った。白い薬の瓶を手に持っている。
「何やってんだ!」
薬の瓶を力ずくで奪いとり、海の向こうに力一杯投げ捨てた。
「飲んだのか?」
肩をつかんで問いかけた。
放心したようにアスカは返事をしなかったが、まだ飲んでいないだろうと彼は思った。瓶を投げる瞬間、白い薬の残量を確かめたのだ。まだ白い薬は瓶いっぱいだった。
「飲んでないんだな。まだ飲んでいないんだろう?」
両肩を掴んで揺さぶった。アスカは何度か子供のように頷いた。
「バカ」
ほっとして彼はアスカの額に額を押しあてた。勢いあまって激しく頭がぶつかり合ってしまい、ごつんと頭蓋骨が音を立てた。その箇所から痛みとともにじわっと生きている実感がひろがる。
死なせずにすんだ。死ななくてよかった。
一気に緊張が解けて、彼はその場に座り込んでしまった。砂浜の上に仰向けに倒れ込んだ。夜空を見上げながら、荒い呼吸を繰り返した。アスカの返事を待つあいだ、呼吸するのを忘れていたのだった。
第十七章
夜の公園のベンチで、うつむいてミカコはすすり泣いていた。
「芝居だよ絶対に。女優なんだよアスカは。自殺だなんて。ツバサは騙されているんだよ」
泣きじゃくるミカコ。ツバサはその前に立って、どうしていいのかわからずにいた。ミカコの顔を直視できなかった。
「どうして信じてくれないの? 『あの人とは遊びだったの。だけどこうなってしまったからには、結婚するしか仕方がないのかもしれない』私にそう言ったんだよ」
ミカコの言葉を聞きながら、ツバサは考えていた。何が正しいか、なにを基準に選べばいいのだろう。おれは何を信じればいいんだろう。
「悪魔だよ、あの人は。ツバサから話しを聞いたとき、私は震えがとまらなかった。恐ろしい詐欺師だよ。どうしてわかってくれないの?」
真実は藪の中――証言が食い違う。確かに誰かが嘘をついている。そうでなければ話のつじつまが合わない。だがそれもこれも認識しているおれ自身が狂っていなければの話だが……そのことに彼は自信がもてなかった。おれは信頼に足る人間だろうか。自分の認識は間違っていないという確かな証拠がどこにあるというのだろう。
「事件を一緒に体験したあなたが共感してくれないなんて、あの恐ろしい出来事は夢だったって言うの?」
「あれは芝居なんかじゃなかった。おれにはわかる……」
ツバサは呟いた。海辺でアスカを抱きしめた、あのぬくもりだけは本当だ。あのときアスカは彼の胸の中で泣きじゃくったのだった。アスカが泣いた顔を見たのは二度目だった。
「人がそんなに簡単に死ぬわけないじゃない」
「死ぬよ、人は。希望を失えばあっけなく。おれは知っている。想像できないだけさ、事実を知ってはじめて慌てだすのさ、ミカコのような人たちはね」
「何でそんな言い方するの。何でツバサまでがあの悪魔の味方なの?」
ミカコは泣き叫んだ。おれの母はそうやって死んだんだ。
「傷ついたか弱い女の狂言芝居をすれば、それで全ての罪が許されるの? どんな嘘をついたっていいって言うの? 私はね、あの人がきたない手をつかってあなたとよりを戻そうとしていることを言ってるんじゃないの。人と人の関係を踏みにじるような大嘘をついて、それがまかり通る偽りがゆるせないと言ってるのよ」
狂ったように泣き叫ぶミカコを、彼にはどうすることもできなかった。
あれからまたアスカとは連絡がつかなくなっていた。そのことが何を意味しているのかわからない。けれどあの瞬間、頭蓋骨がぶつかりあった時の痛み、生きている実感、あれは嘘じゃない。
キリヤの言葉を思い出した。
『マリアのことを信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ――』
そうだ。大切なのは事実かどうかということではなく、このおれが何を信じるかということなのだ。何を信じたいかということなのだ。
「そりゃあ彼女だってあなたを好きな気持ちは本当だろうし、すべてが嘘ではないから、わずかのホンネの部分で騙されてしまうんだろうけど……だけどなんでツバサが彼女を庇うの? 私が話したことだって、ツバサは直接言われたわけじゃないから実感が湧かず憎しみを抱くまでにはいかないだけでしょ」
涙のたまった瞳でミカコは彼を睨んだ。
「もういいよ、もうやめてくれ」
「だけど……」
「やめてくれ」
覆いかぶせるように彼は叫んだ。
「何をいくら言われても、おれには判断できない。ミカコとばかり話して、アスカとは何の話しもしていないんだから」
本当にアスカが妊娠しているのかどうか、まだ確認がとれていなかった。あの夜、アスカは泣いてばかりだったし、薬をのむのを阻止したことだけで彼も精一杯だったのだ。
ツバサは自分に問いかけた。お前は何を信じるんだ?
ミカコが嘘をついているとは思っていない。だが……
「私、絶対に真相を暴くから」ミカコが言った。「あの人と直接会って話すから、ツバサはこっそり隠れて二人の話しを聞いていて。その時、あの人が私になんて言うか、直接その耳で聞いて。あの人がどんなに嘘つきかわかるから」
「そんなことをする必要はない。本人に直接聞けばいいことだ」
「それじゃあ駄目。あの人があなたの前で本当の姿を見せるわけないでしょ。あの人の本当の悪魔の姿を、私があなたに見せてあげる」
狂っているのは誰なのか、すべての謎がそれで明らかになるだろう。それがおれでなければいいのだが……。
真実を見たいようでもあり、見たくないようでもあった。
何か大きな破局が迫っているような気がする。不安がツバサの心をざわめかせた。
第十八章
誰もいない地下の劇団の稽古場では、アスカとミカコの声がはっきりと響いた。姿を隠しているツバサにも、二人の声はとどいた。
「結局、わからなかったって言うの?」
上着を着たままの姿でミカコが聞いた。無理やり呼び出されたアスカはあきらかに不機嫌そうだった。
「流産したのかも知れない。でも安心して。今はちゃんと生理が来ているから」
女どうし二人だけで話しているとアスカに思わせれば、芝居もせずに本心を明かすだろうから隠れてそれを見ていてほしい。ミカコはツバサに泣きながら頼んだ。曖昧に頷いてしまったが、果たしてそううまくいくだろうか。
物陰からとはいえ、アスカの姿を見たのはひさしぶりだった。あまり顔色がよくないように見えるのは気のせいだろうか。
「お芝居はもういいのよ。正直に言って。妊娠してたっていうのは嘘なんでしょう」
「そんなのわからないよ。ただ生理が来てなかったのは本当。だいたい何? どうしてそんなことまであなたに話さなきゃならないの?」
ずっと嫌な気分がツバサにはつきまとっていた。アスカは彼が隠れて聞いていることを知らないのだ。このやり方はフェアではない。
それにアスカが嘘をついていたとして、それがわかったからといってどうなるというのだろう。知っても意味のないことを知ってどうする?
「女どうし正直に言ってよ。本当はツバサとの結婚が望みなんでしょう。そのために妊娠したと見せかけた、あれは狂言芝居だったんでしょう」
「あなたにどうしてそんなことが言えるの」
アスカの声は冷ややかだった。
「あなたが不倫の恋に傷ついて、結婚できなかった過去があることは知ってるのよ。でもね、人間って調子がいいもので、たとえ痛みを知っている人でも、遊ぶ立場と選ばれる立場ではまったく違う判断をしたりするものなんだよね。甘いものがあふれると辛いものが欲しくなるし、辛いものに囲まれると甘いものの大切さが判る。でも人は遊ぶものじゃない。嗜好品でもない。限りもあるはず」
「だから、何? 何が言いたいの?」
ますますアスカの声は冷たくなっていった。
「要件を早く言ってくれない。何か誤解しているみたいだけど、私にとって恋愛問題なんて今はどうでもいいの。医学部に編入しようと思っているのよ、あのおしゃべりからそれも聞いた? もう頭はそのことでいっぱい。あの人のことなんてどうだっていい。今、私にとって大切なことは異性に愛されることなんかじゃない」
「そんなの嘘だよ! 汚れる前にはそんなふうには思わなかったくせに。願いが叶わなかったり傷つけられたりして代用品に走っただけでしょ?」
アスカの冷たい声に逆上してミカコは激しく言葉をぶつけた。
「人の価値観は人それぞれなんて言うくせに、他人の価値観は全然認めてないじゃない。自分の望みを正当化したいだけ。人に対して寛容だなんて恥ずかしげもなくよく言えるよね」
ミカコが熱くなるほど、アスカは心を閉ざしていった。きっとこの試みはうまくいかないだろう。
「人はなかなか受けとめあえないものよね。だから人間不信になっちゃって、愛情をペットに求めちゃったりする人もいる。それでもいいのよ、ペットとの関係だって大切。
だけど生まれて真っ白な人間が、あらゆる可能性があったときにも、本当に犬や猫との絆を、異性との愛情よりも望んだのかな? それって真実の望み?」
「そういう人もいるんじゃないの? 世の中には」
「もし本心からそう言うのだとしたら、やはり人は一生のうちで、心から人を愛したり、愛されたりという経験をしないまま死んでゆく人が多いということだね……」
ミカコはため息をついた。
「そんなふうに愛を信じることができないから、また大学に戻ってまでして仕事に生きようとするのかもね……。愛よりも夢の方が確か……そうかもしれない。ある部分、とてもそうだと思うの。
だけどね、愛がなければ、夢を追うエネルギーは、やがては枯れてしまうものなんだよ」
キリヤのことをツバサは思い出した。母の祐希のことを。どうしてみんなしあわせになることができないんだろう。
「結局、人間の悩みとは、ただ一点『さみしい』だけではないかなあ。いろいろな苦しさがあるけれど、その全ては『さみしい』に行き着いてしまう。『さみしい』は全ての努力も積み重ねも信念も簡単に壊してしまう。『さみしい』は精神力では補えない。どんなに強靭な魂も脆く崩れてしまう。だけど『さみしい』がなければ、きっと愛する気持ちも生まれないよね」
アスカの返事はなかった。それが何を意味するのかツバサにはわからない。
「人間の欲って実はその正反対のところにもきっとあるんだと思うの。頑なな態度の裏には、意固地な主張とは正反対の願いがきっとある。その両者をうまく融合させるのが本当の頭の良さなんじゃないかな。自分の意見を主張しあうだけじゃなくて、他人の意見、環境を理解し、共存しあえるように尊重しあうことも必要じゃない。人それぞれだからって、譲り合うことさえ放棄してしまうの?」
「そうは言ってない」
「知ってると思うけど、ツバサはね、不倫の子なんだよ。実のお父さんの顔を知らないの。そしてお母さんは去った人を忘れられないままおかしくなってみずから命を絶ってしまった……あなたが不倫の恋を語ることが、どれだけ彼を傷つけていたか、わかる?」
「別に語ってないよ。ただ過去の一ページとして話しただけ。そんなこと気にしてたら何も話せないじゃない? どうでもいいこととして話しただけ」
「でも彼はそう捉えなかった」
ミカコの言葉にアスカは黙っていた。ふたりの言葉を聞いていて、ツバサは苦しかった。
「昨日と今日は違う一日なのだし、新しい日に、夕べのややこしい話を巻き戻して、どうして話す必要があるのかなあ? ほんとうに吹っ切れてたら、そんな話はしないはずでしょ? まだ心でわだかまっているからつい話してしまうんだよ」
「思い出さなくなったことを吹っ切れたというのであれば、まだ吹っ切れてはいない。あの恋のことは、一生消えないと思う。奪いとりたかったけど、でも現実的じゃなかった。だけど私には必要な経験だったと思ってる。人の痛みがわかるようになった。人を好きになるっていうことがどういうことなのかよくわかった」
恋人が昔の相手とよりをもどすのではないかという恐れ、それは自分自身がつくりあげた恐ろしい闇だった。あのときにそれに気づいていれば……暗い霧のような後悔がツバサの胸におしよせてくる。
「あなたが不倫の恋の思い出にひたるのはいいの。でもどうしてツバサにそれを認めさせなきゃならないの? どうしてペラペラと何でも喋っちゃうの? ツバサが否定するのをあなたが否定するたびに彼は傷ついていったのよ。どうして彼の気持ちを大切にしてあげられなかったの?」
「あの人には心に壁をつくらないで何でも話して欲しかっただけ。だから私も隠さずに何でも話したの」
「まるで心療内科の治療みたいにね」
皮肉っぽくミカコが吐き捨てた。
「私にはなんとなくわかるのよ。よくいるから、そういう人。
人間、ホントの冷血漢には惚れないものだから、不倫男にもどこかやさしいとかステキと思わせる何かがあったんだろうとは思うの。だけど『こいつは真剣に愛するに値する女だな。こいつは適当にあしらっていいような女じゃないな』と心底から相手があなたのことを愛しいと思ったら、態度が変わってくるはずでしょ? 結局、騙されていたんだよね」
「違う。愛されてた」
「もし人間として本当に愛しいと思ったら、彼女のために何かをしてあげたいと男も思うはずだもの。
それでも愛されていたと今でも思いこんで、今の恋人にぺらぺら過去を喋りまくるなんて、自分は魅力のない女ですって宣伝して歩いてるようなもの。どうして目が覚めないのかな」
「あなたに他人の恋愛の何がわかるって言うのよ。私に起こったことを本当に理解できるのは私だけなんだよ」
「そんなに好きならその男のところに戻ればいいじゃないの。何も状況は変わっていないんだから。ためしてみなよ、いつでも戻れるから」
「もう戻らない。そんな気もない。ただ、あの時の気持ちを言っただけ」
「……愛って、何なんだろうね」
ミカコはツバサのいる方角にちらりと目を向けた。
「私はね、自分ひとりで生きる人生が薄っぺらい気がして、ものたりなくなってしまう時が誰にでもいつかは来ると思うの。いつかは相手の人生と自分の人生を重ねたくなってくるっていうのかな。
自分一人で好き勝手放題、ただ気持ちいいだけの時間って、やがてはつまらない、さみしいと思ってしまう。わかちあう相手が誰もいなければ。
誰にも邪魔されることなく一人で自由気ままって、すてきなことに見えるかもしれないけれど、何の反応、反響もないって意外に満足感がないものよ。自分の存在を自分しか認識しないなんてさみしい。一緒に歓びをわかちあってくれる人がいないなら、よろこびもむなしい。心から一緒に悲しんでくれる人がいないならば」
「それはあなたの場合でしょ? そんなの人それぞれだよ。一人でも人生楽しめるよ私は」
アスカはミカコをせせら笑った。
「不倫の恋の時は、そうは思わなかったくせに!」
ミカコが軽蔑の視線を向けて叫んだ。
「人の意見は人それぞれと言って、自分を主張し、恋人を受け入れようともしない。人の意見は人それぞれだなんて、何も言っていないことと同じことよ。
私はね、ぶつかろうが何しようが所詮人間って自分と関わってくれる人が好きだし、そんな人に結局かえっていくと思うの。
だから人には自分をよく理解してくれる異性と、自分のやりたいことをする自由が、どちらも必要不可欠なんだと思うの。
でもね、きっとあなたは他人からそこまで愛されたことがない、愛をあたえたこともない。自分の力で切り開いていく人生だと思っているんでしょ? まあそういう人はきっと多いよね。信じた人に裏切られて、歪んでしまう人は。
あなたが言うように、ある時には他の異性に目がいってしまったり、ある時には自分大事で相手をないがしろにしてしまったり、それは仕方がない、自分がわからず自分の道に迷っているうちは特にね。だけどそれらの道程を繰り返してゆくうちに見えてくるものがある。浮気や身勝手が寄り道に思えてしまう、そういう相手が必ずいるんだと思うの……」
もしかしてミカコはアスカにではなく、おれに語りかけているのかもしれない。ツバサはそう思った。
「一人はつまらないよ。それさえ一人ではわからないことなの。
だけど二人なら、一見おもしろくない折り合いの先に、一人では決して味わえない至福の感覚が待っている。自分一人だけでは辿り着けなかった自分の中の可能性が、パートナーに触発されてひろがっていくの」
ウェブ空間の中の仮想店舗『ココ・ウェーブ』、あの仕事はまさにミカコの言うとおりだった。ツバサとミカコ、ふたりの個性なしにはありえなかっただろう。
「妥協することの意味、逆に可能性が広がっていく感覚、守る人がいる嬉しさ、守られている安心感、自信、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに。それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士だけれど一緒に人生を作ってゆけるよろこび。それが愛ってことじゃないのかな」
ミカコの言葉に、アスカは返事ができないようだった。背中を向けているため、表情は見えない。
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
ミカコの言葉が、心が、ツバサの胸をゆさぶりつづけた。
「人生のパートナーとなった二人だけは、お互いの寂しさとかずるさとか嫉妬とか、それをわかっても逃げないで、まるまる受け止めてあげなきゃ。人はそんなに人に合わせられない。気をつかいあう関係なんて、所詮ひろがりがないものよ。ひろがりがないものは所詮いつかは行き詰まるのよ。ぶつからない関係は意外と面白くないものよ。
人間の本音なんて、しょせん一皮向けば、どんなに聖人であっても汚い部分があるのよ。そんなのない、と主張する人こそ私は信頼できない。自分を真に理解している人だったら、自分の汚さをきちんと理解しているはず。人間に汚さ、自分勝手さ、欲、思い上がり、それらが無かったら、逆に人類はここまで発展もしてこなかったと思うの。生まれた瞬間に大地に立ちつくしたまま聖人として固まっちゃっていたかもね」
「結婚が、誰をしあわせにしたの? 教えて。キリヤさんは? マリアさんは? 私の相手だった不倫の彼だって『幸せな結婚生活じゃない』って言ってた。みんな人それぞれだよ。あなたは自分の考えを押しつけているだけ」
アスカが反論した。
「あなたは結婚は自由を失うことだと思っている。そういう人は結婚の本当の意味も素晴らしさも楽しさもわからないんじゃないかなあ。たしかに他人が信じられず、結婚が信じられない人もいるよ。そういう人は多いと思う。
結婚すればどんな人でも問題は必ず起きるもの。そんな時きっと結婚懐疑派の人たちは、『ああ。だから結婚なんてするんじゃなかった』と後悔ばかりするような気がするの。
だけど、お互いに自由を愛し、冒険を求め、二人で生きる価値も知っている者どうしであれば、独立した精神を保ったまま、歩みよることの醍醐味もわかち合える理想のパートナーになれるんじゃないかなあ。もちろん努力は必要だけれど、でもその努力がまたいいと思えるの。
ねえ、アスカ。ひとりは広がりがないよ。ふたりは広がってゆくの。それは誰とでも可能じゃないの。早くそれに気づいて。
あたりさわりなく気持ちいいところだけで接する関係では、愛し愛される本当の人生の醍醐味を味わうことはできない。その先にある相手の人間そのものを愛するというところまで私は行きたい。
相手が誰でもいいのでは決してない。
人間として成長したとか、成熟したとか、そんなことは関係ない。いくら成長したってあわない人とはあわないのだから。
誰もが不完全な者どうしだけれど、許し合いながら少しずつ螺旋のように育んでゆく。それが愛情じゃないのかな。
人間の汚さ、醜さ、滑稽さ、それら全てを知ってなおおのれの道を生き、いさぎよく生きる。そして単なる自己満足だけではなく、じわじわとその姿勢で周囲をしあわせにする……それが愛情じゃないのかな」
ミカコはきっぱりと言った。ミカコに言い負かされたように、アスカは黙り込んでしまった。
もういい――
ミカコの言葉は続いていたが、ツバサは静かにその場を離れた。
二人の会話を聞き続けていられなかった。真実なんて、おれは別に知らなくたっていいんだ。
ミカコの言うまさにその寄り道におれはいるのかもしれない。
音を立てないように慎重に階段を登って彼は外に出た。夜空を見上げると、白く冴えた月、闇にまたたく数えきれないほどの星たち。
人間とはなんとちっぽけなんだろう。
大切だったことはすべて個人的な出来事だった。だから人間には、たとえ他者に理解されなくても、個人的な答えがある。
真実が何だ。それがおれの人生にどんなプラスになるだろうか。他人の嘘や裏切りの姿を見たところでどうなる。愛は存在するとかしないとかそんな議論が何だろう。
大切なのは、たとえ一瞬の輝きであっても、おれにとって失いたくない白い輝きは何かだ。それだけだ。
夜空を抱くように両手を広げて、ツバサは大きく呼吸をした。
おれにはおれの真実があればいい。
女たちがまだ言い争っている地下の稽古場を、彼は黙って去っていった。
自分の人生の傍観者ではいたくなかった。