演出法は進化する。物語は進化する
名作小説を漫画化した時に、とてつもなく面白くなっている時があります。
この面白さは原作の力なのか、それとも漫画ならではの演出、再構成、脚色によるものか?
ここではイースト・プレス社のまんが読破シリーズ。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』をネタに、「物語は、演出法は、進化する。思想は深まっているし、作劇術は進化している」ということについて述べています。
わたしはゲーテの原作小説(手紙文学)も、イースト・プレス社のまんが版もどちらも読んだのですが、圧倒的にマンガ版の方が奥が深くて面白かったです。
そのことは同じゲーテ『ファウスト』でも、メルヴィル『白鯨』でも同じことです。
なぜ著名な大文豪の原作小説よりも、マンガの方が奥が深いのか?
その謎に対する回答は、こう答える以外にありません。
「演出法は進化する。古い作品は演出において近代ものに「見せ方」においてかなわない。つまり物語は進化する。古い作品のスジは単純でひねりがなく、感情も単純。しかし進化したあとの物語は、複雑な感情をもった人物が、複雑な物語を生きている。だから原作小説よりも近代的な脚色を施したマンガ版の方が思想的にも深く、読んで面白いものになっているのだ」と。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
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思想は深まっているし、作劇術は進化している
さて、ゲーテの原作小説も、イースト・プレス社のまんが版もどちらも読んだからこそ言える結論です。
この面白さが、原作そのものによるものか、それとも漫画ならではの演出、再構成、脚色によるものか?
答えは、漫画ならではの演出、再構成、脚色によるものでした。やっぱり思想は深まっているし、作劇術は進化しているのです。
新しいものは、古いものを凌駕していくのです。それは人間の心を扱った文学という分野であっても、同じです。
原作にはこんな演出はない、原作はもっと浅い
というわけで、ここからは基本的にはイースト・プレス社のまんが版をベースに『若きウェルテルの悩み』を解説していきます。ゲーテの原作小説(手紙文学)については、原作にはこんな演出はない、原作はもっと浅い、といった感じでしか登場しませんのであしからず。
『若きウェルテルの悩み』とは現実にうまく適応できず、青春がはなつエネルギーを、おのれの内側にしか向けられない青年の苦悩の物語でした。
人妻(婚約者がいる女)に恋する若者ウェルテルの物語が、友人ウィルヘルムに向けた手紙の中で、ウェルテルの悩みが展開されていきます。
物語のスジはあんがい単純です。
ウェルテルが恋したロッテという女性にはすでに婚約者がいました。しかしそれでも恋慕やみがたくロッテに近づくウェルテルに、やがて人妻となったロッテは一線を引こうとします。ウェルテルは、悩みの果てに自殺してしまうというストーリーです。
恋の果てに自殺する人たちの物語
ウェルテルは自分自身をもてあましています。狂気のような感情、次第に自分の感情に手が付けられなくなっていきます。それこそが恋でした。
若い自負心こそあるものの、愛するロッテとその婚約者のライバルというべきアルベルトには、友だちのように遇されています。
まだ婚約者がいるという段階のときは苦悩も深くありませんでした。しかしロッテが人妻となると、いっきに苦悩が深まります。
「楽しかったときはとうに過ぎた。、胸が苦しい。息を吐くのも苦しい」
ウェルテルはあえぎます。あたたかい歓喜も、あふれていた思いも、今や僕を苦しめるだけのものになってしまいました。
人は落差に苦しみます。幸せな時代があったからこその苦悩でした。でもだからといって知らなければよかったのでしょうか。
自殺を認めないロッテの夫アルベルトの心にウェルテルは反発します。不幸に打ちのめされ耐えられなくなった者の気持ちがわからない男のことを狭量だと断じて「アルベルトは本当にロッテを理解し得る人間なのか?」と疑問を抱くのです。
恋をしたウェルテルにとって、身の回りのすべてがただロッテとの関係だけで意味をもってきます。だが彼女は他人のものなのです。
ロッテを知らなければ苦悩もありませんでした。そしてウェルテルは生きながらえることができたでしょう。でもそんな生き方がよかったのかどうか。それは誰にもわかりません。人それぞれ答えがあるでしょう。ウェルテルに、知らなければよかったという後悔はありませんでした。ただ、出会ってしまいました。知ってしまいました。そして恋の激情の波に流されていきます。
「僕が誇れるのは相手あってこそ、光あってこそのものだったんだ。その光を僕は失ってしまった……」
「なんという空隙だろう。楽しかった過去だけが僕の空白を押し広げていく」
恋する人がよろこぶのを見て自分もよろこぶ、恋する人が悲しむのを見て自分も悲しむ。恋する人が楽しんでいるから自分も楽しい……そういうプロセスを経て自分が成立する状態になると、恋する人を失った時、自分の感情が空虚なものだと感じてしまいます。
多くの人はここで自分の感情は自分だけのものだと知り、大人になっていくのですが、そうならない人がいます。そうなりたくない人がいます。
そんなとき、ウェルテルの身の回りに身につまされる事件が起こります。未亡人の女主人に恋した下男が、恋のあまりに暴行事件を起こすのです。まさにその事件を自分のことのようにウェルテルは感じました。
「こんなことが許されるはずがない。誰も彼女に近づけさせるものか。このままただではすまさん」
恋のために暴発した下男の行動を、ウェルテルは自分のもののように感じて彼を弁護します。愛する人への執着、その真摯な激情を、ウェルテルはひどく喜びました。
しかしウェルテルには下男を守ることができませんでした。下男は罰せられます。
「人間の存在なんて何でもない。そろいもそろって救われない」
ウェルテルはむなしくなります。自分の気持ちは世の中で認められないだろうことが見えたからでした。
「僕はここを去らねばならないだろうな」
そんなことを口にしはじめます。ただ生きているだけの老人のように、涙だけが流れ続けます。
アルベルトも妻に言い寄るウェルテルを遠ざけるようにロッテに言います。間男を家に招待するバカ者はいません。旦那としては当然の対応ですね。
「やることはもう決めたんだ。僕も……あの燃えつきるような情熱を取り戻すんだ。彼女を……永遠に僕のものに……!」
ロッテから親しい関係を拒絶されるようになると、ウェルテルの自殺への決意はたしかなものになっていきます。アルベルトとロッテと自分、三人のうちで一人が去らなければならないとしたら、それは自分だ、と。
イースト・プレス社のまんが版での進化した演出法
マンガ版には、嵐の一夜に、心のたたかいに打ち勝って、敗者ではなく勝者として自殺するという設定が新たに付け加えられています。この設定が決定的だと感じました。
あたかも『白鯨』で「恐怖で凍り付く心。恐怖を知らぬものは愚か者だ。「でもなあ…お前なんか恐くねえぞバカヤロォーー!!」啖呵を切るイシュメルが決定的であるように。(原作にこんなセリフはありません)
心に吹き荒れた嵐。狂気の風。荒れ狂う憎悪。そして愛。
僕の中の狂気の風の隙間から、かすかに残っていた僕の正気のひとかけらに。昔の思い出が温かく差し込んできた。やさしい思い出が……。
今日、殺らなくちゃだめなんだ……。
誰を?
アルベルトを殺そうと、ロッテを殺そうと、自分自身を殺そうと、ウェルテルは悩みます。
僕の心はすんでのところで別の方角に傾いた。そして祈りと、ありとあらゆる感情が一緒くたになって轟轟と僕の中に吹き荒れた。
僕は……耐えた……そうして……
夜明けを迎えた。
ああ。そうか……勝ったんだ。
雪山にのぼる朝陽。
きれいだな……
ウィルヘルム本当にすまない。僕は自分の最後の役目を果たさなければならない……。僕はだれも傷つけずに済むようにこの舞台から去る。
はっきりしていることがある。憎しみも愛情も僕の自然なんだ。ぼくにはもう次の嵐を切り抜けられる力はない。
だがね。これは絶望ではない。あの一夜を戦い通した、頑張り抜いたという安心から、それを成し遂げるんだ。
さて……そして、銃声。
ゲーテの原作小説にも「おそろしい一夜」はあるのですが「ぼくは勝ったのだ」という述懐はありません。
心のたたかいに勝って死ぬというところが、イースト・プレス社のまんが版の深いところです。
やはり物語は、演出法は、進化するということでしょう。
恋する者の問いかけに、誰も答えることはできない
なぜ僕じゃなく、彼なんだ……。
恋する男の問いに、誰も答えることができません。
ロッテを失ってしまえば、この世に何も残らないウェルテル。
ウェルテルはロッテファミリーに「旅行に行くので護身用のピストルを貸してほしい」と申し出ます。
ロッテはウェルテルが自殺すると想像できていましたが、ピストルを渡しました。
そのピストルでウェルテルは死ぬのです。
ウェルテル。君の輝かしい青春、そして爆薬のような青春が君を打ち砕き滅ぼしたのか。心やさしき友よ。僕はただ軋むように寂しいよ。
マンガ版があまりにもよかったので、そちらベースで解説してしまいました。
ゲーテ版の方は、もっと薄っぺらい感じがします。ただ苦悩して、自殺する若者です。ゲーテの時代には斬新な設定、新鮮なテーマだったのかもしれませんが、現代の私たちには古典的で陳腐な内容に見えてしまうのです。進化した物語、進化した演出法を体験しているからです。
ゲーテ原作のウェルテルは、絶望して死んでしまうだけの人物です。しかしマンガの方は「ぼくは絶望に、闇に勝ったのだ」というみごとな朝を迎えて、暗闇に二度と負けないようにと死を選びます。
どちらが深いかは、議論の余地がないでしょう。
あなたも眠れない夜に、いろいろ考えることはありませんか? 朝が来るのをひたすら耐えて待つというあの恐ろしい夜を経験したことがないでしょうか?
古典文学がマンガで脚色されたとき、とてつもなく面白くなっていることがあります。
ゲーテ『若きウェルテルの悩み』ゲーテの時代には斬新な設定、新鮮なテーマだったのかもしれませんが、現代の私たちには古典的で陳腐な内容に見えてしまうのです。それは進化した物語、進化した演出法をわたしたちが体験しているからです。
やはり物語は、演出法は、進化するということでしょう。思想は深まっているし、作劇術は進化しているのです。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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