【トウガラシ実存主義】今この場所この瞬間を旅先のように生きる。集団よりも個を優先する生き方
韓国の激辛唐辛子料理プルタクを食べて、わたしは「痔」になりました。あまりの辛さに食事中からクチビルが腫れ上がったのですが、唇では済まず、翌朝、排便時に肛門まで腫れ上がったのでした。唐辛子、そもそもこれは毒なのではありますまいか? こんなものが体にいいはずがありません。
植物は「個」が滅んでも「種」が生存すればいいと考えている
そもそも唐辛子がなぜ辛いのかといえば「動物に食べられないようにするため」だという説があります。サボテンになぜ棘があるのか? それも動物に食べられないようにするためです。ある種のカエルは皮膚に毒を持っています。その毒カエルはヘビに食べられることはありません。
動物が、あの辛さにヒーッとなって吐き出す。そしてもう二度と同種を食べることはない。トウガラシはそれを期待して辛くなるように進化したというのです。唇から肛門まで腫らすほど人間の消化器系を激しく痛みつけて「もう二度と食うなよ」と警告しているわけでしょう。
しかし世界中の人たちに何故かその「舌がしびれるような辛さ」が逆に愛されて、現在、トウガラシは世界中で栽培されています。もともとは中南米原産の種ですが人間の手によって生息域を世界中に拡散していったのです。
唐辛子の神もあっけにとられているに違いありません。人間に食べられないように辛さを身にまとったのに、その辛さゆえに逆に食われることになってしまうとは……。
人間は個が大切だが、植物は種が大切
さらに唐辛子は人為的な交配によって更なる激辛種まで生み出されいます。げに人間はおそろしい、とトウガラシ神は思っていることでしょう。しかしこの生存戦略は悪くない、とも思っているかもしれません。植物は「種として」生き残ればいいのです。「個」として生き残ることなどは問題にされません。「個」としては人間に刈られ食われても「種」として人間に愛されて飼育されて繁栄することができばそれでいいという生存戦略をとっています。
食われることで種が絶滅するなら大問題ですが、人間の手で世界中に散らばり、絶滅することのないように大切に保護されて、繁殖してもらえるならば「これからは人間に嫌われるような辛さではなく、人間に愛される辛さを身にまとって人間とともに生きていこうかしら?」とトウガラシ神がそう考えたとしても不思議ではありません。トマトが甘く大きくなったように、これからも唐辛子は人間に愛される変化をしていくことでしょう。
風や虫を頼みに繁殖する植物に個の意志はありません。重要なのは種としての生存だけです。だからこそ植物は風に運ばれた種子が海の向こうの島で繁栄するような離れ業をやってのけるのです。個が死んでも種を繁栄させる戦略だからこそできるのです。大半の種子は海に落ちて死ぬはずです。そのような繁殖方法を人間はできません。人間は「個」が大切だからです。
唐辛子実存主義。たとえ全世界を手に入れても自分自身を失ったら何になるだろうか
たとえ全世界を手に入れても自分自身を失ったら何になるだろうか。人間のこのような生き方、ありようを実存主義といいます。トウガラシに実存主義はありません。人間は唐辛子とは違うのです。
子どもに夢をたくして自分はサポートに徹するというように、子育てのために自分を犠牲にする生き方があります。こういう生き方に私はずっと疑問をいだいてきました。それは「種」ために「個」を犠牲にする生き方です。どちらかというとトウガラシの生き方に近いものがあります。子供をもうけようかという機会が私にもありました。だがそのたびにいつも思ったものでした。自分がまだ何も成し遂げていないのに、もう次の世代にバトンタッチするのか。駅伝選手じゃあるまいし、次の世代にバトンを繋ぐためだけに生きているのか。祖父も父に夢を託し、父も私に夢を託した。私まで息子に夢を託したとしたら、そんなことを繰り返していては、夢は永遠に先送りで、永遠にかなうことはないではないか。
まず自分の生き方が先だとわたしは思ったのです。そうでなければ唐辛子と同じです。
世間のシナリオに沿って生きてきた者は、いつか自分の人生をなくして既製品になってしまう
毎日の通勤電車はまるで会社という製品工場に運ばれていくコンベアのようです。会社でつくられる製品は「あなた」です。世間のシナリオに沿って生きてきた者は、いつか自分の人生をなくしてしまいます。既製品になってしまうのです。ベルトコンベアで製造された既成製品のように代替可能な人生があるだけです。
社会の中でうまく機能することだけにあくせくと人生を費やすと、いつかきっと後悔することになるとわたしは感じました。そんな危機感から世界に飛び出したのが私たち旅人なのです。
サラリーマン社会では毎日毎日管理されて、人生は辛く苦しいものだと思って生きている人たちが大勢います。まるで畑のトウガラシのように。そういう人たちはいつかは社会に食われてしまうでしょう。
他人に食われない生き方をしたいと願うのが旅人です。人類という種から見れば異分子かもしれません。国や会社といった体制、集団からは認められないでしょう。けなされ、見下され、嘲笑されることもあるかもしれません。国や会社は集団の繁栄のためには個を食う側だからです。
人間もしょせんは生物の一部だから、トウガラシをはじめとする他の生物と同様に個よりも種が大切にする部分ももっています。だから神風特攻隊のようなことが起きるのです。あれは個を犠牲にしても国という集団を生かそうとした「種」が「個」に強制した犠牲でした。
サラリーマン社会にも似たようなことはあります。カミカゼほどひどくないからみんなが許しているだけのことです。むしろ積極的におのれの人生を集団に差し出し、個の犠牲を容認したり許容したりする人もいるでしょう。体制の側からそういう人にはご褒美がもらえます。出世や給与・報酬といったものがそれです。
報酬によって手元には一生使い切れないだけのお金だけが残ります。でも年老いたら食べて病院に通うぐらいしか使い道のない金です。この人生に成し遂げたいことがないんだから。自分がないんだから。退職するまでは出世して会社の中では大きな顔ができるでしょう。しかし年老いて会社から去った後に残るのは「自分を失った何者でもない生き物」です。魂を売ってしまったのだから。
まるでトウガラシじゃありませんか。種として繁栄すれば個は食われてもいい、という生き方です。
この生き方に納得できないから、わたしは旅人になりました。集団の中では落伍者かもしれません。だが「個」を失ってはいません。人生は楽しんだもの勝ちなのです。それには個の確立が必要です。自由が必要です。
トウガラシが人間に管理されて繁栄したように、従順な部品となれば支配者から繁栄をあたえられるでしょう。きっと新しい種を残すことが望まれるに違いありません。彼らには新しい実が必要だから。食うための新しい実が。
どちらを手に入れて、どちらを失うかは「あなた次第」です。
自分の歌を歌わなくて、何のための命でしょうか。
自分の人生を送りたい。トウガラシじゃなく、人間なのだから。
いつまでもベルトコンベアの上に乗っかった既製品であっていいはずがありません。わたしたちは人間なのです。集団に貢献するための製品度、自我喪失度が足りなければ、生き方を否定されるというのならば、どうぞ。いくらでも否定すればいい。
それでも笑って個を貫けますか? それが帰国子女がたどり着いた旅人の生き方です。決まりごとやシナリオに従っていては既製品ができあがるだけです。個として楽しく生きていかなければ、何のために生きているのかわかりません。自分の歌を歌わなくて何のための命でしょうか。
「種としては繁栄できるが、個としてはただ食われるだけの存在」唐辛子の運命から抜け出さなければならないのです。これを唐辛子実存主義と名付けます。
唐辛子実存主義とは集団よりも個を優先する生き方
集団が繁栄できれば、個が死んでもいいなんて考え方は、わたしは受け入れられません。わたしたちは人間なのです。唐辛子じゃありません。自分の歌を歌いましょう。望まれる歌ではなく、自分の歌を。
みんなにウケる歌でなくたっていい。集団のために自分の嫌いな歌を歌うことはない。人生は短い。もうここまで来てしまったのだから。自分の好きなことをやろう。やりたいことをやろう。
これが唐辛子実存主義です。集団に染まることなく、既製品を作るトウガラシ社会にノーという。
他人に都合のいい部品ではなく、おのれの人生を生きよう。
自分の歌を歌え。
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旅人が気に入った場所を「第二の故郷のような気がする」と言ったりしますが、私にとってそれは韓国ソウルです。帰国子女として人格形成期をソウルで過ごした私は、自分を運命づけた数々の出来事と韓国ソウルを切り離して考えることができません。無関係になれないのならば、いっそ真正面から取り組んでやれ、と思ったのが本書を出版する動機です。私の第二の故郷、韓国ソウルに対する感情は単純に好きというだけではありません。だからといって嫌いというわけでもなく……たとえて言えば「無視したいけど、無視できない気になる女」みたいな感情を韓国にはもっています。
【本書の内容】
●ソウル日本人学校の学力レベルと卒業生の進路。韓国語習得
●関東大震災直後の朝鮮人虐殺事件
●僕は在日韓国人です。ナヌン・キョッポニダ。生涯忘れられない言葉
●日本人にとって韓国語はどれほど習得しやすい言語か
●『ムクゲノ花ガ咲キマシタ』南北統一・新韓国は核ミサイルを手放すだろうか?
●韓国人が日本を邪魔だと思うのは地政学上、ある程度やむをえないと理解してあげる
●日本海も東海もダメ。あたりさわりのない海の名前を提案すればいいじゃないか
●天皇制にこそ、ウリジナルを主張すればいいのに
●もしも韓国に妹がいるならオッパと呼んでほしい
●「失われた時を求めて」プルースト効果を感じる地上唯一の場所
●「トウガラシ実存主義」国籍にとらわれず、人間の歌を歌え
韓国がえりの帰国子女だからこそ書けた「ほかの人には書けないこと」が本書にはたくさん書いてあります。私の韓国に対する思いは、たとえていえば「面倒見のよすぎる親を煙たく思う子供の心境」に近いものがあります。感謝はしているんだけどあまり近づきたくない。愛情はあるけど好きじゃないというような、複雑な思いを描くのです。
「近くて遠い国」ではなく「近くて近い国」韓国ソウルを、ソウル日本人学校出身の帰国子女が語り尽くします。
帰国子女は、第二の故郷に対してどのような心の決着をつけたのでしょうか。最後にどんな人生観にたどり着いたのでしょうか。
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