働き方改革は働かせ方改革である。大切なのは制度ではない。いのちの輝きなのだ

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老齢年金の支給年齢が引き上げられるという。そして支給金額は引き下げられるという。きちんと年金を支払ってきた者にとってはなはだ不利な決定がなされようとしている。世間を納得させる最強の切り札とされているのが「人生100年時代」というキーワードである。昔の人は80歳ぐらいで死んだけれど、今のあなたたちは100歳まで生きるんだから、ちょっとやそっと支給年齢が上がったって、支給金額が下がったって仕方がないだろう、ということで政府は国民を納得させようとしている。100歳まで生きれば支給総額は80歳で死んだ時よりもたくさんもらえるんだから納得しなさい、というわけだ。しかしそもそもの前提である「人生100年時代」って本当か?

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「人生100年時代」って本当か? 「100歳まで生きることが当たり前になる」というのは一種の脅しだ。

人生100年という言葉であるが、これは決して現在40歳の人が100歳まで生きるという意味ではない。令和元年に生まれた子供は将来100歳まで生きる可能性が高いという意味である。最近、平均寿命は伸び続けているから一次関数のグラフを描くとそうなるのだろう。だが伸び続けてきた日本の人口が減少傾向となったように、平均寿命だって、いつか頭打ちになってやがて短命に転じるかもしれない。その可能性はないとどうして言えるのか? テロメアという命の回数券(細胞の分裂回数は決まっている)を遺伝子工学で伸ばせるというニュースは聞いたことがないが?

人生100年時代。こういうスローガンを掲げた現在の政策担当者はその頃には全員死んでいて誰も責任のとりようがない。政治家も普段は明日自分に投票してくれる人のことしか考えないくせに、老齢年金だけは未来の日本のことを考えて設計しますとかいうから「嘘つけ!」と大炎上してしまうのだ。

令和元年生まれの赤ちゃんは知らんが、現在40歳のおれたち(筆者ハルトが40代なのでそのステージで話しますが他の世代だって変わらないと思う)が100歳まで生きられるわけがない。だいたい70歳ぐらいまでが健康寿命で、80歳ぐらいで死ぬと思っておいた方がいいのだ。現在のデータもだいたいそんな数字を示している。

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横並び社会ニッポンでは自然の摂理のままに老衰することもできない

100歳まで生きる人だってそりゃあ中にはいるだろう。しかし「100歳まで生きることが当たり前になる」というのは一種の脅しだ。ひもじい悲惨な老後を送りたくなかったらキリギリスの生き方はだめだ。アリンコとして生きなさい、と脅しているのである。

60歳で定年退職し、60歳から年金が支給されると思って生きてきたのに、段階的ではあるが今後やがて定年は70歳、年金支給も70歳ということになりそうである。

「69歳で死ぬ奴が悪い。年金を取り戻したかったら、長生きすればいいじゃないか」というわけである。これでは老いちゃいけない、死んじゃいけない、と脅されているようなものだ。掛けた年金を取り戻したいのならば長生きしなければならないのである。

好きで老いている者がいるだろうか。好きで健康を害している者がいるだろうか。好きで命のレースから脱落する者がいるだろうか。

100年生きる仮定での老齢年金の設計は明らかに欺瞞である。やはり現在の平均寿命84歳ぐらいで死ぬことを前提に考えるのが正当な設計であろう。今を生きる私やあなたが100歳まで生きられる可能性はどれぐらいあるだろう。何人に一人が100歳まで生きられるのか?

「75歳現役社会」などと口にして自己陶酔している政治家もいる。「みんな長生きできていい時代に生きたよなあ、でも生きるなら働かないとね、働きたい意欲のあるものが75歳まで働ける社会を私たちがつくってあげるよ」というわけだ。

そりゃあ働きたい人はいいでしょうよ。政治家とか町医者とか会社のオーナー社長とかは働きたいに違いない。でも彼らはもともと定年なんてない人たちだ。

サラリーマンで「生活のためやむをえずではなく、心底75歳まで働きたいと制度改革を望んでいる人」は1000人中何人ぐらいいるのか? (彼らの)ためにする施策のターゲットの割合について統計を見たことがない。

75歳まで働きたくない人はどうすればいいんだ?

日本は横並び社会である。定年が75まで伸びたら、日本人は本当にみんな75歳まで働くぞ。60過ぎまでサラリーマンをやったら仕事のほかに何もやることはないし、どうせ他に何もできないんだから。そういう横一線の社会をつくって、昔のように60歳で仕事を辞めた人がいたら、どうせ「働かざる者食うべからず」とか言い出すんだろう?

働き方改革と言っているが、要は働かせ方改革なのだ。労働力を提供して労賃を得ているいわゆる労働者を働かせるための改革だ。一生働けというわけだ。一生税金を納めてくれ。年金は徴収するが払わない。というわけだ。

60歳と言えば老眼で書類が読めなくなる年齢である。75歳と言えば人によっては寿命でお迎えが来てもおかしくない年齢である。それなのにこの横並び社会ニッポンでは自然の摂理のままに老衰することもできないのだ。

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死ぬ方に賭ける、必ず勝つ賭けだ。生きる方に賭ける、いつかは負ける賭けなのに

そもそも老齢年金というのは互助の仕組みである。誰だって老いたら働けなくなるから若いころからお金をみんなで積み立ててそのお金を老後の費用に充てましょうという互助の仕組みなのである。ところが公的年金だけでは不安だからと国は「自助」を求めている。老後のお金を貯めておけというわけだ。「互助」の組織が「自助」を求めるなよ。それじゃあ存在する甲斐がないじゃないか。私にまかせておけ、ぐらい言ってほしかった。

この年金制度では将来が不安だとみんな言う。みんな自分が100歳まで生きるかもしれないと心のどこかで思っているからだ。たしかに100歳まで生きる人はいる。自分がその一人になるかもしれないと思って将来が不安になるのだ。いわば「長生きするかもしれない可能性」の方に賭けているわけである。

キリギリスの生き方はだめだ。アリンコとして生きなさい、という脅しが効くのは、私たちが将来に不安を感じているからである。100歳まで生きる方に賭けるからだ。

だがよく考えてみてほしい。生きる方に賭ける。それはいつかは負ける賭けだ。だって永遠に生きた人はこれまで一人もいない。みんないつかは必ず死ぬ。生きる方に賭けるというのは、絶対に負ける賭けなのだ。

だったら死ぬ方に賭ければいいじゃないか。この賭けは必ず勝つ賭けだ。人はいつか絶対に死ぬ。死ぬ方に賭ければ、賭けには必ず勝つ。

メメント・モリ。死を忘れるな

私には年金の支給額も支給年齢も変えられない。私にできるのは自分の生き方を変えることだけだ。

平均寿命で自分は死ぬと決めて、そちらに賭けるのも生き方ではないかと思う。

100歳まで生きる方に賭けてアリンコの生き方なんてしない。平均寿命で死ぬことに賭けてキリギリスの生き方を貫くのだ。

いつどこで死ぬか、私にはわからない。何歳まで生きるか、自分のことが私にはわからない。だけどいつか死ぬ。きっとそれだけは確かだ。だから死ぬ方に賭ける。

明日死ぬと思って今日を生きる。それもいいだろう。だけどきっと次の日もその次の日も生きている可能性の方が高い。でも100歳まで生きる方には賭けない。

60歳で死ぬとわかっていれば、将来に不安はないはずだ。すくなくとも年金の心配なんてする必要もない。

みんな自分が長生きすると思っている。いや、長生きしたいと思っている。だから生きる方に賭けてしまうのだ。掛け金は『100歳まで』。そのBET(掛け金)は大きく賭けすぎだ、と私は言いたい。負ける賭けだ。

それなのになぜ人は生きる方に賭けてしまうのか。それは「生きたい」から。老後という脅しに負けるほど心が弱いのか。それは「生きたい」から。命を愛しているから。

散るもまたよし桜花

しかし満開になりやがて散る桜吹雪が美しく人の心を打つように、潔く死に賭けることも人の生き方ではないか。

強く生きることを保証するのは死なのだ。

制度は変えられない。生き方を変えるしかない。だが多くの人の生き方が変われば、やがて制度は変わる。

大切なのは制度ではない。いのちの輝きなのだ。

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プロフィール


温人ハルト。雑誌『ランナーズ』等に執筆歴のある物書き。サブスリーランナー。グランドスラム達成者(100kmサブテン。富士登山競争登頂)。スイス・ブライトホルン。台湾・玉山。南アルプス全山縦走など登山歴も豊富。キャンプ・車中泊マニア。西天取経の旅人

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はたして放浪のバックパッカーは社会復帰できるのか!? 自由と社会との折り合いを模索するブログです。

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