林芙美子『放浪記』の書評・魅力・あらすじ・解説・考察
先日、公開したブログで、私は作品は「もっとも売れた実績のある稿」を出版すべきだと書きました。
作品は、いちばん売れたバージョンこそ残すべきだ。老境の改作は改悪。
林芙美子『放浪記』の解説を読むと、二度の大きな改稿がされたそうです。爆発的ヒットをした初版はオノマトペが多く、改行も多かったそうです。
初稿は未熟心が爆発したような「そのまんま」の文章が多く、年老いた林芙美子がそれを恥じて改稿したそうです。そして、そのせいで「躍動感がなくなった、精彩、迫力を失った」と解説に書いてあるのです。
だったら初版を出版したらいいじゃないの。なんでわざわざ躍動感がなくなった後年の改稿版を出版するのよ? 「改稿によって初版のもっていた魅力は薄れた」と解説者が解説しているのは、暗に「老境の最終稿」ではなくて「若い頃の売れた版」を出版しろと言っているのです。
私も同意します。
老境の悟りというのは「諦観」だったりします。若い頃の「不満」と「爆発」が魅力だったのに、そこが根こそぎ落ち着いた文章に改稿されてしまっていたら、そんな改稿は改悪にすぎません。
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主人公ツバサは小劇団の役者です。
「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」
恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。
「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」
アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。
「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」
ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。
「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」
惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。
「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ」
劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。
「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」
ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」
尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。
「妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ」
そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。
「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」
そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。
「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」
そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。
「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
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「読みたかったバージョン」ではなく「読みたくなかったバージョン」を読むしかなかった。
上のように大批判したわけですが、私が読んだのは岩波文庫の不手際により改稿後の「読みたかった方」ではなく「読みたくなかった方」バージョンになります。残念です。
黄色が林芙美子の本文から。赤色がわたしの感想です。
わたしは宿命的に放浪者である。故郷をもたない。故郷にいれられなかった両親を持つ私は、したがって旅が故郷であった。
一軒家ではなく、木賃宿という安宿を転々と暮らしていたようです。バックパッカーのような暮らしを幼いころからしていたということですね。
人生に暴風が吹きつけてきた。
道を歩いているときが、わたしは一番楽しい。この道を歩いているときだけ楽しいと思ったことない?
私は放浪のバックパッカーですが、放浪中、何をしているのかといえば「ひたすら歩いています」。歩くことが旅することだと感じています。
なぜ? なぜ? わたしたちはいつまでもこんなバカな生き方をしなければならないのだろうか。こつこつ無限に長い時間と青春と健康を搾取されている。
地球よパンパンとまっぷたつに割れてしまえ。
わたしはゆっくり眠りたいのだ。
何もかもあくびばかりの世の中である。この小心者の詩人をケイベツしてやりましょう。
林芙美子は文筆業で身を立てたいのですが、手っ取り早くお金が手に入るのは女給というホステスのような仕事でした。やりたくない仕事をしても、お金はたまらず、食べたいものを我慢する生活で、未来が見えませんでした。その境遇の不満が女性目線で描かれているのが「放浪記」です。
おまえのブラブラ主義には不賛成です。
ああこんなにも生きることは難しいものなのか。わたしは身も心も困憊しきっている。からっぽの女はわたしでございます。生きていく才もなければ、富もなければ、美しさもない。
女学生の頃の写真を見ると、かわいいと思うけどなあ。文士になってからは運動不足で太りましたけどね。
放浪者をあらわす言葉たち。ヴァガボンド、エグザイル、ワンダラー、エクスプローラー、フーテン……
あっちをむいても、こっちをむいても、旅の空なり。おまえもわたしもヴァガボンド。
ヴァガボンド、エグザイルとか、ワンダラーとか、エクスプローラーとか、放浪者をあらわす言葉はたくさんあります。でも林芙美子の時代から使われていたことにちょっと驚きました。
まるでわたしのようにへらへら風に膨らんでいる。カフェーに勤めるようになると、男に抱いていたイリュージョンが夢のように消えてしまって、みな一山いくらに品が下がってみえる。ああ、でもかわいそうなあの人よ。
壊れた自動車のようにわたしは突っ立っている。どこをどう探したって買ってくれる人もないし、もう死んでもいいと思った。
何だって最初のベーゼをそんな浮世のボウフラのような男にくれてしまったのだろう。
ひもじい。金が欲しい。呪文のようにそう繰り返す作品。
どんなに私の思想のいれられないカクメイが来ようとも、千万人の人が私に矢を向けようとも、わたしは母の思想に生きるのです。
カフェーの女給。またカフェーに逆戻り。めちゃくちゃに狂いたい気持ちだった。めちゃくちゃに人が恋しい……。ああ私は何もかもなくなってしまった酔いどれ女でございます。叩きつけてふみたくってください。誰かがめちゃくちゃに酔っぱらった私の唇を盗んでいきました。声を立てて泣いているわたし。
平林たい子。飯田にいじめられていると山本のいいところが浮かんでくるの。山本のところへ行くと山本がものたりなくなってくるのよ。私は飯田を愛しています。
わたしは男への反感がむらむらと燃えた。
炬燵がなくても二人で布団に入っていると平和な気持ちになってくる。
いいものを書きましょう。努力しましょう。
わたしは消えてなくなりたくなる。死んだって生きていたって不必要な人間なんだと考えだしてくると一切合切がグラグラしてきて困ってしまう。どこにも向きたくないのなら、まっすぐ向こうを向いて飢えればいいのだ。
まず朝鮮までわたってそれから一日に三里ずつ歩けば何日目には巴里に着くだろう。その間、飲まず食わずではいられないから、わたしは働きながら行かなければならない。
いくらソロバンをはじいたところで金が出てくるものでもない。私はろくろ首の女だ。どこへでも首が伸びて自由自在。油もなめに行く。男もなめにゆく。
履歴書よりも、その男は私の軀が必要なのかもしれない。
出版年(改稿年)はともかく、放浪記は大正時代に書かれた日記をもとにした作品です。偏見かもしれませんが、大正時代の女性が今と変わらない性価値観をもっていることに驚きました。
……そういうことがわかることも含めて作品は時代の子だと私は主張しているのです。改稿は改悪だというのはそういう意味です。
マノンレスコオと、浴衣と、下駄と買いたく候。
これでもまだ私は生きているのだからね。あんまりいじめないでください。本当は男なんかどうでもいいのよ。お金が欲しくてたまらないのよ。
私と寝たいのならさっさと這入っていらっしゃい。
下宿住まいというのは、人間を官吏型にしてしまう。ビクビクと四囲をうかがう。大した人間にはなれない。布団を干して為替をとりにいく。たったそれだけで下宿の月日は過ぎていく。ただ自分を見失っていく訓練を受けるだけ。
誰も好きだといってくれなければ、私はその男の人の前で裸で泣いてみようかと思う。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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イズムで文学があるものか。私は私という人間から煙を噴いているのです。
私の詩がダダイズムの詩であってたまるものか。私は私という人間から煙を噴いているのです。イズムで文学があるものか! ただ、人間の煙を噴く。私は煙を頭のてっぺんから噴いているのだ。
何もできないくせに思うことだけは狂人のようだ。口の中から蚕の糸のようなものを際限もなく吐き出してみたくなる。悲しくもないのに涙があふれる。
何もまともなものは書けもしないくせに文字が頭の芯にいつも点滅している。よくもこんなに神様はわたしというとるにたらぬ女をおいじめになるものだ。あなたは戦慄ということを感じたことはないのだろう。
落ちぶれた姿の自分。荷車にひかれた昆布のような気持ちなり。
奴隷根性。びくびくして、いつもぺこぺこ。何とかしてもらうつもりもないのに笑顔をつくってへりくだってみせる。いちいち謝って返事をしている。
読み終えて「ああ、女性が書いた作品だなあ」と感じました。どういう意味かわかります。
それが日記文学だといわれればそれまでですが、なんというか……感情の羅列です。
自分のいる状況を説明するのが男性作品とすれば、自分の気持ちを吐き出すだけの小説です。決して悪い意味ではありません。
だからどこから読んでも面白いということができます。感情の炸裂の羅列なので、どこからでも読めます。
そして作品にはオチはありません。ひたすら生活は続いていきます。ひたすら感情は続いていきます。成長したり、何かにたどり着いたりしません。
物語としてカタルシスがあるわけではありません。
いや、決して批判しているわけじゃありません。だって人生ってそういうものだと思うから。
それを激しく吐露することが文学になるんだなあ、ということを林芙美子『放浪記』は教えてくれます。
読者は「知性」とか「現状分析」とか「解決策」ばかりを求めているわけじゃないのです。
現状の感情、それを共有したかった。今、生きている人の生々しい言葉で。
だから本作は売れたのだと思います。
そしてその感情は普遍的なものだからこそ、時代を超えることができたのでしょう。
人は革命の書をつくり、私はあははと笑う。
大正時代の女性と会話するような楽しさがあります。
老境の悟りというのは「諦観」だったりします。若い頃の「不満」と「爆発」が魅力だったのに、そこが根こそぎ落ち着いた文章に改稿されてしまっていたら、そんな改稿は改悪にすぎません。
現代風に言うと、感性に定評のある日記系ブロガーの日記を読むような感じでしょうか。
『放浪記』は時代を経るほどに作品の価値が上がっていくだろうと思いました。
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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!
かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。
しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。
世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。
すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。
『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。
その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
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